作品から立回りの変化が見えてくる #2016.4.19
熊本地震から明日で1週間になります。毎日地震警報が入ります。
今も入りました、この音を聞くとドキッとします。
これから何処にいつ同じことが起こるか分からないようです。
一日一日を有意義に過ごすようにしなければなりませんね。
地震のこともありまして、橋蔵さまの作品の感想も控えていましたが、すみません、再開させていただきます。
今回の私の橋蔵さまの作品についての投稿はちょっと暗いものになりますが、ごめんなさい。
橋蔵さまのファンならこういう映画も評価しなければならないと思います。それは、今でなくても良い、のちのちそのかまえが出来た時でよいと思います。
どうしてこういう時代劇になって来たのかという変化が見えて来た1960年代についても頭に入れておいた方がよいと思います。
橋蔵さまの1963年の作品あたりからの立回りを見ていてお分かりになっていると思いますが、流麗、颯爽、というものがなくなってきていることの理由が分かると思います。
今月東映チャンネルで明日も放送があります「幕末残酷物語」。去年も何回か放送がありました。ちょうど橋蔵さまのお誕生の日にも放送がありました。
この作品橋蔵ファンとしては嫌いなもののランクにはいると思うのですが、意外と放送するんです。
普通は出来るだけ何回でもリアルタイムで観るようにしている私ですが、この作品は依然に一回見て最後が最後だけに(強烈なので)、私は脳裏にしっかり焼き付いてしまっているので、暫くは見ないかもしれないなぁ。
斬首シーンはリアルでここまで描いた東映映画はないと思うし、最後のシーンもまさか主人公をこんな風に✖✖とは誰も思っていなかったと思います。
と、言ってこの作品について書いているのですから、人の心というものは・・・
後味はわるいですよ。ですので、画像は今回なし。
(感想を書くにあたり、今回テレビ画面では見たくないので、PCで動画で1本まるまる配信されているので小さな画面のを見ました。見る勇気のある方は中国配信の動画ですがどうぞ。)
「幕末残酷物語」は1964年制作、1963年に錦之助さん主演、今井正監督の「武士道残酷物語」が上映され賞を撮っています。「武士道残酷物語」はオムニバス形式なので、見ていても目をふさぐと言うまでは、私はありませんでした。
多分これの誘発もあったと思います。
橋蔵さまが映画界の流れで会社の方針でこういうものにも取り組んだということ、二枚目を捨てて、すっぴんでここまで演技をやらなければならなかった時勢を、受け入れて見てほしいと思っているのです。
橋蔵さまは自分の進む道の助言をいただいていた方からも、絶対に汚れ役はやるな、と言われていました。
その通り橋蔵さまは、後にご自分の持っている魅力を発揮できる場所へと移したのは正解でしたね。
時代の流れに流されず、橋蔵さまはテレビと舞台で華やかに人気を落とさず芸の道を生き抜けた人です。
ご存命でしたら、ご自分でも、白髪の鬘は絶対にかぶらないとおっしゃっていた方ですから、年を取ってもご自分の考えをちゃんと持って、その道を切り開いていった方だと思います。
「幕末残酷物語」は当時映画の評判は橋蔵さまファンにはよくなかったし、新選組の裏を暴露したような暗い作品だということであの加藤泰監督の評価もよくはなかったようです。しかし、橋蔵さまがお亡くなりになってからの1990年辺りにこの作品を見た人達の評価があったようです。
当時白塗りの橋蔵さまの若さま・新吾を期待してのお客様の欲求を満たすことが出来なかった作品が、「スター大川橋蔵がいなくなった後に、やっと時代を超えて評価を得ることができるようになった作品」といわれているようです。
橋蔵さまが、脱二枚目に挑んだ作品の一つになるんでしょうね。
いやぁ、残酷です、悲痛です。
橋蔵さまのそういう場面は嫌だというひとは・・・絶対に見ない方がいいです。
