きっこさん、みなさんこんにちは。
猫髭さん照れますがうれしいです。
おはようございます。
>「チンダラカヌシャマヨ」は死んだら神様よじゃないの。「可愛い美しい人よ」なの。
大笑い。(^^) (^^)
猫髭さんのお話しはいつも楽しい。
わたくしは昔からベストセラーは読んだことがなくてために400万部売れたという養老孟司の『バカの壁』も読んだことがなくて、でも次女の鎌倉の幼稚園の理事長だったので虫大好きの家族に請われて『養老孟司のデジタル昆虫図鑑』は買いましたが、リアル過ぎて、
ひとところ虫唾の走る虫図鑑 亀田虎童子
で、わたくしは『ファーブル昆虫記』( 岩波文庫)十巻セットの愛読者で 山田吉彦と林達夫の名翻訳にケケケケと笑い転げてるほうが好きでした。買った本があとからベストセラーになることは稀にありますが、基本ベストセラーは読みません。あと、デビューから全部読んでる作家が、本に顔写真を表紙に出した時と飼い犬や飼い猫の本を出した時はそれ以降の本は買いも読みもしません。なぜだか理由は忘れましたが、作品が「作者の顔」だと決めているので実生活の顔が出るのが厭なんでしょうね。フローベールの「ボヴァリー夫人 は私だ」というのが「作家の顔」だということです。
>「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質
というわけで、「立派な句」を詠みたいと思ったことはありませんし、残り少ない人生でその予定もございませんが(笑)、良い句だと感心する俳人が良い人物かと云うとわたくしは嘘がつけないのでその物差しは引っ込めませんかと(笑)言わざるを得ないので、俳句に限らず、人間としてはいかがなものかという人物が凄い小説を書くドストエフスキーのような大小説家もいますし、自分の耳を切り落とすクレージー・ゴッホのような天才画家もいますし(弟テオへの書簡が素晴らしい)、ダリとかピカソとかほんとに人間なのという奇天烈な天才もいますから、俳句の本質がそれだと、わたくしハイヒールの軒先のノラでいいです。(*^▽^*)ゞ。
それにきっこさんの嫌いな人は全員お亡くなりに遊ばしました。寿命は若い方が勝ち。どうせあんたの方が先に死ぬんだ、ざまあ見ろとまでは言いませんが(言ってるじゃん)死んだひとは、死んだらカヌシャマヨよ~ですから、お線香の一本もあげて(えっ、沖縄民謡「安里屋ユンタ」の「チンダラカヌシャマヨ」は死んだら神様よじゃないの。「可愛い美しい人よ」なの。知らなかったあ)いずれにせよ忖度する必要はありません。「死亡率100% 生きるとはそういうこと 死ぬまで生きる我等の掟」「解き放て いのちで笑え 満月の夕」とソウル・フラワー・ユニオンも歌っています(毎日聴いてます。被災者流民なので元気もらえるわ~♪)。
怖いひとみんな死んでる年忘 亀田虎童子
きっこさん、みなさんこんばんは。
猫髯さん、「きっこ俳話集」完了お疲れさまでした ^^) _旦~~
ありがとうございます。
あらやだ、恐れ多くもきっこさんを跨いでおりました。
失礼いたしました。
皆さん、こんばんは。
猫髭さん、「きっこ俳話集」全45話のアップ、本当にお疲れさまでした。
心より感謝いたします。
今では大人になり、嫌いな俳人の句でも「独立した一句」として鑑賞できるようになったあたしですが、20年前には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、嫌いな俳人については人格も作品もイッショクタに批判していたようですね。
もともとあたしは「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質と思っていましたし、これは今も変わりません。
そのため、人格的に疑問符のある俳人の句を褒めることは、やっぱり不本意なのです。
しかし、多くの人に俳句の楽しさを伝える上で、どうしても嫌いな俳人の句を取り上げなければならない場面もあるということを学び、「忖度」という大人の階段を上り始めたところなのです(笑)
あたしが「きっこのハイヒール」を立ち上げたのは、ちょうど20年前の2002年でした。
当時、29歳だったあたしは、今年で50歳になります。
それなのに、20年も時間が経過しても、著名俳人に対するあたしの好き嫌いは、1ミリも変わらずに当時のままなのです。
ただし、頭から完全否定していた大嫌いな俳人にも、いくばくかの「許容の心」を持てるようになった、というだけのことです。
これが良いことか悪いことかは分かりませんが、あたしがメルマガの俳句コーナーの中で、かつて批判していた俳人の句をそれなりに評価しているという矛盾についての説明とさせていただきます。
きっこさん、みなさんこんにちは。
猫髭さん、俳話集全編完了お疲れさまでした。
俳話集全編完了の最後に「検索」のための見出しを再度掲載しました。投稿者の名前はsuzumeさん、あなたです。あなたの御協力に感謝して。