1959年国語学国文学専攻入学で東海大学教授を勤められた小泉浩一郎氏(横浜市在住)が本年10月30日に亡くなられたとのことなのでお知らせします。学生時代は、当教育大学新聞会のメンバーでした。
ウィキペディア参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%B5%A9%E4%B8%80%E9%83%8E
それより前になりますが、1957年経済学専攻に入学され、卒業後は山一證券に勤務されていたやはり当会のメンバーである諏訪浩氏(千葉市在住)も本年3月に亡くなられていたとのことなので、お知らせします。
さらにその前ですが、1967年体育学部入学72年卒の白倉治男氏が、2022年12月23日、自宅火災のため亡くなられたとのことなのでお知らせします。白倉氏は当会の水沢OBと松本深志高校の同期であったため、しばしば大塚の新聞会室を訪問されており、管理者とも親しくしていました。当サイトの「キャンパス写真集」には白倉氏の撮影した「若竹像」が掲載されています。卒業後は郷里の上伊那農業高校、梓川高校などで体育教師をされていました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
No.110管理者2023年12月31日 21:26
報道によると、東京教育大学文学部の経済学教室で農業経済学を担当されていた暉峻衆三氏が2023年12月22日、老衰のため、東京都世田谷区代沢の自宅で逝去されたとのこと(以前は練馬区東大泉町在住)。99歳。葬儀は28日にご家族のみで実施。喪主は妻淑子(いつこ)さん。生誕は1924年6月26日。出身は東京帝国大学農学部だが、1953年から東京教育大学で講師、助教授、教授を勤められ、筑波大学設置の際は筑波大学には行かず、1977年の文学部廃部、1978年の大学閉学後1978年から信州大学教授、1983年から宇都宮大学教授、1990年定年退官後は東亜大学大学院教授を勤められ、1998年退職されていた。当OB会設立当初は、当会の顧問もされていました。OB会設立当初、吉田文太郎初代事務局長(1980年頃から消息不明)の依頼で当会顧問に就任していたのは、福原鱗太郎、木村剛輔、暉峻衆三、磯野誠一、村治能就の5氏でした。暉峻衆三氏のご逝去により、すべての顧問の方々が他界されたことになります。
ウィキペディア参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%89%E5%B3%BB%E8%A1%86%E4%B8%89
No.107管理者2023年12月26日 10:24
高際澄雄氏(栃木市在住 谷中村の遺跡を守る会会長 宇都宮大名誉教授)が、2023年3月30日、前橋市内の病院で心疾患のため亡くなられました。74歳。
1972年 文学部卒業 1972年~1975年 同大学院 1975年~1980年 新潟大学 助手・講師
1980年~1996年 宇都宮大学 教養部助教授 1996年~2014年 同大学国際学部教授 2014年~ 同大学名誉教授
地元栃木県を中心に自然活動に多く携わり、谷中村の遺跡を守る会の会長も務め、生まれ故郷の近隣である渡良瀬遊水地のラムサール湿地登録運動に参加していました。 ご冥福をお祈りいたします。
No.54前澤倫子2023年11月8日 18:01 高際君のサイト「高際澄雄の早起き散歩」は、こちら。
http://takagiwa.jugem.jp/
しかし、このサイトの「profile」では、卒業年度が誤って記述されている。
上記投稿の通り、1973年ではなく、1972年が正しい(卒業生名簿で確認済)。管理者に修正依頼をしたいところだが連絡できるようになっていない。
入学は1967年で栃木高校から現役合格。5年で学部を卒業したことになるが、当時文学部では6年で卒業するのが一般的だったから、それより1年早く卒業したことになる。(この記事の投稿者前澤倫子氏は英文科に高際君より1年早い66年入学で卒業は同じ72年。)
