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🔶お知らせ・・ロケット掲示板とRara掲示板は同時運営しております

このロケット掲示板の『葵新吾"大好き大川橋蔵ファン広場”掲示板PARTⅡ』と
Rara掲示板『大好き大川橋蔵ファン広場PARTⅡ掲示板』【 https://rara.jp/fanhiroba/ 】は同時進行で運営中です。
使い勝手からどちらも一長一短はありますので、できる限りは同時並行で行くようにしてまいります。
どちらを見ても大丈夫なように管理者が責任をもって投稿記事は双方に分かるように掲載していきます。

🟨この掲示板は無料版の掲示板にしましたので、広告が入りますので見ずらくなってしまいました。ご容赦ください。

編集・削除(編集済: 2023年04月07日 07:42)

平次第67話

今日の東映土曜定番時代劇「銭形平次」は第 話『』(1967.8.放送分)です。

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引用して返信編集・削除(未編集)

風の武士」16時から配信

YouTube東映時代劇は本日3月3日16時から「風の武士」の配信スタート。
3月12日までゆっくりと橋蔵さんの「赤い影法師」以来の忍者作品を楽しんでください。


暖かい日が続いています。桜の開花も早まりそうな。
今日は桃の節句なので、お昼には春のちらし寿司と白酒でなく甘酒をいただきました。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年03月03日 17:14)

初代帝国劇場といえば

Rara掲示板投稿記事は
🔻金糸雀 投稿日: 2023年03月01日 09:31:12 No.58

3月はとても暖かな日差しのもとから始まりました。春を感じます。
施設の一階に飾ってある立派な🎎雛段飾りが3日が来るのを首を長くして待っています。裏庭の梅の花が満開そのうち桜も咲く、
見に行けるとうれしいのですがそこが歯がゆいところです。

3月1日と言えば初代帝国劇場が1911年(明治44年)の今日開館した日でもあります。
現在の2代目帝国劇場が入る「帝劇ビル」は老朽化が進んでいるため、隣接する「国際ビル」とともに建て替えられることに
なり、2025年をめどに一時休館することになるようです。
開館したときは海外から音楽家を招いてオペラ・バレエを上演したほか、六代目尾上梅幸・七代目松本幸四郎・
七代目澤村宗十郎らが専属俳優となり歌舞伎やシェイクスピア劇などを上演していたそうです。
関東大震災の影響を受け改修した後には、松竹の経営になると洋画封切館として中心をなす劇場になり、
暫くすると東宝が運営に合併し、松竹の賃借期限が1940年(昭和15年)に切れると東宝の経営となり元の演劇主体の興行形態に
なりましたが、戦争のため内閣情報部が使うようになり、戦争中地下食堂は雑炊食堂として一般に提供されたということです。

そして、第二次世界大戦が終結した後の最初の公演というのは。1945年(昭和20年)10月の尾上菊五郎の公演でした。

しかし10年後には巨大映画スクリーン・シネラマの出現で洋画ロードショーの映画館になり1964年(昭和39年)
「アラビアのロレンス」の上映を最後に解体されたということです。
以上、初代帝国劇場の歩んできた背景を簡単にまとめてみました。

📌戦争終結の帝国劇場最初の尾上菊五郎の公演には、橋蔵さんも出ていました。
1945年(昭和20年)10月11月 「新歌舞伎十八番の内 鏡獅子」で橋蔵さんの役は〈胡蝶〉でした。
その後も
1946年(昭和21年)3月4月 「大寺学校」役名は〈中学生仁科〉でした。
1947年(昭和22年)1月 「京鹿子娘道成寺」役名は〈所化勧念坊〉でした。
1949年(昭和24年)9月 「伊勢音頭恋寝刃」役名は〈油屋お岸〉でした。

ご縁があった帝国劇場、現在の2代目劇場の舞台にも立ってほしかったなあ。蜷川幸雄さんの演出でのものも見たかった
と思います・・・実現していたら・・・どんな橋蔵さんが見られたでしょう・・・
ファンの期待を裏切らない、舞台の橋蔵さんは年を経ても素敵でしたから・・・それはもう最高だったでしょう。

