きっこさん みなさん おはようございます。
皆さん、こんばんは。
中学二年生で俳句を始めたあたしが、最初に目から鱗が落ちたのは、河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」という句でした。一点の無駄もない完璧な客観写生句に、あたしは鳥肌が立ちました。俳句って凄いと思いました。
たとえば、高浜虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」も、負けず劣らずの秀句ですが、こちらの句には「早さ」という若干の主観があります。これが虚子の弱点でもあり魅力でもあるわけですが、中学二年生のあたしは、碧梧桐の完璧な客観的視点のほうにシビレました。
しかし、後にこの句は、最初は「白い椿赤い椿と落ちにけり」と詠まれたものであり、それを師である正岡子規が「赤い椿白い椿と落ちにけり」という形で高評価したことから、こちらの句が人口に膾炙したのだということを知りました。
つまり、現実には「白い椿」のほうが先に落ちていたのです。そして、碧梧桐は、それをそのまま客観写生したのです。しかし、その事実を子規が捻じ曲げたのです。あたしは、客観写生を説く子規が事実を捻じ曲げたことにムカつきました。生徒に「嘘をついてはいけません」と指導している先生が、嘘をついたように感じたからです。
でも、それから10年間、数えきれないほどの句を読んだあたしは、子規の意図がやっと理解できました。碧梧桐は、たまたま白い椿が落ちた後に赤い椿も落ちた現場を見たわけですが、俳句という十七音の記録媒体に切り取る上では、白が先か赤が先かなど、どうでも良いことだったのです。
そんな些事よりも、対象的な色の椿の花が、相次いで命を終わらせた「潔さ」こそが、最大の命題だったのです。そして、子規は、その状況の鮮烈さを最大限に生かすために「赤い椿」を先に落としたのです。
視覚的に言えば、子規の行為は「事実の捻じ曲げ」です。しかし、眼前の事実の先の「本意」にまで迫れば、「赤い椿」を先に落としてこそ、椿という花の「潔さと哀れみ」、「純粋さと侘しさ」という、相反する心を表現することができたのです。
目で見たものを「絶対的な事実」と思い込んでいたあたしは、子規の「目には見えない本質」を見極める感性に、ただただ敬服するに至りました。これが、俳句を始めて10年目、23歳の時のあたしです。