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東京教育大学 文学部文学科英語学英文学専攻 1972年卒業生 高際澄雄氏ご逝去

高際澄雄氏(栃木市在住 谷中村の遺跡を守る会会長 宇都宮大名誉教授)が、2023年3月30日、前橋市内の病院で心疾患のため亡くなられました。74歳。
1972年 文学部卒業  1972年~1975年 同大学院   1975年~1980年 新潟大学 助手・講師  
1980年~1996年 宇都宮大学 教養部助教授  1996年~2014年 同大学国際学部教授  2014年~ 同大学名誉教授
地元栃木県を中心に自然活動に多く携わり、谷中村の遺跡を守る会の会長も務め、生まれ故郷の近隣である渡良瀬遊水地のラムサール湿地登録運動に参加していました。 ご冥福をお祈りいたします。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年11月09日 10:38)

高際君のサイト「高際澄雄の早起き散歩」は、こちら。
http://takagiwa.jugem.jp/
しかし、このサイトの「profile」では、卒業年度が誤って記述されている。
上記投稿の通り、1973年ではなく、1972年が正しい(卒業生名簿で確認済)。管理者に修正依頼をしたいところだが連絡できるようになっていない。
入学は1967年で栃木高校から現役合格。5年で学部を卒業したことになるが、当時文学部では6年で卒業するのが一般的だったから、それより1年早く卒業したことになる。(この記事の投稿者前澤倫子氏は英文科に高際君より1年早い66年入学で卒業は同じ72年。)
なお、上記投稿には栃木市在住とあるが、2010年に栃木市と合併する以前は、栃木県下都賀郡藤岡町だったところ。渡良瀬遊水地の所在地。管理者との関係で言うと、旧藤岡町は祖父の実家の所在地で、幼児期には祖父に連れられて良く遊びに行ったことがある。渡良瀬遊水地の周辺も良く散歩した。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年03月29日 13:14)

この10月で筑波大学開学50周年

思えばこの10月で、筑波大学は1973年10月の開学から数えて50周年。
しかし、教育大出身者の筑波大学への感情は二律背反そのもの。自分の子供は絶対に筑波大学は受験させないと主張した人もいれば、反対に筑波大学を優先して受験させる人もいた。自分の大学を廃学にした大学という感覚と、自分の大学の後継大学という感覚が入り混じっている。中には、学生時代には筑波移転反対の立場で活動していながら、その後筑波大学の教授になったような人もいた(大熊栄氏、2007年ご逝去)。新聞会OBにも筑波大学教授となり、「筑波大学新聞」(大学広報紙で学生新聞ではない)の創刊に従事した人もいた(松原達哉氏、2020年ご逝去)。
今となっては、その世代の人たちも皆後期高齢者。中には他界してしまった人もいる。遠い昔の話のような気もしてくるが、当サイトを設置したのは今から約25年前で、その頃はまだ同時代の感覚だった。
30年ほど前のこと、現在は福井県大飯町の実家に在住の中川OBが、保谷(現・西東京、旧保谷寮の近く)の水沢OB経営のアパートに住んで、パソコン関連書籍の翻訳に従事していたが、管理者宅(練馬区石神井台)に近く自転車で約20分の距離だったので時々遊びに行っていた。仕事の関係から彼は、当時からインターネットを使い、自分のサイトも作っていた。その中川OBからある日、「インターネット ホームページデザイン」(1995年翔泳社)という本を貸与され「何かホームページを作ってみろ」と勧められたのがきっかけ(この本は、返却後、自分で購入した)。内容まで指示されたわけではなく、では縮刷版の刊行で話題となった当会のサイトを作ってみようと思ったのは私の判断(どうせ作るなら個人的なサイトより、公共性の高いものの方が良いと考えた。ただし、個人的サイトも併設した)。そこで自分もインターネットの利用を始め、サイトを開設したのが1999年2月5日のことだった。(当時はまだADSLも光回線も無い、ダイヤルアップ接続の時代だったが、比較的早い時期に作れて良かった。)事後承認されたが、OB会総会の決定で設置されたものではなかった。その時すでに大学閉学後20年以上経過していたが、大塚キャンパスの新聞会室はそのまま残されおり、そこに放置されていた大量の資料や写真がサイトの作成に利用出来た。(謄写版印刷機も持ち出して、数年私用に使っていたがその後廃棄した。縮刷版刊行のため、新聞のバックナンバーはすべて回収済みだったが、ロッカーなどはそのまま放置してしまった。)もう少し遅かったら、すべて処分されていたことだろう。当サイト成立の事情には様々な偶然の要素が重なりあっており、奇跡に近いものがあったと言えるかもしれない。
管理者にホームページを作るように勧めた中川OB本人のサイトはこちら、「翻訳しています」。
http://www.asahi-net.or.jp/~JU6K-NKGW/

