おはようございます(^^)
皆さん、こんばんは。
こちらの掲示板では、バイクの話題が盛り上がってますね♪
ハジメ2018さん、ホンダDIOのVベルトは自分で交換してますよ。
バイク屋さんに頼めば1万5000円~2万円、自分で交換すればパーツ代だけなので合計3000円弱、これなら普通は自分でやります。
今どきはYOU TUBEに実際に交換してる動画がアップされてますので、それを見ながら自分でやりました。
特に大変だったのが、メインのプーリーのナットです。
メガネレンチじゃ舐めるので、ボックスレンチを使うようにと動画で言ってたので、バイク屋さんでボックスとラチェットレンチを借りて来てトライしたのですが、あたしの腕力じゃ1ミリも動きませんでした。
それで、知り合いの土建屋に行って、足場用の鉄パイプを借りて来て、ラチェットのハンドルに鉄パイプを噛ませて、鉄パイプの上にあたしが飛び乗って、あたしの体重でナットを回しました。
その時はウェイトローラーを用意してなかったので、取りあえずVベルトの交換だけしましたが、それじゃ意味がないということを知り、すぐに格安通販サイトでウェイトローラーのセットを買い、3日後に届いたので、また同じ手順。
後輪のパンク修理の面倒くささを10ポイントとすれば、Vベルトの交換は75ポイントと言った感じです。
あたしはこれで懲りたので、それ以降は、Vベルトの交換時には必ずウェイトローラーも交換することにしました(笑)
>友人がバイクもろとも崖を落ちかけました。何でこんなところで転倒したの?
わたくしは関東一帯の峠はほとんど踏破していますが、写真のバイクはヤマハのセロー(serow。羚羊のこと)250というトレールバイクのようですね。わたくしはロングツーリングメインでオフロードもありの場合はヤマハSR400でドコドコと、峠越えのオフロードメインの場合はヤマハDT200でバランバランと楽しんでいましたが、当時はヤマハのセロー225といったスピードではなく山道をトレッキングするのに適したオフロードバイクは無かったので、日本で普通のバイクでは通ることが出来ない山道や岩をジャンプして登れるようなトレールバイクが現れたのはスピードではなくトルクの強さで険しい岩場や山道の段差を一気に上れる国際トレール大会が普及してからで、自転車の映画『ET』で有名になったマウンテン・バイクのオートバイ版で、山歩きの好きな部下にはヤマハのセローを薦めていました。
トレール・バイクで山道から落ちたり外れたりは、氷結した大菩薩峠を冷や汗もので真冬に越えた経験のあるわたくしには余り想像出来ませんが、ひよっとするとタイヤの空気をパンパンに張って座って走ると石に当たってハンドルが取られたせいではないかなと思えます。トレールの場合は獣道をスピードを落として走るので、グリップを良くするため空気を抜いてタイヤが地面の凹凸をしっかり捉えてハンドルが振られないようにすることと、腰を上げて膝のクッションでバランスを取ることが大事ですから、シートに座って走るのは公道のアスファルトぐらいで、ロードバイクは絞ったハンドルを柔らかく肩に力を入れず腰を浮かせ気味に膝と踝で重心をコントロールします。トレールバイクの場合はハンドルが水平で長いので立つことで重心がより安定するのでアクセルと膝でコントロールするので、いずれにしてもどっかり腰をシートに下ろして走るのは公道を移動するツーリングの時だけで、それ以外のロードのコーナリングや山道のタイトな道はバランスを取れるように常時腰を浮かして体を柔らかくいつでも対処していないとアカマムシ。(*^▽^*)ゞ。
お友だちにはトレールの教習場で一本板を渡るとか障害物を乗り越えるとか基本のトレールの講習を一度お受けになるのがよろしいかと。わたくしはロードバイクは奥多摩と湯河原からの椿ロードで週末雪で路面が凍結するまで週末は走りこんでいましたし、オフロードは鋸山や鶏冠林道や天城越えで、最初はゆっくり慣れてきたら速度を上げて鍛えました。オフロードは砂利道ですからそこかしこに凸凹があり雨水もあれば川もありで30キロでも公道の60キロのスピードに匹敵する緊張感があります。花吹雪の中をジャンプして花吹雪をぶち抜ける快感はオフロードならではの醍醐味でした。
