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5歳女子、朝保育所へ行く前のトイレをグズグズ

Q
 5歳の女の子のことです。保育所に行っています。朝起きて朝食の前にトイレに行くのですが、ときどきぐずって泣きます。私について来てほしいのですが、「はっきり口に出して言わないと何もしませんよ」と言っているので、足をバタつかせて泣きわめいても放っています。「口でお願いしない限り何もしませんよ」と言うのですが、なかなか「お父さんついて来て」と言いません。あまり長くなるとそばに行って、「そのままご飯を食べないで泣き続けますか、それともお父さんについて行ってほしいと言いますか?」と選択させるようにしています。自分の行動に責任を取らせるためにと思ってやっているのですが、こっちがイライラしてきます。何か他に良い方法があれば教えてください。ちなみに、いつも最後に小声で「お父さん」と言うんですが、そのときは一緒について行ってやります。

A
 面白いゲームをやっています。これを権力闘争と言うんですね。女の子でしょう。5歳でしょう。朝「トイレについて行ってくれ」と言うんでしょう。この子が18歳になっても「トイレについて行ってくれ」と言うと思う?バタバタ廊下で泣きわめく?かわいいですね、18歳の女の子が「トイレついて行って」と言うと。いつもそういうふうに考えます。
 この子の今やっている行動はずっとやっているだろうか、年を取ったら自然に消えるだろうか。年を取ったら自然に消える行動は躾けなくていい。だって年を取ったら自然に消えるんだもの。そんなところで権力闘争してもしょうがない。機嫌良くついて行ってあげたらどうですか。そのうち言わなくなりますわ。もっと他のところで、「お父さん~してちょうだい」と言ってもらうことです。こんな権力闘争になっているところで突っ張らないで、さっさと諦めてついて行くほうがいい。
 これは育児をするときに大事なことです。子どもの部屋を片づけさせようと思うでしょう。「部屋を片づけませんか」と言って、片づけてくれればいい。無視されて片づけてくれないときに、あくまで「片づけてくれませんか」で突っ張る手が1つある。そんなのは気にせずに、私がきれいな家に住みたいんだから、親が片づけてしまう手がある。どっちもオッケー。アドラー先生はいつも言う。答えは1つではない。
 アドラー心理学の基本的な原理に乗っかっていれば、育児の方法は複数あって、ほとんど何もかも親がやってしまう育児もあるし、ほとんど全部子どもにさせる育児もある。どっちもありうる。最終的なイメージ、最終的に子どもが自分のことを自分でするようになる、最終的に親子が対等な協力的な関係になるということがはっきりしていれば、それで一向にかまわない。
 ですから、無理やり子どもにさせようと思わないこと。子どもに「これをさせよう」の「これ」というのは、いいことであってもとにかく子どもに「○○させよう」というのは支配性です。子どもに自立させようというのは、子どもの自立を損なう動きです。子どもの自由にさせよう、子どもに全部決めさせようと思うのは、強烈な支配です。「あなた方の好きなようにしていいのよ」と言って育てるのは、子どもにとってムチャクチャ窮屈です。最もむごい支配の仕方です。
 子どたちに「Xさせよう」という考え方はいつも危ないので、Xの内容がアドラー心理学に沿ったことであっても、そこで突っ張らないほうがいい。子どもがあっさり引き受けてくれればいいけど、引き受けてくれないときにはさっさと撤退します。とにかく権力闘争しないこと。

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心理学は「底」でつながっているんでしょうか?

Q
 「心理学、カウンセリングで、底につながっている部分がある。それがわかれば、どんなとき、どんなところでも対応できる」と言っている人がいるんですが、ほんとにそんな原理があるんでしょうか?

