vortacです。
火曜日の夜にNHK Gで放送されているドラマ「大奥」が面白いです。
よしながふみさんの原作がしっかりしているのはもとより、NHKならではのセット・衣装・配役が豪華で、全体として見ごたえがあります。
演出にも「NHKがそこまでやる?!」と驚いたところがあります。
クネクネ路線に振っている大河ドラマ「どうする家康」よりもよほど大河ドラマ的です。
# 町娘役の白石聖さんのおでこが眩しいです
No.130vortac2023年3月11日 15:14
vortacです。
NHKの「大奥シーズン2」、とっくのとうに見終わりました。
そして今度はフジテレビ系で「大奥」がスタート。
小芝風花さん、西野七瀬さん、森川葵さん、栗山千明さんなどキレイどころ多数で楽しみです。
…と思っていたところが、第一話を見事に見逃しました(-- )
TVerで補います。
# 週に二度、小芝風花ちゃんを時代劇で見られる幸せ…(←それにしても働きすぎだってば)
No.274vortac2024年1月20日 13:23
vortacです。
「大奥シーズン2」、始まっております。見ております。
今週放送分で話が一段落しました。
・仲間由紀恵さん(徳川治済・とくがわはるさだ)が腹に一物あって不気味です。笑顔が怖いです。
・鈴木杏さん(平賀源内)が、これを快く思わない勢力の謀で瘡毒(そうどく)に感染させられるとか、結構ダークな展開でした。
来週からは蓮佛美沙子さん(将軍の正室)・佐津川愛美さん(将軍の側室)が登場の見込みです。
No.200vortac2023年10月20日 19:58
vortacです。
そんなこんなで「大奥」は終了しました。堪能。
そして今秋(2023年)にシーズン2が放送予定とのこと。楽しみ。
No.135vortac2023年3月18日 10:43
ドックです。
2023年も暮れようとしております。
ようやくにしてコロナ禍も社会の形式上は収束を迎えましたが、その反動からかインフル
エンザの流行が激しく、私も11年ぶりに罹患いたしました。
膝もまだ右側の状態が回復しておらず、通院が続いておりますし、体の内面にもそこかし
こでガタが来ておりまして、検査や通院、場合によっては手術なども検討している状況です。
東京行きもずいぶんと減りました。ない訳ではないのですが、新幹線移動自体がだいぶ体
に堪えると言うか・・・。乗っている間もしんどいですが、帰阪翌日の疲労具合が甚だしく
ていけません。
物価高も厳しいですね。量が小さくなったり値段が上がったり・・・ということがしばし
ば起こっております。
100円均一ショップなどが顕著ですよね。50個入りの紙コップが40個入りになった
り、レジ袋も半分近く入り枚数が減ったり。
ドラッグストアに行けば、トイレットペーパーの長さが短くなったり、シャンプーの容量
が減っていたり。
物価高自体はある意味で健全な経済現象なのですが、それに呼応する賃金上昇が追いつか
ないと苦しい限りです。
この時期よく話題になる「今年の漢字」というものはあまり好きではない趣向なのですが、
あえて言及すれば、私にとっては「荷」でした。
身体面、経済面のみならず、生活の諸問題が重荷のように圧し掛かって、相当にしんどい
気持ちがあります。
眠れなくて、わーっと叫んでしまいたくなる夜もありますね。
アイドル方面では、卒業した西の推しを変わらず胸に抱きつつ、一方でそこまで深くはな
くとも、一定の心通う交流を既存のアイドルさんと続け、そして新規のアイドルさんとも始
めていたりしております。
イケオジなどと言われることもありますが、交流を重ねるほど、相手が保護者感を私に抱
いて心を開いてくれるのは、これもまた加齢の為せるものなのでしょうか・・・。
ともあれ映画や特撮と並び、重荷にあえぐ私には、貴重な息抜きの趣味になっています。
いずれも、少なからずお金が掛かってしまうことが悩みのタネですが・・・。
そんなわけで、今年1年、皆さんありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
それでは、よいお年を。
No.264ドック2023年12月31日 19:00
ドックです。
わたしの今年のベストテンから選に漏れた作品のうち、重要な特撮もの2本に関しては、
別途触れておきたく思いまして、別稿としてこちらにあくまで個人的感想を綴ってみます。
以下、「シン・仮面ライダー」について、ネタバレがありますので、未見の方はご注意
ください。
さて、本作は賛否両論あるようですが、それに真正面から意見する訳ではないものの、
自分なりに思うところを述べることにいたします。
昨年、「シン・ウルトラマン」が公開された折、私は「シン・ゴジラ」との比較の中で、
これは「山ひとつ越えた物語」であると感じました。
すなわち、「シン・ゴジラ」は現実社会にゴジラが出現したことにおけるポリティカル
フィクションだった訳で、これは言うなれば不可思議とそれによって生ずる「センス・オ
ブ・ワンダー」が向こうからこちらにやって来ているのです。
私たちは現実の地表から動いていない・・・日常と地続きの視点で非現実的事象を目撃
するのですね。
「シン・ウルトラマン」の場合、導入部に「シン・ゴジラ」同様、巨大不明生物「禍威
獣」が出現し、やがてこれを迎え撃つ組織として禍特対が設立される・・・というところ
までは私たちの同じ地表に物語は存在しています。
向こうからこちらにやって来ている訳です。
ただそこに、ウルトラマンという巨人が現れ、やがてメフィラスやゾーフィなど外星人
