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謹賀新年。当掲示板から詐欺広告はほとんど消えたようなのでお知らせします

明けましておめでとうございます。本年も当サイトをよろしくお願いします。
また、当掲示板から詐欺サイト(フェイクアラート)にリンクする広告は昨年末からほとんど消えたようで、安全に利用できるようになったと思われるのでお知らせします。そのような広告が、昨年4月~12月の9か月間、延々と大量に表示され続けるのに閉口していましたが、広告さえ開かなければ問題は無かったため、掲示板の変更はせず継続使用するつもりで毎日チェックしていました。あまりにも始末が悪いため、一時、他の掲示板に変更することも考えましたが、どうやら変更しなくて正解だったようです。(広告提供者のGoogle側で広告主の確認をするようになったためらしい。)掲示板としては比較的高機能で使いやすく閲覧しやすい仕様だと思われ、このままこの掲示板の使用を継続するのでよろしくお願いします。
従来表示されてきた詐欺広告については、スレッドNo.13参照。
https://bbs1.rocketbbs.com/tuenews/posts/13
当掲示板への書き込みもよろしくお願いします。書き込みは、上段メニューの「新規投稿」(または各投稿への「返信」)を使って行います。書き込みや編集、削除には「編集キー」(英数字4文字以上のパスワード)が必要なので、ご注意ください。以前使用していたteacup.掲示板(2022年8月1日午後1時サービス終了)は端末を自動認識する方式だったのでパスワードは不要でしたが、それとは異なり、「編集キー」(パスワード)を忘れると編集も削除もできなくなります。ただし、書き込んだのとは別の端末からでも編集や削除が可能なのは利点です。また書き込みが多少面倒になったせいか、投稿が減少している難点はありますが、反面いたずら書きが減っている利点はあるようです。
管理者への連絡は下段メニューの「お問い合わせ」(管理者にメール)から行います。管理者に公開不要の連絡をする場合は、掲示板に書くのではなく、こちらを使用してください。掲示板そのものは、管理者への個人的連絡を書くためのものではなく、不特定多数の閲覧者に広く伝えたいことを書くためのものです。稀に管理者個人宛の連絡が掲示板上に書かれていることがありますが、その場合は読んでから削除します。3年程前、突然現れた日本史の武井一正君(深沢高出身)がそのようなことをしていたことがありますが、その後また突然消えてしまい、こちらからは連絡がとれなくなりました。武井君は当サイトをかなり丁寧に見てくれたらしく、書き込んだのは写真の説明文に関するクレームで、本人の希望により説明文から武井君に関する記述は削除しました。こちらからも連絡しようとしたのですが、転居したらしく、学生時代の世田谷区下馬の自宅には連絡出来なくなっていました。郵便物は「尋ねあたりません」となり、電話は「使われておりません」となっていました。(1973年に普通は6年かかるところ5年で卒業したことは卒業生名簿で確認できるが、その後のことは何も分からない。なぜクレームのつけっぱなしで消えてしまったのかさっぱり分からない。どこでどうしているのか、掲示板ではなく、メールで連絡してほしい。下段の「お問い合わせ」から管理者へのメールが可能。)

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年07月03日 13:53)

当OB会員の小泉浩一郎氏、諏訪浩氏ご逝去、OB会員の友人白倉治男氏ご逝去

1959年国語学国文学専攻入学で東海大学教授を勤められた小泉浩一郎氏(横浜市在住)が本年10月30日に亡くなられたとのことなのでお知らせします。学生時代は、当教育大学新聞会のメンバーでした。
ウィキペディア参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E6%B5%A9%E4%B8%80%E9%83%8E

それより前になりますが、1957年経済学専攻に入学され、卒業後は山一證券に勤務されていたやはり当会のメンバーである諏訪浩氏(千葉市在住)も本年3月に亡くなられていたとのことなので、お知らせします。

さらにその前ですが、1967年体育学部入学72年卒の白倉治男氏が、2022年12月23日、自宅火災のため亡くなられたとのことなのでお知らせします。白倉氏は当会の水沢OBと松本深志高校の同期であったため、しばしば大塚の新聞会室を訪問されており、管理者とも親しくしていました。当サイトの「キャンパス写真集」には白倉氏の撮影した「若竹像」が掲載されています。卒業後は郷里の上伊那農業高校、梓川高校などで体育教師をされていました。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年02月26日 08:42)

白倉治男氏宅の火災についての「上伊那広域消防からお知らせ」。
https://ina-dani.net/city_infos/detail/?id=6792&area_id=1

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年01月20日 22:33)

経済学教室で農業経済学担当の暉峻衆三氏(元当会顧問)ご逝去

報道によると、東京教育大学文学部の経済学教室で農業経済学を担当されていた暉峻衆三氏が2023年12月22日、老衰のため、東京都世田谷区代沢の自宅で逝去されたとのこと(以前は練馬区東大泉町在住)。99歳。葬儀は28日にご家族のみで実施。喪主は妻淑子(いつこ)さん。生誕は1924年6月26日。出身は東京帝国大学農学部だが、1953年から東京教育大学で講師、助教授、教授を勤められ、筑波大学設置の際は筑波大学には行かず、1977年の文学部廃部、1978年の大学閉学後1978年から信州大学教授、1983年から宇都宮大学教授、1990年定年退官後は東亜大学大学院教授を勤められ、1998年退職されていた。当OB会設立当初は、当会の顧問もされていました。OB会設立当初、吉田文太郎初代事務局長(1980年頃から消息不明)の依頼で当会顧問に就任していたのは、福原鱗太郎、木村剛輔、暉峻衆三、磯野誠一、村治能就の5氏でした。暉峻衆三氏のご逝去により、すべての顧問の方々が他界されたことになります。
ウィキペディア参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%89%E5%B3%BB%E8%A1%86%E4%B8%89

