MENU
723,357

猫の手も借りて鰯の膾かな

8月18日のきっこさんのお話をもう一度引きますね。

あたしの大好きな飯田龍太は、初心の弟子から「どうしたら先生のような立派な句が詠めるようになるのですか?」と聞かれた時、「立派な句が詠みたいのなら、まずはあなたが立派な人物になりなさい」と指導しました。

龍太曰く「十歳の子どもは十歳の句を詠む。二十歳の青年は二十歳の句を詠む。それが『身の丈』と言うもの。二十歳の青年がどこかで覚えた難しい言葉を使って六十歳や七十歳のような句を詠んでも、それは『自身の身の丈を超えた句』であり、誰にも感動など伝えられません。あなたは、今のあなたの『身の丈』を詠み続ければ良いのです」

俳句を始めた初心者が、少しずつ俳句の面白さが分かって来ると、器用な人の中には「凄い句を詠んで先輩たちや師に感心されたい」というスケベ心が頭をもたげる人も出て来ます。でも、それでは本末転倒なのです。

あたしは、この龍太の言葉から、俳句の本質を知りました。あたしはあたし、決して背伸びなどせず、常に「今の自分の身の丈」で詠めば良いのです。背伸びして「自分らしくない句」を詠んでまで誰かに褒めてもらいたいなんて、俳句の本質から最も逆行した愚かな行為なのです。

皆さん、龍太の言う「身の丈」という言葉をしっかりと胸に刻んだ上で、その「身の丈」の範疇で、自分らしい俳句を探して行きましょうね♪

で、昨日のきっこさんの省略文が、

もともとあたしは「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質と思っていましたし、これは今も変わりません。

あれ、常に自分らしい俳句を詠むのが大切ですと言ったばかりなのに、何で「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質」と肝心の部分を外したのか腑に落ちなかったので韜晦したのですが、「立派な句は立派な俳人に任せておき、あたしたちは自分の背丈の俳句を楽しく詠みましょう」ということですということだったとは。ピッチャーきっこのスライダーを思い切り顔面で受けた猫キャッチャーの図でした。

今日も江戸っ子のお客から「あんたは人を疑うことを知らんのか。言われたことをそのまま鵜呑みにするとは人が良すぎるにもほどがある」とぶち切れられて血圧が50以上アップして、落語の「長短」のように病院の診察介助で漫才やってましたが「気働き」が全く効かない日が疲れるとあるようです。「こんな分かり切ったことを」わからないんですねえ(そういうひとごとのようなこと言うから・・・)。

写真はお詫びの猫髭手開きの鰯の膾。鰯は秋の季語ですが、那珂湊では冬が旬。一番値が高いからです。もう鰯を獲る魚群(なぶら)、鳥山とも云う鰯の群れが鰹に追われて盛り上がり鳥が山と群れる鰯の群れを追える漁師がひとりしか居なくなり、この老人がいなくなると鰯を餌とする鰹も獲れなくなるので那珂湊や大洗は死活問題になり、水戸泉やわたくしが贔屓にしていたシラスの釜揚げ屋さんも年がいって店を畳んだので魚市場はどんどん地物がなくなり中国やロシア産のものも混じるの当たり前になって来ました。鮭は那珂川をまだ遡上してくれますが、稚魚を放したり苦労が堪えない。

引用して返信編集・削除(編集済: 2022年09月01日 20:32)

親指で鰯をひらく夕餉かな

あたしも猫髭さんと同様に「立派な句」が最上のものとは思っていませんし、特に目指してもいません。
そんなもんクソ食らえです。

あたしが飯田龍太の「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という言葉を引いたのは、「どうしたら先生のような立派な句が詠めるようになれるのですか?」という俳壇で中堅のバカ俳人のバカ質問に対して、龍太が返した「人は自分の背丈の俳句しか詠めません。どれほど背伸びした句を詠んでも、それはその人の本当の俳句ではありません。それでも立派な句が詠みたいのであれば、あなたが立派な人物になるしかありません」という言葉をザックリと省略したものです。

あたしは、いつも「自分の背丈の句」を詠んでいるだけで、それでいいと思っています。
別に「立派な句を詠める立派な俳人」など目指していません。

あたしが言いたかったことは「立派な句は立派な俳人に任せておき、あたしたちは自分の背丈の俳句を楽しく詠みましょう」ということです。

そして、こんな分かり切ったことを一から十まで説明する必要もないと思い、ザックリと省略した書き方をしたのに、まるであたしが「立派な人物になって立派な句を詠め」と指導したかのような猫髭さんの解釈、非常に残念です。

たぶん、猫髭さんの「揚げ足取り」の機能がフライングしたのだと思いますが、あたしはけっこう真面目に投げてますので、ちゃんと受け取ってもらわないとキャッチャー失格ですよん♪(笑)

引用して返信編集・削除(編集済: 2022年09月01日 18:23)

鰯雲叫べば老いのこゑかすれ

きっこさん、みなさんこんにちは。

猫髭さん照れますがうれしいです。

引用して返信編集・削除(未編集)

能古島志賀の島へと鰯雲

きっこさん、みなさん、こんにちは(^^)

引用して返信編集・削除(未編集)