が横行するようになると、これはもうSFフィクションとなって我々の住む現実世界の山
ひとつ越えた先で物語が展開されることになります。
ウルトラマンが好き、SFを見慣れている、特に思想がなくどんな映画も受け入れる方
であれば、山ひとつ越える映画鑑賞的「脚力」はお持ちなのですけど、そうではないひと
たちにとっては、共感から遠い映画になってしまいます。
このあたりが「シン・ゴジラ」と「シン・ウルトラマン」の興行収入の差のひとつの要
因になっているように私は思いました。
そして「シン・仮面ライダー」においては、「山ふたつ越えた物語」になっているので
す。
ここには傍観者はいません。基本的に、当事者ばかりが存在しています。
ゴジラや禍威獣の出現に驚いた一般の人々、振り回される現実社会などの要素が極めて
希薄なのですね。
つまりそれは、観客が物語の入口として入って行く視点を仮託する人物も場もないとい
うことになります。
いや、主人公の本郷猛が実はその役割で、巻き込まれ型の主人公として開幕早々、追手
に追われていますし、人間とは思えない体になった自分自身やその背景について、緑川博
士やその娘ルリ子の説明を受けています。
観客は本郷の目、耳、あるいは腕や足を通してこの作品の世界観を体感していくのです。
とは言えこの本郷も、暴力とそれに抗う力への欲求、それと反目する精神=優しさへの
こだわりとなる原体験的絶望を観客には隠したままなのですので、必ずしもすんなりと彼
への共感は生まれません。
ましてや彼が戦闘中に撒き散らす血しぶきや、マスクの下の人ならぬおぞましい姿を見
ていますからね・・・共感にはどうしても一線が引かれるのです。
オリジナル(テレビ版)の「仮面ライダー」ならば、冒頭部分に改造前の本郷猛の日常
が描かれるなどして「入口」が設けられ、また立花藤兵衛やライダーガールズ、子供たち
など市井の協力者もふんだんに描かれていて、現実的で視聴者と相似な視点が十分用意さ
れていたのですが、本作はそこを刈り込んでいますからね。
それでも次第に本郷やルリ子の心情がわかり、ふたりの心の交流が理解されて来ると、
感情移入する観客も増えて来るとは思うのですが、どの登場人物もなかなかとっつきにく
いのが難と言えば難です。
「君を守りたい」と述べる本郷の行動原理も最初はわかりづらいし、ドライで謎めいて
いるルリ子にいたってはなおのことですし。テレビ版では当事者と市井の人々の中間地点
にいる(=ただの人間ではあるが、ライダーの正体を知る協力者)立花や滝にしても、本
作では食えない政府機関・情報機関の人間であって、観客は腹が読めない(とは言え、こ
の両者にも後にその人間性を垣間見せるセリフが用意されていて、そこが味なのですが)。
本作の一文字隼人に割と好感が集まっているのは、それらと真逆に、彼の陽性のキャラ
クターゆえに発せられる数々のセリフが、人間性をとてもよく伝えるものになっているか
らではないでしょうか。
特にパリファライズ(洗脳解除くらいの意味の作中造語です)後の一文字の人間くささ
なんて、それが特に表れていますね。
(少なくとも最初は)感情移入し難いキャラクター群、現実社会の視点および傍観者な
き非現実的当事者世界で構築された本作は、言わば「閉じた世界」であり、その中に作り
込まれた箱庭的な様相を呈しています。
そのクローズドな内容物の味を好むひとには愛され、そうではないひとの肌には合わな
い。
「シン・仮面ライダー」はまさにそうした、「仮面の世界」と言える気がします。
(つづく)
No.260ドック2023年12月31日 18:53
以下は雑多な事項です。
◆「仮面ライダー」の周辺知識を知っていればいるほど楽しめる
後半に登場するショッカーライダーは全部で11体。
正義の側の1号・2号と合算すると「13人の仮面ライダー」となる訳で、これは原作
版の同エピソードにぴったり数が準拠しています。
加えて、バイク戦の後に生き残ったショッカーライダー6体と正義の仮面ライダーの2
対6のバトルは、テレビ版のにせライダー編とぴったり符合します(こちらのタイトルは
「8人の仮面ライダー」)。
映画は後半にカマキリ・カメレオンオーグが登場しますが、この2種類の動植物が掛け
合わされた怪人というのは、テレビ版「仮面ライダー」後半のゲルショッカー編での要素
ですね。
その他、テレビ版のロケ地「三栄土木」を冠したトラックが、映画冒頭で本郷たちを追
いかけているとか、西野七瀬さんが演じた役名がテレビ版の「仮面ライダー」で島田陽子
さんが演じたものと同一(こちらもルリ子の友人役)だとか、映画中盤で1号が足を負傷
するのは、テレビ版撮影時に藤岡弘、さんが足を骨折して一時降板したのと通わせてある
など、ネタは枚挙暇ないほど。
こちらもYou Tubeにさまざまな考察動画が上がっていますね。
映画のラストで本郷の肉体が失われても、その精神がマスクに宿り、一文字に「俺たち
はひとつだ」と語らせているのもまた、原作どおりの展開です。
庵野監督はこの場面をいちばん映像化したかったようですね。
その他、監視役として出て来るロボットのKはどう見ても、同じ石ノ森章太郎先生の原
作にしてテレビ特撮版もある「ロボット刑事」だし(主人公の名前もK)、その前身タイ
プのJの姿は、同じく「人造人間キカイダー」だし(主人公の名前はジローで、イニシャ
ルがJとなる)、チョウオーグの青い蝶は「イナズマン」の、そして仮面ライダー0号の
ダブルタイフーンと白いマフラーは「仮面ライダーV3」の要素があって、石ノ森-東映
特撮ヒーローのオンパレードなのでした。