橋蔵さきの美しさだけを・・・という人も絶対見ないこと。
橋蔵さまの違った演技面、性格俳優的面を見たい、感じたい・・・という人はどうぞ。
江波三郎(実は木村庄三郎)は新選組に入隊を志願する。隊の異様な空気が弱々しかった江波をふてぶてしく変えていく。
屯所内で厳しい規律が守れない者を処刑する斬首を命じられるが初めはなかなかできなかった江波が、自ら斬首役をかってでるようになった。(省略→最後の場面へ)
その中で、下働きのさととの淡い恋心が救いであったが、斬首を平気でやるようになってきた江波をいやだというさとを無理やり犯してしまう。
長州軍勢との対決に向う朝、近藤に呼ばれた江波は長州の間者であることがわかってしまう。
芹沢鴨の甥木村庄三郎で、おじの敵近藤を打つために潜入したことを薄笑いを浮かべながら、新選組は非人情な集団と叫び近藤に斬りかかる。大勢の隊士を相手に傷を負いながらも破れかぶれの大暴れをして全身をめったぎりにされた江波の前に、近藤から言われた沖田が立ちふさがる。
庄三郎は「あんただって、新選組の異常さを分かっているはずだ。けれども人情にかられて、近藤らを正すことが出来なかったんだろう。」と剣を抜いた沖田に言う。
そのあと「だが、この世の中で一番くだらぬ・・・」と言いかけた庄三郎の首に沖田の剣が・・・庄三郎の喉を貫く。
さて、「幕末残酷物語」から見えてくるものが、立回りの変化だそうです。
それは東映でも立回りの特徴が大きく変わってきたことがはっきり出ているということだそうです。
立回りの変化を書いてある文章があったので、そこから抜粋し私なりに分かり易く端的に載せてみました。
1950年代時代劇は東映のように、歌舞伎の素養のあるスター達が独特のリズムで立回りを演じてみせていた。美しさと同時に力強さも兼ね備えた舞踊的あるいは様式的動きとして記憶されている。
カメラの捕り方も重要で、カメラはロング・ショット、「引き」のカメラで役者の全身の動きが捉えられて初めて我々はその運動の魅力を感じとることができる。
1960年代に入って「時代劇映画の王国」が、黒沢明の作品によって大きく揺らいでいく。
リアルな立回りを演出・・「血の流出」です。
立回りは、「血の流血」「身体の切断」「効果音」を伴って、過剰に展開される残酷描写を含んだものへと変化していく。
同時代制作者たちに衝撃を与え、東映の加藤泰監督もその一人。
加藤監督か影響うけた「幕末残酷物語」のラストの立回り場面でそれが分かる。
ここで主人公は大勢の相手に斬られ、最終的に刀で喉を一突きされて死んでしまうが、それまでに流血しながらも必死の抵抗をする彼の立回りから、かつての様式的なものと明らかに一線を画している(はっきり区別している)ことが見て取れる。
「幕末残酷物語」で描かれた血の流血や刀で喉を突き刺すようなショットは、1950年代まで東映時代劇ではなかった演出で、黒沢時代劇の影響を強く感じさせる。
残酷描写の導入により立回りの性質が大きく変化。
役者の全身の動きを見せる「引き」のショット → 身体のある一部分を強調して描くことも必要になり、「寄り」のショットへと。
立回りは見る人の好みがありますから、何とも言えませんよね。
舞踊的様式的立回りは一つのリズムの載って見ていて気持ちの良いもので、気分が晴れ晴れします。
そしてこの立回りは誰でもが出来るわけではないのです。素質のない人には出来ないことです。
この立回りができる人達が、1960年からの立回りをすることは、また違う魅力ができると思います。
しかし、「寄り」だけを重視して作る時代劇は、素質のない人にも出来るのでは・・と思うのは、私の偏見でしょうか。
それが、今の時代にずっーと沁みついてしまい、美的立回りを考えない、ただリアルでさえあれば演出でどうにでも出来るという考えだけで作っているから面白くないのではないでしょうか。