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Rara掲示板投稿記事から
🔻まゆ 投稿日: 2023年03月01日 16:26:27 No.63

帝国劇場も開発に乗じて変わるのですか。母は日本では帝国劇場に招いて舞台上演された
「オリバー」を友人達と見に行ったそうです。外国で有名だったものが日本に来たという
ので、大感激だったと言っています。
第二次世界大戦後芝居の興行ではやはり六代目が一番だったのですね。
橋蔵さんも歌舞伎座や新橋演舞場などでお芝居をやっていますが、帝国劇場にはまた
違った思い出があったでしょう。六代目と立った帝劇の舞台に、大川橋蔵主演の出し物で
再度舞台に立つことの考えはどうだったのでしょうね。
歌舞伎時代の橋蔵さんが久しぶりに浮かびました。

「風の武士」はちょっと理解できないところがどうしてもある作品になっています。
司馬遼太郎原作を加藤泰監督独特の演出法で見せていくので、どこかついて行けないところが悔しいです。どちらかというと好きではない映画だからかもしれません。

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東映時代劇YouTubeは3/3より「風の武士」の配信

Rara掲示板記事は
🔻金糸雀 投稿日: 2023年03月01日 14:07:22 No.62

東映時代劇YouTube3月配信作品は「忍者映画特集」で、
第一週は「風の武士」になります。
配信期間は3月3日(金)16時~3月12日(日)23時59分になります

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平次第66話

Rara掲示板の方には昼過ぎには載せていたのですが、こちらには遅くなり申し訳ございませんでした。
Rara掲示板投稿記事は 🔻金糸雀 投稿日: 2023年02月25日 13:29:30 No.56

今日の東映土曜定番時代劇「銭形平次」は第66話『闇に笑う男』(1967.8.2放送分)です。

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ちょっと贅沢なビールとして、厳選されたアロマホップをふんだんに使用した麦芽100%
のビールという宣伝で人気銘柄のエビスビールが発売されたのは1890年の今日。
いま私の生活しているところではアルコールは一切ダメですから、みんなとワイワイやりながら、
また一人静かに美味しいつまみでゆっくりと味わっていたころが懐かしいです。
発泡酒というものもありますが、私はやはり麦芽の比率が多いビール党でした。

そのヱビスビールは、サッポロビールが販売している銘柄ですから、普通はラベルに
★マークがあるのが普通なのですが、エビスビール自体がブランドになっているため
つけていないのだそうです。
ビール🍺の好きな方は、今晩どうですか。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年02月25日 19:10)

3月橋蔵さん出演作品放送スケジュール

Rara掲示板掲載記事は 🟡金糸雀 投稿日: 2023年02月21日 17:50:41 No.52

日活の人気俳優だった赤木圭一郎さんが亡くなったのは1961年の2月14日でした。
石原裕次郎が、スキー場で骨折をしたため、急遽『激流に生きる男』の代役に決まり、その撮影中の出来事でした。撮影中の昼休みにセールスマンが持ってきたゴーカートを運転、ブレーキとアクセルが乗用車とは逆だったために踏み間違え、撮影所内の鉄扉に激突してしたのです。21歳でした。
私は、日活映画は映画館で見たいという気持ちはなかったですが、赤木圭一郎さんのあの屈託のない笑顔は好きでした。
赤木さんがいたら、裕次郎さんや小林さんは霞んでいたかもしれないですね。橋蔵さんが裕次郎さんや小林さんと雑誌対談していますから、赤木さんとの対談も持たれていたでしょう。人気絶頂の将来性ある俳優が、誰も想像しなかった事故でパッとこの世からいなくなってしまう。
人の命も散りゆく桜と同じ儚いものです・・・明日ありと思う心の仇桜