あ、今さらですが、竹野内豊さんの演じた立花はテレビ版での小林昭二さんの立花藤兵
衛、斎藤工さんの演じた滝は同じく千葉治郎さんの滝和也のオマージュですね。
◆戦闘シーンの賛否
本作は後半に多用されるCG中心、かつラストのレスリングのような戦闘シーンに違和
感や反対意見が多いようです。
それは私もわからなくはありません。最初(本当はそれより序盤に戦闘員との戦いもあ
るのですが)のクモオーグ戦が最も魅力的で、次いでバイクも駆使した短めのコウモリオ
ーグ戦が良いものの、後半になるにつれこうした、テレビ版を現代の技術でリブートした
かのような戦闘スタイルが見られなくなり、CGに特化した超人戦へと姿を変え、ラスト
のバトルが泥仕合になってなかなか心スッキリとはいかないものです。
ただ、ハチオーグ戦で見せた戦闘演出は、実写版「キューティーハニー」の頃から庵野
監督はやっていましたし(ハニメーションと命名していた技法でした)、1号2号の対決
シーンはゲーム的な動きでしたが、背景も含めて画としては味があって観られました。
ショッカーライダー戦は撮り直しができず没になった、リアルな肉弾戦が観たかった気
がします。
ラストのチョウオーグ(仮面ライダー0号)戦は、演出として人間くささに傾くべきな
のは理解できます・・・ただ、どうせなら、テレビ版同様、大野剣友会的な武骨な肉弾戦
で観たかったものですが。
昭和の仮面ライダーは殺陣と体力が身上の大野剣友会が担っていますので「武闘」色が
強いアクションなのですが、「BLACK」を経て平成以降のライダーはJAC(現在のJAE)が
担っていますので体操的な、「舞踏」色の強いアクションになっているのですね。
ただいずれにせよ、本質的には前述したように「仮面ライダー」とは「絶望を乗り越え
る物語」だと私は思っていますので、残念に感じるところはありつつも、私には許容でき
る場面ではありました。
◆数珠つなぎの構成
映画的な大長編ではなく、テレビ的な数珠つなぎの構成だった・・・という批判もあっ
たようですが、これはそもそも「仮面ライダー」とはそういうものだと私は思ったりもし
ます。
「シン・ウルトラマン」だって数珠つなぎでしたからね・・・テレビシリーズを踏まえ
てそのリブートたる映画を作るとなれば、巨大な一本の別話にはし難いでしょう。
テレビシリーズ総体をリブートしているのですからね。
想定はしながらも本編では使わなかったものの、クモオーグ編だけを抽出してテレビ放
映したものにはオープニングが付けられていたようですが、「シン・ウルトラマン」でも
冒頭にテレビ版に相似なタイトル映像があったように、「シン・仮面ライダー」もオープ
ニングがあった方が、テレビシリーズのエッセンスをまとめたものですよ・・・というエ
クスキューズが前もって成立したかも知れません。
◆私なりの総論
庵野監督のこだわりとして、手間暇をかけてテレビ版そっくりの画づくりをしている場
面がいくつもあって、これらは映画監督としてのオマージュでもあり、やってみたい模倣
であり、そしてかつての昭和少年としての究極の「仮面ライダーごっこ」だったとも思い
ます。
誰でもができる遊びではなく、映画監督として「仮面ライダー」をリブートする権限を
得た者だけが真剣に遊ぶことのできる「仮面ライダーごっこ」であり、それは見物者の立
場で参加している私=かつての昭和少年にとっても快感を伴うものでした。
予算やスケジュール上の事情も含め残念な要素が散見される本作ではありますが、先述
した根幹の「絶望を乗り越える改造人間の物語」が描かれ、なおかつ「仮面ライダーごっ
こ」が堪能できたのなら、それでいいじゃないですか・・・というのが、私の偽らざる心
情だったりします。 (おわり)
No.263ドック2023年12月31日 18:58
本作におけるショッカーの理念は、「人類のめざすべき幸福とは、最大多数の最大幸福
ではなく、最も深い絶望を抱えた人間を救済することである」というもの。
それゆえ深い絶望を抱えた者をターゲットにして改造し、力を与えるばかりでなく、そ
の者の心から悲しみの記憶を除去し、加えてショッカーの命令に従うことに多幸感を得る
よう、精神も加工しています。
殺人、疫病ウィルスの流布、人々の洗脳・奴隷化と、改造後の行動から読み取ろうとし
ても、各オーグメントの抱える絶望が何だったのかはよくわからないケースが多いのです
が、元になった絶望から生まれた反作用だけが、残存したのかも知れません。
ただいずれにせよ彼らは絶望を自力で乗り越えたのではなく、その記憶ごと消されたの
であり、すなわち克服し達観してはいないのですね。
一方で本郷猛は(そして覚醒後の一文字隼人も)絶望を自らの手元に残しています。
絶望と向き合いながら、懸命にそれを乗り越えようとしている。
その乗り越え方には、ふたりの個性の違いが伺われます。
苦しみながらもその絶望の淵を覗き込み、見据えようとする本郷猛。
覚醒後、一気にその悲しみの記憶を取り戻して滂沱の涙を流すほど絶望を抱えている一
文字隼人は、しかしその絶望すらも洒落のめす強さも有している。
仮面ライダー1号2号のエッセンスはここにあると私は思っています。
テレビ版の「仮面ライダー」の最終回で、ゲルショッカー壊滅後、アメリカに帰って行
く滝和也を見送るふたりの仮面ライダーはそれぞれにこう語りかけます。
本郷「辛く、苦しい毎日だった」
一文字「だがそれも、悪が滅んだ今は、いい思い出になるさ」
現実の苦しみをまっすぐに見据える本郷と、それすらも自らの糧に昇華させていく一文
字。見事な対比であり、どちらにもあるべき大人の姿としての憧れを私は抱きます。