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年04月03日 17:12)

1963年夏、赤城湖畔での合宿

昨夕、教育大OBでもある知人のIさんから電話があり、昨秋たまたまIさんの仲立ちで酒席を共にしたTさんがこの春に急逝したとか。横浜・野毛の居酒屋。Tさんの個展を観ての帰り。その日Tさんは「余り食欲が無い」と言っていたけれど、それでも大いに安酒を酌み交わしただけに驚いた。享年82。
ところで本ブログのトップ写真は1965年夏の山中湖畔・岳東寮での合宿時の写真。ぼくが知る限りでもすでに10人が鬼籍に入っていて、順不同ながらこの先続々と続くことになる。皆一様に既に後期高齢者の仲間入りしているから当たり前だが。
さて、新聞会に限らず教育大の各教室(学科)やサークルはそれぞれクラスごとの交流や新入生歓迎行事として池袋駅周辺の大衆酒場でのコンパあるいは岳東寮での1泊~2泊の合宿を行ってきたのだが、実は1963年夏の新聞会の合宿は赤城・大沼湖畔で行われたのですね。レジュメやスナップ写真などが手許に無く記憶はあいまいなのだが、とにかく午前・午後・夜と難しいディスカッションの合間を縫って有志何人かで山登りを楽しんだ。が、記憶はアイマイ、登ったのは「赤城山」ではなく「駒ヶ岳」(1665m)あるいは「地蔵岳」(1679m)のはずなのだが、湖畔の寮からいきなり徒歩なのか、ロープウエイを使ったのかまったく記憶ナシ。(ちなみに「赤城山」という山は無い)
で、徒然なるままにその合宿先の寮について今回調べてみて、それがわが国初の「国立大学共同利用合宿研修施設」で、後の群馬大学「草津セミナーハウス」ということがわかった。
 草津セミナーハウスは、1984年(昭和59年)に建設されました。この施設は、1956年(昭和31年)赤城山大沼湖畔に創設された赤城山寮(わが国初の地区国立大学共同利用合宿研修施設)の二代目の施設です。自然を敬い、人間関係を深める赤城山寮の伝統は、草津セミナーハウスに継承されています。学生及び教職員等が恵まれた自然環境の中で、対話や学習を重ねながら、豊かな人間性を育てる場として、積極的にご利用ください。
――と大学のHPにあったのだが、「草津セミナーハウスは、2020年3月31日(火)をもって営業を終了しました。これまでご利用いただきありがとうございました」とあり、これまた我らが学び舎同様、夢の跡。
注:徒然なるままに……赤城について調べたのはワケアリ。大沼湖畔の老舗旅館「青木旅館」について意外な事実(関係?)が分かったのですね。またの機会に。
https://www.aokiryokan.co.jp/history/

