Q
野田先生が校長ならどんな学校経営をされますか?
A
僕は絶対に学校の先生になりません。だから「校長なら…」という想定は成り立ちません。
理由の1つは、教師という職業は絶対にイヤだからです。教師を尊敬しているから言うんですよ。とてもじゃないけど、子どもたちを1年とか2年とかよう見ん。腹が立って。あんな半人間みたいなの。特に小学生なんか絶対によう見ん。だからイヤ。大学教師はやっていますが、大学はいいですよ。大学生はほとんど人間だから。高校まではイヤです。
それでも、もしも教師になったら絶対に管理職にならないです。一生平教員でいる。だって医者をやっていて、管理職になるのを徹底的に逃げ回ったんだから。病院にいると、医者は校長試験とかはないが、年を取ると肩書きがいっぱい付くんです。そうすると医者ができなくなる。会議とか、栄養士さんや薬剤師さんの相手をいっぱいしないといけない。相手をするのはいいけど、上へ行かないといけない。公立病院にいると、本庁詣(もうで)というのがある。府庁とか市役所とかへ行かないといけない。徹底的に逃げたけど、とうとう逃げ切れなくなって裁判所へ行った。裁判所では一生出世しない。あそこでは医者はスタッフだから、ずーっと最下級層のままです。あれは良かった。だから学校にいてもありとあらゆる手段を使って、絶対に出世しないようにするから校長にならないです。
だいたい、チームワークで動く職業に就かないです。精神科医はほとんど単独行動できる。1人で考えて1人で治療計画立てて1人で処方していける。外科医はチームワークです。チームの決めたことが気に入らないと僕は不愉快ですから、何しろ“おにいちゃん”(「長子」ということ)ですから。おにいちゃんとしては、自分で決めたとおりに世界が動かないとイヤですから、学校の先生みたいにチームで動かないといけないとか、職員室の意向を汲みながら動かないといけないというのは絶対イヤですから、その点でも校長にはならない。
Q
語れないものについてどうすべきか?
A
それは「黙ること」です。ウイットゲンシュタインが『論理哲学論考』でそう言っている。私が大学を出るころ、友だちとの間で話題になったんです。これには2説ある。
語りうるものはすべて語りうる。語りえないものについては沈黙しなければならない。どっちにポイントを置くか。私は、「語りうるものはすべて語りうる」派です。
語りえないものについては沈黙しなけりゃいけないから、語っちゃいけない。語りえないものは黙るしかない。「鬼神は敬して遠ざける」と孔子聖人が言った。東洋人はこれは得意です。フランス人と東洋人の違いは、日本人は語りえないものがあると思っていること。それはしゃべらなくてもいいと思っていること。何もかも語り尽くさなくてもいいと思っていること。ただ日本人の欠点は、語りうるものをきちっと語らないこと。語りうるものについては、例えば人権・差別の問題についても、はっきり定義して構造を示して語ろうよ。曖昧なまま置いておかないで。(回答・野田俊作先生)
Q
人権・差別についてどうお考えですか?
A
人権侵害というのは、国家なり権力を持った人が、権力を持たない人の権利を侵すことを言います。
人権というのは、私に本来備わっている、まったく何もない状態で備わっている権利ではないのです。国家権力というものがあって、国家権力は絶えず国民の権利を侵害しようと思っている。これが西洋人の国家の捉え方です。西洋の国家はずっとそうだったから。今の民主主義の時代になって、国民は一部の国民の権利、例えばさつ人する権利を、国家に渡しました。放棄したのではなくて、委譲したんです。だから国家はさつ人の権利を持っている。例えば、戦争するときに行使する。死刑のときに国家が個人をころしている。ある限定された場合、法で定められた場合、国家は個人に認めていない権利を行使する。それは見張ってないとすぐにその限界を越えて行使する。それで、国家がその権利を越えないように法律で定める。
法というのは国家を規制するもの。公法というのは、「国は何々をしてはいけない」と定めるもの。憲法に基本的人権が保障されているというのは、国民に向かって言っているのでなく、国家に向かって「あなた方は国民の人権を尊重しないといけませんよ、侵害してはいけませんよ」と書いてある。
沖縄でアメリカ軍の兵隊が日本人女性を「れいぷ」したことがあります。日本の警察は被疑者のアメリカ兵を引き渡すように言ったら、米軍は拒否した。理由は、日本では送検されないと弁護士がつかないから。日本の刑事訴訟法ではそうなっている。アメリカの刑事訴訟法では、警察へ行った段階から、検察へ行く前に弁護士がつく。弁護士をつけないで警察に捕まるのは、アメリカ人の感覚では人権侵害です。日本の警察では弁護士がつかないから、警察へ被疑者を渡すわけにはいかない。そこで日本は、犯人と会わないままで送検しました。検察庁なら弁護士がつくからアメリカは被疑者を渡した。このときに日米人権思想に違いがある。人権思想というのは相対的なものです。日本では、被疑者が弁護士なしで警察へ行くのは人権侵害だと一般国民は思わない。アメリカでは思う。これは人権問題だった。
日本の新聞とか人々が、「被害者の人権はどうなるか」と言う。沖縄の女性の人権には何も問題は起こってない。国家は日本もアメリカも、沖縄の女性を拘束したり尋問したり留置したり刑罰を加えたりしない。アメリカ兵個人が沖縄女性を「れいぷ」したのは、人権侵害じゃない。権利の侵害ではある。だって、国家権力が個人に対してやったことではないから。これが人権の定義です。