A
 ないと思う。心理臨床学会という学会があります。だいたい日本のプロカウンセラー全員が入っている巨大な学会です。そこの主流はユング派とロジャース派です。特にユング派の人はカウンセリングというのは究極的には全部一緒だと主張している。ユング心理学の原理にもとづいて。
 ユング心理学というのは曼荼羅(マンダラ)のような構造をしていて、大日如来がいて観音様がいる。あんなふうに、アドラーもいてフロイトもいて真ん中にユングが大日如来のようにいる。ユング自身がそう考えていたので、彼らもそう考えている。そのおかげで、日本では全カウンセラーが集まって話ができる場所がある。ユング派は、いいかげんと言えばいいかげん。包容力と言えば包容力。無節操と言えば無節操。寛容と言えば寛容。両面性があるとことろがユングです。そのおかげでみんな集まる。それは感謝しないといけないけど、でもやっぱり違うと思う。
 アドラー、ユング、ロジャース派は比較的古いタイプのカウンセリングです。今、家族療法、短期療法という新しいタイプの人たちがだんだん増えてきた。その人たちが最初、心理臨床学会で発表したとき、ユングやロジャースの人はたまげた。僕はもともと家族療法だったからびっくりしなかった。だって、お客様の話を聞かないんだもの、まず。「答えは僕たちが知っていてあなた方は知らない。知らない人の話をいくら聞いてもしょうがない。あなた方はこうすればいい。それがイヤならここへ来なければいい」と。子どもが家庭内暴力だ。「よし、家族全員で押さえつけて暴力をふるうたびに5倍も10倍も返そう。登校拒否、そんなん簡単。全員で連れ出して学校へ放り込んでくればいい」。まずいことに、それで実際よく直ったんです。ユングやフロイトやロジャースの人はびっくり仰天して、あんなのはカウンセリングと違う。なぜなら、「お客様の話をよく聞くのがカウンセリングだし、気持ちをよくわかるのがカウンセリングだし、隠された心理を分析するのがカウンセリングだから、どれもしないのはカウンセリングではない」と言いました。
 でも今、家族療法、短期療法も思春期を過ぎてきた。それらができた最初の時代は、彼らも張り切っていて相当無茶な治療をやった。今はさすがに子どもを全員でぶん殴るとか、紐で縛って車に押し込んで学校へ放り込んでくるということはしなくなった。しなくなったということは、じゃあ家族療法や短期療法がフロイトやユングに近づいたかというとそうではない。彼らも成長して、話をよく聞くとか気持ちをわかるとは全然違う原理でカウンセリングを組み立てたということです。
 今、大きく分けたら、古いタイプのカウンセリングと新しいタイプと2つしかないけど、将来3番目ができるかもしれない。

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大人になっても門限を話し合わないといけないのか

Q
 野田先生は娘さん(当時24歳)の門限について話し合ったそうですが、もう大人ですから行動の結末を体験させるということでしたら、何時に帰ろうと誰とつきあおうと親が口を挟まなくてもいいのではないでしょうか?

A
 そういう考えもある。答えは1つではないから。でも、親が不安に思っていることを子どもが手伝うのもいいことだと思う。子どもが不安に思っていることを「こうしてくれないか」と言ったら、たぶん手伝うし、「早く帰ってほしい」と言って、子どもが早く帰ってくれるのもいいことでしょう。「子どもの課題だからかまってはいけない」という考え方はアナーキズムです。人間どうし話し合って合意すれば共同の課題になる。どんなことでも。門限のことも、話し合って合意したからそれでいいんじゃないかな。
 アドラー心理学を学ぶ前は、子どもが合意しようがしまいが、迷惑かけていようがいなかろうが、結末があろうがなかろうが関係なしに、片っ端から口を出しました。アドラー心理学を教えるときに、私だけじゃなくて多くの先生が、「課題の分離をしなさい」「それは子どもの課題です」と言うから、何でもかんでもそっちへ突っ走って、何でもかんでも子どもの課題で、「私知らないわ」となる。それはオッケー。一時オッケー。でも、課題の分離だけではアドラー心理学じゃない。アナーキズムです。
 「共同の課題」がアドラー心理学です。アドラーが理想としたのは、人々が助け合って生きること。助け合って生きるために、まずその下準備として、相手の仕事と自分の仕事とをきれいに分けておかないと助け合えない。相手の仕事を相手にさせないで私がしちゃったり、私の仕事を相手に押しつけたりしたら協力できない。だからきれいに分けている。
 24歳であろうが10歳であろうが、話し合って決まったことなら何だってオッケー。両方が納得すればね。その両方が納得するやり方を教えたいんです。
 「うちの娘が夜、外へ出ていることが悪い」とは言っていない。ただ「2時3時になると私が心配だ」と言っているんです。もちろんそれは私の課題です。私の課題だから私が解決しなければいけないかというと、相談して向こうが「そうね、それももっともだわ」と思って帰ってくれるなら、感謝して帰ってきてもらえばいいじゃないですか。

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子どもの知り合いの子どもとの接し方

Q
 子どもの知り合いの子との接し方で困っています。その子は小学校1年生男子です。私がその子の親のグループと折り合いが悪く、その子はどうも、親のつきあいの範囲外にいる私や子どもに対して、攻撃的な印象を与える行動をしてくるように感じます。基本的に接触はないのですが、先日下校時刻、順番で信号の旗持ちをしていたとき、私に気づいて近寄ってきたので他の子と同じように「お帰り」と声をかけると、顔を近づけニヤっと笑い立ち去って行きました。とても腹が立ちましたが、とっさのことに何もできませんでした。うちの子どもとその子は幼稚園から同じクラスで、その子のいるグループから仲間はずれにされたり、子ども自体その子どもたちが苦手なようです。今は違うクラスになりホッとしていますが、またその子と一緒のクラスになったらと不安です(野田:保護だなあ)。こちらが仲間といるときや、パワーがあるときには手出ししてきません。取りあえず、次の信号の旗持ちのとき、私はどうすればいいか、その子のことを好きになるにはどんな方法があるかアドバイスお願いします。親どうしの関係が子どもに影響する状態なのかと思うと、自分の行動に迷い、自信が持てません。

