皆さん、おはようございます。
このあと赤い紐を出して死ぬの、親方のきっこ特選句では(笑)。
『きっこのメルマガ』の第162号は二十代の吉永小百合の俳句が良かったですね。
【鳥交る】鳥交る姿をうつすメコン川 鬼百合
【蓬餅(よもぎもち)】蓬餅あなたと逢った飛騨の宿 〃
【夏草】夏草の陰に息づく青がえる 〃
【ハンカチ】ひまわりの風さわやかにハンカチ振る 〃
【肌寒】川澄みて魚の背きらりとそぞろ寒し 〃
【芸人】足袋白く舞う女(ひと)鼓(う)つ女唄う女 〃
【初雪】ぬくもりをそっと抱きて初雪の降る 〃
【松茸(バレ句)】松茸を喰らひつしやぶりつまた喰らひ 〃
ほんとにあの清純な吉永小百合がこんなバレ句を詠んでいると悪意ある記事を書いた記者は野暮の骨頂、編集長が差し止めないといけません。『誹風末摘花』を註解した川柳・雑俳研究の第一人者岡田甫(はじめ)の『川柳末摘花註解』(第一出版社、1951)はノーベル文学賞などこれに比べたら児戯に等しいと言われたほどの素晴らしい江戸文化の庶民の姿を描いた名著で、『誹風柳多留』の校訂も彼の仕事によるところ大で、『誹風末摘花』を読まずしてバレ句や川柳を語るなかれという目から鱗がぼろぼろ落ちる名著で、古本屋で1000円前後で今でも買える。わたくしは一万円でも安い買物だと思う。世の中には本物の書物がわからぬやからがごろごろしている。柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)と岡田甫『川柳末摘花註解』(第一出版社)を読むと読まないのとでは古句と古川柳の世界が全く違って見える。まあ、わたくしは紙魚の生まれ変わりかと言われるほどの本読みで古本屋から賀状が来るほどの書痴だが、俳壇で柴田宵曲や岡田甫の話が出来る人も会ったことがないから、俳壇に縁のない趣味人らと盛り上がるだけなのだが、ほんとに面白いのになあ。
皆さん、こんばんは。
さすがは句念庵さん、良くご存知ですね。
男女の「まぐはひ(まぐわい)」に通ずる「岐神(くなどの神)」については、『きっこのメルマガ』の今年4月13日配信の第162号で、
おほびらのまぐはひ岐神(くなど)山わらふ 上村占魚
を取り上げて、詳しく解説しています。
せっかくなので、メルマガを購読していない皆さんのために、以下、この句に対するあたしの解説をメルマガから引きますね。
おほびらのまぐはひ岐神(くなど)山わらふ 上村占魚
「おほびら」は「おおっぴら」、「岐神」は「岐路に立つ神」、道祖神の一種です。道の分岐点、峠、村境などに祀られ、外敵や悪霊の村への侵入を防ぎます。外敵や悪霊に「これより先は来てはいけない所」だと分からせるため「来な処(くなど)」と呼ぶようになりました。他にも、街道沿いの道祖神には「道中安全」、田んぼの脇の道祖神には「五穀豊穣」など、それぞれ意味があります。
この句には「上州中原の岐神」という前書があります。上州中原(群馬県)には道祖神が多いのですが、この地域で特徴的なのが「双体道祖神」と呼ばれる男女一対のものが多いことです。「双体道祖神」は基本的に「子宝祈念」「子孫繁栄」のためのもので、男女が仲良く並んでいるだけのものから、男が女の肩を抱いたもの、男が女の胸元に手を入れているもの、男女がしっかりと絡み合っているものまで、その「R指定」のレベルは様々です。
また、面白い「双体道祖神」として「餅つき道祖神」と呼ばれているものもあります。男が杵(きね)を振りかぶり、女が臼(うす)に手を入れて餅を返しており、一見、若い夫婦の餅つきに見えます。しかし、よく見ると、男の着物の股間の部分がはだけており、大きな男性器が丸出しになっているのです。これは、杵を男性器、臼を女性器、餅つきをセッ●スに見立てた「子宝祈念」の道祖神なのです。背面の「文政八年」(1825年)の刻印から、赤ちゃんの死亡率が高かった時代に造られたものだと分かります。
あまりリアルなセッ●ス描写の「双体道祖神」を造ると、村の若い娘たちが恥ずかしがってしまうため、あえて「餅つき」などに置き換えたという説もあります。しかし、この句の「双体道祖神」は、公衆の面前で「おおっぴらにまぐわっている」のです。そりゃあ山も笑い出すでしょう(笑)
