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スレッドNo.70

一ノ瀬汐について

石村様 美濃戸HPの「美濃戸の魅力」原稿を書いたY45の加留部です。一ノ瀬汐の真横に住んでおります。当時連絡会の事務局長をしていました。一ノ瀬汐について小田様の記述に補足させていただきます。美濃戸に定住を始めて4年後の2006年8月28日に八ヶ岳総合博物館主催による「坂本養川堰について」という講座があり妻が参加しましたので当時の資料を基にご報告いたします。
江戸時代になって八ヶ岳地区は新田が開発されるようになりましたが初めは湧水や小河川を利用しただけで水は不足しており、1660年に中新田向けに柳川一ノ瀬より水が引かれました。小田様記述の古一ノ瀬汐です。前後してあちこちで多くの汐が出来、畑の水田化{畑直ーはたなおしと言います)が進みました。
18世紀の中頃には水不足が深刻化し、畑直停止となり新田の開発は困難になり水紛争も多発して水体系の再整備が必要となりました。1786年坂本養川によりそれまであった古一ノ瀬汐は幅7尺に改修され、現在の一ノ瀬汐になりました。HPに記述した約350年前というのは1660年の古一ノ瀬汐開発からのことです。
茅野市出身の会員の方から小学校の授業で一ノ瀬汐について、開鑿の時杖突峠から一ノ瀬汐からの提灯を見て測量したと教わったとお聞きしました。ロマンあふれるお話しで本当に良い所に住んだと感動しました。

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加留部さま、
貴重な補足情報をいただきありがとうございました。
たった今、小田様にご紹介いただいた茅野図書館で資料を拝見しており、なかなか紐解くのに時間がかかりますが、提灯の話も含めて、壮大な先人の構想、ご尽力に頭が下がると共に、ロマンを感じます。
未だに謎なのは、養川殿が幅7尺に改修したあと、そのままが現況になっているのではなく、明治以降に自治体が改修したように思われるところです。
一ノ瀬汐を遡って散策してみると、耐久性に難がありそうなところは、コンクリート埋設水路に改修された箇所があったり、トタンで漏水を防ごうとした改修跡が見られますが、養川殿の頃には流石になかった工法ではないかと勝手に訝ったのですが、これは、市役所に聞いてみようかと思っております。
その先人のご尽力の積み重ねのお陰で、いつも沢のせせらぎに家の脇で癒しをいただいていることを思うと感謝が溢れると共に、ますます興味が湧いてきました。
まずは、御礼まで。
NK-15 石村

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