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夫婦トラブルに母が介入

Q0288
 夫婦仲が悪くなり2人が殺し合いをする前に、私の母が夫の本気相手(浮気相手でない)に談判し、すべてを仕切ったあげく、実家に子どもと2人で転がり込むことになって1年になります。現在調停中ですが、母は何かと仕切ろうとします。離婚に反対だからだと思うのですが、「あんたは人の言うことを聞かない頑固者だ、頭がおかしくなった」とひどく非難し、「あんたらのおかげで私がなんでこんなに苦しまなければいけないの」と言う始末。自分の考えが一番常識的で正しいという意識が人一倍強く、私は本当の気持ちが言えず、ただ母を怒らせずにいなければと、何だか恐くなってしまいます。自分自身1人の子の親である以上、このままではいけないと思うのですが、恐くて何も言えません。何か良い方法があるでしょうか?ちなみに母は私の娘に対する躾け方にまで口を出してきます。「アドラー的方法はもってのほかだ」と。

A0288
 お母様に感謝することです。「おかげでこうやって主人と別居することもできたし、毎日お世話になってほんとにありがとう」としばらく言う。そうするとお母さんは、「この子もずいぶん大人になったね」と思って、もっと手を緩めてくれると思う。「お母さんは勝手に仕切って邪魔よ」と思っているとそれは伝わるから、余計ムキになって「どんなに私が役に立つか見せつけてやろう」と思うんじゃないかと思う。
 親がこうやって子どもためにいろいろしてあげる、例えば、小さいときに子どもの着替えの手伝いをするとか、朝起こすとかしたい。それは子どもが可愛いからだけではない。「私はこんなにいい親だ」と自分に証明したいから。子どもがなかなか朝起きてこないけど、体験から学んでもらおうと思って起こさないでいると、すごく不愉快なんです。あの不愉快さは劣等感で、この劣等感を使って、「こんなに不愉快なんだから言っちゃおう」といくと、自己欺瞞的劣等コンプレックスです。何をしようとしているかというと、自分は正しい良い母親だということを証明しようとしていて、その自分が正しい親だということを証明する「自分の課題」のために子どもを犠牲にしている。このお母さんはいまだにそれをしていて、こうやって娘の夫婦関係を仕切ってあげるのは、結局自分が正しい良い母親だと証明するためでしょう。抵抗すればもっと証明したくなるから、「いいお母さんで、私のために一生懸命やってくれている」と言ってあげると、そんなに証明しなくてよくなる。だからたくさん感謝することですね。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

20,子曰く、君子は世(よ)を没(お)わるまで名の称せられざるを疾(にく)む。

 先生が言われた。「君子は一生を終わるまでに、自分の名が世に唱えられないのを気に悩む」。

※浩→おやおや、前に言ったことと矛盾するのではないですか?「君子は人の己を知らざるを病(なや)みとせざるなり」と「世をおわるまで名(な)称せられざるを疾(にく)む」ですから。じっくり味わっていくと、「人に自分の“存在”を知られることと、“名誉”を残すこととは違うということだと思い当たります。少し安心です。君子は名誉を否定はしないんです。他人に認められるために学問するのではないが、学問して実力がつくと、世間に出て理想を実現するために働かないといけない。そうすればきっと、世の中の人に知られる“仕事”もできるはずである、という前提がないと、確かに前の考えと矛盾します。なるほど、「自分の存在」と「自分の残した仕事」とは区別しないといけません。アドラー心理学で言う「対人関係優位」の人は「自分への評価」、人からどう思われるかを気にし、「課題達成優位」の人は、自分が成し遂げる仕事を気にする、あれと重ねると、とてもよく理解できます。卒業式で、『仰げば尊し』を今でも歌うのでしょうか?戦後しばらく、歌詞が封建的だと考えられたためか、これは歌われなくて、『蛍の光』だけ歌われていたようです。ところが、私が22年勤務した岡山工業高校では歌っていました。卒業学年を担任した年は、卒業式が近づくと、ホームルームでこの歌の指導をしました。

 仰げば 尊し 我が師の恩
 教えの庭にも はやいくとせ
 思えば いと疾(と)し このとしつき
 今こそ 別れめ いざさらば

 互たがいに睦(むつ)みし 日ごろの恩
 別わかるるのちにも やよ 忘るな
 身を立て 名をあげ やよ 励めよ
 今こそ 別れめ いざさらば

 朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
 蛍のともしび 積む白雪
 忘るる 間まぞなき ゆく年月
 今こそ 別れめ いざさらば

