Q0289
小学校3年生の担任です。クラスに些細なことでも1日に数回切れる子がいて、担任の言葉も入りません。相手を決めつけたり、自分が相手を叩いても、「していない」と言って認めようとしません。その上、物を投げたり、相手を叩いたりして、言葉では対処できないことが多くて困っています。何か良いコミュニケーションの取り方を教えてください。
A0289
前後関係がわからないからよくわからないけどね。
1つは、子どもが感情の制御の仕方を知らないのかもしれないから、「ポジティブタイムアウト」を教えてあげる。みんなから離れて気分良くできる方法です。教室の後ろのほうに気分良くできるための席を作って、そこへ行って本を読んだり何しててもいいから、「落ち着くまでそこにいてちょうだい」というのを、冷静なときに取り決めておいて、いよいよキレ始めたら、口で言うと怒るかもしれないから、そこへ行くことにしておいて、何回かお稽古すると、子どももそれは自分の助けになると思ってくれればしてくれるかもしれません。
1つは、まあ一般的な原理として、子どもがクラスの中で不適応行動を起こすのは、クラスに対する所属感がないからだと思う。「自分はこのクラスの一員だ」、「ここは私のいる場所だ」と感じられないからだと思う。
それはどうしてか。同級生からの尊敬を得られていないから。あるいは、自分は何も役に立ってないと思うから。だから、彼を役に立ててあげればいいわけです。この子の得意なことが、他の子の役に立てられるように考えてあげたい。例えば、朗読が得意だったら、朗読のやり方をみんなに教えてもらうとか、動物を飼うのが得意だったら、動物の飼い方を教えてもらって実際に動物を飼ってもらうとか、何かこの子ができて他の子が感心するようなことを見つけると、こういう奇妙な行動でみんなの注目関心を引かなくてもよくなると思います。(回答・野田俊作先生)
21,子曰く、子曰く、君子は諸(これ)を己(おのれ)に求め、小人は諸を人に求む。
先生が言われた。「君子は(求めるものを)自己の中に求めるが、小人は他人に対して求める」。
※浩→求めるものが何か、いろいろあるでしょう。ともかく期待するものは自己の中にある。自己の力によって期待を実現する。他人から与えられることを期待してはいけない、ということでしょう。貝塚先生はこう解説されます。孔子は、他人に何かを要求するような心は卑しく、自分を練磨して自分の内面から期待するもの・価値あるものを生み出そうとする心を尊いとしたのでしょう。言葉の連鎖で、「期待するもの」「価値あるもの」とは「目標」のことです。アリストテレスは、「最高善(=目的)は幸福」と言っていました。人間は目標・目的を追求して生きるというとアドラー心理学のようです。それは「善を追求する」ことだとすると、ソクラテスの「善く美しく正しく生きる。善にして美なるものを知る者は、それを措いて他のものを選ぶことは決してしない」となり、さらにプラトンの「善のイデアを追求する」にたどり着きます。功利主義では、「自分の幸せを他人に求めてはいけない。自力で達成せよ」でしょうか。仏教には「他力本願」と「自力本願」という考えがあります。「自力本願」であれ、ということでしょうが、こういうことが堂々と言えるのは、肥沃な農業社会にあって、人力の有効性が確認できたからでしょう。ユダヤ教やイスラム教のような(不毛な)砂漠で、自然の脅威にさらされる生活を強いられるとなると、絶対的で万能の「神」に帰依することに自己の幸福実現を求めざるをえなくなるでしょう。「他力本願」について少し調べてみると、他力とは自己を超えた絶対的な仏の慈悲の力(働き)、本願とは一切衆生(いっさいしゅじょう)の救済を約束する「仏の願い」を指します。この言葉は浄土真宗の教えを示す重要な基本用語ですが、正式には「本願他力」と言うのですか。親鸞上人によれば「他力とは本願力なり」ですから、一切衆生の救済はこれ(=他力)によって成立することを明らかにしました。世間では、何も努力しないで他人の力に頼ることを「他力本願」と言っていますが、これはまったく誤用です。仏教は、ユダヤ教のような砂漠ではなくて、ガンジス川流域の肥沃な土地で生まれましたから、唯一絶対万能の「神」に帰依するのではなく、悩める人自らの修行によって苦悩を解脱しようとしました。これは「自力本願」ですね。始祖のゴータマは自力本願で解脱したのに、その流れを継ぐ親鸞聖人は「他力本願」を説くというのは、凡人の私には理解が困難です。ただよほどの絶望状態からのお悟りではないかと推察するのみです。真宗の信徒さんから叱られそうです。ごめんなさい。