改造され人間でなくなってしまった悲しみを背負い、血を吐くようなショッカーとの闘
いを駆け抜けたふたりの男。「仮面ライダー」は絶望を乗り越える物語だったのです。
賛否両論さまざまな意見はありますが、このオリジナル(テレビ版)「仮面ライダー」
の魂(プラーナ)は、本作にしっかりと継承されているのではないでしょうか。
最終決戦に向かう直前、美しい海に臨む広い砂浜で本郷は立花に励まされます。
「絶望は、お前だけじゃない。多くの人間が同じように経験している。だが、その乗り
越え方が皆違う。本郷は、本郷の乗り越え方をすればいい」
このセリフに、「シン・仮面ライダー」の魅力が集約されていると言っても過言ではあ
りません。
私の胸にも、ぐっと響きました。と同時に、かつて藤岡弘、さんにお会いした時に、直
接かけていただいた言葉を思い出しました。
藤岡さんが演じた本郷の姿や生きざまに、生きる力を貰ったと伝える私の話を、じっと
耳を傾けて全身で聴いてくださった藤岡さんは、私の手を握り締めて、
「生きて、生きて、生き抜きましょうね」
と言ってくださったんですね。
50年の時を経て仮面ライダーを自らの魂に宿された藤岡さんの言葉も、本作における
セリフも、共に絶望を乗り越えて生き抜くメッセージだったと思います。
だからこそ、本作のラストバトルの中で本郷が叫ぶ、「人生のすべてに無駄なことなん
てない!」というセリフもまた、胸に響くのです。
絶望を機械的に除去するのではなく、その絶望すらも人間が生きていく力になるのだ、
と。
本作では序盤にコミュ障などとルリ子に解説される本郷ですが、その彼がラストバトル
で吐露する、「僕には他人がよくわからない、だから他人がわかるように自分を変えたい。
世界を変える気なんてない!」という言葉にもまた、オリジナルから本作が継承した魂を
感じるのです。
原典に則り、本作ではそれを叫ばない本郷の重要な言葉が形を変えてそこにあるではな
いですか。
「変身!」と。 (つづく)
No.262ドック2023年12月31日 18:56
今の時代に堂々と世界征服を謳うのは、もはや子供番組でもなかなかやらなくなってお
りまして、いわゆる悪の組織の行動原理もどこか複雑で観念的、タコツボ的になっている
面はあります。
私などは昭和の時代の特撮ヒーローに慣れ親しんでおりますので、開き直って世界征服
で良いじゃないかと思うのですが、それではリアリティが構築できないのでしょうね。
本作でもショッカーはショッカーではなく、秘密結社「Sustainable Happiness
Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling」=通称「S.H.O.C.K.
E.R.」。訳すとすれば、「計量的な知能の埋め込み改造により持続可能な幸福をめざす組
織」となり、なかなか面倒くさくもあります。
作中で描かれる重要要素として出てくる「プラーナ」もまた、本作の理解をややこしく
する要素かも知れません。
仮面ライダーもオーグメント(改造人間=怪人)もこのプラーナを原動力とし、プラー
ナを失えば消滅するし、プラーナを書き換えられれば人間もオーグメントも洗脳される
(あるいは洗脳解除される)。肉体を失ってもプラーナはマスクなどの中に残存できる・
・・と何でもありですね。
ショッカーの目的も人類の救済と謳っておりますが、めざすのは人間からプラーナを抜
き取って精神のみの世界(ハビタット)に送り込むことであり、結果としては人類の(肉
体的)滅亡とそう変わりはありません。
プラーナの考察については、You Tubeに優れた動画も上がっていて、なるほどなあ・・
・と思ったりするのですが、平たく言えば「生命エネルギー」で良いのではないでしょう
か。
生命エネルギーを増幅されて改造人間となり、生命エネルギーを捻じ曲げられて洗脳さ
れ、肉体は消えても生命エネルギーはモノに宿る・・・要は魂と同義ですね。
仮面ライダーが風をそのエネルギー源にしていることとプラーナとの関連性も、地球も
一個の生命体ですから、風は「地球の息吹」と考えると、仮面ライダーはそこから生命エ
ネルギーを吸収していると考えても差し支えないでしょう。
とは言えそうしたプラーナの「生命エネルギー」への置き換えも解釈のための解釈であ
って、「プラーナとはマグガフィンである」と考えた方が、映画の仕掛け的には理解しや
すいかも知れません。
マクガフィンとはヒッチコックが普及させた映画文法上の用語であり概念です。
キャラクターの行動理由・動機であったり、ストーリーを進めるうえでのキーアイテム
を指すのですが、しかし物語が成立するならば、それ自体は何であっても良いもの(代替
可能ですらあるもの)のことです。
すなわち映画上の仕掛け、ですね。
ヒッチコックはある映画の企画時に、「ウラニウムの入ったワインの瓶」というアイデ
ィアに難色を示したプロデューサーに対して、「ウラニウムがダメならダイヤモンドにし
よう」と提案したと言われています。
ヒッチコックにとって重要だったのは、ウラニウムという原爆の材料そのものではなく、
それをきっかけにして生まれるサスペンスだったのです。つまり、物語が走り出すならば
その仕掛けは何でも良かった。
物語にリアリティを与えようとするプロデューサーは、そうした仕掛けについてもこだ
わるのですが、ヒッチコックは「それは単なるマクガフィンだから、そこまでする必要
はない」と述べました。
ヒッチコックにしてみれば、マクガフィンに過ぎないものに観客が気を取られ過ぎると、
