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花野から川の向うの花野見ゆ

おはようございます(^^)

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山陵を下り行くリフト大花野

きっこさん、兎波さん、皆さんこんばんは。

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釣舟草花のイメージちよいと超へ

きっこさん、みなさんおはようございます。

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ちよい悪の集ふコンビニ月夜かな

おはようございます。

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月白や猫の集へる駐車場

おはようございます(^^)

猫髭さん、拙句を鑑賞していただきどうもありがとうございます。
とどのつまりが「やっぱ合わないかも」って、何やね~ん!(笑)

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見つからぬ駐車スペース秋暑し

きっこさん、ハジメ2018さん、皆さんこんばんは。炎天下大きなショッピングモールでのこと、なんでこんなに混んでるの?と恨みたくなります。という自分も来ているじゃん(笑)。

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当世のチクワと隠語秋暑し

こんばんは。

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秋風にチワワ引きゆく老女かな

>狛犬の口より洩るる秋の声 ラスカル

石像の狛犬が唸るわけではないので空想句だが、確かに威嚇するような狛犬の像もあるので、そう感じたという句だが、虚実皮膜の面白い句である。客観写生と云われるが、ひとはすべて自分の目で見ている以上すべて主観俳句なので、「煙草」でも喫煙者と禁煙者では真反対の印象があるし、特定の銘柄にこだわる喫煙者では同じ喫煙者でも全く違う煙草なので煙が出るなら何でもいいというわけではないように、TVで切り取られた映像もまたカメラマンとプロデュサーの編集を得た主観で、同じ光景を撮った写真でもプロとアマ、カメラやレンズの違いで全く異なり、ましてやフェイクニュースやヴァーチャル・リアリティの虚実が当たり前になると主観客観は近松門左衛門の「虚実皮膜」と同じだし、わたくしのように新聞やTVを四十年以上見ていない自分の目で体感したことしか「経験」と呼ばない者には無縁の物指でしかない。主観客観は、善悪、美醜といった二元論などと同じく「わかりやすい」方便に過ぎず、世の中が不条理と混沌だらけなのは「事実」でしかない。それでたった一度の人生を自分に都合のいいように生きるために編み出すのがいわゆる「処世術」であり、これは赤子から老人まで誰もが工夫する「現実」である。

「秋の聲」。『虚子編新歳時記』には「秋聲(しうせい)といふのは、秋になると天地に浙瀝の聲を聞くやうになるのをいふのである。」とあり、「浙瀝」ってなあに?という旧字なので辞書では「淅瀝」と「浙」の字が違うので見つけにくい。【淅瀝(せきれき)】と読み、[ト・タル][文][形動タリ]哀れで寂しいさま。また、風雨や葉の落ちる音のもの寂しいさま、を言う。

で、ラスカルの句に戻ると「風雨や葉の落ちる音のもの寂しいさま」が狛犬の口から漏れるか?くーんくーんと甘える顔をしている狛犬はいないのでがるるがるると邪鬼を威嚇する声だから、やっぱ合わないかも。(*^▽^*)ゞ。

ところで、秋の声は秋声とも云うので思い出すのが德田秋聲で、尾崎紅葉門下で泉鏡花と並び有名だが、島崎藤村、田山花袋と並ぶ自然主義文学の大家である。歳時記から採られたペンネームだと思うが、川端康成が「日本の小説は西鶴から鷗外、漱石に飛んだとするよりも、西鶴から秋声に飛んだとする方が、私にはいいやうに思ふ見方である。鷗外、漱石などは未熟の時代の未発達の作家ではなかつたか」と絶賛しているので読もうとしても代表作が『黴』では十代のわたくしには泉鏡花の方が断然魅力的で、私淑していた小林秀雄が小説の核が見当たらず「ひょうたん鯰」のようだと評した「ひょうたん鯰」が気に入って食わず嫌いだったが、川端康成が称賛した『町の踊り場』が「青空文庫」にあるので読んだら、姉の葬式で故郷に帰る話だが、やはり「ひょうたん鯰」のような短編だった。同じ陰陰滅滅ならわたくしには正宗白鳥の小説の方が面白かった。まあ、白鳥も小説より作家論の方が面白くて、小林秀雄との座談会で小説の神様志賀直哉を「よく出来た作文だね」と言ったのには大笑いした。わたくしは志賀直哉全集の小説を全部読んだが、太宰治の方が百倍面白かったからだ。

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狛犬の口より洩るる秋の声

おはようございます(^^)

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詠むならば腹を据ゑよと虫の声

きっこさん、ハジメ2018さん、猫髭さん、皆さんこんばんは。まえがきも解説も無きが本来の句の姿。改めて肝に命じたいです(^^)。

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