野田先生は、「自立」というのは、人がすべてのことを自力で成し遂げることだとはおっしゃいませんでした。というのは、人はどこまでも「不完全な」生き物ですから、その能力には限界があります。どんな限界かは、哲学者がいろんなことを言っています。フランシス・ベーコンの「4つのイドラ」がわかりやすいです(これは今日はパス)。自力のみで達成困難なときは、人の協力を仰ぐことができること。それができてこそ「真の自立」だとおっしゃいました。そういえば、「人にものを頼むのは嫌いだ」と言う方がいます。そういう人は、ほんとの自立をしていないのかもしれません。
Q0288
夫婦仲が悪くなり2人が殺し合いをする前に、私の母が夫の本気相手(浮気相手でない)に談判し、すべてを仕切ったあげく、実家に子どもと2人で転がり込むことになって1年になります。現在調停中ですが、母は何かと仕切ろうとします。離婚に反対だからだと思うのですが、「あんたは人の言うことを聞かない頑固者だ、頭がおかしくなった」とひどく非難し、「あんたらのおかげで私がなんでこんなに苦しまなければいけないの」と言う始末。自分の考えが一番常識的で正しいという意識が人一倍強く、私は本当の気持ちが言えず、ただ母を怒らせずにいなければと、何だか恐くなってしまいます。自分自身1人の子の親である以上、このままではいけないと思うのですが、恐くて何も言えません。何か良い方法があるでしょうか?ちなみに母は私の娘に対する躾け方にまで口を出してきます。「アドラー的方法はもってのほかだ」と。
A0288
お母様に感謝することです。「おかげでこうやって主人と別居することもできたし、毎日お世話になってほんとにありがとう」としばらく言う。そうするとお母さんは、「この子もずいぶん大人になったね」と思って、もっと手を緩めてくれると思う。「お母さんは勝手に仕切って邪魔よ」と思っているとそれは伝わるから、余計ムキになって「どんなに私が役に立つか見せつけてやろう」と思うんじゃないかと思う。
親がこうやって子どもためにいろいろしてあげる、例えば、小さいときに子どもの着替えの手伝いをするとか、朝起こすとかしたい。それは子どもが可愛いからだけではない。「私はこんなにいい親だ」と自分に証明したいから。子どもがなかなか朝起きてこないけど、体験から学んでもらおうと思って起こさないでいると、すごく不愉快なんです。あの不愉快さは劣等感で、この劣等感を使って、「こんなに不愉快なんだから言っちゃおう」といくと、自己欺瞞的劣等コンプレックスです。何をしようとしているかというと、自分は正しい良い母親だということを証明しようとしていて、その自分が正しい親だということを証明する「自分の課題」のために子どもを犠牲にしている。このお母さんはいまだにそれをしていて、こうやって娘の夫婦関係を仕切ってあげるのは、結局自分が正しい良い母親だと証明するためでしょう。抵抗すればもっと証明したくなるから、「いいお母さんで、私のために一生懸命やってくれている」と言ってあげると、そんなに証明しなくてよくなる。だからたくさん感謝することですね。(回答・野田俊作先生)
20,子曰く、君子は世(よ)を没(お)わるまで名の称せられざるを疾(にく)む。
先生が言われた。「君子は一生を終わるまでに、自分の名が世に唱えられないのを気に悩む」。
※浩→おやおや、前に言ったことと矛盾するのではないですか?「君子は人の己を知らざるを病(なや)みとせざるなり」と「世をおわるまで名(な)称せられざるを疾(にく)む」ですから。じっくり味わっていくと、「人に自分の“存在”を知られることと、“名誉”を残すこととは違うということだと思い当たります。少し安心です。君子は名誉を否定はしないんです。他人に認められるために学問するのではないが、学問して実力がつくと、世間に出て理想を実現するために働かないといけない。そうすればきっと、世の中の人に知られる“仕事”もできるはずである、という前提がないと、確かに前の考えと矛盾します。なるほど、「自分の存在」と「自分の残した仕事」とは区別しないといけません。アドラー心理学で言う「対人関係優位」の人は「自分への評価」、人からどう思われるかを気にし、「課題達成優位」の人は、自分が成し遂げる仕事を気にする、あれと重ねると、とてもよく理解できます。卒業式で、『仰げば尊し』を今でも歌うのでしょうか?戦後しばらく、歌詞が封建的だと考えられたためか、これは歌われなくて、『蛍の光』だけ歌われていたようです。ところが、私が22年勤務した岡山工業高校では歌っていました。卒業学年を担任した年は、卒業式が近づくと、ホームルームでこの歌の指導をしました。