それに続くサスペンスに集中できない。だから、マクガフィンについては軽く触れるだけ
で深追いしなくて良いという作劇術だったのです。
本作におけるプラーナも、マクガフィンだったのではないでしょうか。
暴力によって人間の生命を奪い、洗脳によって人間の尊厳を奪うショッカー。
意図せずして自身に備えられた力を持って、心揺れながらも、人間の自由を守るために、
身近な大切なひとを守るために仮面ライダーは戦う・・・それが成立しさえすれば、プラ
ーナもハビタットも、さほど深追いする必要のないマグガフィンだった気がいたします。
(つづく)
No.261ドック2023年12月31日 18:54
ドックです。
わたしの今年のベストテンから選に漏れた作品のうち、重要な特撮もの2本に関しては、
別途触れておきたく思いまして、別稿としてこちらにあくまで個人的感想を綴ってみます。
以下、「ゴジラ-1.0」について、ネタバレがありますので、未見の方はご注意ください。
評論家の岡田斗司夫氏は自身の動画で、「シン・ゴジラ」の庵野秀明監督と、「ゴジラ
-1.0」の山崎貴監督を比較して、「庵野はダサい、山崎はクサい」と発言しています。
芝居場をやたらと強調するのが山崎節だという指摘でした。
私も山崎貴監督は「大味」の感があり、根っこのところは岡田氏の見解と同じです。
元来、映画はテレビと違ってあからさまな心証描写を行いません。難解さを志向する訳
ではないのですが、テレビドラマのようにわかりやすさに走る訳でもないのです。
「映画は説明に不向きなメディアだ。登場人物にプラカードを持たせて、主張させる訳
には行かない」といった趣旨の主張を、黒澤明監督がしていた記憶があります。
ゆえに黒澤作品では作品世界を観客に理解させるための最低限の説明を、冒頭で一気呵
成に済ませてしまうことが多かったですね。
「悪い奴ほどよく眠る」では開幕早々が結婚式の場面で、そこに集う人間関係を招待客
に語らせていますし、「用心棒」では東野英治郎のめし屋の窓などを活用しながら、宿場
町の集団構造や位置関係を一望化させています。
説明するのではなく、伝える・・・それもうまく伝えることが映画の奥義であり、矜持
だったのです。
「悪魔の手毬歌」のラストで、東京へ帰る金田一耕助に犯人へのほのかな想いを指摘さ
れた磯川警部が何も黙して語らないのに、駅舎の柱に「そうじゃ(総社)」と書かれてい
て暗に肯定していたような描写こそが、映画ファンを唸らせていたものでした。
ゴジラ映画中興の祖と言って良い大森一樹監督もこう言っていますね。
「映画って、全部描いてしまったら終わりじゃないですか。何を描かないか、をやりまし
ょう。全部語るのはテレビで十分」。
対して山崎貴監督は、まるで「説明強迫症」のごとく、描写を執拗に、克明に展開しが
ちなのですね。
例えば映画中盤で、浜辺美波さんのヒロインが、カメラで撮られるくだりがあり、その
フィルムに写し取られた姿が際立って強調される場面があります。
誰が見てもフラグであって、その後にヒロインはゴジラによって落命する・・・という
展開を迎えます。この写真が遺影になるのですね。
そしてその遺影を戦闘機の操縦席に貼り付けて、クライマックスのゴジラ戦に主人公の
神木隆之介さんが挑んで行く訳で、おそらくはここから逆算して、「この時の写真が後々
まで大きな意味を持つ」ことを山崎監督はその起点として強調したかったのでしょう。
主人公にとっては、この写真が撮られた時こそ幸福のピークであり、その幸福を奪った
ゴジラへ復讐を遂げ、悲しみのその先へ生き抜こうとするのですからね。
しかしまあ、そこまで強調しなくても、わかるんです。あの時に撮った写真だなあ・・
・ということは、普通に観ていれば観客もわかる。
ですが「わからないかも知れない」「強く伝えておきたい」と思うがあまり、不自然な
までにフラグを立てるかのような強調を行うという、山崎演出のその「さりげなさの欠如」
が、岡田斗司夫氏に言わせれば「クサい」のであり、私にすれば緻密さ、端麗さを欠いて
いて「大味」な訳です。(つづく)
No.255ドック2023年12月31日 18:44
後は雑多な感想を述べて行くことにしましょう。
クライマックスのゴジラ殲滅作戦は、フロンガスのボンベを使い、深海の圧力差で内部
崩壊を図るというものでした。
一応のリアリティはあるのでしょうが、何だかウルトラシリーズ(特にウルトラマンタ
ロウのZAT)を観ているようなユニークな作戦で、戦後すぐの昭和22年にこんな大胆
な作戦が決行できるのかな・・・とは思いました。
機雷掃海艇が海上でゴジラに追われるくだりは、「ジョーズ」を想起いたしました。
とは言えゴジラ映画ではこれまでに見たことのない場面だったので、新鮮で楽しめまし
たが。
「ジョーズ」ではベテラン船長、海洋学者、地元警察署長の3人が船に乗り込んで巨大
ザメと対決するのですけど、「ゴジラ-1.0」では少し構成と人数が違うものの、どこか似
通う組み合わせになっています。
余談ですが、「ジョーズ」における、警察署長がジョーズの姿を実見して呟いた「船が
小さ過ぎる」というセリフは、後にアメリカでは諺のようになったのだとか(三谷幸喜さ
んと和田誠さんの対談本で読みました)。
「ゴジラ-1.0」でも、自船に対する相手の巨大さに匙を投げるセリフがあったりしまし
たね。
「ジョーズ」では船に強烈な一撃を与えたサメが、その際に口の中に入った酸素ボンベ
を咥えたまま、追撃して来ようとするシーンがあり、ライフルを構えた警察署長が「くた
ばれ、化け物!」と叫びながら乱射し、その一発が酸素ボンベに命中してサメが爆発四散