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年03月21日 10:42)

東京教育大学 文学部文学科英語学英文学専攻 1972年卒業生 高際澄雄氏ご逝去

高際澄雄氏(栃木市在住 谷中村の遺跡を守る会会長 宇都宮大名誉教授)が、2023年3月30日、前橋市内の病院で心疾患のため亡くなられました。74歳。
1972年 文学部卒業  1972年~1975年 同大学院   1975年~1980年 新潟大学 助手・講師  
1980年~1996年 宇都宮大学 教養部助教授  1996年~2014年 同大学国際学部教授  2014年~ 同大学名誉教授
地元栃木県を中心に自然活動に多く携わり、谷中村の遺跡を守る会の会長も務め、生まれ故郷の近隣である渡良瀬遊水地のラムサール湿地登録運動に参加していました。 ご冥福をお祈りいたします。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年11月09日 10:38)

高際君のサイト「高際澄雄の早起き散歩」は、こちら。
http://takagiwa.jugem.jp/
しかし、このサイトの「profile」では、卒業年度が誤って記述されている。
上記投稿の通り、1973年ではなく、1972年が正しい(卒業生名簿で確認済)。管理者に修正依頼をしたいところだが連絡できるようになっていない。
入学は1967年で栃木高校から現役合格。5年で学部を卒業したことになるが、当時文学部では6年で卒業するのが一般的だったから、それより1年早く卒業したことになる。(この記事の投稿者前澤倫子氏は英文科に高際君より1年早い66年入学で卒業は同じ72年。)
なお、上記投稿には栃木市在住とあるが、2010年に栃木市と合併する以前は、栃木県下都賀郡藤岡町だったところ。渡良瀬遊水地の所在地。管理者との関係で言うと、旧藤岡町は祖父の実家の所在地で、幼児期には祖父に連れられて良く遊びに行ったことがある。渡良瀬遊水地の周辺も良く散歩した。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年03月29日 13:14)

この10月で筑波大学開学50周年

思えばこの10月で、筑波大学は1973年10月の開学から数えて50周年。
しかし、教育大出身者の筑波大学への感情は二律背反そのもの。自分の子供は絶対に筑波大学は受験させないと主張した人もいれば、反対に筑波大学を優先して受験させる人もいた。自分の大学を廃学にした大学という感覚と、自分の大学の後継大学という感覚が入り混じっている。中には、学生時代には筑波移転反対の立場で活動していながら、その後筑波大学の教授になったような人もいた(大熊栄氏、2007年ご逝去)。新聞会OBにも筑波大学教授となり、「筑波大学新聞」(大学広報紙で学生新聞ではない)の創刊に従事した人もいた(松原達哉氏、2020年ご逝去)。
今となっては、その世代の人たちも皆後期高齢者。中には他界してしまった人もいる。遠い昔の話のような気もしてくるが、当サイトを設置したのは今から約25年前で、その頃はまだ同時代の感覚だった。
30年ほど前のこと、現在は福井県大飯町の実家に在住の中川OBが、保谷(現・西東京、旧保谷寮の近く)の水沢OB経営のアパートに住んで、パソコン関連書籍の翻訳に従事していたが、管理者宅(練馬区石神井台)に近く自転車で約20分の距離だったので時々遊びに行っていた。仕事の関係から彼は、当時からインターネットを使い、自分のサイトも作っていた。その中川OBからある日、「インターネット ホームページデザイン」(1995年翔泳社)という本を貸与され「何かホームページを作ってみろ」と勧められたのがきっかけ(この本は、返却後、自分で購入した)。内容まで指示されたわけではなく、では縮刷版の刊行で話題となった当会のサイトを作ってみようと思ったのは私の判断(どうせ作るなら個人的なサイトより、公共性の高いものの方が良いと考えた。ただし、個人的サイトも併設した)。そこで自分もインターネットの利用を始め、サイトを開設したのが1999年2月5日のことだった。(当時はまだADSLも光回線も無い、ダイヤルアップ接続の時代だったが、比較的早い時期に作れて良かった。)事後承認されたが、OB会総会の決定で設置されたものではなかった。その時すでに大学閉学後20年以上経過していたが、大塚キャンパスの新聞会室はそのまま残されおり、そこに放置されていた大量の資料や写真がサイトの作成に利用出来た。(謄写版印刷機も持ち出して、数年私用に使っていたがその後廃棄した。縮刷版刊行のため、新聞のバックナンバーはすべて回収済みだったが、ロッカーなどはそのまま放置してしまった。)もう少し遅かったら、すべて処分されていたことだろう。当サイト成立の事情には様々な偶然の要素が重なりあっており、奇跡に近いものがあったと言えるかもしれない。
管理者にホームページを作るように勧めた中川OB本人のサイトはこちら、「翻訳しています」。
http://www.asahi-net.or.jp/~JU6K-NKGW/

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年04月03日 17:12)
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