 なるほど、1884年(明治17年)に発表されただけに、歌詞は「古文」です。でも、スローテンポで、この歌を合唱すると、卒業式で絶対泣きます。岡山工業高校が式でこの歌を歌うことにしたのは、別に懐古趣味でもなければ封建的でもなかったと思います。明治緒近代国家創成期のフレッシュなエネルギーが溢れています、教師と生徒はまさに「師弟関係」で深い信頼関係を感じさせてくれます。さらには「世のため人のために」社会貢献的に生きていきましょうね、となると、現代において、最も欠損しているように思われるエキスが完全に揃っています。子どものころ、歌詞の意味がよくわかっていなくて、「思えばいと疾(と)し」を「思えば愛(いと)とし」と勘違いしていました。「疾(と)し」は「速い」ということです。さらには、高校で古典を習ってはじめて知った“係り結び”なんて、知るよしもありませんから、「今こそ別れめ」は「今こそ別れ目」だと信じ込んでいました。“係り結び”の法則を知って、このフレーズを分析すると、原文は「今別れむ(ん)」で、この「今」を強調して「今こそ」と「こそ」が付くと、あとの動詞「別れむ」の「む」が活用変化して已然形の「め」になるんです。これ、もしかしたら、大人だってよく知らないで歌っているかもしれません。
 超懐かしい映画、1954年に公開された映画『二十四の瞳』(主演:高峰秀子、松竹)では、オープニング・エンディングで合唱されていました。新しいところでは、2019年公開のアニメーション映画『天気の子』のクライマックスシーンで、主人公の生徒が高校の卒業式で歌ったそうですが、私は残念ながら観ていません。今度テレビで放映されたら観ます。古いものでも、こういう素敵な歌は大事な日本文化ですから、きちんと伝承していきたいです。

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運命と縁起

Q0287
 「運命」と「縁起」はどう違うんでしょうか?お釈迦様は輪廻転生するとおっしゃったそうですが、我(が)が存在しないのに、いったい何が輪廻するんでしょうか?

A0287
 お坊さんに聞いてください。
 運命と縁起は違います。縁起は“自業自得”のことです。「わたくしがこれをするからあれがあるだろう。わたくしがこれをしなければあれがないだろう」ということ。「わたくしが浮気をするとあとでトラブルがあるだろう。浮気をしないとトラブルがないだろう」「勉強すると賢くなるだろう。サボっているとバカになるだろう」。外側の運命と関係なく、自分自身の業(ごう)が結果を招くということを縁起と言う。業って「行為」のことです。
 「我(が)」が存在しないなら何が輪廻するか、わからない。それは仏教学者が2500年議論してわからなかったからわからない。
 最近の仏教学者たちは面白いことを言う。お釈迦様の聴衆は賢かったりおバカだったりする。1250人の弟子と在家の信者さんがたくさんいた。相手によっていろんなことをおっしゃった。理論的にきっちりしたことも言うし、まあ大衆が理解できるようにおっしゃるから、一々言ったことを取り上げて、「お釈迦様が言ったとか言わない」とか言わんほうがよろしい。理屈に遡って考えたほうがいい。インド人は輪廻転生すると思っているので輪廻転生しないと言うわけにはいかないからそうおっしゃったんでしょう。ヒンドゥー教徒も思っているし、ジャイナ教徒も思っているし、インド人はみんな輪廻転生説なんです。お釈迦様だけが輪廻転生しないと言うともめるから、みんながすると言うならすることにしておこうと思ったんでしょう。日本では仏教しか入ってないからびっくりするけど。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

