こんばんは&おやすみなさい。
きっこさん、みなさんこんばんは。
猫髯さん、「アラスカ吟行」読みました。
なんかお腹が空いてきちゃいました。
前も読んだように思うけど、りんさんも猫髭さんも
即興ですごいです。オーロラの写真も、俳句もいいですね。
「昨日何食べた?」も私も結構参考になりますよね。
昨日は師匠に言い過ぎたかなあと悶々していたら「うっかり八兵衛」が出て来たので安心して韓国TVドラマを一二話見て爆睡したら、雨音には気づいていましたが最低気温が22℃で最高気温が26℃という秋の終わりの長雨かという涼しさで寝たも寝たるや12時間、いや良く寝たもんだという夏の疲れが溜まっていたのか死体のように眠ってしまいました。と言いつつも、ライ麦パン(カンパーニュ)とサルサ・デ・ポマドーロ(トマトソース)と半額バナナが減っているから、朝寝る前に朝食食べたんだろうね(記憶ほとんどなし)。でも、きっこさんの言う鮭の西京焼というのはいつも銀ダラとか白身の魚で作っていたからそんなに美味しいなら作ってみるかという気になる。問題は100円の切り身なんて百均じゃあるまいし、粗ぐらいで(カマも入るのでGood)、最近はノルウェー産の高級サーモンばかりで半額ハンターの猫髭でも手が出ない高さである。那珂湊へ帰って密漁するか(おいおい)。
>皮が一番好きですが、鼻の軟骨で作る「氷頭なます」アイヌの保存食がルーツの「鮭とば」も美味しいですね♪
ああ、アラスカの「りん&猫髭アラスカン・レストラン」が懐かしい。キング・サーモンの皮のうまかったこと。「鮭とば」も紅鮭のぶっといハラスが三本入って2$もしないという、チャンクと言って傷物らしいが味は高級品と変わらずだから、皮と鮭とば食うだけにアラスカ行きたい、って、いやそれぐらい美味しかった。そうそう、「りん&猫髭アラスカン・レストラン」が「オーロラ吟行」の最終日「オーロラ宴会」で御覧になれるので論より証拠、興味のある方は御覧下さい。実はわたくしも忘れていたことを茂雄親方が発掘して来てわたくしも思い出したのです。必見、りんさんと猫髭の「アラスカ・サーモンのホップ・ステップ・ジャンプ茶漬」は「猫髭」の右の矢印のURLから御覧になれます。
皆さん、おはようございます。
猫髭さん、ご指摘ありがとうございます。
昨日、スーパーで1切100円で安売りしていた南米チリ産のサーモンの西京漬けがとても美味しかったので、うっかりしてしまいました。
「鮭」だけで秋の季語なのに、「秋味」や「鮭の秋」などの季語を念頭に脳内で推敲しているうちに、うっかり「秋鮭」などと詠んでしまいました。
脂の乗った鮭は、あたしは皮が一番好きですが、鼻の軟骨で作る「氷頭なます」も好きです。
それから、アイヌの保存食がルーツの「鮭とば」も美味しいですね♪
>秋鮭の切身を選び籠に入れ きっこ
ほめられて「浜菊や師がゑさをやる野良の猫 撫子」のノラのように照れ隠しに顔を舐めている気分だが、わたくしは鮭が川を遡上する最南端の那珂川のほとりで育ったから鮭は生鮭(なまじゃけ)を焼いてレモンをちょと垂らし大根卸しに醤油で食べるのが一番旨いと子どもの頃から思っているが「秋鮭」という言葉は初めて見た。秋刀魚ほど露骨に秋を主張はしていないが鮭は「秋味」というぐらいで秋でしょう。保存食の塩引鮭(しおびき)は冬だとしても歳時記に「秋鮭」はない。で大辞泉(小学館)を見ると「秋鮭」とあり、季語ではないが、「秋に、産卵のため生まれた川に戻る前の沿岸で漁獲されるサケ。身に脂が少ないのが特徴」とある。大洗のわたくしが生まれた母の実家は魚の仕出し屋だったので伝馬船で櫓を漕いで浜を出ると船外機を回して沿岸の地魚を漁獲(いさど)ることもあるが、「川に戻る前の沿岸で漁獲されるサケ」は密漁扱いになるので獲るのは御法度だった。
那珂川から以北ではどうなのだろう。札幌で季節はずれの若い鮭を「時知らず」(秋の漁獲期に外れていることから、春から夏にかけて、北海道沿岸で獲れる若いサケ。脂がのっていて美味とされる。時鮭)を馳走になったことがあるが、脂がのるから旨いとは限らない味だった。こちとら那珂川の生鮭で育ってるからねえ。
しかし、きっこさんの句は秋味でも初鮭でもなく秋鮭だから「川に戻る前の沿岸で漁獲されるサケ。身に脂が少ないのが特徴」と値段は安そうだが「選ぶ」にはうらぶれたような味で「母さん」が喜ぶ味ではないような・・・。ここは新鮮な、
秋味の切身を選び籠に入れ
の方が皮をパリッと焼いてレモンをちょっぴり垂らし大根卸しとお醤油でいただくと母さんの笑顔が浮かぶと思いますが・・・。
せっかく褒められて餌をもらったのに猫キックかましてどうすんじゃい。
写真は那珂川で吊った鱸(すずき)。
皆さん、こんばんは。
>普段着のなかの贅沢La France 猫髭
いいですねえ。心がホクホクします♪
「普段着」の句と言えは、あたしも大好きな細見綾子の句、
ふだん着でふだんの心桃の花 細見綾子
が、ことに有名ですが、「普段着」と言うと「心」が着いて回るようで、
普段着の心大切利休の忌 阿波野青畝
普段着のこころに松も過ぎてけり 石塚友二
など「普段着」と「心」がセットになっている句が散見されます。
しかし、あたしの感覚では、「心」まで言ってしまうと、すでにそれは「普段着」ではないのです。
猫髭さんのように、サラッと「普段着のなかの」と流すことによって、本来の「普段着の心」が見えて来るような気がします。