なお、50ccで峠を攻めようなどとは夢にも思わないこと。コーナーリングでキャンバーと言って傾斜が外へ下がっていて砂などが溜まっているとタイヤが取られて転倒の危険があるので速度を落さないと危険で、奥多摩のワインディングロードだったか、月夜見駐車場の見晴らしがいいのでいつも一服するコーナーリングで休もうと減速したら上から降りてくるツーリング集団が固まってタンデム(二人乗り)もいて騒がしく来たので危ないなあと見ていたら最後に50ccのホンダのミニポケも混じっていて、あ、ラインをはみ出して来てそのスピードでは危ないと思った瞬間転倒し、わたくしも路肩に止めて、後続にスローダウンするように合図をしましたが、ライダーは半ズボンで膝から骨が白く突き出していました。複雑骨折で、治っても一生足を引きずることになるなと仲間が救急車を呼ぶのを確かめて去りましたが、つくづくツーリング集団は怖いと感じました。彼らはバイクの怖さを知らない。つるんで走ることで集中力が希薄になり、半ズボンでサンダル履きという無防備さ、タンデムでコーナーリングに入る怖さ(ライダーは曲る方向へ重心を傾けるが後ろは怖いから反対に体を傾けるとどうなるか。曲りきらずに真っ直ぐ走ってドカーン)。
一人で走れば死ぬのは自分だけだが、つるめば人の命はつるんだ数だけの不幸を呼ぶ。事故らなければ運がいいが、自由という危険は一人で走れ。バイクも、人生も。そういう覚悟が必要だということで、そういう覚悟が無ければひとは付いて来ないように思う。もっとも、これは独身時代のことで、結婚して娘が二人も出来たら未だに「パパでちゅよ~」という親馬鹿だが。(*^▽^*)ゞ。
おはようございます。
猫髭さん、今日も愉しいお話ありがとうございます。
一本の良質な映画を観たような…。最後は無事に今に至るハッピーエンドで、猫髭さんのお話しを聴けるわけですね。(^_^)
>バイクは自由だが自由には危険が伴うことを忘れてはならない。
確かに!。 私は基本的に林道で遊ぶどちらかと言うとトコトコ走りなので危険は少ないと思います。いや、ぶっ飛ばしてる時もあるわ〜。(笑)
私も崖を落ちたことがあります。
つい最近、友人がバイクもろとも崖を落ちかけました。何でこんなところで転倒したの?という感じでした。まずはバイクをザイルで確保し、二人で少しずつ引きずり安全な位置へ移動させてなんとか…。
もう1年以上前になりますが、その友人が 林道をコースアウトし 3 m くらい バイクと落ちました。プッシュで止まりましたが、傾斜があり元の位置へ上げれなくて、後日ウインチなど用意し引き上げに行ったことがあります。勾配がきつく車が上がれないので、種々道具を担ぎ上がりました。でも時間かかったな〜。
サーキット・ライセンスは規定時間以上サーキットを走れば余程のことがなければ貰えますので、極めるというほど大層なことではありませんが、筑波サーキットは日帰りが出来ますが、菅生サーキットは仙台の方なのでバイクで行くのが遠いので日帰りは無理でヤマハの合宿に参加しました。
サーキットライセンスの取得には指導する教官が走り方を教えるのですが、筑波サーキットの時は石川岩男、通称ガンさんで、1978年には国内350クラスでヤマハTZ350を駆り全8戦優勝でチャンピオンになり、わたくしの憧れの的で、わたくしの愛車の一台はヤマハRD350でTZ350のフェンダーとかでそっくりに改造していましたが、明るくて気さくな人柄でウルトラマンのつなぎを着るなど愛嬌たっぷりの指導で忘れられません。しかし、新婚の妻を連れて1983年3月29日ロードレース世界選手権500クラスにプライベートで参戦予定でフランスのブガッティサーキットで練習中に激突されて事故死という衝撃的な事件は忘れられません。当時はワークス体制で臨む環境にはなく、岩さんはスズキの市販レーサーRGB500に乗っての参戦でした。わたくしの愛車の一台はスズキのRGB250でハンドルはイタリアの名車ドカティを使用しエンジンもオイル混合に換え、マフラーは鈴鹿耐久レースで世界的に有名なヨシムラ製に変えていたので、高速を走るとレッドゾーンからキーンというジェット機のようなエキゾーストノートに変わり130キロ以上出たので、箱根の椿ロードで抜かれたことは一度もありませんでしたが、友人に貸したら盗まれてそれっきりになりました。1983年はヤマハの“キング”ケニー・ロバーツとホンダの“若き天才”フレディ・スペンサーがWGP史上に残る激しいチャンピオン争いを繰り広げた年で、わたくしのオートバイ熱が頂点に達した年でもありました。
