Q
不適切な行動に注目しないことと「無視」とは、どう違いますか?
A
まったく違います。例えば、子どもが朝なかなか起きてこない。そのうち、ボーっと起きてきた。さあ、どうしますか?「こんなに遅くなって学校遅れるわよ」と言うと不適切な行動に注目したことになり、黙って知らん顔すると無視したことになります。「ぐっすり眠れて良かったね」と言うと適切な行動に注目しました。
適切な行動とか不適切な行動というのは、実はちょっとだけ不正確な使い方です。そもそも行動は適切でも不適切でもない。子どもがやるたいていのことは適切でも不適切でもなくて中性です。親がそれを適切だと思ったり不適切だと思ったりするんです。客観的に適切とか不適切とかいうのは稀にあります。殺人は不適切です。物を破壊するのも不適切です。泥棒するのも不適切です。そういう誰が見ても共同体に対して破壊的だなと思う行動以外は、たいていは親の主観なんです。
ということは、不適切な側面もあるけど適切な側面もある。その適切な側面の側に僕らは注目したい。不適切な側面の側に声をかけたくない。どっちにも声をかけないのもやめたい。
子どもが非行化して3日ほど家を空けて帰ってこなかった。「あんたどこ行ってたのよ。親に何も言わないで!」と言うと、不適切な側面に注目した。黙ってじっと耐えていると、無視している。「元気な子に育って良かった」と言うと適切な側面に注目した。
「これにはきっと適切な側面があるはずだ」と、まず思ってください。それに声をかける。それから、今まで気がついていなかったさまざまな行動にも適切な“側面”があるはずだから、それにも声をかける。だから忙しいんです。不適切に注目するのをやめるとね。いっぱい声をかけないといけないから。(回答・野田俊作先生)
Q
有効な言葉がけや関係の持ち方はありますか?
A
質問がまずかったですね。言葉のかけ方とか関係の持ち方という考え方は、私は変わらないで相手を変えようという下心がどこかに密かに見えるじゃないですか。むしろ「話の聞き方」とかを聞いてほしいんですよ。家族というのはどんなものかというと、この前「対人関係論」のグルグル回りの絵を描いたでしょう。私と相手がいて、相手が何か言って私が何か言ってグルグル回ってと、認知論者も描くし構築論者も描くんです。どこが違うかというと、認知論者には「芯」があって構築論者には「芯」がない。やっているうちにだんだん芯がないことを発見していったんです。私がいて相手がいて、私から相手に何かを言う。相手から何かを言う。そのとき何か同じところを「芯」があって、コマのようにグルグル回っていると初め思っていたんです。ところが、この話をしているうちに、だんだんこっちへ行く人もあり、あっちへ行く人もあり、違っていくんです。それは、ここの一言で違っていくんです。例えば、「あー医者へ行きたくないなあ」と相手が言って、今度はこっちが「そんなこと言われても家族の生活もあるし、子どもだってそんなに大きくないし」でこっちへ行くんです。「会社行きたくないなあ」「何かあったの?」「いや、別に何もないけど、仕事がうまくいかないしなあ」で、またこっちへ行くんです。それで1時間ほど話すと全然違うことになっているかもしれない。こっちは一家心中しようかという話になり、こっちは頑張って暮らしていこうという話になっているかもしれない。こういうのを家族療法家が見つけたんです。家族療法というのが、今もありますけど、一世を風靡しました。1980年くらい、ちょうど私がアメリカから帰ってきたころには、日本の臨床心理学の世界はアメリカ帰りの家族療法家がいっぱいいまして、で、変なんです、あの人たち、姿が。学会へ行くのに、普通僕らはネクタイ締めてスーツを着て行くんですが、アメリカ帰りの家族療法家はまずアメリカ帰りというのを強調するために短パンかなんかを履いていて、Tシャツかなんか着て背中にドクロマークなんかがついていたりして、椅子へ座ったら足をポンと差し上げて話をしたり、大変アメリカ帰りを強調してみんなに嫌われたんです。