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赤城山にはこの頃すっかり御無沙汰しています。以前は一年に1回ぐらいはかならず行ってたのですが。かつて明治時代などには赤城山は東京の若者らはかならず登ったところらしいです。芥川龍之介も登山しています。それ以前幸田露伴は地獄谷という湖畔近くにある宿に長期滞在して執筆に励み、志賀直哉は青木旅館の主人猪谷(千春の父)の助けを受け、簡単な別荘を湖畔に作りましたが、冬期には簡易な住まいでは極寒で居住不可能と分かって、越冬を断念しました。そのへんの事情は、高校国語教科書によく載った「焚火」という短編に書かれています。直哉は自分に関する石碑の類いは絶対に建てるなと遺言しましたが、直哉死後堂々と「焚火」の一節が湖畔の石碑に刻まれています。そのへんの県民性は面白い。他には柳川春葉(もしかしたら人物名間違えているかも)なども湖畔に住み、そこの娘との情話も書いています。かつては赤城にはスキー場もあり、ニセコあたりの北海道並のスノーパウダーだと言われ、日帰りスキー場として人気があり、ロープウエイもありました。3.11の原発崩壊の時、放射能雲と雨がそのロープウエイの元あった赤城山の駅跡の上を南から通り、大沼が汚染され、ワカサギ釣りも禁止になったことは御存知かとも思います。かつてMさんが赤城に合宿されていた頃は湖畔には美しい白樺の林がまだ健在でしたが、その放射能雲と雨がやって来たロープウエイの駅舎跡の上は東京からの風が入って来るところでもあるので、絶えざる酸性雨に冒されほとんど姿を消しました。以前から気温も二千メートルに近い山にしては暑いです。直哉が来た時のような避暑地ではありません。もっとも最近は軽井沢も暑くなったとのこと。私も学部卒業後、院や付属にいたので、63年に新聞会が赤城で合宿したことは聞いていたような気がします。私は山登りは苦手なので地蔵が岳などに登ったことはありません。私が数回登った山は蓼科山だけです。海は本州、四国の海辺でかなり泳いでいます。今年も新潟の村上市瀬波温泉で四日間泳いで来ました。暑くて砂浜の砂や砂利が焼け、裸足で歩くと火傷しそうでした。なお、黒井千次は群馬太田市のスバルに勤めていたので、赤城山は裾野が非常に長いのが特徴で、よく眺めていたと書いています。車で良かったら、いつでも湖畔までご案内します。

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当掲示板開設1周年、管理者以外の書き込みわずか1件

昨年8月1日午後1時、従来使用していたGMO提供のteacup掲示板が閉鎖されたのに合わせ、FC2BBSを暫定使用したのち当掲示板を開設したのが昨年の8月27日だったので、この掲示板は今日で開設1周年となる。
しかし、teacup掲示板には大量の書き込みがあったにもかかわらず、この掲示板にしてから1年の間に、管理者以外の書き込みは横浜通信部M生による「1963年夏、赤城湖畔での合宿」というわずか1件の書き込みしかない。
teacup掲示板は最初から書き込み用の画面が表示されており、書き込みに誘導するような案内が書かれていたが、この掲示板はそうではなく、書き込み画面を表示するには「新規投稿」をクリックしなければならず、また書き込みにはパスワードが必要だというところが面倒なのかもしれないが、それにしても、書き込みの急減ぶりに驚かされる。残念ではあるものの、いたずら書きが無くなったというメリットはある。teacup掲示板ではいたずら書きが多発し、タイトル下に「誹謗中傷、荒らしや落書き、いたずら書きの類は発見次第削除します」などと注記していたが、その必要は無くなった。
しかし、広告には問題があり、詐欺サイト(フェイクアラート)にリンクしている広告が多い。teacup掲示板の方はアダルトサイトの広告ばかりなのが変だったが、こちらはそれ以上に問題。何やら、投稿用の掲示板というより、詐欺サイトにリンクする広告の展示場のような様相を呈しており、真面目に運営する気があるのか疑ってしまう。不愉快極まりなく、teacupからの代替掲示板の選択を誤った印象があるが、そもそも広告は4月から表示されるようになったもので開設当初は広告が無かった。しかし、投稿がほとんど無い上、閲覧者側で広告を開かずに使用すれば何の問題も無いので、そのうち改善される可能性もあり、今のところ掲示板そのものを変更する予定は無い。問題なのは広告だけで、閲覧や書き込みは比較的しやすく作られていると思われる。
(追記)2023年の年末に至り、詐欺サイトにリンクする広告は消えています。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年12月30日 09:25)