鰯雲いづれ会ふ時恥じぬよう

おはようございます。

>「チンダラカヌシャマヨ」は死んだら神様よじゃないの。「可愛い美しい人よ」なの。

大笑い。(^^) (^^) 
猫髭さんのお話しはいつも楽しい。

引用して返信編集・削除(未編集)

ゴールテープちぎれ飛んだる鰯雲

おはようございます(^^)

引用して返信編集・削除(未編集)

鰯雲会ひたき人の名を告げて

おはようございます😃

引用して返信編集・削除(未編集)

バカの壁越えてはるかな鰯雲

わたくしは昔からベストセラーは読んだことがなくてために400万部売れたという養老孟司の『バカの壁』も読んだことがなくて、でも次女の鎌倉の幼稚園の理事長だったので虫大好きの家族に請われて『養老孟司のデジタル昆虫図鑑』は買いましたが、リアル過ぎて、

  ひとところ虫唾の走る虫図鑑 亀田虎童子

で、わたくしは『ファーブル昆虫記』( 岩波文庫)十巻セットの愛読者で 山田吉彦と林達夫の名翻訳にケケケケと笑い転げてるほうが好きでした。買った本があとからベストセラーになることは稀にありますが、基本ベストセラーは読みません。あと、デビューから全部読んでる作家が、本に顔写真を表紙に出した時と飼い犬や飼い猫の本を出した時はそれ以降の本は買いも読みもしません。なぜだか理由は忘れましたが、作品が「作者の顔」だと決めているので実生活の顔が出るのが厭なんでしょうね。フローベールの「ボヴァリー夫人 は私だ」というのが「作家の顔」だということです。

>「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質

というわけで、「立派な句」を詠みたいと思ったことはありませんし、残り少ない人生でその予定もございませんが(笑)、良い句だと感心する俳人が良い人物かと云うとわたくしは嘘がつけないのでその物差しは引っ込めませんかと(笑)言わざるを得ないので、俳句に限らず、人間としてはいかがなものかという人物が凄い小説を書くドストエフスキーのような大小説家もいますし、自分の耳を切り落とすクレージー・ゴッホのような天才画家もいますし(弟テオへの書簡が素晴らしい)、ダリとかピカソとかほんとに人間なのという奇天烈な天才もいますから、俳句の本質がそれだと、わたくしハイヒールの軒先のノラでいいです。(*^▽^*)ゞ。

それにきっこさんの嫌いな人は全員お亡くなりに遊ばしました。寿命は若い方が勝ち。どうせあんたの方が先に死ぬんだ、ざまあ見ろとまでは言いませんが(言ってるじゃん)死んだひとは、死んだらカヌシャマヨよ~ですから、お線香の一本もあげて(えっ、沖縄民謡「安里屋ユンタ」の「チンダラカヌシャマヨ」は死んだら神様よじゃないの。「可愛い美しい人よ」なの。知らなかったあ)いずれにせよ忖度する必要はありません。「死亡率100% 生きるとはそういうこと 死ぬまで生きる我等の掟」「解き放て いのちで笑え 満月の夕」とソウル・フラワー・ユニオンも歌っています(毎日聴いてます。被災者流民なので元気もらえるわ~♪)。

  怖いひとみんな死んでる年忘 亀田虎童子

引用して返信編集・削除(編集済: 2022年09月01日 03:00)

秋夕焼呑み込む河馬の大あくび                 

きっこさん、みなさんこんばんは。
猫髯さん、「きっこ俳話集」完了お疲れさまでした ^^) _旦~~
ありがとうございます。
あらやだ、恐れ多くもきっこさんを跨いでおりました。
失礼いたしました。

引用して返信編集・削除(編集済: 2022年08月31日 22:41)

天髙し養老孟司の壁を越え

皆さん、こんばんは。

猫髭さん、「きっこ俳話集」全45話のアップ、本当にお疲れさまでした。
心より感謝いたします。

今では大人になり、嫌いな俳人の句でも「独立した一句」として鑑賞できるようになったあたしですが、20年前には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、嫌いな俳人については人格も作品もイッショクタに批判していたようですね。

もともとあたしは「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質と思っていましたし、これは今も変わりません。
そのため、人格的に疑問符のある俳人の句を褒めることは、やっぱり不本意なのです。

しかし、多くの人に俳句の楽しさを伝える上で、どうしても嫌いな俳人の句を取り上げなければならない場面もあるということを学び、「忖度」という大人の階段を上り始めたところなのです(笑)

あたしが「きっこのハイヒール」を立ち上げたのは、ちょうど20年前の2002年でした。
当時、29歳だったあたしは、今年で50歳になります。

それなのに、20年も時間が経過しても、著名俳人に対するあたしの好き嫌いは、1ミリも変わらずに当時のままなのです。
ただし、頭から完全否定していた大嫌いな俳人にも、いくばくかの「許容の心」を持てるようになった、というだけのことです。

これが良いことか悪いことかは分かりませんが、あたしがメルマガの俳句コーナーの中で、かつて批判していた俳人の句をそれなりに評価しているという矛盾についての説明とさせていただきます。

引用して返信編集・削除(編集済: 2022年08月31日 22:27)
合計8077件 (投稿7873, 返信204)

ロケットBBS

Page Top