🌸桜の開花が聞かれる始める3月の、橋蔵さん出演作品の放送スケジュールになります。
🔹東映チャンネル   🔻時代劇専門チャンネル

3月 05日(日)13:00~15:00🔹やぶさ奉行(1957.11.17)
3月 12日(日)12:00~14:00🔻任侠清水港(1957.1.3)
3月 13日(月)11:00~13:00🔹忠臣蔵・櫻花の巻(1959.1.15)
3月 13日(月)13:00~14:30🔹忠臣蔵・菊花の巻(1959.1.15)
3月 16日(木)23:00~01:00🔻任侠清水港
3月 18日(土)22:00~24:00🔹はやぶさ奉行 
3月 19日(日)16:00~18:00🔹忠臣蔵・櫻花の巻 
3月 19日(日)18:00~19:30🔹忠臣蔵・菊花の巻
3月 28日(火)20:00~22:00🔹はやぶさ奉行
3月 29日(水)14:00~16:00🔻任侠清水港

この中では「はやぶさ奉行」の侠盗ねずみの役が、私は橋蔵さんらしさが一番感じられます。
千恵蔵さんとの共演は、オールスターを除いてがっぷりよつでの共演は「海の百万石」以来。
「はやぶさ奉行」では、茶目っ気の部分があり身の軽さもうかがえる役柄、橋蔵さんには適役ですし、生き生きした感じで、見ていてもスッキリします。
この作品は金さんシリーズ初のカラーであったため、色彩に気を使ったようです。刺青もモノクロ映画のようにはいきませんし、初のカラーということで作品の中で大切な日光東照宮の陽明門には苦心したようです。何も知らないで見過ごすと、実物の陽明門のところで撮影されたのかな、と思ってしまいますね。
「はやぶさ奉行」「任侠清水港」は1957年で、まだ橋蔵さんの初々しさが覗いています。
「忠臣蔵」は、いろんな役をこなして映画に慣れ、オールスターでも自分の魅力というものを意識した余裕が出てきたころですかね。

(画像は👍クリックすると拡大できます)
こちらには1枚ですが、Rara掲示板の方には3枚掲載しています。

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Rara掲示板投稿記事から
🔺おきょう 投稿日: 2023年02月23日 12:09:32 No.54

いつもスケジュールありがとうございます。
あっと言う間に3月になるのですね。

「はやぶさ奉行」は千恵蔵さんの遠山の金さん~橋蔵さんのねずみ小僧がからむストーリーはとても面白いです。録画して持っていますが、放送されるとまた違った気持ちで観てしまいます。
金糸雀さまは以前「海の百万石」放送されたとおっしゃていますが、私は一度も観ていないので、懇願していますが~なかなか思いが届きません。
海の豪商 銭谷五兵衛親子の話で立ち回りのない文芸時代劇だそうですね。
いつか~と思って期待しています❗️

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橋の会は残念だけど、3作品は生きている

Rara掲示板投稿記事から
🔺えっちゃん 投稿日: 2023年02月22日 22:00:20 No.53

金糸雀様
橋の会の経緯は今思うと素晴らしい方々の応援があったのですね。
それだけでも橋蔵さんの素晴らしさに感動しました。
私が橋蔵さんの舞踊見た記憶は、鐘の岬と日本テレビのスタジオでガラス越しから見た茶音頭だけですが、これが一番の思い出です。
ともかくも橋蔵さんは忙しすぎましたね。ファンにとっては嬉しいことですが、もう少しゆっくりしていただきたかったと思います。私自身も正直毎日忙しくして、なかなか主人の墓参りもできず明日行く予定ですが、いつも毎月一緒に行ってくださる友人がいます。有り難いことです。4月は3作品がまたみられるということで、うちの地区の民生前会長さんも橋蔵ファンなので、録画して差し上げるつもりです。3月、4月また楽しみにしております。ありがとうございます。

