皆さん、おはようございます。
きっこさんと猫髭さんの俳話をいつも愉しく拝読しています。
ありがとうございます。
わたくしときっこさんのやりとりを見られた人は幸せだ。誘い水を向けたのはわたくしだが、まさかここまできっこさんの本当の凄さを見られるとは正直思わなかったので「この人を見よ」ときっこさんを最初の師=生涯の師(老い先短いけど)として選んだ幸運を思わずにはいられない。わたくしの最初の水先案内人は茂雄さんで、それで親方と呼んでいるのだが、茂雄さんが推奨したのが「ハイヒール」という怪しげな俳句秘密結社だった(笑)。
爽波師系の代表に「爽波先生が師を選ぶということは大切なことで殆どの人が偶然から出発してしまい、たまたま運のいい人が運よくいい師に出会って伸びてゆくケースがあると言っていたけれども、あなたは先生が言っていたそのケースねえ。よほどいい師に出会ったのねえ」と言われた。インターネット俳句育ちで俳句はひどかったと最初は散々言われたが俳句結社がらみのしがらみがゼロで「雑学の帝王」だったので薀蓄がマシンガンのように出てくるから「同人代表」に置いておけば露払いになると他の結社からも猫八猫八と呼ばれて(江戸屋猫八じゃないんだけど)面白がられて面目を施したが、
>あたしから見れば、岸本尚毅は余裕で虚子を超えています。
>たとえば「俳句の技術的な面」だけに絞れば、あたしは、虚子より岸本尚毅のほうが優れていると思っています。
と例証できる俳人がいるかどうか、いないとは言わないが、わたくしは見たことがない。これぞ、きっこさん。お帰りなさい。
ハイヒール図書館を作って良かった。しんどいが、こういう真摯なやりとりが出来ると苦労が報われます。俳句のステップアップに終わりは無い。と、爽波も草葉の陰で言ってます。
そうそう、爽波が「俳句とは終局的に強烈な主観なのです。そこへ到り着くまでの手段が写生なのです」と言っています。初心の人に言うと危険なので言いたくないのですが、がっかりさせるといけないから言っておきましょうと断ったうえで「心、主観とは表に出てはいけないのです。俳句とは言いたいことを言わずに、投げ出した言葉の裏を汲み取ってもらうものなのです。また読み手は投げ出された言葉の裏から作者の想いを察しなければなりません、季題とは心を託するものと言っても過言ではありません。季題は俳句の要(かなめ)です」と言っています。形の無い季題は使いこなせるまで十年は「多作多捨」「多読多憶」に励んで避けてくださいとも。初心者はまず「人間の身体を通りぬけてきた季題」(梅と言うよりは探梅)「具象性のある季題」(早春ではなく蕗の薹)「季題の裏にそれまでの経過が見えてくるもの」(例えば雪眼)といった伝達性のある季題を選んで、よく噛み砕いて自分の心に選び取れるようにして下さいと。でないと下手な俳句より季題だけの方がましだとも(笑)。
虚子も最初は客観写生とは言っていませんでした。しかし、原石鼎や前田普羅といった強烈な個性を持った新人が続出するとみな真似をして亜流の真似し漫才田舎の乞食俳句が蔓延ったので客観写生に舵を切ったと『俳句の進むべき道』で述べています。ですから虚子にはオレオレ俳句が沢山あります。デビュー作からして「酒もすき餅もすきなり今朝の春」お前さん17歳の未成年ではないの?まだ未成年飲酒法がなかったからセーフ(笑)。選んだ子規は生涯下戸の24才。
きっこさん、皆さんこんばんは。
岸本尚毅が虚子を超える、素晴らしいですね。やの使い方、解釈などきっこさんの解説は勉強になります。ありがとうございます。
猫髭さん、なかなか面白い視点からの岸本俳句の解釈、とてもいいですね。
でも、岸本尚毅の強い切れ字の多様を「虚子たらん」との見方は、虚子を大きく見過ぎていると思います。
あたしから見れば、岸本尚毅は余裕で虚子を超えています。