する・・・という展開を迎えます。
これなども、ゴジラが咥えた機雷を機銃で射撃し爆発させて難を逃れる展開とそっくり
ですね。
ちなみに「ジョーズ」ではこの酸素ボンベの伏線の張り方が巧みなのです。
陸の上では権限のある警察署長も、船の上では素人も同然。酸素ボンベを雑に扱って、
船長に怒鳴られるシーンがあります。「それが爆発したら、この船ごとオジャンだからな
!」と怒られるのですけど、これが後にジョーズを葬り去る理屈になるのです。
こういうさりげなさは、山崎貴監督にはできないところ・・・。
武装解除・自沈を免れていた重巡高雄がゴジラと渡り合うシーンは、興奮しましたねえ。
戦闘自体はごく短い時間でゴジラの勝利に終わってしまいましたが、高雄の主砲もゴジ
ラに結構効いていましたし、もし連合艦隊が健在だったら・・・戦艦大和や武蔵が現存し
ていたら、ゴジラとどう戦ったのだろう・・・という、特撮ファンの昔からの妄想を具現
化してくれて、こちらも楽しい場面でした。
浜辺美波さんの乗る電車がゴジラに襲われるくだりは、そんな鉄棒選手みたいに耐えら
れるものか・・・と半ば呆れつつ観ていましたが、あそこまでスーパーウーマンではない
ものの、「キングコング対ゴジラ」(1967)で地下鉄丸ノ内線がキングコングに襲われ、
ただひとり車内で生き残った(他の乗客は振り落とされている)ヒロインの浜美枝さんの
場面を思い出して、オマージュを感じました(そう言えばふたりは名前も似ている!)。
その浜辺美波さんのヒロイン・大石典子は、ゴジラの放射熱線を爆風から、咄嗟に
神木隆之介さんの主人公・敷島浩一を路地に突き飛ばして、自分は吹っ飛ばされるのです
けど、それならいっそ、自らも一緒になって路地に飛び込めば助かったのではないか・・
・と、つい野暮ながら感じてしまいました。
病院に収容されている大石典子の顔の負傷の様子ですが、「ゴジラ」(1954)の芹沢博
士と全く同じなのですよね(写真ではわかりにくいですが、芹沢博士は顔に火傷の後があ
ります)。
ここにも何らかのオマージュあるいはメッセージが込められているのでしょう。
これまでにないゴジラ映画として、見せ場はいくつもあり、面白くもあって、評価もい
たしますし、次へと続くためにもヒットして欲しいと応援する作品ですが、私個人は「シ
ン・ゴジラ」の方が好きで、ゴジラ映画最高傑作とまでは思ってはいないのですけど、こ
れもまたゴジラ映画だと、愛着も感じている作品となりました。(おわり)
No.259ドック2023年12月31日 18:50
ラストシーンを、皆さんはハッピーエンドとして捉えたでしょうか。
映画には多様な見方があり、観客ひとりひとりが自由にその作品を感じ取れば良いので
あって、ハッピーエンドの映画として捉えることには何の問題もないですし、何の間違い
もありません。
ただ私は、アンハッピーエンドの映画として、本作を捉えました。
理由としては、入院先の病室でのヒロイン・大石典子の首筋に見えた(浮き出たと言う
いうべきでしょうか・・・)黒い痣です。
それを語る前に、少し予備知識をば。
本作では、ゴジラが放射熱線を吐いた後、命中先にキノコ雲が立ち上るという描写があ
りました。つまりゴジラの放射熱線=原子爆弾と同等のものとして描いている訳です。
過去のゴジラ映画において、こうした描写はありませんでした。
ただ「状況証拠」は多数存在しています。
1作目の「ゴジラ」(1954)にしても、ゴジラ襲撃後の野戦病院のような場所で、科学
者が子供にガイガーカウンターを向けるとガガガ・・・という反応があり、科学者が虚し
く首を横に振るという描写があります(そのオマージュが本作にもありました)。
第1作から、ゴジラと接することは放射線の被害を受けるということが明示されていた
のです。
その後も、例えば「ゴジラVSビオランテ」(1989)では、防護服を着た自衛隊の化学班
が、新宿を襲撃したゴジラの飛び散った細胞を回収するシーンがあったりしますし、昭和
の時代のゴジラを扱った書籍では、ゴジラの吐く放射熱線を放射能火炎と表記していまし
た(私もこれらの書籍で学んだ世代です)。
ですから、ゴジラの吐く熱線で原子爆弾同様の惨禍が生じることは、理論上間違っては
いないことになります(とは言え、そこまでやって良いのか・・・とは思ったりもします
が)。
是非はさておくとしても、その原子爆弾の爆風に吹き飛ばされた大石典子に放射線によ
る発症が生じても不思議ではありません。
と同時に、典子を吹き飛ばされた敷島浩一もまた、その現場で「黒い雨」に打たれてい
るのです。典子を失った呆然自失の状況でした。おそらくは長時間、彼は黒い雨に晒され
ていたでしょう。
この男女にハッピーエンドが待っているのかどうかは・・・ひとによって当然考えは違
うでしょうが、私は悲観的に受け留めざるを得ませんでした。
「あなたの戦争は終わりましたか」という典子のフレーズも、その意味では違った風に
聞こえますよね。ふたりにとっての戦争は確かに終わった。彼らふたりの存在の消滅とと
もに。
あのタイミングで電報が届いたのは、病院側が余命幾許もないと判断してのことだった
のかも知れません(逆に言えば、それまではゴジラ被害を国民に秘匿していたのかも・・
・)。(つづく)
No.258ドック2023年12月31日 18:48
大味論に戻りますと、その大石典子は映画中盤のゴジラ銀座襲撃の際に犠牲になったと
して描かれ、ラストにおいて生存が確認されますけど、この展開も多くの方にとって早い
時点からわかっていませんでしたか・・・?