以上です♪
きっこさん、みなさん、こんにちは(^^)
岐神(くなどの神)は豊穣の神としてはもとより、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰され、日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされる神であります。
辻の神とも。
来名戸祖神(くなどのさえのかみ)は「来名大神」に同じ。
「これ以上来るな」と杖を投げだした日本書紀の故事によるそうです。
街を一歩でて脇道に入るとこんな光景に出くわすのもまた楽しであります(^^)
>お素麺ばかり食べていて飽きてしまいましたが
わたくしは麺類は百円台~二百円台の特価品の素麺、饂飩、蕎麦、皿うどん(細麺)、パスタ(1.6m)を常備していて飽きが来ないようにしていますが、素麺は長崎産を選んでいます。兵庫の「揖保乃糸」が一番有名ですが、長崎産は食感がザキザキというかジャキジャキというか腰が強くつるつるなのに噛むと歯応えがあり、九州産小麦は炭小屋で熟成させるとか聞いたことがあり、「生活倶楽部」の素麺がそうだったのでみんなにも食べてもらい「ほんとだ、なにこの食感!」と驚かれましたが月千円の供出金(辞めると戻ります)があるので赤貧民としては手が出ず、OKなどの安売りスーパーで特価品で長崎産を見つけると余分に買い込むわけですが、これは飽きません。茹でてぬめりを落として氷水で締めるのですが、すすると「えっ」と口が驚く歯応えにつるつるなのに噛めばザキザキで、いつもは浅葱と茗荷と生姜が薬味ですが、伸びないので、ちょっと一手間かけて、とろろとオクラともずく(沖縄産は太く青森産は細いので味変を楽しめます)のねばねば三色セットとからめて夏場を乗り切ります。
「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」は飯田龍太が面白いことを言っていました。昔は紙が貴重だったし活字などないから書く前に胸中に定めるため吟じて待つ、そこに短詩系独特の美しい調べが生まれたと。わたくしは鎌倉有燐堂の色違いの縦書きノートを俳句用に愛用していましたが、ホトトギスの今井肖子さんと吟行したとき彼女は携帯のメモ機能を使っていて、これだと電車の中でもメモれるのよと。今どきの若い人は文明の利器を使いこなすんだと感心しましたが、わたくしもいつ俳句が来るかわからないので、来るとスマホにメモメモ(笑)。一生懸命暗誦しながら帰ってもトイレで用を足してほっとすると一緒に俳句の記憶も水に流れてしまった・・・。で、今どきの若いもんの真似をしてメモを取りつついつしか二年も経ってから思い出して読むと月日が経つとほとんど駄句のなかに、添削すれば少しはマシな句になる着眼点もあり(添削すると一番新しい日付にアップされます。つまり駄作が月並句にレベルアップ)、暇つぶしに二年分の自己添削など実に勉強になります。
爽波は句は必ず声を出して読むことを奨励していました。わたくしはきっこさんに教わったローマ字で書き直して母音と子音の調べをチェックします。稀に無意識で頭韻や脚韻を踏んでいる句に出会うと、おお、自分の中のこれまでの「多読多憶」が自然に選び取ったのだと逆にプレゼントされたように思います。自分自身の中から生まれた言葉は自分に誠実な言葉なので動きません。
残念ながら口に出して高らかに吟詠するのは明石の夜のカラオケ三次会で入歯が飛び出して以来「舌頭に千転」は忌まわしい記憶とともに葬られてしまいました。「あ、猫髭さんの入歯が外れた!」誰だあんなガキを連れてきたのは。下から見上げる不遜な目、よその子どもは嫌いだ、ぷんぷん。
きっこさん、兎波さん、皆さんこんばんは。稲田が重く穂を垂れて来ました。まもなく稲刈りが始まります。昔は親戚まで動員して稲刈りをしていましたが今はコンバインで一人作業。味気ないといえばそうですが、文明の勝利ともいえましょう(^^)。