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"歌舞伎の日"に橋蔵さんに思いを馳せて

Rara掲示板から
🔹金糸雀 投稿日: 2023年02月20日 17:44:41 No.49

今日は日本伝統芸能である”歌舞伎の日”でした。
そんなこともあり、ちょっと橋蔵さんに思いを馳せてみました。

1607年2月20日、出雲阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めてかぶき踊りを披露した日だそうです。
歌舞伎のおこりは、1600年、京都の近衛信伊の屋敷に招かれ”ややこ踊り”を披露し、1603年に阿国が”かぶき踊り”を披露しています。
この”かぶき踊り”が様々な変換をして現在の歌舞伎が出来上がったというわけです。
しばらくすると幕府から風俗を乱すという理由で女役者は禁止され、少年による若衆歌舞伎に替わり、これも風紀の乱れのもとになると
成人男性が演じる野郎歌舞伎へと発展し、その後自然な流れとして女性を演じる女形が生まれたということになります。

女性らしい体つきに見せるため、肩を下げて内に入れ、歩幅を小さく内股にし、歩くだけでも、肉体的にきついものです。
傾城のような立派な衣装の役の場合は、重さ30kgにも及ぶ衣装を身に付け長時間にわたる演技をしますから、女性には無理ですね。
年若い俳優が演じる女性は、初々しい雰囲気が本当に愛らしいですし、ベテランの俳優が演じる女性は、上品で色気があります。
また、実際の年齢と離れた役を演じても、役柄同様に可愛らしく見えるのがとても不思議、俳優自身が持つ雰囲気によるものが大きいとは思いますが、
歌舞伎独特の”らしい”演技がなせるわざかもしれません。
歌舞伎の世界も、いまの若い女形俳優がどう変化していくのか、またすでに活躍しているベテラン俳優がどう円熟していくのか、見守っていくのも
楽しみの一つになりますね。

歌舞伎界にはそれぞれの家に屋号があり、演技様式にも上方では「和事」江戸では「荒事」と呼ばれるものが発展し人気を集め、
歌舞伎の歴史の中でもっとも古く歴史があるのが「成田屋」で、市川團十郎家の「成田屋」は荒事、尾上菊五郎家の「音羽屋」は舞踊、
片岡仁左衛門家の「松嶋屋」は東西で活躍と、それぞれの芸風を見比べながらの歌舞伎見物も楽しみの一つになりますね。


・・・ぐたぐた書いてしまいました・・・

橋蔵さんの特別公演が終了した時点で、私は歌舞伎座、明治座から足が遠くなりました。今はテレビで放送される芝居や舞踊や能等の番組から、
今の日本の伝統芸能を見せていただいています。
橋蔵さんは舞踊を得意とする「音羽屋」に於いては大事に育てたかった俳優であったでしょう。
しかし、梅幸さんも6代目から教えをうけ芝居、舞踊は上手かったようですし、5代目菊五郎いや6代目の隠し子と噂があったようですし、
順番からしても橋蔵さんが菊之助、菊五郎を継ぐのはよほどのことがなければ無理なことでしたね。
全盛時代を迎えていた時代劇映画が即戦力になる歌舞伎俳優を探していたとき、同じ舞台の仲間が映画に移って成功していたことも、
橋蔵さんにとっては幸運なときだったと思えます。

10年単位で歌舞伎、映画、テレビと移り変わり環境を違えてきた橋蔵さんでしたが、テレビでの銭形平次は長すぎました。
家庭を持ったということと、一年に取り組む舞台特別公演をやっていくための決断だったと思っています。
舞台公演も大川橋蔵一枚看板での特別公演は、銭形平次を掲げることにより成しうることだったのだと思います。
スポンサーがいなければどうにもならない世界ですから。

