3月3日、渋谷エクセルホテル東急で、OB有志による「炉端の会アゲイン 倉根巳之男さん&大谷悦久さんを偲ぶ会」が開催された。参加者は9人。学年別内訳は61年入学2、62年入学1、63年入学1、64年入学5。64年組の中には、はるばる鳥取や浜松から出席した人もいた。下記の藤田さんのブログに報告あり。("mukan"というタイトルは「教育大学新聞」の連載コラム「無冠」に由来する。)
(参照)mukan's blog
https://blog.goo.ne.jp/fjtmukan/e/608911f4a7bcb02546eed4634cae6de4
新聞会で在学中の1964年に会長を務められていた大谷悦久さんが、昨年2月2日、心不全のため亡くなられていたことが最近判明したのでお知らせします。83歳でした。大谷さんは豊多摩高校を出て1962年理学部化学専攻に入学され、卒業後は附属駒場高校に勤務されていました。「わらばんシート化学(no.1)重要テーマ53総チェック」(1989)、「化学(短期完成チェックシート)」(1991)などの学習参考書も執筆されていました。OB会の行事にはいつも参加されており、2019年7月の日光新緑会での再会が最後となりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
http://tue.news.coocan.jp/album/IMG_8140.jpg
(日光新緑会での写真、右側が大谷さん)
大谷悦久さんが亡くなったのは昨年の2月2日です。告別のミサは調布の仙川教会で行われたそうです。大谷さん&尚子夫人ともども結婚当時からクリスチャンだったようです。
大谷さんは、管理者が一番最初に会った新聞会の人だった。1年生の時、新聞会に入れてもらおうと会室に行くと、会室の前に縁台を出し、一人で将棋を指している人がいた。その人に、「新聞会に入りたい」と言うと、「君は将棋が出来るか」と聞く。「駒の動かし方は知っています」と答えると「では一局やろう」と言う。その後しばらく指していたが、「君は駒の動かし方は知っていると言っていたが、全然知らないじゃないか」などと笑われてしまった。(私はルールを知っていただけで、戦法など知らなかった。)その人が、当時3年生で会長だった大谷さんだった。極めて印象深い出会いだったが、その後、会内で大谷さんが将棋を指しているのは見たことがなく、なぜあの時将棋を指していたのか良く分からない。かなり偶然。
新年あけましておめでとうございます。本年も当サイトをよろしくお願いいたします。
一年程前までは大量のフェイクアラート広告に悩まされ、一時は使用中止も検討したこの掲示板ですが、現在は比較的安全に使用できるようになっています。(ただし、減少したとはいえ、現在でもしばしばフェイクアラート広告が表示されることがあるのでご注意ください。万一開いてしまった場合は電源を切って再起動してください。商品名・企業名などの記載のない抽象的なタイトルの広告は開かない方が安全です。)
何か新しい情報などあれば、ご自由に投稿をお願いします。ただしこの掲示板は一投稿につき一つのURLしか書き込めない仕様なのでご注意をお願いします。
また、端末を自動認識する方式のteacup.掲示板とは異なり、投稿の修正、削除、加筆などには、最初の投稿の際のパスワードが必要になるので、ご注意をお願いします。(逆に言うと、パスワードがあれば、どの端末からでも修正、削除、加筆が可能。)
廃止されたteacup.掲示板よりは不便であり、投稿も大幅に減少していますが、現存する他の掲示板と比較すると使い勝手は良い方なので、今後もこの掲示板を継続使用していく予定です。
12月24日の配達で、木立正敏(きだち まさとし)さんという方から『私の吉本隆明体験』(A5判204頁並製表紙PP貼り)という本が届きました。発行日は12月23日。
何点もの闘争中の懐かしい写真が掲載されています。私が撮影したものもあります。(管理者補注・写真は当会の許諾を得て使用されています。)ちょうど一昨日に教育大跡地へ行き、私たちの学生当時には、ここにパネルと呼ばれたサークル部室が並んでいたという写真をFacebookにアッブしました。そのパネル(木立さんは、サークルボックスと書いている)の写真もありました。
驚いたことに、「1968年、三里塚闘争で取材中の新聞会の根井康之氏」とキャプションされた写真がありました。林君といっしょに写っているあれです。
