きっこさん、皆さん、こんにちは☀️
鰯ソーセージは三本で百円台の安いのがスーパーなどで出回るので、セレブの昔も赤貧の今も実は猫髭の好物でして安いからナポリタンに沢山入れても島国根性のニッポンの誇るジビエ肉ナポリタンはこれだあと悦に入っていたら、実はとある俳人Aが食通で知られる前衛映画の評論家に魚肉ソーセージ入りナポリタンを出したら、魚肉ソーセージのパスタなんて生まれて初めて食べたと「あらほんとに前衛的だわね」と褒められたとかで、魚肉ソーセージって安くて旨くていいよねえと盛り上がったことを思い出した。海鮮パスタに魚肉ソーセージはやったことがないので今度の土日にやってみよう♪
きっこさんの謝りっぷりは男前だなあ(褒め言葉になってないぞ)。ほんとうに気持がいい。
「過ちては改むるに憚ること勿れ」は面子とかいろいろあってなかなか出来ないのに、過ちではない、こちらの気働きが鈍いことにすら「書き方に問題」として潔く老人を立ててくれる師の心栄えに恐縮至極。頓首再拝。
今朝獲れの鰯をバケツ一杯進呈。大きな鰯はそのまま塩水で洗って網籠に入れて陰干しにして干物に。小さいのは頭と尻尾を落として手開きで腸と骨を取り塩水で締めて千鳥酢で洗ってタッパウェアに詰めて冷蔵庫に。膾は夕方には食べられます。干物は一夜干しして翌日焼いて食べます。ぴっかぴかの膾と干物はおいしいよ♪
あーーーー、これは猫髭さんが正しいですね。
猫髭さんは一を言うだけで十を分かってくれる人だと思ってザックリと省略しましたが、そのような前フリがあったのなら、猫髭さんの解釈は当然であり、あたしの書き方に問題がありました。
猫髭さん、ごめんなさい。
8月18日のきっこさんのお話をもう一度引きますね。
あたしの大好きな飯田龍太は、初心の弟子から「どうしたら先生のような立派な句が詠めるようになるのですか?」と聞かれた時、「立派な句が詠みたいのなら、まずはあなたが立派な人物になりなさい」と指導しました。
龍太曰く「十歳の子どもは十歳の句を詠む。二十歳の青年は二十歳の句を詠む。それが『身の丈』と言うもの。二十歳の青年がどこかで覚えた難しい言葉を使って六十歳や七十歳のような句を詠んでも、それは『自身の身の丈を超えた句』であり、誰にも感動など伝えられません。あなたは、今のあなたの『身の丈』を詠み続ければ良いのです」
俳句を始めた初心者が、少しずつ俳句の面白さが分かって来ると、器用な人の中には「凄い句を詠んで先輩たちや師に感心されたい」というスケベ心が頭をもたげる人も出て来ます。でも、それでは本末転倒なのです。
あたしは、この龍太の言葉から、俳句の本質を知りました。あたしはあたし、決して背伸びなどせず、常に「今の自分の身の丈」で詠めば良いのです。背伸びして「自分らしくない句」を詠んでまで誰かに褒めてもらいたいなんて、俳句の本質から最も逆行した愚かな行為なのです。
皆さん、龍太の言う「身の丈」という言葉をしっかりと胸に刻んだ上で、その「身の丈」の範疇で、自分らしい俳句を探して行きましょうね♪
で、昨日のきっこさんの省略文が、
もともとあたしは「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質と思っていましたし、これは今も変わりません。
あれ、常に自分らしい俳句を詠むのが大切ですと言ったばかりなのに、何で「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質」と肝心の部分を外したのか腑に落ちなかったので韜晦したのですが、「立派な句は立派な俳人に任せておき、あたしたちは自分の背丈の俳句を楽しく詠みましょう」ということですということだったとは。ピッチャーきっこのスライダーを思い切り顔面で受けた猫キャッチャーの図でした。
今日も江戸っ子のお客から「あんたは人を疑うことを知らんのか。言われたことをそのまま鵜呑みにするとは人が良すぎるにもほどがある」とぶち切れられて血圧が50以上アップして、落語の「長短」のように病院の診察介助で漫才やってましたが「気働き」が全く効かない日が疲れるとあるようです。「こんな分かり切ったことを」わからないんですねえ(そういうひとごとのようなこと言うから・・・)。
写真はお詫びの猫髭手開きの鰯の膾。鰯は秋の季語ですが、那珂湊では冬が旬。一番値が高いからです。もう鰯を獲る魚群(なぶら)、鳥山とも云う鰯の群れが鰹に追われて盛り上がり鳥が山と群れる鰯の群れを追える漁師がひとりしか居なくなり、この老人がいなくなると鰯を餌とする鰹も獲れなくなるので那珂湊や大洗は死活問題になり、水戸泉やわたくしが贔屓にしていたシラスの釜揚げ屋さんも年がいって店を畳んだので魚市場はどんどん地物がなくなり中国やロシア産のものも混じるの当たり前になって来ました。鮭は那珂川をまだ遡上してくれますが、稚魚を放したり苦労が堪えない。
あたしも猫髭さんと同様に「立派な句」が最上のものとは思っていませんし、特に目指してもいません。
そんなもんクソ食らえです。
あたしが飯田龍太の「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という言葉を引いたのは、「どうしたら先生のような立派な句が詠めるようになれるのですか?」という俳壇で中堅のバカ俳人のバカ質問に対して、龍太が返した「人は自分の背丈の俳句しか詠めません。どれほど背伸びした句を詠んでも、それはその人の本当の俳句ではありません。それでも立派な句が詠みたいのであれば、あなたが立派な人物になるしかありません」という言葉をザックリと省略したものです。
あたしは、いつも「自分の背丈の句」を詠んでいるだけで、それでいいと思っています。
別に「立派な句を詠める立派な俳人」など目指していません。
あたしが言いたかったことは「立派な句は立派な俳人に任せておき、あたしたちは自分の背丈の俳句を楽しく詠みましょう」ということです。
そして、こんな分かり切ったことを一から十まで説明する必要もないと思い、ザックリと省略した書き方をしたのに、まるであたしが「立派な人物になって立派な句を詠め」と指導したかのような猫髭さんの解釈、非常に残念です。
たぶん、猫髭さんの「揚げ足取り」の機能がフライングしたのだと思いますが、あたしはけっこう真面目に投げてますので、ちゃんと受け取ってもらわないとキャッチャー失格ですよん♪(笑)