たとえば、猫髭さんの引いた句の中から「や」を用いた五句を見ると、
短日や四方に顔ある時計台 岸本尚毅
冬晴や廃屋も窓輝きて 〃
枯蔓や糸の如くにまつすぐに 〃
熱燗や愛嬌はあり風情なく 〃
初凪や古城の如く遠き町 〃
一句目は、「短日」と「時計」というツキスギの具材に距離を持たせるための戦略的な「や」。
二句目は、句末の「て」で上五に輪廻させて、冬の太陽の眩しさをより増幅させるための技巧的な「や」。
三句目は、発見が希薄で一物で詠んでもインパクトがないため、無理やりに二章構成にするための負け犬的な「や」。
四句目は、ぼんやりした日常の景に、立体的なメリハリを持たせて抒情を浮きだたせるための定番の「や」。
五句目は、先に情景のフレーズが浮かび、それに合う季語を後から探したことによる、極めて流動的な「や」。
これらの「や」の使い方は、虚子とは大きく乖離しています。
それでは、虚子の「や」を見てみましょう。
春風や闘志いだきて丘に立つ 高浜虚子
夏立つや忍に水をやりしより 〃
秋風や眼中のもの皆俳句 〃
冬晴や立ちて八つ岳(やつ)を見浅間を見 〃
春夏秋冬の句を一句ずつ引きましたが、これらの句の「や」は、大して季語には掛かっていません。
一句目の「や」は「春風」ではなく「春風」を受けて丘に立っている自分に掛かっているのです。
二句目の「や」も、釣り忍に水をやって夏の訪れを実感した自分自身に掛かっていますし、三句目も四句目も同様です。
虚子にとっての強い切れ字は、表向きは一般的な俳句の技巧として使われていますが、それぞれの句の本意にまで迫ると、その情景を発見した「俺様」に掛かっているのです。
花鳥諷詠だ客観写生だと言いながら、常に自分の力量をアピールしたくてウズウズしていた虚子ですから、強い切れ字は「俺様」を際立たせるための便利なアイテムだったのです。
一方、同じ「や」という切れ字でも、それぞれの句ごとに「や」の持つ多様性を必要に応じて使い分けている岸本尚毅は、高速のストレートと同じフォームからのチェンジアップをベースに、大きく落ちる高速フォークや緩いカーブ、縦横のスライダーからシンカーまで投げ分ける無敵のピッチャーです。
そして、それは、本当の意味での「客観写生」というマウンドに立てたからこその采配なのです。
俳句は、他者と優劣を競うものではありませんし、食べ物や音楽のように読み手の嗜好もありますので、それぞれの句の評価は人それぞれです。
でも、たとえば「俳句の技術的な面」だけに絞れば、あたしは、虚子より岸本尚毅のほうが優れていると思っています。
ハジメ1018さんの「桃」につなごうと桃の句の思案がなって岸本尚毅について書き始めたら、水曜日なので★ きっこのメルマガ ★第180号が7:00に着信し、これを読んでいたらこれが★ 今週の前口上 ★「萩生田光一改め萩生田統一」 の政治ネタ、★ 今週のトピック ★「眠れる?森の美女」の古典文法ネタ、★ 季節の言葉 ★ の「相撲」俳句ネタ と盛り沢山で、「蚤虱馬が尿(ばり)する枕元 芭蕉」の馬のゆばりよりも長く、小学校の登校時に坂の下に止められていた馬がじゃぼじゃぼ放尿を始め、それが見る見るうちに潦(にわたずみ)を作って驚きましたが、遅刻するのでし終わるまで見ていませんが、メルマガを読んでいて、しりとりする時間がなくなるほどの時間経過で、慌ててお客に遅刻すると出かけたので「桃」つなぎでお許しを。
>自分の憧れる師の作風を模倣することと、精神性のみを受け継いで自身の作風を確立することのどちらが良いのか、あたしには分かりません。
岸本尚毅は俳句に貪欲なので爽波俳句を学ぶことで爽波の限界を知り、師を越えて自分の俳句を詠むために虚子を次の、というか最終的な踏み台にしているので、もともと爽波俳句に留まる気はなかったように思います。