それでも、橋蔵さんは尾上を襲名して歌舞伎界に残っていたら、どんなふうに芸能界で取沙汰されるまでになっていたのだろうと、考えがよぎりました。

当時歌舞伎が上演できる劇場が少なかったことは歌舞伎役者には致命的です。 再開したばかりの新橋演舞場と新装になった歌舞伎座しかありませんでした。
収入減となりますから、菊五郎劇団も、映画に出演したり、新作歌舞伎の上演をして新たな観客層を開拓しようとしたのです。が観客の目当ては
團十郎、梅幸、松緑の3人だけで、橋蔵さんにはこれが良くなかったのです。3人の演目がずらりと並ぶのは当然。
幕開きに羽左衛門か松緑の時代物、梅幸の舞踊が中幕、キリは團十郎と梅幸の世話物と出し物は決まっていて、橋蔵さんの出番はほとんどありませんでした。 時代物、世話物、どちらの芝居に出ても梅幸のサブの役しか回ってこないし、任されても中幕の舞踊がメインです。
その橋蔵さんに映画界入りを決心させたのは、東映、新芸プロサイドからの熱心な説得と、六代目菊五郎の借金返済のためだったと言われています。
最初の3本ぐらいの映画までは歌舞伎に籍を残しての映画出演、本人は名前を知ってもらうためにという気持ちで、歌舞伎に復帰するつもりでいました。
それが映画に専念することになったのは、映画で絶大な人気を博してしまったから、皮肉なものですね。
歌舞伎に帰る場所が無くなってしまった錦之助さんや雷蔵さんの場合とは違い、帰れる場所があった橋蔵さんには歌舞伎役者としての雰囲気が、ずっと残っていたように思われます。

✋(画像をクリックすると拡大できます)
画像は、もう皆様ご存知の「伽羅先代萩」六代目と橋蔵さん

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「勢揃い東海道」再び…

Rara掲示板投稿記事から
🔸 おきょう 投稿日: 2023年02月19日 13:33:27 No.46
こちらは、雪どけが始まり道路は大変な事になっています。まだまだ寒い日はありますが、少しずつ春を感じています。
久しぶりに「勢揃い東海道」を観ました。橋蔵さんとひばりちゃんの仁吉・お新夫婦のシーンは30分位で橋蔵さんがいなくなるので、じっくり~じっくり観てました。
昔は豊富な予算もありロケもセット諸々贅沢でした。先日の「旗本退屈男」は衣裳が豪華って印象でしたもの。

「勢揃い東海道」は次郎長一家が仁吉の仇討ちをする事がメインです。その中の清水次郎長は片岡千恵蔵さんが一番ぴったりだと私個人的に思っています。
橋蔵さんと千恵蔵さんと共演してもぴったり合いますね。つい橋蔵さん~千恵蔵さん~ひばりちゃん揃った時「お坊主天狗」も思い出しました。

寂しいのは、この映画が東映最後のオールスター映画になった事です。

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Rara掲示板投稿記事から
🔹金糸雀 投稿日: 2023年02月19日 15:28:22 No.48
今年は今日が「雨水(うすい)」になります。2月中旬以降
雪や氷が解けて水となり、雪が雨に変わって降る
という意味合いですが、その通り気候は温かくなってきています。
西の方では春一番が吹いたようです。南西の風が入って来て春一番の可能性もと言われている
東京ですが、私の住んでいるところは今のところ曇りですが穏やかです。


🔸おきょう 様

そちらも雪解けの気候になってきたのですね。雪が解けるのはよいのですが、今年のような
雪が溶け出すと溜まったものではありませんでしょう。
もう少しで、穏やかな春がやってきます。
「勢揃い東海道」で東映オールスター映画が終りました。物語はちゃんと出来ていますね。
次郎長が盃を交わしている仁吉の仇を討つことで次郎長物語はハイライトを迎え幕を閉じるわけです。橋蔵さんは中ごろで画面からいなくなってしまいますが、「次郎長シリーズ」の最後の仁吉の役は
ひばりさんとの夫婦役と共にいつまでも残るでしょう。

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財界の人たちの支援で発足した「橋の会」

Rara掲示板への投稿記事から
🔸金糸雀 投稿日: 2023年02月16日 13:47:01 No.44

🔹えっちゃん 様

えっちゃん様のご要望に応えられているかどうか確かではありませんが、一応書いてみました。
2回の催しでそのまま終わったのかしら、この「橋の会」は発足のとき話題にはなりましたが、そのあと思っていたより話題はなかったように思います。