人権侵害というのは、権力を持つ者が権力を持たない者の権利を侵害すること。しかも最初に、権利の委譲という概念があるので、権力を持つのは基本的には国家です。
マスコミがときどき個人の気に入らないことを書きます。佐渡の拉致家族に会ったりして、『週間キム曜日』が書いたりした。あれは人権侵害じゃない。マスコミは権力者じゃないから、一般にね。ただ、今、法律の世界の通説は、マスコミを権力者の一部だと認める方向に傾きつつある。でも、現在のところ権力者ではない。「個人的な権利侵害」ではあるけど「法的に人権侵害」ではない。ここをきっちり区別したい。
人権というのは相対的なもので、社会によって人権の定義・範囲が違う。日本人には当然人権侵害だと思えることも、中国人は思わない。共産党が思わないだけでなく民衆一般も思わないかもしれない。だから、他の文化の人権問題を本当は扱うことはできない。アメリカ人が、アフガニスタンや北朝鮮の人権問題を口を出すけど、それはアメリカの思想の押し売りでしょう。それらの国はそれらの国で、国家の権力、侵すべからざる国民の基本的人権を決める権限がある。民族自決として。
「国家対個人」でないと人権問題ではない。男女差別は人権問題でなく制度問題です。ある男性がある女性に対して差別的は発言をしたことは、人権問題ではない。差別問題ではあるけど。
国が女性の相続権・選挙権・就職上不利益なこととかを決めていると、これは人権問題です。ある企業、某住友系企業で、同期に入った女性と男性とでその後の処遇が全然違うということで訴訟になったが、訴えた女性は敗訴した。法律論的にはそうなる。私的契約だから。ただ、国家がその背後で国家公務員の企業で男女の差別を設けたとしたら、これは国家権力と個人の問題だから人権問題です。
学校で、人権・差別を意味拡張して教えているのはすごい問題ですね。言葉を正確に定義し正確に使うというのが、近代主義者(モダニスト=構造主義者)の私としては、構造が明確であることが話が通じる条件ですから、そこを言葉の定義を踏み越えて、言葉と言葉の構造を壊して話をして、ある種の団体とかある種の人たちの利益になるほうに誘導するのは非科学的な態度だと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
産業カウンセラーについてどうお考えでしょうか?マクロな会社側に立った考え、ミクロな個人のための考え。現状はどう作用しているのでしょうか?
A
現状はどう作用しているか知らん(笑)。産業カウンセラーさんと個人的なつきあいはあるけれど、実際に会社の中で動いているのに立ち会ったことはないし、どう作用しているか知らん。同様にスクールカウンセラーも個人的なつきあいはあるけど、現場によってみな違うと思う。
私は、個人的な考えとしては、カウンセラーは弁護士と同じものだと思っている。個々のクライエントさんの側に立って、会社なり学校なりに対してクライエントさんを保護するために相談に乗るものだと思っています。が、今の制度はそういうふうにできていなくて、会社なり学校なりの側にカウンセラーがいて、会社や学校の都合のいいように個人を改造するお手伝いをするという制度になっています。
昔、ミッシェル・フーコーが批判したとおりです。かつて精神科医が国の手先になって、精神科の患者さんを国に都合のいい治安維持と生産性向上に向いた人間に改造する役割だったように、今はカウンセラーたちが会社や学校という小さな権力の手先となって、民衆を抑圧するエージェントになっている。それではいけないが、まあそれも、会社の考え方とかカウンセラーさん個人の考え方で、現場ではさまざまあるでしょう。(回答・野田俊作先生)
Q
時々学校を休む小2の息子のことです。途中から遅れて学校へ行くこともよくあります。このごろは、遅れて行くとみんながいじめるのでイヤだと帰ってきたりします。この前、行ったと思ったら、学校近くの雑木林でしばらく過ごして、少し遅めの遅刻になってから、ケロリとして帰ってきました。本人は林の中で勉強したり寝転んだりしてたそうです。上の娘に学校に見てもらいに行ってもらったら、先生に「神戸の事件(=首切り事件)もあったのに、何と無責任な親か」と言われた。私は、「もう1回学校へ行ってきたら?」と言ってプレッシャーをかけすぎたかなと思う。
子どもはその後、無鉄砲なこともせず自分で遊ぶ時間を決めて過ごしていて、良かったと思っています。こんな親は無責任でしょうか?
A
もうちょっと勇気づけてあげて、学校へ遅れて行かないようにしてあげられそうに思う。小学校2年生ならね。もうちょっと「適切な行動」に注目したい。
「遅刻する」というところに焦点を絞らないで、とにかく家を出て行くのは立派だとか、帰ってきても悪びれないで、正直に「学校サボったと言ってくれて嬉しい」とか。子どもとのポジティブなコミュニケーションをもうちょっと増やす努力をする。そしたら、「もうちょっと早く学校へ行けるにはどうしたらいいんだろうね」という相談ができるようになるでしょう。
初めから、「遅刻する」、「この問題を何とか取り除こう」という発想をするとうまくいかない。もっと良いコミュニケーションがいっぱいできて、子どもが「僕はちゃんとやっている。でも“これだけ”足りないんだ」という認識になったら、その「足りないこれだけ」を相談できるようになる。「適切な側面に注目すること」をしばらく濃厚にやってください。(回答・野田俊作先生)