31,子曰く、吾(われ)嘗(かつ)て終日食らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う、益なし。学ぶに如(し)かざるなり。
先生が言われた。「私は以前、一日中食事もせず、一晩中寝もしないで思索し続けた。効果はなかった。書物と師について学ぶには及ばなかった」。
※浩→「為政篇」の「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやうし/つかれる/うたがう)」は、ここの体験を一般化したものだと、貝塚先生は解説されます。「殆」の読み方がいろいろあって、混乱しますが、私は朱子の読み方「あやうし」で覚えています。
「学ぶ」というのは、書物や先生について“先王の道”を習うことです。先王の道は、人間一般の優れた経験の結晶です。「考える」ことは個人の理性だけに頼った思索です。西洋では、経験論と合理論の対立でお馴染みですが、これをカントが批判的に総合しました。孔子も、一方的な立場に固執しないで、両面からものを眺めるという点でカントに通じそうです。いつも言いますが、アドラー心理学も、「読(聞)・思・修」といって、やはり、書物や師匠に学んで、自分の理性で考え、自分の体で実践する、とバランス良くできています。
経験論と合理論が出ましたので、少しおさらいしておきます。デカルトと並ぶ近世哲学の祖・フランシス・ベーコン(英16~17世紀)は、アリストテレスの論理学書『機関』に対抗して、新時代の学問に特有な論理(帰納法)を『新機関』で説いています。在来の中世スコラ哲学的学問の非生産的な思弁に不満と反撥を感じて、着実な自然研究にもとづく生産的な学問を打ち立てるべく、学問の大改革を企てました。「知は力なり」がベーコンのモットーです。「自然は征服することによってのみ征服される」ので、まずは自然に従いこれを正しく解釈する必要がある。従来の演繹的な(デカルトは“演繹法”)三段論法の一般原理は少数の事例から飛躍して作りだされている。だから、与えられた感覚的な個別的にもの(経験)から一歩一歩一般的な命題へ上昇し、最後に最も一般的な原理に達する、これこそが自然についての正しい解釈のみちであると、「帰納法」を提唱しました。これを実行するためには、まず人間知性に深く根づいている種々の誤った先入見を取り除く必要があります。これがかの有名な「4つのイドラ(偶像/幻影)」です。ちょうど、アドラー心理学のカウンセリングを実施していて、大事なこととして、カウンセラー自身の先入観をクライエントに押しつけないように常に細心の注意を払っていますので、この「4つのイドラ」をたびたび思い出しています。ちなみに、よく知られている「アイドル」の語源はこの「イドラ」です。
第一の「種属のイドラ」は、人間という種属に根ざした一般的な先入見です。宇宙の現象をありのままにでなく、人間の持つ不完全な機能や思惑のままに歪めてみる傾向です。これはアドラー心理学ではお馴染みの「統覚(認知)バイアス」のようです。
第二の「洞窟のイドラ」は、各個人に特有の偏見です。プラトンの「洞窟の比喩」にあるように各個人は自然の光を遮り弱める特有の偏見(各人の精神的・肉体的特性、教育、習慣などからくる)の中に住んでいる。
第三の「市場のイドラ」は、言葉が知性に及ぼす種々の混乱・弊害を言います。野田先生は、「言葉は地図であって現場でない」とおっしゃいました。『踊る大捜査線』で言えば、「事件は会議室でなく現場で起きている」という、あの会議室ではまさに「言葉」が飛び交っています。
第四の「劇場のイドラ」は、哲学に見られる伝統的・権威的な「架空の芝居がかった」欺瞞を指します。人は、権威や伝統に従いやすいです。私も油断するとすぐに陥ります。
ベーコンの所説は、現代から見ると多々批判されるべき点が多いそうですが、それはそれとして、われわれが「傲慢と偏見」に陥らないための知恵も少なからずあると、私は思います。
Q0298
私の弟は結婚しています。夫婦関係がもつれ、現在、実家である父母、私たちのところへ戻ってきています。今までに自さつめいたこともしたりして、ずいぶん落ち着いたとはいえ、まだ安心できない精神状態に見えます。そんな弟が会社から帰った私をつかまえて、今後のこととか現在の自分のこととかもっとつまらないこともいろいろと話しかけてきます。聞いてあげたいという気持ちもありますが、読書とか音楽を聴くとか自分のしたいこともあります。そんな状態ですから、結局本を読みながら弟の話を聞いたり、「また明日にして」ということになります。これは勇気くじき的だと思うのですが(野田:そう思いませんが)、ついついやってしまいます。どうすればいいでしょうか?精神的にまだ不安定な弟がふさぎ込むのではないかと心配になってしまいます。弟とどう接すればいいでしょうか?