19,子曰く、君子は能(のう)なきを病(うれ)う。人の己れを知らざるを病えざるなり。

 先生が言われた。「君子は自分に能力がないことを気にかける。しかし、他人が自分を認めないのを気にかけない」。

※浩→有徳の君子の必要条件として、「人の己を知らざるを憂えず」は『論語』で繰り返して語られています。まず「学而篇」の冒頭の、「学びて時に之を習う、また説(よろこば)しからずや。……人知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや」とあり、「憲問篇」にも、「人の己を知らざるを患(うえ)えず、その能わざるを患うるなり」とありました。私は何しろ、“見栄の大森”の異名をとったくらいですから。『論語』を読むたびに、「人知らずして慍らず」とありたいものだと願っています。しかし現実は、講演や講義が終了したとき、出張の場合は必ず拍手があったのに、現在の勤務校(10月で形式上はやめました。ボランティアでひそかにサポートのための講義は月1回にして継続しますが)で全職員対象の研修会があったとき、約90分の講演のあと、パラッとも拍手がなくて、さすがにがっかりしたことがあります。この8月は大丈夫で、しっかりありました(笑)。でも、来年はやりません。「人の己れを知らざるを病えざるなり」が登場するたびに“反省!”です。過去に“見栄の大森”を一番印象づけた出来事は、在職中、一時、進路指導課にいたときのことです。それまでは、母親が毎日の手作り弁当を作ってくれていて、お昼は大丈夫でしたが、高齢化にともなって、お弁当作りがしんどいと言うのでやめることになりました。そのため、お弁当屋さんから配達してもらったり、職場の近所の食堂や喫茶店に同僚と食べに行ったり、“ホカ弁”を買いに行ったりしました。外へ出ると時間を喰うので(これは安楽を求めるライフスタイルか)、配達してもらうことがほぼ定番になりました。当時、350円くらいの「満食」のお弁当を多くの先生方が利用されていました。そういう状況下で、私は、近所のお寿司屋から、1000円くらいの「上ちらし寿司」を配達してもらって、悠々といただいていました。このとき“見栄の大森”を自分で認めました。隣席のS先生(←この方は、備前高校でも先輩の同僚でボート部の顧問のお1人でもありました。進路指導課から教育相談室長に移動されて、その後、以前から相談室を希望していた私を即引き取ってくださった大恩人です。おかげでこんにちがあります。)は、自分は“ヒガミのS”だとおっしゃり、向かい席のY先生は、自分は“あきらめのY”だとおっしゃいました。この短いニックネームに、各自のライフスタイルが本当によく表されています。Y先生のニックネームが一番“わびさび”が効いていて、人生をすでに達観されているようで、なんとも素晴らしいです。進路指導課の重要な業務として、「求人票」の製作がありました。Y先生が進路指導課に見えるまでは、すべて手書きでしたが、彼は電気科の先生でコンピューターに堪能でしたから、電子化に着手されました。ある日、残業してデータを打ち込んでいて、ほぼ終了というときに、用事ができて立ち上がった瞬間、足下の電源コードを引っかけて、コンピューターのデータがすべて消えてしまいました。Y先生は、静かに着席して黙々と、最初から打ち直したそうです。「有能な人」というのはこういう方のことだと思います。そういえば、野田先生は、原稿用紙500枚書くコツは何かとおっしゃっていました。「わー大変だ」と己れの運命を嘆いたりしても何も始まりません。原稿用紙を広げたら、まず最初の1文字を書くそうです。そしたらまた次の1文字を書く。そうしていくうちにだんだんでき上がっていく。これしかないとおっしゃいました。Y先生は、まさにこのとおりのことをなさっていたのです。“見栄の大森”はきっと生涯治ることはないと思いますが、ときどきこういうことを思い出しては、自分への戒めにしています。

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夫の兄弟の嫁とうまくいかない

Q0286
 夫婦仲は今のところ仲良くやっているんですが、主人のきょうだいと、主人は6人きょうだいですが、嫁の1人と仲良くいきません。お互いに思いやりの気持ちが持てません。主人のためには少しでも関係を良くしたいと思うのですが。

A0286
 良くしないほうがいいんじゃないかな。親戚なんだからいくらか話し合わないといけないことはあるだろうけど、ビジネスの部分だけ、法事とかはきちんとつきあう。グジャグジャした親戚の愛情関係のほうは、クールに済ませておくほうがお互いのためにいいんはないかな。
 アドラー心理学を誤解している人が多い。「すべての人と仲良くしなさい」と言っていない。「良い人間関係を持ちましょう」というのは、前に「家族は」が付いている。だって家族は離れられないもの。だから良い人間関係を持たないとすごくまずい。姑さんとも仲良くしたい。そのほうがいいからね。でも別居している親戚とだと、そんなに仲良くなくても、喧嘩さえしなければいいのだから、少し距離を開けたほうがお互い傷つきにくいんじゃないですか。(回答・野田俊作先生)

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