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論語でジャーナル

36,子曰く、仁に当たりては、師にも譲らず。

 先生が言われた。「仁徳を行うに当たっては、先生にも遠慮してはならない」。

※浩→吉川先生は、「他の事柄では先生に対して譲歩しても、仁に関しては、先生にさえも譲歩しない」と読まれています。貝塚先生は、上のように読まれます。微妙な違いに思えますが、師弟関係を非常に重く考えたこの時代に、仁徳を実行するには、先生に気兼ねする必要はないというこの提言は、大変重要です。師弟の情義が薄れてしまった現代では、この提言は訴える力が弱いかもしれませんが、孔子が弟子たちがあまりに自分の言うことを「はいはい」と聞いているのに愛想を尽かして、仁に関することなら、もっと反論するほどの元気を出せと鼓舞したのではないかという、貝塚先生の解説に納得しました。
 でも、今は亡き恩師・野田先生には、とてもじゃないけど、こういう態度はとれませんでした。ただ1点、先生に背いたことがあります。それは、教師でありながらカウンセラー資格を修得したことです。私が、アドラー心理学の「基礎講座」を受けて、カウンセラーに挑戦したいと言ったら、当初、先生は反対されました。理由は、教師は学校に雇われている身であるため、真に生徒や保護者の「弁護士役」をできないからということでした。それでもしつこく粘って、ついに「カウンセラー養成講座」を受講できて、めでたくカウンセラー資格をいただくことができました。当時は、「特例」だと自認して喜びました。その後、何人かの先生がカウンセラーになられましたから、もしかしたら、私が草分けになったのかもしれません。おかげで、わが相棒K先生もカウンセラーになれました。「養成講座」への参加希望をされたとき、「大森先生に勧められて」とひと言おっしゃったら、即OKだったそうです。おかげで、今日があります。野田先生が亡くなられてから、日本アドラー心理学会との間で何やら不一致があったらしく、総会でも次第に野田先生の話題が消えていっているように感じられます。私の偏見かもしれません。一方、野田先生の会社「アドラーギルド」が解散されたあと、昨年(令和4年)奥様によって「野田俊作顕彰財団」」が設立されて講座や研修会がアドラーギルドの雰囲気を残した形で運営されています。最近、このグループの会員(会友)に加えていただきました。カウンセラー資格は学会でいただいていて、研修会はこちらでと二股かけることになりました。ほんとは2つの団体が対立しないで、共存共栄していってほしいのですが。

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実母が鬱。どうつきあうか?

Q0293
 実の母が最近鬱病になり、一緒に暮らし始めました。今は夜のみ抗鬱剤を飲み、一見普通に見えます。私自身一緒になるのがイヤなのと、気を使うのとで、疲れています。「この人、鬱病だ」と思って接するほうがよいのでしょうか?楽なつきあい方を教えてください。

A0293
 一見普通に見えたら鬱病と違うんじゃない。われわれは病気とつきあうわけじゃない。人間とつきあう。だから、病気のことなどお忘れになったほうがいいと思う。特に、心の病気についてみんな偏見を持っている。私は「体の病気だと思ってください」と患者さん本人にも家族にも言っている。腎臓が悪いとか肝臓が悪いと一緒です。お薬飲んで養生すれば治るわけで、精神的に何か問題があるわけじゃないと思っていますから、普通に人間関係の工夫をしてください。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

 今日は↓でお読みください。

http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-11-1.html

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障害者の息子、夫婦喧嘩への声かけは?

Q0292
 結婚して1年になる息子、交通事故による障害者です。嫁は健常者です。よく夫婦喧嘩をします。親としての声のかけ方を教えてください。

A0292
 結婚したらもう子どもじゃないから、忘れてください。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

34,子曰く、君子は小知すべからずして、大受(たいじゅ)すべし。小人は大受すべからずして、小知すべし。

古注:先生が言われた。「君子は小さい範囲の観察では理解しにくいけれども、一般人が彼から大きな利益を受けうる」。
新注:先生が言われた。「君子は小さいことはできないが、大きな任務を引き受けることができる。小人は大きな任務は引き受けられないが、小さいことはできる」。