A0298
私だったら(これが答えになるかどうかわからないけど)面接時間を決める。「1週間に2回。何曜日の何時から何時までは人生の話を聞きますがそれ以外は聞きません」と。
僕(野田)は昔から一応心理療法の専門家です。かつ精神科医です。精神科医と心理療法の専門家は別なんです。心理療法を全然しない精神科医もたくさんいる。お薬の処方しかしない。精神科医でない心理療法の人もたくさんいる。僕は両方やります。外来診療は全然問題ない。問題は入院患者さんです。入院しているとしょっちゅう患者さんがいる。こっちもいるし。ずっと1日中相談してくる。「あの先生は、よー話聞いてくれるから相談しよう」と。そんなのかなわんから面接日を決めて、「人生の相談は週2回。1回30分。それ以上は聞きません。普段は会っても、『外泊出してください』とか『お薬どうしよう』とかは聞きます。医者としてすることは聞きます。それ以外はしません」という線でやっていました。そうしないと身が保たないから。弟さんといっぺんこういう線で話をしてください。そんなに話があるとも思えないから。(回答・野田俊作先生)
30,子曰く、過ちて改めざる、是(これ)を過ちと謂(い)う。
先生が言われた。「過って改めないこと、これを過ちと言う」。
※浩→吉川幸次郎先生は「解説の必要なし」で終わりです。貝塚先生が少し解説されます。過てば則ち改むるに憚(はばか)ることなかれ」は「学而篇」にもありました。単なる過ちは問題ではない。過ちの処置が大切である。不完全な人間であれば、誰も間違いや過ちを犯すことはありますが、その誤りに気づいた時に改めていけいい。まるで、アドラーの一番弟子ルドルフ・ドライカースの「不完全を受け入れる勇気を」みたいで、親近感を覚えます。学校の先生方、生徒指導でこの心構えは大切だと思います。学校の生活指導は伝統的には懲罰でした。校則違反、虞犯(ぐはん)行為、法令違反などをなした生徒の指導は、かつては“謹慎指導”と呼ばれていました。いつの間にか“謹慎”という言葉が消えて“特別指導”となっていました。名称が変わっただけで中身は変わっていないと思います。違反の軽重によって、最も軽いのが「生徒課長説諭」「校長説諭」、「謹慎(今は「特別指導」)何日」と、だんだん重くなって~「無期」~「退学勧奨」「退学命令」でしょうか。「退学命令」はほとんどなくて「勧奨」です。昔は「家庭謹慎」が普通でしたが、これもなくなって「学校内謹慎」になりました。家庭謹慎では真面目に謹慎しないで遊ぶからという、生徒への不信感が溢れています。そもそも学校は普段、生徒を指導しているのに、その上にさらに指導するというのはどういうことなんでしょうか?お料理に適量のお塩を入れているのに、さらに塩を加えるみたいです。保守的な学校も21世紀になって、さすがに徐々に変化してきたでしょうが、根幹は“一罰百戒”主義であることは否めません。手前贔屓ですが、学校にはほんとにアドラー心理学が導入されるといいと思います。アドラー心理学では、「失敗(違反)への責任の取り方」3か条があります。↓
1)原状復帰(失われたものの回復・弁償・修理など)
2)再発予防策(過ちを繰り返さないために決意と方策)
3)謝罪(感情的に傷つけた人がいれば、きちんと「ごめんなさい」を言う)
Q0297
息子小6。学校へ行かなくなって2か月たちました。6月くらいから月曜日ごとに休んでいて図工の宿題が溜まってしまって、先生にしつこく描くように言われるのがイヤだったようです。6月の終わりに、子どもはまったく知らないことなのに、スケープゴート的にみんなの前で怒られて、「学校へ行かん」と言って休み出しました。そのことについては先生が家庭訪問され、納得はいかないまでも、一応謝ってくれました。7月は半分休んだくらいで夏休みに入ったのですが、9月は始業式と4日に行っただけでずっと休んでいます。「僕にとって必要なのは火曜日の6時間目のパソコンクラブだけ。小学校の成績なんか関係ない」とか言います。
9月いっぱいは、夫も私がアドラーでやるのに賛成してくれましたが、夫は1か月たっても何も状況が変わらないことから、「今まで我慢してきたけど僕のやり方でやる」と言い出したり、校長先生のところへ話しに行ったり、「転校させる」と言いだしました。私は「とにかく子どもが納得しないことには転校もさせられないし、まず息子の意見を聞いて」と言いました。息子は、「今の学校に友人がいるので転校する気はない。行けるような気がする」と言いました。夫も焦りすぎたと反省し、それから何も言わなくなりました。今は学校に行かなくても平和に暮らすことを考えて日々を送っています。
担任の先生はとても困っていて、とにかく来てほしいと言います。どのような心構えで日々を過ごせばいいでしょうか?