クライマックス直前に、敷島の隣人である安藤サクラさんの元に何がしかの電報が届く
描写があり、そこでもしかしたら生きているのかも・・・と思わせる描写を山崎監督は例
によってこれ見よがしに描写されているのですけど、最初から生存を薄々感じ取っている
と、その描写すら強迫観念に思えてなりません。
映画ファンほどついついスレた見方をしてしまうのですが、浜辺美波さんという東宝の
自社女優、しかもいま売れっ子の俳優を起用しておいて、物語の中盤でああいう退場のさ
せ方をすることは、まああり得ないのです。
いや、かつて「君の膵臓をたべたい」でも同様の途中退場を浜辺さんはなさっているの
ですけど、言わば出世作となったあの作品と現段階では女優としての格がもう違っていま
すし、あの作品における浜辺美波さんと北村匠海さんというのは、映画の時制で言えば過
去という括弧の中の男女なのです。
別の作品を例に挙げますと、「世界の中心で、愛をさけぶ」の場合、映画の看板あるい
はパッケージとしては、大沢たかおさんと柴咲コウさんの主演映画であり、男女の映画で
あり、恋愛映画であり、森山未來さんと長澤まさみさんのペアは物語の過去に位置する関
係性であって、ふたりとも主演ではなかったのですね。
「君の膵臓をたべたい」では映画のパッケージたる主演は浜辺美波さんと北村匠海さん
ですけど、このふたりは過去のペアであって、映画の視点は独り生き長らえた小栗旬さん
(北村匠海さん演じる主人公が、失意のまま大人になった姿)にあります。
しかし「ゴジラ-1.0」では、神木隆之介さんと浜辺美波さんが主演のパッケージであり、
作中の現在時制のヒーローとヒロインな訳です。
そのヒロインがああいう形で役割を終えるはずがなく、映画のラストで「あなたの戦争
は終わりましたか」と語りかけて、それで同時にあのキャラクターの戦争も終わって役が
完結するのですね。
その昔、邦画の黄金時代においては、主演キャラクターの「入り」と「出」はたいへん
重要に扱われていました。
主演の登場人物が、開幕早々に出て来るとか、途中から出る場合だったら暖簾をかき分
けて顔を出したり、最初は後ろ姿で、呼び止められてこちらに振り返ったり、グーンとカ
メラがズームで捉えたり・・・そんな見せ方を工夫して主役を立たせたものでした。
またラストも、最後のアップは主人公と相場が決まっていました。「男はつらいよ」な
んてそうでしょう、最初は寅さんの夢に始まり、ラストは旅先で元気に弾ける寅さんで終
わる。
そうした様式美が映画には存在していました。
今日ではそうした映画文法も廃れがちですが、東宝の自社製作映画(念のために記して
おきますが、今日の映画会社は他社が作った映画を配給することが主で、わざわざ自分た
ちで高コストな映画製作を行うことの方が稀です。それでも年に何作かは、ヒットが期待
できるもの、自社のブランドになっているものを製作はします。映画会社として、商売っ
気と同時に、そうした矜持はまだ持っているのですね。ゴジラは東宝にとって、数少ない
そういう存在の映画なのです)で、自社所属の売り出し中の女優を使っていて、ああいう
途中退場はあり得ない・・・と、映画ファンならすぐに悟ったはずだと私は思いました。
(つづく)
No.257ドック2023年12月31日 18:47
それで言えば、今回はこの神木さんの演じる主人公の抱える「負い目」(それが映画に
冠されたマイナスの意味の一端を担っているのではないか、と私は思ったりするのですが)
が映画の核になっています。
「ゴジラ」(1954)に端を発する東宝怪獣映画は、それがパイオニアであるがゆえにオ
ーソドックスで、怪獣を超自然現象に等しく扱っています。
本多猪四郎監督の自然観とも言えますが、そうした世界観の中では主人公を含めた人間
たちは、主ではなく従の存在でした。
怪獣に対しその退治も含めさまざまに活躍はいたしますが、それらの諸反応や諸感情は
対症療法的で、基本的には傍観者の立場にあります。受動的なキャラクターなのですね。
その受動的なキャラクターをして物語を展開させるために、彼らの職業設定が新聞記者
や科学者、自衛官というお決まりのパターンになっていた訳です。
この傾向は復活した「ゴジラ」(1984)でもそのまま踏襲されていて、それが80年代と
いう時代においてはさすがに古色蒼然といった感もあり、大プロデューサー・田中友幸氏
は新しいタイプの活劇を作れる人物として、大森一樹監督に白羽の矢を立てます。
その大森監督が描いた「ゴジラVSビオランテ」においては、職業設定こそ科学者、自衛
官、政治家があてがわれていますが、人物は格段に能動的になっていますね。
国家間の謀略の犠牲になった娘の遺伝子とゴジラ細胞をバラに移植して、永遠に枯れな
いものにしようとしたものの、それがビオランテという怪獣を生み出してしまう白神博士
しかり、左遷された自衛官として平時のゴジラ監視対応を担わされ、しかしひとたび各国
間の遺伝子をめぐるバイオウォーズに巻き込まれるやいぶし銀の活躍を見せ、最後には至
近距離からゴジラを撃つ実行部隊の長を務める権藤一佐しかり。
あるいは特佐という、実際の自衛隊には存在しない階級を持つ黒木翔だったり。