※浩→現代感覚からすると、職業や人格の差別的待遇を意味するようにも思えますが、孔子の時代には君子は「小さな仕事(身近な問題)」にとらわれ過ぎないで、「大きな仕事(政治や礼制における道の実践)」に専心して己れの徳性を磨くことが正しい生き方だと考えられていたのです。それはそうでしょう。儒学は、言うなれば、政治家養成哲学のようなものですから。「修身~斉家~治国~平天下」です。前回も出ましたが、「民主主主義」で、“平等”が当然視されますが、これは“同等”とは違います。“平等”は、「違うけれど等しい」ということです。クリステンセン博士の説明がわかりやすいようですから、そこから引用します。博士は1989年アドラー心理学会岡山総会で外国招聘講師でした。当時、アメリカ・アリゾナ大学教授でした。私がアドラー心理学に出会ったのは、それから2年後の1991年でした。↓
 ここで私たちは、「平等」ということについての理解を明確にしておきましょう。アメリカでワークショップを行なう場合、まず最初に参加者に質問表を配ることにしています。第一の質問は、「一行で、平等という言葉を定義してください」というものです。北アメリカのどこの地域の人たちも、どんな民族的な背景や教育的な背景を持っている人も、とても面白い意見を書いてきます。70%の人たちが、「平等であることは同じであることである」と答えてきます。しかし、私は、同じであるということは、平等であるという観念を侵害するものであると考えています。男と女は同じではありませんが、平等です。フランス人は、何世紀か前にこの問題を解決しました。その時フランス人は、「違い、万歳!」と言ったのです。子どもと大人とは同じではありませんが、平等です。子どもは大人ほど大きくはありません。大人ほど教育を受けてはいません。そして常に言えることは、子どもは大人ほど歳をとっていません。でも平等なのです。
 平等というのは、平等の中には違いも存在すると定義しておく必要があります。私が一番うまく定義するとすると、「価値観の平等、価値の平等、そして人格の平等」ということができます。もし、同じであるという考えを進めていくならば、大人、親、そして教師の果たす役割はなくなってしまいます。けれども、“違い”という概念を受け入れていくと、教える先生の役割と生徒の役割、親の役割と子どもの役割というのを相互尊敬の関係のもとに明確に定義できるのです。
 学校や家庭についてのもうひとつの問題は、親になるために、あるいは教師になるために受けてきた教育は、自分が子どもだった時に受けた教育しかないということです。今ここにいる、かなり若い方を除いては、かなり専制主義的な家庭環境の中で育てられたのではないでしょうか。そして、学校でもなかり専制主義的な教師に出会われたのではないでしょうか。そうすると、民主的な教育の本を何冊読んでも、民主的な子育ての本を読んでも、何か問題が起きてくると、あなたのお父さん、お母さん、そして先生が対応したのと同じような形で反応してしまいます。
 教員養成の専門機関の訓練で、いい教師が育てられることはありません。もし、良い教師がいたとしたら、それはその訓練機関によるものではなく、訓練を受けたにもかかわらず良いと考えたほうが適切でしょう。というのは、「あなたがたまたま良い先生にめぐり会っていた。そしてそこで訓練を受けていた」ということにほかならないからです。現在の教師は、次の世代の教師を訓練しているということができます。ですから、教育界にどんな革新が起きたとしても、次の世代の教師たちは、今の教師たちが教えているような形で教えていくことになるのです。このことは、親たちについても言えることです。皆さんが孫の親を教育していると言えるでしょう。それは、とても恐ろしいことでもあります。というのは、孫に対しては、つい甘やかしがちになるからです。そして、自分の子どもたちが自分の孫をどのように育てているか、その子育てに関して嘆くということがよく見られます。
 子育てにおいて、そのほとんどの会話が上から下への会話です。これは3、40年前には悪いことではありませんでしたが、今日の子どもは平等という位置からその話を聞いています。その結果、コミュニケーションにどんなことが起きるかはもうおわかりでしょう。それより、もっと悪いのは子どもたちが平等というポジションから親たちに話して返すということです。
 私は、「生徒が言い返す」という報告を受けたときは、「自分が子どもとどういうふうな交流しているのかテープに吹き込むように」と指示します。そしてテープを聞いてみますと、教師の話し方が、文句を言っている子どもと全く同じ話し方をしていることがわかります。子どもたちが平等という仮定のもとに話しているとしたら、子どもたちは教師が話すのと同じように話す権利を持っていると考えるでしょう。
 私は、2週間ほど前に、とても面白い電話を受けて、イギリスから来ている教授と会いました。彼の6歳になる息子が新しい学校へ入りました。彼は入学して2日目に、学校から排斥されてしまったのです。1年生の子どもが排斥されることがどういうことかわからなかったので、びっくりしました。「何が起こったのか?」と聞いてみました。わかったことは次のようなことでした。
 教師が、「もう誰も話してはいけない」と子どもたちに命令したらしい。そして、教師自身が話をすることで、その約束を破りました。そこで、6歳の子どもが教師の論理に挑戦をしたということでした。平等の観点で見ようとしている人には、明らかにわかる例ですが、自分がボスになろうとしている人には、まったく理解しがたいことです。もし1年生の子どもが平等について理解しているのは普通とは思えないと言われるかもしれませんが、私の扱っているケースの多くが、わずか2、3歳ですでに専制君主と言われる子どもたちなのです。

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