日本史学専攻の小林守君(元衆議院議員)ご逝去

栃木県鹿沼市在住(在学中は練馬区大泉学園町に下宿)で、1964年日本史学専攻入学(1969年卒)の小林守君(栃木県立宇都宮高校卒)ですが、2019年4月に脳梗塞で倒れ、その後一時的な回復は見られたものの状態が悪化し、2023年1月17日鹿沼市内の病院で肺炎のため亡くなられたとのことです。78歳(1944.10.26生)でした。学生時代は文芸サークル「壁の会」に属し、詩人になることを目指して詩作に熱中していましたが、卒業後は地元の鹿沼市役所に勤務し、その後、県議2期、栃木1区選出の衆院議員4期、民主党県連代表などを歴任し、議員引退後は同市教育長も務めていました。また、卒業後も小林守城の筆名で詩作は継続しており、鹿沼詩友会でも活動されていました。1990年、社会党(当時は土井たか子委員長)から衆議院議員に初めて立候補した時のTVの政見放送を見ていたのですが、その際、自分の立候補について母親から「お前は野っ走り(のっぱしり、「猪突猛進」の意味)だ」と言われたと話していたのが印象に残っています。この選挙は土井たか子が「山が動いた」と表現した前年の参院選に次ぐもので、小林君は自民党の渡辺美智雄氏を上回るトップ当選となり、インタビューを受けた渡辺美智雄氏も「あんな奴がトップ当選だからな」と驚いていました。学生時代は政治とは無縁の生活をしていたので、周囲の者はその変身ぶりに驚かされていましたが、正義感が強く度胸があったので、政治家には向いていたのかもしれません。
小林君の鹿沼ケーブルテレビのWebスペース上の自作サイト「とぼとぼ通信」はこちらです。本人の活躍の経歴は、「Profile」にあります。当サイトの「想い出の東京教育大学」もリンクされていますが、リンクを付けた際、そのことを管理者まで電話で連絡してきたことが思い出されます。
http://www.bc9.jp/~machan62/
2018年11月5日に東京・池袋で開催された1964年日本史学専攻入学者の同窓会には元気な姿を見せていたのですが、これが同窓生との最後の再会になってしまいました。写真はその時に参加者が撮影したものです。この翌年4月に脳梗塞で倒れたのですが、2020年7月に次回の同窓会をコロナのため延期すると同窓会の幹事が連絡した際には、すでに言葉が話せない状態だったということです。なお、小林君は新聞会員ではないので「OB会ニュース」に訃報は掲載していませんが、1年生の時、入会しようかと新聞会室を見学に来たことはありました。
大活躍した野っ走りの人生でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年04月05日 17:12)

小林守君についてのウィキペディアの記事はこちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%AE%88

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(小林君についての思い出話)小林君が1年生の時、合併教室で教養課程の講義、森岡清美助教授の「家族社会学」が行われていた。大教室に大勢の学生が詰めかけている状態なので、いちいち出席など取っていなかったが、ある日森岡氏が「今日、一回だけ出席を取る、今日出席している人は全出席、今日欠席している人は全欠席とみなす」と発言し、出席を取ろうとした。この時、教室の後方に着席していた小林君がすっくと立ちあがり、「先生、それはおかしい」と猛抗議し、この抗議を受けて森岡氏は、その場で出席を取るのをやめにした。この時の小林君の行動は、周囲にかなり強い印象を残した(私はその場に同席していたのだが、かなり驚いた)。森岡氏はその後教育大最後の文学部長を務め、2012年には回想記「ある社会学者の自己形成」を出版したが、小林君が亡くなるほぼ1年前の2022年1月9日に肺炎のため98歳で亡くなられた。
小林君と私は、教育実習は附属高校で一緒だったのだが、その時授業で扱われていた時代は、江戸初期だった。その際、小林君の授業も参観したのだが、小林君は「私はこの時代の人物としては、金地院宗伝に興味がある」と言い、金地院宗伝のことばかり話していたのが印象的だった。(この時の附属高校の実習担当の教員は後に駒沢大学教授となる所理喜夫氏だったが、所氏は2016年ご逝去。)
また、卒業後数年して開かれた同じ専攻の同窓会(日商岩井竹ノ塚マンションの同窓生宅で開催)の席上、小林君は皆の前で「自分はこれから詩人になる」と宣言し、参加者を驚かせたこともあった。その後、実際に「鹿沼詩友会」という団体を設立し、実際に詩人としても活躍した。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年12月01日 21:36)
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