東京教育大学新聞会OB会は、1974年5月31日に会員名簿の作成を完了し、6月2日、パールホテル両国で設立総会を開いて設立されたので、この6月で、設立50周年となる。
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設立総会では、最年長の内田京治氏(1949年哲学)が会長に就任したが、当時、住宅評論家としてデビューしたばかりであり、刊行されて間もない自著「欠陥住宅の見わけ方」(三一書房)をぜひ買ってください、と出席者に呼びかけていたのが思い出される。その後は大量の住宅関連の著書を出版された。http://tue.news.coocan.jp/books.htm#01(内田亰治氏は2006年ご逝去。後継会長は未選出。)
過去の会員139人分の会員名簿を作り上げ、会場で配布したのは吉田経営研究所長の吉田文太郎氏(1955年英文)であり、当会の初代事務局長に就任したのだが、1980年頃から消息不明となっており、殺害されたらしく迷宮入りらしい。
その後当会は、東京教育大学の閉学を前に、出資者を募って、東京教育大学新聞縮刷版刊行会を組織し、1978年3月、教育大学新聞の縮刷版を刊行し、大評判となった。縮刷版の刊行業務は森山光人氏(1951年国文)の経営する績文堂出版を中心に行われた。第一刷分はたちまち完売となり、第二刷の増刷が必要となった。この営業利益を使って会費無料としたOB会総会が1995年7月16日にスクワール麹町で開催された際には、全国から53人が参加した。
現在、当会の本部事務局は水沢千秋OB(1967年哲学)の経営するあずさ書店にあり、縮刷版の販売業務を行っている。
なお、当サイトの管理運営は、1999年2月5日から前澤研爾OB(1964年日本史)が担当している。2024年は、偶然、当会設立50周年と、当サイト開設25周年が重なる、記念すべき年となった。
文学部日本史学専攻1962年入学の須永昭(後に阿部に改姓)氏が、2021年11月16日、78歳で永眠されたとのことなのでお知らせします。
須永昭氏は、1962年に栃木県立足利高等学校を卒業して本学(日本史学専攻)に入学、在学中は文学部学生自治会の活動家(構改
派)でした。1966年の卒業論文テーマは「田中正造の日本近代精神史上における一考察」。卒業後は、栃木県立高校、栃木県教委総務課勤務を経て、国士舘大学教授を勤められていました。宇都宮市在住でした。
ウィキペディアにも「阿部昭(歴史学者)」として立項されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿部昭_(歴史学者)
謹んでご冥福をお祈りいたします。
先日の長尾君の訃報に続き、同学年・同教室の同窓生の訃報が続きますが、1964年入学(川崎高卒)の木之内良一君(在学中は川崎市在住、筑波闘争の時期にあたり在学期間は7年、全学闘争委員会で活動、闘争末期には少数派であった藤原春雄氏のグループに所属。その後は中野区に転居)が5月19日に、肺炎のため、永眠されたとのことです。この数年は高齢者養護施設で加療中だったそうです。2018年11月5日のこのクラスの同窓会には体調不良で欠席されていました。ご葬儀はご家族で行われるとのことです。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
文学部日本史学専攻1964年入学(高田高卒、在学中は国分寺市在住、八千代町セツルメント所属)、筑波闘争の時期にあたり6年在籍し1970年卒業で新潟県上越市南本町在住、高田市の明厳寺の住職を務められていた長尾信也君が、4月3日午前8時13分に永眠されたとのことです。喜寿を迎えたのを契機に住職は引退されていました。78歳でした。昨年1月17日に亡くなられた小林守君同様、2018年11月5日に東京・池袋で開催された1964年日本史学専攻入学者の同窓会が同窓生との最後の再会になってしまいました。この際、次回の同窓会は、はるばる新潟から上京した長尾君の主催で新潟で開催することに決められていたのですが、コロナの影響で中止されたままになっていました。
連絡によると「腎臓疾患を抱えていましたが、胸苦しさを覚えて通院したところ肺炎を発症していて3月始めに入院。腎臓透析と合わせて肺炎との1か月の闘病だった」とのことです。謹んでご冥福をお祈りします。
通夜・告別式は次のように予定されています。
通夜/4月8日(月)午後6時~ 上越市大和会堂 電話 025(522)1188
告別式/4月9日(火)午前11時~
なお、長尾信也君が住職を務められていた明厳寺のサイトはこちらです。
https://myougonji.com/
本日、2024年2月5日は、1999年2月5日に当サイト「東京教育大学新聞会OB会」を開設してから25周年(四半世紀)の記念日。
アクセスカウンタは開設当初から設置しているが(Webスペース移転の場合、カウントは継承)、今日のカウントはおよそ249000なので、年平均は9960程度。1日平均だと27.3程度。
(以下、スレッドNo.44に書いた開設の経緯)
30年ほど前のこと、現在は福井県大飯町の実家に在住の中川OBが、保谷(現・西東京、旧保谷寮の近く)の水沢OB経営のアパートに住んで、パソコン関連書籍の翻訳に従事していたが、管理者宅(練馬区石神井台)に近く自転車で約20分の距離だったので時々遊びに行っていた。仕事の関係から彼は、当時からインターネットを使い、自分のサイトも作っていた。その中川OBからある日、「インターネット ホームページデザイン」(1995年翔泳社)という本を貸与され「何かホームページを作ってみろ」と勧められたのがきっかけ(この本は、返却後、自分で購入した)。内容まで指示されたわけではなく、では縮刷版の刊行で話題となった当会のサイトを作ってみようと思ったのは私の判断(どうせ作るなら個人的なサイトより、公共性の高いものの方が良いと考えた。ただし、個人的サイトも併設した)。そこで自分もインターネットの利用を始め、サイトを開設したのが1999年2月5日のことだった。(当時はまだADSLも光回線も無い、ダイヤルアップ接続の時代だったが、比較的早い時期に作れて良かった。)事後承認されたが、OB会総会の決定で設置されたものではなかった。その時すでに大学閉学後20年以上経過していたが、大塚キャンパスの新聞会室はそのまま残されおり、そこに放置されていた大量の資料や写真がサイトの作成に利用出来た。(謄写版印刷機も持ち出して、数年私用に使っていたがその後廃棄した。縮刷版刊行のため、新聞のバックナンバーはすべて回収済みだったが、ロッカーなどはそのまま放置してしまった。)もう少し遅かったら、すべて処分されていたことだろう。当サイト成立の事情には様々な偶然の要素が重なりあっており、奇跡に近いものがあったと言えるかもしれない。
管理者にホームページを作るように勧めた中川OB本人のサイトはこちら、「翻訳しています」。
http://www.asahi-net.or.jp/~JU6K-NKGW/
しかし、当サイト開設から25年を経過する間に、当会のメンバーもおよそ40人の方々が他界されてしまっています。その中には、当会の会長や事務局長をされた方々も含まれています。謹んで哀悼の意を表します。合掌。