写真にそんなキャプションをつけているということは、本文にも根井さんが出ているはずです。探しました。すると、木立さんは、一浪後に1971年に早大一文に入ったのだが、自治会掌握をめぐって学生が血を流す状況に嫌気をさして退学、72年に教育大に入ったとの記述があった。
根井さんについての本文での記述はまだ確認していないが、1975年8月の『解放ヘの構想』表紙が、根井さん紹介のキャプションとともに、掲載されていました。
つまり、木立さんは、永子さんにも連絡が取れているのかな。
木立さんは、都立高校の主に倫理社会教員として現役時代をすごしたようです。なんと12点の自費出版をしているのは驚きで、すごいものです。
この本は、こちらのサイトに紹介されています。
https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E%E4%BD%93%E9%A8%93-MyISBN-%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B0%E7%A4%BE-%E6%9C%A8%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E6%95%8F/dp/4815045836?source=ps-sl-shoppingads-lpcontext&ref_=fplfs&ref_=fplfs&psc=1&smid=AN1VRQENFRJN5
> 驚いたことに、「1968年、三里塚闘争で取材中の新聞会の根井康之氏」とキャプションされた写真がありました。
> 林君といっしょに写っているあれです。
ここに書かれている「林君といっしょに写っているあれです」とは、この写真です。根井君(2014年11月12日ご逝去)も林君(2013年5月5日ご逝去)もすでに他界されていますが、根井君のサイト「根井哲学講座」は現在もあります。https://neieiko.web.fc2.com/
先般、久々に掲示板に投稿したものの、このところ記憶力の劣化が激しくて何となくスッキリしないのですね。で、ようやく一昨日、二木(市橋)都志子さんの夫君の市橋太郎さんが編み、ごく内輪の関係者に送ってくれた都志子さんの思い出についての追悼集(2016年7月刊)を探し出してみてガクゼン。いただいて直ぐ拝読したはずなのに、ずいぶんぼくの記憶がアイマイでまるでフェイクニュースもどき、事実関係がかなり違っていたのですね。でいまさらですが追悼集に記されていた事柄(ファクト)をふまえ訂正します。
二木さんは卒業後、出版社勤めを経て直ぐフリーランスの編集企画工房を立ち上げ、そこで知り合った画家の市橋さんと結婚。73年7月4日に渡米し、80年1月にニューヨークに転居するまで約6年間、ワシントンの日本大使館の現地採用の事務スタッフとして勤務。週末には日本語学校の教師もしていたそうです。この間、1972年から外務省に出向しワシントンの日本大使館で1等書記官をつとめ1975年に法務省に帰任した堀田力さんはじめ政務班の面々の秘書役をつとめていたそうで、堀田さんの帰任後は堀田さんのお下がりのトヨタ車で通勤していたとか。
追悼集には堀田さんの「都志子さんを偲ぶ」という追悼文なども寄せられていて、当時、大使館の政務班のオフィスには佐藤行雄(後に国連大使)、村田良平(後に駐米大使)、栗山尚一(同)、原田明夫(のちに検事総長)等々、そうそうたる法務・司法関係のメンバーがいてその仕事をサポート。堀田さんは「仕事は速く、間違いはない。頭の回転も大変なスピードであるが、控えめで静かな雰囲気が素敵だった」と記します。‥‥まさにそんな先輩でしたね。
が、1986年7月4日、アメリカの独立記念日の夜、ニューヨーク市ブルックリンの自宅で「喘息」が悪化し病院に急送されたものの逝去、まだ42才でした。なお夫君の市橋さんは1940年新潟・佐渡生まれで、現在はニューヨークと佐渡に仕事場を持ち活躍とあります。
http://taroichihashi.com/jp/biography/
二木さんは、管理者が1年生として新聞会に入会した時は3年生だった。当時、いろいろお世話にはなったものの、卒業後どこでどうしていたのかは全く知らなかった。横浜通信部・M生さんのこの投稿で大活躍していたことを初めて知った。謹んでご冥福をお祈りいたします。
二木さんが4年生の時の新聞会山中湖合宿の記念写真(当サイトのトップページで使用)。二木さんは後列左から7人目。管理者はさらにその右側5人目、当時2年生。