おはようございます(^^)
皆さん、こんばんは♪
猫髭さんの「春を先取りした句の評価」、とても楽しく読ませていただきました!
もともと「やっかい」だった季語が、旧暦から新暦への改編でさらに「ややこしく」なったため、季節感に対する微妙なニュアンスや肌感覚などを表現することが難しくなりましたが、俳句の基本は「今」ですから、今、自分が感じたことを土台とし、その上で歳時記との兼ね合いを工夫して行きましょう。
中学2年生の時、俳人だった国語の先生の薦めで俳句と出会ったあたしは、当然ですが、著名俳人の有名な句を読むことができず、読めても意味が分からず、意味が分かってもそれのどこが面白いのかが理解できませんでした。
でも、先生と同じ山本健吉編の「季寄せ」を買い、先生に教えていただきながら自分でも俳句を詠むようになると、それまでチンプンカンプンだった著名俳人の有名な句が、少しずつ理解できるようになり、中には胸がジーンとするほど感動する句もあるのだと分かるようになりました。
あたしが俳句を詠んでいるのは、自分の句を誰かに褒めてもらいたいからではなく、何か賞でもほしいわけでもなく、ましてや立派な俳人になりたいからでもありません。
ただ、先人たちの遺してくれた素晴らしい句の数々、今を生きる俳人たちが詠み続けている素晴らしい句の数々、それらをもっともっと深く味わいたいからなのです。
一度も映画を撮ったことがなくても、映画評論家になれます。
何ひとつ楽器が演奏できなくても、音楽評論家になれます。
でも、あたしが目指しているのは、俳句評論家ではありません。
あたしにあるのは、星の数ほどある先人たちの素晴らしい句を、誰よりも深く味わいたいという俳句マニアとしての貪欲な欲求だけなのです(笑)
そのために、あたしは俳句を詠んでいます。
自分が俳句を詠めば詠むほど、人の句を鑑賞する時の読解力や想像力がアップするからです。
でもそれは、ただ単に俳句を詠み続けていても意味がありません。
常に向上心を持ち、少しでも上達しよう、少しでも類想類句を避けよう、少しでもオリジナリティーを出そう、少しでも新しい試みにチャレンジしよう、こうした心構えで詠み続けなければ、自分の俳句力は変化しませんし、人の句に対する鑑賞眼も磨かれません。
しかし、常に向上心を持って俳句を詠み続けていれば、人の句に対する鑑賞眼は磨かれ、自分の俳句力も自然とアップしているのです。
高浜虚子は「選(句)は創作なり」、「作者の意識しないでいることを私が解釈していることはある」と述べました。
俳句は「省略の詩」であり、ゆえに「詠まれた時点では未完成」です。
その「7割ほどしか書かれていない未完成の詩」をあたしたちが鑑賞し、残りの3割を想像力によって補填することで、ようやく完成するのです。
これが虚子の言う「選は創作なり」なのです。
同じ作者の同じ句でも、読解力や想像力の低い者が鑑賞すれは駄作になり、読解力や想像力の高い者が鑑賞すれば名句になるのです。
次の「春めく」を詠んだ五句は、20年前のあたしには、どこが良いのかまったく理解できない句でした。
でも、今では最高にシビレてしまう五句なのです。
春めきし山河消え去る夕かげり 高浜虚子
春めきてものの果てなる空の色 飯田蛇笏
春めきし瀧の中より山の声 飯田龍太
から川の砂に犬ゐて春めける 村山故郷
のめといふ魚のぬめりも春めけり 茨木和生
何をもって春とするかは自分が暮らしている自然によることが多い。京都や鎌倉だと沈丁花の香りである。掲載句はわたくしが生まれて初めて52歳の春分の日に詠んだもので、陽暦3月21日頃の仲春だがまだ寒く「春は名のみの風の寒さよ」で逗子・鎌倉ハイランドのバス停に下りて行った時に清冽な匂いが鼻を突き、振り返るとそれが沈丁花の香だったが、何の花かわたくしは知らず、後日京女の妻に教えてもらったのである。すると、娘たちの出産に腹帯を貰いに行った鎌倉のおんめさま(大巧寺)の入口にも沈丁花は咲いており、気が付けば鎌倉の神社仏閣に限らず至るところに咲き香っており、なるほどマフラーにコートが必要な寒さの中でも春はもう間近なのだと実感したもので、この一句でわたくしは季語に出会い俳句を詠むことを覚えた。大洗に生まれ那珂湊で育った海へ繋がれた日々に沈丁花の春はなかった。
きっこさんに『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫、全四巻)だけを最低半年は読みなさいと言われて、正岡子規の『俳諧大要』 (岩波文庫)と山本健吉『季寄せ』(全二巻、文藝春秋)を三種の神器、俳句のバイブルとして精進した。わたくしは五歳の時から書痴だったので読書は苦にならないので『ホトトギス雑詠全集』全44巻も古本屋で収集し、アルス版の『子規全集』から角川書店の『校本芭蕉全集』からめぼしい総合俳句雑誌から江戸時代の俳句本から手当たり次第に読破していったので薀蓄だけは人様から呆れられるほど持っているが、薀蓄で俳句は上達しないので、『奥の細道』など三ページで寝落ちするラスカルには猫髭さんは何でも知ってるけど俳句は下手だねえと言われてきたが、毎月のようなラスカルのお母さんと三人で藤沢のカラオケBAR「かまくら」で談笑した日々は大切な思い出になっている。馬場龍吉さんに誘われて鎌倉での初吟行から境野大波代表の「ノマド句会」に参加して、春夏秋冬、同じ道を歩きながらひとり吟行をする「定点観測」の独楽を教えてもらうと、一週間で季節は移ろってゆくことが体に滲み込み、俳句世間から引退した今でも欠かさず「定点観測」は怠らない。ひとりでも俳句は独楽なのである。「多作多捨」「多読多憶」に俳句の上達は尽きる。
きっこさんの俳句へのチャレンジには頭が下がるが、老人には一日一日の身の周りの自然との移り変わりを自分の感性で見つめるささやかな喜びで満足しているので、楽しませてもらっています。