Q0306
「不適切な行動の目的」4番目の「無能力を誇示」する人たちは、生まれつきそういう性質を持った人たちなのでしょうか、それとも育っていく間に勇気をくじかれてそういう状態になったのでしょうか?
A0306
わからないです。アドラーもわからないと言っている。遺伝と環境は両方ともライフスタイルの形成に影響を与えるだろう。どっちがどの程度関わっているかわからない。実験のしようもない。全然わからないけど、もし生まれつきだったとしても、親が注意して育てれば、その人たちの勇気をくじかないようにして育てれば、「無能力を誇示する」という感じにはならなかったと思う。例えば、統合失調症的な資質が遺伝としてあるかもしれない。ないかもしれない。あったとしても、親がその人たちに侵入的・支配的育児をしなかったら統合失調症にならなかったと思う。それは例えば、糖尿病とか高血圧症も遺伝ですが、糖尿病的食事とか高血圧的食事とかをしなかったら一生ならない。それが塩分や糖分をたくさん食べるとかするとなるわけでしょう。それと同じように、たとえ遺伝であったとしても、小さいときからアドラー心理学を学んで勇気づけながら育てれば、まっとうな人に、まっとうな人というのはおかしいけど、無能力を誇示する段階かで行かなくてすむだろうと思う。(回答・野田俊作先生)
6,孔子曰く、君子に侍するに三愆(さんけん)あり。言(げん)未だこれに及ばずして而も言う、これを躁(そう)と謂う。言これに及びて而も言わざる、これを隠(いん)と謂う。未だ顔色を見ずして而も言う、これを瞽(こ)と謂う。
先生が言われた。「君子(吉川先生;目上の人)の側にいるにあたっての「三種の過ち」。まだ発言すべきでないのに発言する、これを「躁=せっかち、がさつ」という。話題がそこへ来て発言すべきときなのに発言しない、これを「隠=かくしだて」と言う。顔色を見ないで一方的に発言してしまう、これを「瞽=めしい」と言う」。
※浩→「君子」を吉川先生も貝塚先生も「目上の人」と訳されています。解説は貝塚先生のが詳しいです。
君主を補佐する家臣の心得であり、同時に、目上の人に対する礼儀でもあるようです。孔子の学園で教習する弟子たちへの心得書でしょう。現代のあらゆる会合における会話の作法としても通用します。外国では社交会話の厳重な作法があって、他人の発言を遮ってはいけないし、他人と意見がかち合うと、必ず謝って相手に先を譲る。こういう作法は中国でも日本でも古くから家庭や塾の中では守られてきました。この社交の作法を身につけていない現代日本人が、外国旅行に出かけると、あるいは無作法者と笑われ、あるいは手も足もでなくなって惨めになるそうです。会話に限らず、もう一度、新しい時代に生きる作法を復活しなければならない。「お行儀」という言葉が“死語”になってしまった現代においては、至難のワザです。現状は、言うべきときでなくても平気で発言するし、言わないといけないときには黙っているし、相手の反応がどうあろうと関係なく、自説をごり押ししています。
かつて、大阪のアドラーギルド(当時のアドラー心理学の本拠地)で、カウンセリングの事例検討会というのがありました。毎週金曜日の夜7時から9時まででした。私も自分のケースを持参したり、録音テープを送ったりして、野田先生や先輩方のスーパービジョンを受けました。会に参加したときは、参加者がいろいろアドバイスしてくれました。その場で、発言のタイミングの大切さを学びました。タイミング良く口をはさまないと、場がしらけたり、野田先生から一喝されて、ずいぶん鍛えられました。自分のケースを録音テープで送ってアドバイスをいただいた1つのケースに、野田先生が「とても良い流れでカウンセリングが進んでいます。クライエントの発言とカウンセラーの発言が、重なったりずれたりしないで、まるで一人のナレーターが通して語っているようです」と絶賛してくださったことがあります。身に余る嬉しいお言葉でした。発話のタイミングは、カウンセリングの現場でもとても重要です。アドラー心理学のカウンセリングでは、ただクライエントの発言を受容と共感で聞くのではなくて、場合によってはカウンセラーが積極的に発言しますが、クライエントの発言を遮ったり、無意味な“間”が長く続いたりしないように、100%配慮しています。日常会話においてもお稽古しています。
Q0305
職場の上司でかなり頭の切れる女性がいます。ドンくさい私は彼女にとって目障りな存在のようです。朝の挨拶以外はものをしゃべってくれません。もちろん私も心が縮んでしまって話ができません。他の人たちには楽しそうにしゃべる彼女を見て、情けないやら悔しいやらで悩んでします。勇気づけてください。
A0305