筑波サーキットのもうひとりの指導レーサーは日本の女性ライダーの草分け堀ひろ子が参加、彼女が男性レーサーの参加しか許されていなかった鈴鹿四時間耐久レースやサハラ砂漠縦断8000キロに特別参加して完走したため規定が撤廃されるという伝説のレーサーで、しかもきっこさんのような長い髪の美人。わたくしたち暴走族(ただし、わたくしは群れない一匹狼で、女は乗せないのでタンデムステップは外してあります)の憧れの的で、ヤマハのアルトサックスのケースに彼女の女性ライダー用のショップ「ひろこの」の唇ワッペンを貼っていました。しかし、岩さんに続いて、1985年4月に中国タクラマカン砂漠冒険ツーリングの準備中に脳溢血で夭折。享年36歳の若さで物凄いショックでした。ために、ヤマハのSR400単気筒で筑波のタイムトンネルに参加する予定でしたが指導教官石川岩男と堀ひろ子の二人を失い、二度と筑波サーキットは走りませんでした。
菅生サーキットは、国際自動車連盟(FIA)公認の国際レーシングコースの4つの専用コースを有する、モトクロス世界選手権・日本グランプリの開催地で、ロードレースの最終直線に入る前のシケインのきつさから「SUGOには魔物が棲む」と呼ばれるほどアクシデントで順位が変わる難コースで、映画『汚れた英雄』1982年(昭和57年)の舞台にもなりましたが、映画はひどかった。大藪春彦の原作は『蘇える金狼』『汚れた英雄』『野獣死すべし』全部素晴らしいが、映画も仲代達也や松田優作は良かったが草刈正雄だけは大根だった(年取ってからは見違えるように上手くなったが)。
で、サーキットというのは手で触るとわかるがヤスリのようにざらざらしている。したがってタイヤのグリップは素晴らしいが市販のタイヤなど摩擦熱でどろどろのぼろぼろになるほど。レース用のタイヤはグリップがいいので溝がなく柔らかいので長時間レースは途中でタイヤ交換をしないとぼろぼろになって走れない。四輪も途中タイヤ交換をするのはそのため(雨天のみ溝を切ったタイヤに換える)。全速スタート、急停車のテストなど、わたくしは2サイクルのRD350だったのでいきなり後輪タイヤが白煙を上げながらウィリー走行をして(前輪が宙に持ち上がり後輪だけで走ること)、慌ててアクセル緩めて前輪を着地させると猛然と全速で走り急停車は逆に後輪が上がって地面に突き刺さるジャックポットという停止の形になり、教官は呆れたが、合宿仲間からはやんやの喝采で一躍有名人になってしまったが、皆サーキットのグリッドのお陰で、わたくしもウィリー走行やジャックポットは生まれて初めてで冷や汗もんでした。
モトクロスのコースも落差35メートルの大坂と呼ばれる壁のような坂を上ったり、ジャンプで飛ぶと本当に空を飛んでいるようで、レースになると素人はジャンプでアクセルを全開にすると空中で前輪が高く上がり過ぎて反転し、ライダーは背中から落ちるから脳震盪を起こして気絶してしまう。オフロードバイクに慣れていればジャンプと同時にアクセルを戻して前輪を下げて飛べるが、慣れていないとウィリーしたまま空を飛ぶので危険極まりない。案の定わたくしの前の周回遅れのライダーが気負いすぎてコースの瘤でアクセルを強く握ってそのまま上向いてアクセル回したからバイクと一緒に一回転で気絶して、後遺症は残らなかったが、レースはそこで中断され、二位に終わり一位になりそこねた。バイクは自由だが自由には危険が伴うことを忘れてはならない。
この菅生の合宿で印象に残ったのは三人一部屋なのだが、二人は松本から来ていてBMWのサイドカーを運転しているのがテリー・サバラス(刑事コジャック)似の、というか刑事コジャックのファンでサングラスに禿頭で声も低いので似せている中年男としか思えず写真屋の主人なのだが、店は家族にまかせてもっぱら遊び歩いていているらしいが、サイドカーのもうひとりの相方には驚いた。サファリラリーで健闘している日本人チームのメカニック・エンジニアその人だった。なんで二輪に?那須の温泉に行こうと誘われてだまされてバイクの合宿に。おかしなコンビだが、一期一会で、帰りは那須の分岐点で別れた。後日、松本のジャズ喫茶の名店「クリフォード」が閉店になるのでついでにテリー・サバラス写真館に顔を出したら、主人はバイクでどこかに遊びに行ってますと奥さんが呆れ顔で言っていたので相変わらずの迷コンビで温泉巡りをしているらしい。信州蕎麦を食べて松本城を見学して帰った。この真っ黒い城は非常に気に入った記憶があります。一番城の中では好きかも。