「噂のヤングエリート集団」と呼ばれている、防衛庁特殊戦略作戦室=対ゴジラ作戦の
ための特別教育・訓練を受けた自衛隊員で構成される防衛庁の特別部署に彼は所属してい
て、自衛隊の中のタテの関係性を横紙破りする人物として描かれています。
彼は防衛大学を首席で卒業し、対ゴジラ戦においては陸上・海上・航空の全自衛隊を指
揮する権限を与えられていますから、統幕議長の決定を独断で無視しているほどです。
その最たる存在が、ゴジラを察知し、精神感応まででき得る超能力少女・三枝未希でし
ょう。
現実性から一歩フィクションの世界に踏み出した、マンガのようなキャラクターが横溢
して、作品世界を活性化させていくのです。
それが2000年代になると、自らのミスのために落命させてしまった先輩の復讐のため、
機龍=メカゴジラを操ってゴジラと砕け散るまで激闘を演じる自衛隊員の家城茜が生まれ、
2020年代になると自らの負い目を引きずり、やがて復讐から生きる意思へとゴジラとの対
峙を通じて死生観を改めて行く敷島浩一が生まれて行くのです。
すなわちゴジラ映画の歴史は、対峙する側の人間の自我の肥大化である・・・と言って
もいいでしょう。
時にはゴジラを超えるくらいに、敷島浩一の自我が映画の場を占め、中心になっている
くらいです。
ゴジラという超自然に翻弄される小さな人間という存在を描いた本多猪四郎監督=昭和
ゴジラとも、攻略対象としてのゴジラに対し受動的ではなく能動的に関わって行く特異な
キャラクターを散りばめた大森一樹監督=平成ゴジラとも、巨大災害や有事の化身とも言
えるゴジラに対し社会集団としての日本人総体がぶつかっていく庵野秀明監督=シン・ゴ
ジラとも異なる、ゴジラと1対1で深い絶望と苦渋に満ち満ちた個人が向き合うのが
山崎貴監督=マイナスゴジラであって、遂に人間はゴジラと渡り合えるところまで自我を
肥大化させたのです。
だからこの敷島浩一は、自分の中の思念を語る語る・・・ここまで内面の心理をアウト
プットした主人公もおらず、「さりげない伝達描写」に長けていない山崎監督作品ならで
はのキャラクターと言えるのですが、しかしこのドラマ性がヒットの要因、ひとによって
は「ゴジラシリーズ最高傑作」などとまで言われる状況を見ていると、それが良いか悪い
かは別にして、時代のニーズは「説明過多、情緒過多」にあり、そうでないと観客の共感
は得られないのかも知れません。
ただこの終始負い目を抱えた敷島浩一ですが、観ているとその負い目は首尾一貫という
訳ではないのですよね。
映画冒頭で、特攻に臨みながら、搭乗機のトラブルを訴えて攻撃を中止し、大戸島に着
陸した行為は確かに散華した同僚たちへの背信行為であり、彼が負い目を感じても不思議
ではありません。
しかしそれと、その夜になってゴジラが島を襲撃し、搭乗機の20ミリ機銃をもっての
攻撃を要請されたにもかかわらず、それを拒んだために整備部隊はほぼ全滅してしまった
・・・という負い目とは、全く異質のものではないでしょうか。
前者は消極的背任ですが、後者はその機銃攻撃が実際に効果があったかどうかは別にし
て、敵前逃亡に等しい行為であり、積極的背任と言っても良いほどです。
彼の責任は遥かに大きいはずであり、自責の念ももっと強烈なはず・・・。
つまり、ここで彼の負い目は二層構造、あるいは前者が後者に上書きされてしまってい
ます。
そして物語の後半は、その負い目がなくなった訳ではないのでしょうけど、明らかに最
愛のひと・大石典子を失わせたゴジラへの復讐の比重が大きくなっている。彼の負い目は
救えなかったヒロインひとりに向けられているような気さえします。
ここでも負い目の対象が変わっているのですね。
まるで負い目の三色団子を敷島浩一は手にして右往左往しているようで、三色団子であ
る以上それは、物語の進行と共に右肩上がりに増大していく1つのコアなモチーフとは言
い難い気もします。(つづく)
No.256ドック2023年12月31日 18:45
ドックさんは行かれるのでしょうか?
https://twitter.com/SizukaNakamura/status/1698614579008573770
No.191vortac2023年9月14日 20:57
おや中村静香さんこんなところでお仕事を→ https://www.nale.jp/
# ドラマ「サブスク不倫」は見ないでいるうちに終わってしまいました(爆)
# 次は映画「レディ加賀」かな? → ladykaga-movie.com
No.252vortac2023年12月31日 10:30
普段はアングラを徘徊してるようなのでたまには陽のあたる推し活をしたほうが良いかと。
でも参加費が新幹線代より高いので地上アイドルとのチェキ会は見送りそうな予感。いったいあの高給をどこに注ぎ込んでいるんだろう?
No.204さいさりす2023年11月5日 12:52 vortacが書きました:
> ドックさんは行かれるのでしょうか?
今日明日ですね。
旅程が発表されているので待ち受けも可?
https://twitter.com/SizukaNakamura/status/1720565767480164743
No.203vortac2023年11月4日 07:43