岸本尚毅の第五句集『小(せう)』は2014年(平成26年)3月25日に角川学芸出版から発売されて、自選句、
面白く聞きて涼しく忘れけり
に代表されるような、ふてぶてしいまでに「や」「かな」「けり」の三大切字が盛大に使われていて、一ページに「や」「かな」「けり」が複数あるのは当たり前、中には見開き六句中五句が「かな」という最大切字が並びます。2005年の9月の句会できっこさんの出したお題が「や」「かな」「けり」の三大切字を一句づつ詠むという「切痔句会」、じゃなかった「切字句会」の中学校句会を開催し、二物なんたらとか三句切れの疣痔がどうしたとか観音開きだか鯵の開きだか大股開きだか知らないがしちめんどくさいルールより「かな」の一物仕立てがすっきりして一番のお気に入りで、次に途中に軽い切れが入っても許される「けり」が好きで「や」は歌舞伎の見得のようだなと使えば納まりがいいので三番目に使う切字という順番で、何でもかでも切りまくっていたら、バカの一つ覚えみたいに「かな」「けり」で終わるのではなくて違う切れで終わる詠み方を覚えましょうときっこさんが指導方針を切り替えたので、きっこさんの言うことは絶対だったから(このレベルまで行ったから次はこのレベルへと指導は的確を極めていました)、「や」「かな」「けり」を封印しました。それがああた、岸本尚毅の『小』は、兎波さんの棲家よりももっと奥能登のホテルのベランダから一面広大な森が海まで続く空をカナカナが一斉に鳴き喚くように「かな」「かな」俳句がどーんと並んだのですから嬉しいの何の。ということで岸本尚毅の蜩(ひぐらし)の森を、お聴き下さい。勿論「や」蝉も「けり」蝉も鳴く蝉時雨です♪
俳句に負担をかけない詠み方に徹していますが、その俳句の風貌には爽波の作風とは違う作風が見えて来ます。ⅠからⅣのⅠの117句中三大切字は53句、45%を越えます。これは明らかに爽波のリズムではありません。
日の暮の明るくも冴返りけり
たつぷりと水ある春の氷かな
白妙の富士ある春の起伏かな
磯遊びめきたる春の墓参かな
三日月の光りて遠き彼岸かな
逃げ水や蚯蚓土龍の居るところ
春めくやどこへゆくにもこの姿
草餅や春風亭の新作派
春嵐怖るることはなかりけり
頭から肘へつたはる甘茶かな
猫の如く色さまざまの浅蜊かな
夏蜜柑腐りて尻の抜けにけり
遅き藤やませの霧の向うかな
めぐり来し月日は夏や古簾
がんばつてゐる噴水の機械かな
黒南風に芋の葉らしくなりにけり
梅雨の蜂赤き面を上げにけり
黴を寄せまじく貧乏揺すりかな
鰭振つて顔ばかりなる金魚かな
この暗さ夕立来ねばならぬかな
雷の来さうな道を曲りけり
緑陰や無心の蝶と無我の蠅
風が吹く長きほつれも茅の輪かな
町角や西日のバナナうまさうに
そのかみの色街近き夜釣かな
蝙蝠や落ち来る如く来ては去り
七夕や正しきことを願ひたる
掃苔や何の木となくよき木陰
新涼の日輪や今盛りなる
新涼や肘より遠きたなごころ
長き腹曲げて戻して螇蚸かな *螇蚸(ばった)
秋風や土の上なる木のお堂
月の友のつしのつしと畳かな
麵麭を手にゑのころ草に立つ子かな *麵麭(ぱん)
菊なべて黄と紫やかへりみる
音かすかなる飛行機や柳散る
悦びて嚙み合ふ犬や落葉道
南面の落葉溜りも日暮かな
大綿の頭や少し尖りたる
短日や四方に顔ある時計台
冬晴や廃屋も窓輝きて
枯蔓や糸の如くにまつすぐに
熱燗や愛嬌はあり風情なく
初凪や古城の如く遠き町
言の葉の一つ一つや手鞠歌
初春や明るきままに日は西に
湯気の粒見えてめでたき初湯かな
初寄席や松喬はたして花筏
寒晴や高さそれぞれ月と鳥
遠く行く声や焼いも焼いもと
湯たんぽの重たく音もなかりけり
炉に焼いて舌舐めづりや薬喰
一つかみ虚空に豆を打ちにけり
これらに漂う作風は高浜虚子のように思うのですが。岸本尚毅は現代の高浜虚子たらんとしているのではないでしょうか。