A
 子どもと子どもどうしの課題、お宅の子とその子との関係は子どもの課題だから、親が関係しないほうがいい。将来同じクラスになっても、「きっとうちの子はちゃんと自分で問題を解決しているだろう」と、親が信じること。そこで親が入るから話がややこしくなる。子どもは自分が努力しなくても、きっと親が助けてくれるだろうと信じるようになるかもしれない。それでは、「自分の人生の問題を自分で解決しなくていい」と教えているのと一緒です。それはまずいから、そんなん気にしないで放っておいたほうがいい。
 子どもとこの質問者の関係、大人との関係も子どもとの関係も一緒です。相手を子どもだと思う自体ことが1つの縦の関係を作っている。だから、そういう人、大人であれ子どもであれ、ある苦手な人がいるんですね。その人とどうつきあえばいいか。相手が大人だと思うと、つきあいやすくなりませんか。「自分の子どもの友だちだ」とかいらないことを考えるからややこしい。そんなこと考えないで、1人の人、挨拶を返さない人がいるときどうするか。変なニヤっと笑う人がいるときどうするか。
 まあ、気にせず挨拶を続けるでしょうね、大人だったら。近所の奥さんに「お早うございます」と言ったら、ツンとして行った。「もう言わないでおこう」とも思うけど、やっぱり「お早うございますと言おう」とたぶん思うでしょうから、子どもにもそうしたらどうですか。

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「先生のいるところに」「先生の言うことを聞く」のはどうして?

Q
 アドラースクールのルールで、「先生のいるところにいなければならない」、「先生の言うことは聞かなければならない」というのは、どういう考え方にもとづいているんですか?

A
 そんなん当たり前と違う?
 それが当たり前でなくなっているところが、日本のアナーキーさだと思う。民主主義というのは何かと言ったら、リーダーがいて秩序があってルールで動くのが民主主義です。
 子どもが学校にいたら先生のいるところにいるというのは、民主主義の一番根底的なシステムじゃないですか。そこのところを疑うということは、つまり民主主義そのものを疑っているということになります。子どもが教育を受けなくていい状態を容認している。つまり、大人が子どもを教育する義務を放棄しているということ。子どもが先生のいるところにいなければならないというのはまったく当然で、議論の余地がないと思う。もし民主主義というものを支持するなら。
 民主主義を支持しないならそれもOKです。「私は民主主義はやめです。アナーキーでいいです。無政府状態で、みんながしたいことをして、“人に迷惑さえかけなければ何をやってもいいじゃないか”主義で暮らす」ならOKだけど、西洋で生まれた民主主義は、“人に迷惑をかけなければ何をしてもいいじゃないか”主義ではない。ルールがあって秩序があってリーダーがいて組織があって動くのが民主主義です。
 日本は民主主義をたぶん取り入れそこなっている。僕たちは、われわれの政府のことを信頼していない。なんで信頼していないかというと、僕らが選挙という行為を大事だと思わないから。選挙を大事だと思えば、いい加減な人は政治家になれない。もっとみんなが政治というものを正面から考えて、候補者たちについてもっとよく知って、自分も政治家になろうと思って、自分たちの代表を出そうと思って、それで選挙していけば日本の政治は良くなる。
 でも、基本的に民主主義というものについて、ちゃんとしたリーダーがいてちゃんとした組織があって動くものだという概念を持たないで、要するにみんなが好き放題にすればいいんだと思って、支配がない状態がいい状態だと思って動くわけでしょう。それはすごく根底的な誤りだと思う。
 アドラー心理学はアナーキズムには絶対反対なんです。みんなが好きなことをして、人に迷惑さえかけなければ何をやったって許されるというわけではない。人間はパワーを出し合って、それをうまくシステムにして組織にして動かないと生きていけない。だから、「共同体に対して自分がどんな貢献ができるかを考えなさい」と、アドラーが常に言うわけです。教師のいるところに生徒がいるというのは、「なぜ?」といったら、「それは民主主義を支持するなら当然」というのが答えです。先生の言うことには従わなければならいのはなぜ?教師はリーダーだから、メンバーが従うのは当然です。
 ただ、教師の言うことに子どもは従わなければならない、親の言うことに子どもは従わなければならないのだけど、それはあらかじめ合意されていること。そのことがルールとして、「この学校では先生が指さしたら外へ出ないといけない」が、子どももそうだと思っていること。それ以外のことには適用されない。「立ってなさい」には従わなくていい。従わなきゃいけないのは「指さしたら出て行け」だけだから。「運動場を1周回って来なさい」には従わなくていい。ルールで合意されてないから。
 ルールで合意されていること、合意されたことが、冷静に怒りや罰を伴わないでちゃんと実行されていることであれば、従わないという理由は何もない。だって子どもはそれに合意したんだもの。

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