仰げば 尊し 我が師の恩
教えの庭にも はやいくとせ
思えば いと疾(と)し このとしつき
今こそ 別れめ いざさらば
互たがいに睦(むつ)みし 日ごろの恩
別わかるるのちにも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば
朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
蛍のともしび 積む白雪
忘るる 間まぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば
なるほど、1884年(明治17年)に発表されただけに、歌詞は「古文」です。でも、スローテンポで、この歌を合唱すると、卒業式で絶対泣きます。岡山工業高校が式でこの歌を歌うことにしたのは、別に懐古趣味でもなければ封建的でもなかったと思います。明治緒近代国家創成期のフレッシュなエネルギーが溢れています、教師と生徒はまさに「師弟関係」で深い信頼関係を感じさせてくれます。さらには「世のため人のために」社会貢献的に生きていきましょうね、となると、現代において、最も欠損しているように思われるエキスが完全に揃っています。子どものころ、歌詞の意味がよくわかっていなくて、「思えばいと疾(と)し」を「思えば愛(いと)とし」と勘違いしていました。「疾(と)し」は「速い」ということです。さらには、高校で古典を習ってはじめて知った“係り結び”なんて、知るよしもありませんから、「今こそ別れめ」は「今こそ別れ目」だと信じ込んでいました。“係り結び”の法則を知って、このフレーズを分析すると、原文は「今別れむ(ん)」で、この「今」を強調して「今こそ」と「こそ」が付くと、あとの動詞「別れむ」の「む」が活用変化して已然形の「め」になるんです。これ、もしかしたら、大人だってよく知らないで歌っているかもしれません。
超懐かしい映画、1954年に公開された映画『二十四の瞳』(主演:高峰秀子、松竹)では、オープニング・エンディングで合唱されていました。新しいところでは、2019年公開のアニメーション映画『天気の子』のクライマックスシーンで、主人公の生徒が高校の卒業式で歌ったそうですが、私は残念ながら観ていません。今度テレビで放映されたら観ます。古いものでも、こういう素敵な歌は大事な日本文化ですから、きちんと伝承していきたいです。
Q0287
「運命」と「縁起」はどう違うんでしょうか?お釈迦様は輪廻転生するとおっしゃったそうですが、我(が)が存在しないのに、いったい何が輪廻するんでしょうか?
A0287
お坊さんに聞いてください。
運命と縁起は違います。縁起は“自業自得”のことです。「わたくしがこれをするからあれがあるだろう。わたくしがこれをしなければあれがないだろう」ということ。「わたくしが浮気をするとあとでトラブルがあるだろう。浮気をしないとトラブルがないだろう」「勉強すると賢くなるだろう。サボっているとバカになるだろう」。外側の運命と関係なく、自分自身の業(ごう)が結果を招くということを縁起と言う。業って「行為」のことです。
「我(が)」が存在しないなら何が輪廻するか、わからない。それは仏教学者が2500年議論してわからなかったからわからない。
最近の仏教学者たちは面白いことを言う。お釈迦様の聴衆は賢かったりおバカだったりする。1250人の弟子と在家の信者さんがたくさんいた。相手によっていろんなことをおっしゃった。理論的にきっちりしたことも言うし、まあ大衆が理解できるようにおっしゃるから、一々言ったことを取り上げて、「お釈迦様が言ったとか言わない」とか言わんほうがよろしい。理屈に遡って考えたほうがいい。インド人は輪廻転生すると思っているので輪廻転生しないと言うわけにはいかないからそうおっしゃったんでしょう。ヒンドゥー教徒も思っているし、ジャイナ教徒も思っているし、インド人はみんな輪廻転生説なんです。お釈迦様だけが輪廻転生しないと言うともめるから、みんながすると言うならすることにしておこうと思ったんでしょう。日本では仏教しか入ってないからびっくりするけど。(回答・野田俊作先生)