なお、上記投稿には栃木市在住とあるが、2010年に栃木市と合併する以前は、栃木県下都賀郡藤岡町だったところ。渡良瀬遊水地の所在地。管理者との関係で言うと、旧藤岡町は祖父の実家の所在地で、幼児期には祖父に連れられて良く遊びに行ったことがある。渡良瀬遊水地の周辺も良く散歩した。
No.61管理者2023年11月14日 11:08
思えばこの10月で、筑波大学は1973年10月の開学から数えて50周年。
しかし、教育大出身者の筑波大学への感情は二律背反そのもの。自分の子供は絶対に筑波大学は受験させないと主張した人もいれば、反対に筑波大学を優先して受験させる人もいた。自分の大学を廃学にした大学という感覚と、自分の大学の後継大学という感覚が入り混じっている。中には、学生時代には筑波移転反対の立場で活動していながら、その後筑波大学の教授になったような人もいた(大熊栄氏、2007年ご逝去)。新聞会OBにも筑波大学教授となり、「筑波大学新聞」(大学広報紙で学生新聞ではない)の創刊に従事した人もいた(松原達哉氏、2020年ご逝去)。
今となっては、その世代の人たちも皆後期高齢者。中には他界してしまった人もいる。遠い昔の話のような気もしてくるが、当サイトを設置したのは今から約25年前で、その頃はまだ同時代の感覚だった。
30年ほど前のこと、現在は福井県大飯町の実家に在住の中川OBが、保谷(現・西東京、旧保谷寮の近く)の水沢OB経営のアパートに住んで、パソコン関連書籍の翻訳に従事していたが、管理者宅(練馬区石神井台)に近く自転車で約20分の距離だったので時々遊びに行っていた。仕事の関係から彼は、当時からインターネットを使い、自分のサイトも作っていた。その中川OBからある日、「インターネット ホームページデザイン」(1995年翔泳社)という本を貸与され「何かホームページを作ってみろ」と勧められたのがきっかけ(この本は、返却後、自分で購入した)。内容まで指示されたわけではなく、では縮刷版の刊行で話題となった当会のサイトを作ってみようと思ったのは私の判断(どうせ作るなら個人的なサイトより、公共性の高いものの方が良いと考えた。ただし、個人的サイトも併設した)。そこで自分もインターネットの利用を始め、サイトを開設したのが1999年2月5日のことだった。(当時はまだADSLも光回線も無い、ダイヤルアップ接続の時代だったが、比較的早い時期に作れて良かった。)事後承認されたが、OB会総会の決定で設置されたものではなかった。その時すでに大学閉学後20年以上経過していたが、大塚キャンパスの新聞会室はそのまま残されおり、そこに放置されていた大量の資料や写真がサイトの作成に利用出来た。(謄写版印刷機も持ち出して、数年私用に使っていたがその後廃棄した。縮刷版刊行のため、新聞のバックナンバーはすべて回収済みだったが、ロッカーなどはそのまま放置してしまった。)もう少し遅かったら、すべて処分されていたことだろう。当サイト成立の事情には様々な偶然の要素が重なりあっており、奇跡に近いものがあったと言えるかもしれない。
管理者にホームページを作るように勧めた中川OB本人のサイトはこちら、「翻訳しています」。
http://www.asahi-net.or.jp/~JU6K-NKGW/
No.44管理者2023年10月26日 18:11
昨夕、教育大OBでもある知人のIさんから電話があり、昨秋たまたまIさんの仲立ちで酒席を共にしたTさんがこの春に急逝したとか。横浜・野毛の居酒屋。Tさんの個展を観ての帰り。その日Tさんは「余り食欲が無い」と言っていたけれど、それでも大いに安酒を酌み交わしただけに驚いた。享年82。
ところで本ブログのトップ写真は1965年夏の山中湖畔・岳東寮での合宿時の写真。ぼくが知る限りでもすでに10人が鬼籍に入っていて、順不同ながらこの先続々と続くことになる。皆一様に既に後期高齢者の仲間入りしているから当たり前だが。