A0297
ご主人の気の済むようにいっぺんやってもらう。殴ってみると言ったらいっぺん殴ってもらう。無理やり猿ぐつわして手錠はめて学校へ行ってもらうと言ったらやってもらう。やってみたら納得するから。やってみるまでに止めても納得しないから、一応みなやってみる。その上で、「やっぱり子どもの意見聞かないといかんな」と言ったら迫力あるでしょう。それに近かったんでしょうけど。
仲良くするというのは、子どもととにかく「冷静に話ができるようにする」というのが第1段階の目標です。登校拒否を始めたら、親も子どもも感情的にならないで話ができるようになるのが第1段階の目標で、それが達成できたら第2段階が当然ある。それは「これからどうするかを相談する」こと。
子どもは必ずしも良い判断をしていないでしょう。ドライカースが言いました。「子どもはとても良い観察者だが、とてもまずい解釈者だ」と。いろんなことを見ているけど正しく解釈していないかもしれないから、まず子どもの話をよく聞いてみると、意外と判断が甘かったり見落としがあったり、情報が足りなかったりするかもしれないから、冷静に話し合って、これから先どうするか子どもの意見を聞いて、その上で何かつけ加えて言ってあげられることがあれば言ってあげられるでしょう。
まあ今もう11月ですから、「このまま行かないで中学へ進んでもいい」と言えばいいんですけど、もしも行けるんだったら行ってもいいと思う。
今まで何があったかの話をしてもしょうがない。過去はもう過ぎてるから。これからどうするかは子どもさんが全面的に決められるし、“縁起の法則”で、今何をするかで将来が決まっていくわけだから、今何をするのがベストかを、しばらく時間をかけて話し合ってはどうですか。慌てて話することはない。ずっと話している間に、やがて3学期が終わって中学に進んだってかまわない。今後の人生について話し合いをする練習ができたわけだから。(回答・野田俊作先生)
29,子曰く、人能(よ)く道を弘(ひろ)む、道の人を弘むるにあらず。
先生が言われた。「人間が道を広めるのであり、道が人間を広めるのではない」。
※浩→「道」というのは、思想・主義・孔子が『道』としての思想・主義・宗教などすべて一定のイデオロギー形態を指すと考えます。人は思想・主義・宗教などが独自で存在しているように考えますが、あくまで「人間が主体」であって、人間によって考えられ、人間によって信じられ人間によって主張されつつ世の中に広まり、後世に残っていく。孔子は人間中心主義・人本主義です。キリストや釈迦、ムハンマドのような宗教家とは異なります。儒学の背景にも「天の思想」や「葬儀の祭礼」などが確かにありますが、孔子は「怪力乱神を語らず」と言っていたように、人間の思惟や判断を中心にして己れの思想に磨きをかけているのです。
「人間が主体」というのは、アドラー心理学を学ぶ者として、とても共感します。基本前提のトップに「個人の主体性」とあるくらいですから。アドラーは哲学者ニーチェの影響を受けていますから、それまで神が与えていた人生の意味を、人間が自ら発見しなければならないと考えました。有名な『人生の意味の心理学』(高尾利数訳、春秋社)から高尾先生の解説に次のようにありました。↓
アドラーの心理学は、例えばフロイトのそれと比較すると、「主観心理学」と呼ばれうるものであり、フロイトの「客観心理学」とは対照的である。この場合、「主観的」ということによって、何が意味されているのかを正確に理解することが必要である。アドラーによればそれぞれの個人が生涯にわたって、そのすべての行動の中核としてしまう「ライフスタイル」は、非常に早い時期──アドラーによれば、5歳の終わりくらいまで(浩→今は10歳くらいまでと考える)──に形成されてしまう。その際、その個人が、男であるか女であるか、甘やかされてきたか、無視されてきたか、家族の中でどのような位置にいるか、身体的な欠陥(=器官劣等性)を持っているか、どのような容貌を持っているか、などの諸要因が大きな影響を与えることを、アドラーは認めるが、しかし、それらの要因が絶対的、究極的な意味で言われるのかというと、彼はそうは考えない。それらの諸状況、諸経験は、その個人によって解釈されて受け入れられる(認知される)のである。個人が、それらの因子や状況や経験を、どのように理解するかが決定的なのである。この解釈あるいは理解が、協同(協力)の方向に向かうのか、それとも「私的世界」の中にとどまり、マイナスの方向での努力をするようになるかが、その人の一生を右にするか左にするか決めるのである。そして、各人が自分の人生に不可避的に与える解釈や理解や意味が、その人の人生の方向を決定するのである。何度も読んだ『人生の意味の心理学』ですが、また読み直したくなりました。