ちなみにバイクは、長女が生まれたので危ないことはやめてと言われ、欲しがる若者たちに只であげてしまいました。最後まで乗っていたのはヤマハのDT200というオフロードでしたが、2サイクルだったので排気ガス規制でもう市販はされていない。2サイクルは加速に優れ、音もバランバンバン、バランバンバンというアイドリングの音とオイルが焼ける匂いが好きでした。
今日は部屋も18℃を切る寒さで、妙正寺川界隈もめっきり草紅葉が目立ってきたので模様替え。草紅葉とか草の花とか控え目で好きな季語です。
おはようございます。
>わたくしも筑波と菅生のサーキット・ライセンスを持っていたし、〜
ライセンスを持っていたとは凄いですねぇ〜。
猫髭さんは何でも極められていてびっくりです。(^_^)
私は還暦過ぎての中型免許取得で、友人に誘われるままオフロードバイクでのスタートです。カブは以前から乗っていましたが、複数台所有になってしまいました。一台は気軽にクラッチ盤交換の為に分解したら元に戻らず。5回以上分解と組立てをするも上手くいかずそのままに。(笑)
>明日配信の『きっこのメルマガ』第188号の「季節の言葉」では、この掲示板に感謝する句を取り上げましたので、お楽しみに♪
夜長ごとスイング「A列車で行こう」 鶴見遊太
はい、受け取りました。「沖」所属の千葉の鶴見遊太さんの句で、言われてみればこの掲示板は早起き朝派と夜長派に分かれているようで、わたくしは昔から夜長派ですね。IT業界の仕事柄昼夜が逆の海外との交信で昔は電話とアナログ通信しかなかったので、緊急連絡の場合、相手の時間に合わせてこちらが夜起きて対応するためコンピュータ技術者はほとんど夜長人です。
なお、「鑑賞のお部屋」の「波多野爽波編」は本日すべてアップしました。おまけとしてハイヒール図書館からは、波多野爽波全著作の写真と波多野爽波の色紙や短冊の墨蹟の写真と波多野爽波のお墓の写真を付録でアップしてあります。波多野爽波の「青」の150回記念写真には爽波夫妻の隣に桂信子が座っており、晩年のお婆さんになってからしか知らなかったので、友岡子郷ともども若い姿が新鮮でしたが、爽波の写真とも掲載の承認が必要なので掲載は控えています。ただ、爽波の残した言葉の私家版については「爽波ノート」や「枚方から」は最後の一冊までわたくしが託されたので、宝の持ち腐れになっても困るので、関係者の了解が得られれば、わたくしが冥土の置土産にハイヒール図書館の「きっこ俳話集」に「爽波俳話集・余滴」とでも題して書き写します。
きっこさんの俳話と爽波先生の俳話が並ぶというのはなかなかの見ものだと思います。「悲喜こもごもなあたし」をもう一度味わっていただきましょうか。(*^▽^*)ゞ。
「20年も前の鑑賞文なので、とても稚拙で」と書かれていますが、現俳壇のトップクラスの論客が「猫髭には負ける」というぐらいの猫髭が脱帽するのがきっこさんですから「とても稚拙で」と言われるとわたくしたちはそれ以下ということになりますので、頑張って虚勢を張ってください。きっこさんと猫髭と茂雄親方がタッグ組んだら喧嘩売るひといないと思いますよ。(*^▽^*)ゞ。
>カブのチェーン交換をしました。
わたくしも筑波と菅生のサーキット・ライセンスを持っていたし、オートバイを7台持っていましたので(ほとんど2サイクルとシングル。4サイクルは自分で修理が難しいから)、板金工で溶接はプロでしたから相模原のバイクショップではよく溶接を頼まれましたが、わたくしはロードもオフロードもレース用パーツを活用していたので、チェーンはレーサーから最も信頼篤く世界一と評価の高い椿本チェーンに替えていました。やはりパーツに信頼があると安心ですから。スプロケットはトルクを取るかスピードを取るかの選択で後輪のギア比を換えることもありますが、湯河原から箱根への椿ラインや大菩薩峠を攻めるバイクを好んでいたので、果たしてスーパーカブに乗る日がわたくしに来るのかどうか。コーナーを攻めたり峠でジャンプしたりカブでやる方がクレイジー。自転車でも公園のオフロードでジャンプしてスポークばきばき折ってるしなあ。やっぱりスピードとスリルがないと、バイクと自転車は面白くない。止まっていて倒れない四輪はわたくしには退屈以外の何物でもない。