📌橋蔵さんの芸能生活40周年を迎えるにあたって、松竹と藤間宗家が動いていたのでは・・・と思うところもあります。
1975年第9回歌舞伎座公演は、大川橋蔵芸能生活40周年記念と銘打っての公演を念頭におき、発足されていたのではないかと・・・推測ですが。
その「橋の会」後援会は、三菱銀行の田貫渉会長を「橋の会」の会長とし、新日本製鉄稲山嘉寛会長、松下電器産業松下幸之助相談役、
三井不動産江戸英雄社長、日本生命保険弘世現社長、住友金属工業日向方斉社長、西武百貨店堤清二社長と
財界の名士の方々の支援で1973年(昭和47年)に発足していたようです。
橋蔵さんを囲んでの集まりで、日本の芸能について語り合っている中から芸能に興味があり、藤間宗家と親しい人たちに声をかけ、
橋蔵さんなら応援していこうというところから生み出されたということのようです。ですから、第一回の「橋の会」で橋蔵さんの舞踊を初めて見た、
知ったという方もいらしたようです。

こうして、1974年昭和49年6月28日・29日に歌舞伎座で大川橋蔵舞踊公演「第一回橋の会」が催されました。
そして、第9回歌舞伎座特別公演は、「橋の会」の支援もあり芸能生活40周年にふさわしい公演になりました。

「将来は舞踊家になる」のが橋蔵さんの幼いときからの夢でした。
6歳のとき舞踊家を夢見て藤間宗家で修行、歌舞伎界、映画界、そしてテレビ界と遍歴を続けていても、橋蔵さんの舞踊へのおもいは強く、
藤間宗家のもとで修行を積み重ねていたのはファンの方ならご存知のことと思います。
ですから、特別公演の舞台でも舞踊には熱が入っていました。

その橋蔵さんにあきらめかけていた舞台へのおもいに火をつけたのが「東映歌舞伎」でした。
舞台公演をするようになり、舞踊を披露する機会が多くなり、舞踊の会を催したいと橋蔵さんは思っていたそうです。
そんな時芸能生活40周年記念を前に「橋の会」をという話がもちあがり、後援会の人たちにも勧められ、
「橋の会」の舞踊公演が実現したということです。
橋蔵さんは「これを機に、踊れる俳優として軌道の一端に連ならせていただき、伝統芸能の伝承に粉骨したい」と言っていました。

そして、1976年昭和51年6月28・29日に「第二回橋の会」が歌舞伎座で催されています。

しかし、この頃から舞台公演の回数が増えたこと、「銭形平次」の撮影、後援会の集い、諸々公私ともに忙しくなっていて、
「橋の会」はこの2回で終わってしまったのでしょう。
舞台での舞踊のお稽古には平次撮影の合間にやっていくわけですし、そのほかに藤間関係の舞踊舞台もありますし、
舞踊公演と銘打った「橋の会」で、藤間宗家を初め舞踊の上手い人たちとご一緒してもらうわけですから、昼夜3作品の舞踊を踊っていくとなると、
いくら忙しくてもないがしろにはできませんものね。

元気でいれば、平次が終ったあとに、舞踊家としての舞踊舞台が作られていったかもしれません。
残念なことですが、結果的には、橋蔵さんの夢「舞踊家」は果たせず消えていきました。

引用して返信編集・削除(未編集)

Rara掲示板への投稿記事から
🔸芙蓉 投稿日: 2023年02月19日 13:59:15 No.47
「橋の会」そういえばありました。
私がそれを知ったのは、歌舞伎座の特別公演の時でした。6月というのは5月の明治座公演のすぐ後ですから、橋蔵さまにはきつかっただろうと思います。
ファンとしては橋蔵さまが藤間流宗家をはじめ舞踊で名高い人達との共演を積重ねて、ご自分の夢の舞踊家になってゆく姿を見ていきたかったです。
橋蔵さまも、藤間流宗家とも話し合いそちらの道の方へ向かう段取りは考えていたと思うのです。その道筋の一歩を財界名士の方々のお力によりいただいたのに本当に残念です。
金糸雀様のおっしゃるように「銭形平次」の後時間が取れるようになった時に、改めて舞踊の世界が広がっていったように思います。

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