再び戦争の惨禍を起こさないー横浜大空襲体験を聞くー
終戦記念日を前にした7日、神奈川県地域労働文化会館で、「戦争をおこさせないかながわの会」主催による標記の講演会が開催された。
横浜市HPによると、1945年5月29日の午前9時20分頃、B29編隊517機が横浜上空を飛行し約1時間で総数43万8,576個の焼夷弾を投下した。中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれ死者3,650人をはじめ罹災者は311,218人とされる。
講演者は当時14歳だった藤原律子さん。29日元町にあった女学校に登校すると間もなく空襲警報が鳴り、急いで帰宅する事になった。交通機関は全て止まり、歩いて浅間町の叔母の家に向かった。空は大きな黒い雲のようなものに覆われ轟音と地響きが起こり、防空壕に一時避難したが周りに火の手が上がり、蒸し焼きにされると叫ぶ声に飛び出した。叔母とは会えず、防空頭巾を被り救急用品を入れたカバンをさげて線路に沿って妙蓮寺近くの自宅へ向かった。途中で同じ防空壕にいた男の子が爆撃で膝から下を飛ばされるのを目撃したが、逃げることを優先していた。しばらく歩いて浅間神社の軒下に潜り込み、持っていた救急用品で傷ついた足の手当てをすると疲れのため寝込んでしまった。目が覚めて外へ出ると、神社の高台からは一面焼け野原となった光景が目に飛び込んだ。ようやく戦火を逃れた家に辿り着くと意識を失い、翌朝母親に起こされ、背中をさする手の感触に涙が止まらなかった。
戦後、胸に刻まれた戦争体験と労働組合結成に熱心だった夫に感化され、平和運動に取り組むようになった。沖縄の戦争体験談や蛮行を行った元憲兵の加害体験と苦しみを聞き、改めて戦争を考える。戦争で失うものはあっても、得るものは何もない。安保法制違憲訴訟では、原告側証人として被災体験を証言。いまもウクライナやガザの紛争を見て心が痛むとのこと。
最後に次世代に向けて台湾有事の動きなど、油断すると戦争に向かう足音が高くなることを伝えて欲しいと話された。