さて、新聞会に限らず教育大の各教室(学科)やサークルはそれぞれクラスごとの交流や新入生歓迎行事として池袋駅周辺の大衆酒場でのコンパあるいは岳東寮での1泊~2泊の合宿を行ってきたのだが、実は1963年夏の新聞会の合宿は赤城・大沼湖畔で行われたのですね。レジュメやスナップ写真などが手許に無く記憶はあいまいなのだが、とにかく午前・午後・夜と難しいディスカッションの合間を縫って有志何人かで山登りを楽しんだ。が、記憶はアイマイ、登ったのは「赤城山」ではなく「駒ヶ岳」(1665m)あるいは「地蔵岳」(1679m)のはずなのだが、湖畔の寮からいきなり徒歩なのか、ロープウエイを使ったのかまったく記憶ナシ。(ちなみに「赤城山」という山は無い)
で、徒然なるままにその合宿先の寮について今回調べてみて、それがわが国初の「国立大学共同利用合宿研修施設」で、後の群馬大学「草津セミナーハウス」ということがわかった。
草津セミナーハウスは、1984年(昭和59年)に建設されました。この施設は、1956年(昭和31年)赤城山大沼湖畔に創設された赤城山寮(わが国初の地区国立大学共同利用合宿研修施設)の二代目の施設です。自然を敬い、人間関係を深める赤城山寮の伝統は、草津セミナーハウスに継承されています。学生及び教職員等が恵まれた自然環境の中で、対話や学習を重ねながら、豊かな人間性を育てる場として、積極的にご利用ください。
――と大学のHPにあったのだが、「草津セミナーハウスは、2020年3月31日(火)をもって営業を終了しました。これまでご利用いただきありがとうございました」とあり、これまた我らが学び舎同様、夢の跡。
注:徒然なるままに……赤城について調べたのはワケアリ。大沼湖畔の老舗旅館「青木旅館」について意外な事実(関係?)が分かったのですね。またの機会に。
https://www.aokiryokan.co.jp/history/
No.16横浜通信部M生2023年8月11日 16:30
赤城山にはこの頃すっかり御無沙汰しています。以前は一年に1回ぐらいはかならず行ってたのですが。かつて明治時代などには赤城山は東京の若者らはかならず登ったところらしいです。芥川龍之介も登山しています。それ以前幸田露伴は地獄谷という湖畔近くにある宿に長期滞在して執筆に励み、志賀直哉は青木旅館の主人猪谷(千春の父)の助けを受け、簡単な別荘を湖畔に作りましたが、冬期には簡易な住まいでは極寒で居住不可能と分かって、越冬を断念しました。そのへんの事情は、高校国語教科書によく載った「焚火」という短編に書かれています。直哉は自分に関する石碑の類いは絶対に建てるなと遺言しましたが、直哉死後堂々と「焚火」の一節が湖畔の石碑に刻まれています。そのへんの県民性は面白い。他には柳川春葉(もしかしたら人物名間違えているかも)なども湖畔に住み、そこの娘との情話も書いています。かつては赤城にはスキー場もあり、ニセコあたりの北海道並のスノーパウダーだと言われ、日帰りスキー場として人気があり、ロープウエイもありました。3.11の原発崩壊の時、放射能雲と雨がそのロープウエイの元あった赤城山の駅跡の上を南から通り、大沼が汚染され、ワカサギ釣りも禁止になったことは御存知かとも思います。かつてMさんが赤城に合宿されていた頃は湖畔には美しい白樺の林がまだ健在でしたが、その放射能雲と雨がやって来たロープウエイの駅舎跡の上は東京からの風が入って来るところでもあるので、絶えざる酸性雨に冒されほとんど姿を消しました。以前から気温も二千メートルに近い山にしては暑いです。直哉が来た時のような避暑地ではありません。もっとも最近は軽井沢も暑くなったとのこと。私も学部卒業後、院や付属にいたので、63年に新聞会が赤城で合宿したことは聞いていたような気がします。私は山登りは苦手なので地蔵が岳などに登ったことはありません。私が数回登った山は蓼科山だけです。海は本州、四国の海辺でかなり泳いでいます。今年も新潟の村上市瀬波温泉で四日間泳いで来ました。暑くて砂浜の砂や砂利が焼け、裸足で歩くと火傷しそうでした。なお、黒井千次は群馬太田市のスバルに勤めていたので、赤城山は裾野が非常に長いのが特徴で、よく眺めていたと書いています。車で良かったら、いつでも湖畔までご案内します。
No.18WATANABE2023年8月29日 15:49
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