困りますか?私を嫌いな人はいるんですよ。いますねえ、思い出してしまった。絶対に私に口をきかない人がいるんですよ。某有名アドレリアンでね。道で会っても、総会なんかでも。大阪の人じゃない。大阪にはそんなのはいない。全部撲滅しましたから(笑)。その人なんか目も合わさないし、口もきいてくれないけど、それでいいと思う。あの人の言うことを聞いたら耳が腐るから。別に気にしないでいいんじゃないですか。よく言うけど、10人の人が周囲にいたら、2人の人は私が何をしてても許してくれる人で、ずっと私を好きでいてくれるだろうと思う。1人の人は私が何をやっても許してくれない人で、一生私のことを嫌いだと思う。残り7人はケースバイケースで私の出方で好きになったり嫌いになったりする。どうやらこの上司は運命の1人みたいで、何やっても許してくれないでしょうから、許されないままで暮らしましょう。そういう人が1人くらいは絶対いるんです。10人いたら。まあそこに1人いて、残りに友だちがいますから、その友だちのほうを見る。適切なな部分に注目するんです。人生には明るい世界と暗い世界とが必ずあって、明るい側をしっかりと確保していくと、暗い側を悩むよりはエネルギーの使い方が上手になります。(回答・野田俊作先生)
5,孔子曰く、益者三楽(さんらく)、損者三楽。礼楽を節するを楽しみ、人の善を道(い)うを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なり。
先生が言われた。「ためになる楽しみ三種、損になる楽しみ三種。行動と音楽を節度をもって行う楽しみ、他人の徳性・美点を讃える楽しみ、すぐれた友人をたくさんもつ楽しみ、これらどんなにためになるだろう。驕りたかぶる楽しみ、家に帰らず遊びほうける楽しみ、酒食荒淫の楽しみ、これらどんなに損になることだろう」。
※浩→孔子が「楽しみの種類」を、「有益な三楽・有害な三楽」と箇条書きの形で述べています。現代にも当てはまります。「驕楽」は傲慢、「佚遊」は安惰、「宴楽」は消費生活の贅沢を言います。自分に関して採点すれば、「節度」と「他者への勇気づけ」と「交友」の楽しみはまあまあだと思います。「他者を勇気づけること」はアドレリアン必須の課題ですから、常に心がけている“つもり”です。。「賢友多き」は過去の話になりました。高齢化とともに減少しました。「皆無」でなく、ごく少人数ではありますが、親密な交わりをしています。「傲慢」と「遊びほうける」と「酒食荒淫」は、要注意です。自分の成した成果を奢る気持ちがときどき生じます。「謙虚・寛容さ」はずっと修業が必要です。人間はどこまでも不完全な存在ですから、しょっちゅう過ちます。常に自己点検を忘れないように、心していきます。「学而篇」に「曽子曰く、吾日に三たび吾が身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざると伝えしか」。
Q0304
復讐期まで行った息子、現在18歳がいます。子ども3人の中で確かに私の好みに合わない子どもだったと思います。今まで自分のしてきたことが子どもの勇気をくじいていたとわかったら、何も言えなくなってしまいました(野田:ええことです)。最近息子が話しかけてきても、以前のように私が話に乗らなくなったせいか、「ねえ僕の話聞いてる?」と確認してきます。そのときに、「うん、聞いている」と応えます。自分の好みに合わない子を好きになることはできないでしょうか。フロムの『愛するということ』は参考になるでしょうか?
A0304
ならないと思う。フロムの本は好きなんですけど、きわめて哲学的な本なんで、面白いから読んでみられたらいいけど、そこから、即、実際に行動につながるヒントがあるとは思えない。
私のヒントは、「しあわせは心こもらぬ言葉から」です。心こもらなくていいから、いい言葉をかけ始めようと思うんです。子どもをあまり好きになれない心を変えられないでしょう。でも、体の動きとか口で言う言葉とかは変えられるでしょう。心がこもっていなくていいから、教科書に書いてあるような勇気づけの言葉を言っていて、「お母さんそれ嘘だろうが」「ああ、バレた?」てなことを言ってても、それでも傷つける言葉を言ってるよりはマシだと思う。その言葉によって、子どもは少しずつ態度が変わってくるでしょう。子どもの態度が変わってくると、だんだん親のほうの心も変わってくるでしょう。心は頭蓋骨の内側にあるとはあまり思ってない。心が先にあって行動がそこから出てくるというのは原因論であってアドラー心理学的でないと思う。心というのは、人間関係というものが私を通り抜けているときに立てるさざ波のようなものだと思う。だから人間関係が良くなると、相手のことが好きになると思う。愛があるから優しい言葉が出るのではなくて、優しい言葉のやりとりがあるときに愛が生まれてくると思う。愛があとだと思う。まず、いい言葉がけを、心こもらなくていいから、いい言葉がけを始めてみられてはいかがですか。(回答・野田俊作先生)