彼らはアメリカなりヨーロッパなりヘ行って家族療法を学んできたんだけれど、家族療法家たちは家族というものを1つの生き物と考えるんです。個人は部品なんです。僕らみたいにindividualが主体的に行動しているとあまり思っていなくて、家族がいわば主体的に行動していて、その中で僕らが使われているという捉え方をわりとしていたんですが、じゃあ家族というのはいったい何なんだろうということになり、家族のコミュニケーションをいっぺん観察しないといけない。そうすると、治療に来るのは悪いコミュニケーションをしている家族なんですね。悪いコミュニケーションというのは、誰か毒気を出す人がいるんじゃなくて、売り言葉に買い言葉で悪いコミュニケーションになっているわけです。いったいどこを触ったらコミュニケーションが変わるかと考えて、「そこでこう言わないでこんなふうに言ってみませんか?」と一箇所触ると、うまくいったらガラガラッとシステムが変わって、ガラガラぽんで仲良くなったりするんです、実際に。そこで循環的なやりとりというのを見つけ出したんです。家族の中のreflection循環・反映とかそういうものを見つけ出したんです。われわれもそうだと思うんです。個人の中にあるライフスタイルは変わらないけれどもライフスタイルが家族なり集団の中で暮らし始めると、ライフスタイルのある側面ばっかり刺激されるわけ。いつも奥さんと話をすると、奥さんは将来の心配ばかりするんです。「あなた、世界経済が破綻したって。うちの会社大丈夫かしら?」「大丈夫だよ。日本は安心だ。ドルより強いんだから」「ドルより強くたって輸出できなくなったら難しい」「危なくなったって、病気にならなきゃ大丈夫だよ」「社員の解雇があるんじゃないの?」…とやっているうちに、夫はだんだんムカついてきて怒鳴る。「あんたそんな言い方することはないでしょ。仲良く暮らしたいから言っているのに」「言うこと聞いていると仲良くしたくなくなるよ」と言うわけ。そのとき、私のライフスタイルは変わらないんです。10歳のとき決めたのと同じなんですけど、ライフスタイルの中の「最終的にムカついて怒鳴っちゃう部分」を絶えず刺激してくるわけ。こっちも考えてみたら、向こうが不安になるような材料を絶えず与えている。総合的に分担して悪い方向へ落ち着いている。どっちかの人が答え方をちょっと変えると、違う方へ行くかもしれない。家族療法家たちは家族を観察してそこで、「俺は病気になったから」と言うのをやめて、だいたい助言は「もう少し相手の話を聞いてみませんか」なんです。こっち側の安心材料を向こうに与えようとするんです。「どんなことを心配しているんだい?」と聞いたら違う展開になるかもしれないなあ。そこが家族療法家の無責任なところで、システムは必ず良いところへ安定しようとしているから、変えさえすれば良くなるんだと言う。そこはすごく不安なんです。変えさえすれば一家心中だってあるかもしれないと思うんだけど、何か1箇所変えたいんです。それはそれとして、僕らはもうちょっと家族療法家よりは共同体感覚とか横の関係とかのドグマに凝り固まっているので、良い方向になるかもしれない。家族療法家たちは、アドレリアンは良い家族像を治療者が先に持っているところが許せないと言うんです。僕たちは、横の関係で協力し合える、目標が一致して話し合える家族を作ろうとしている。これがちょっと傲慢だと言う。家族療法家がすべきは何か一箇所コミュニケーションを変えるだけで、そのあとどういう家族かを選んでいくかは家族自身が選んでいくことで、横の関係とか共同体感覚とかいう思想をそこへ持ち込んではいかんと言う。僕らは思想を持ち込まなければ人間は愚かであるから、一家心中するかもしれないと思っているんです。
いずれにせよ、有効な言葉がけ、関係の持ち方というポジションから降りてほしいんです。相手の考えをもうちょっと聞いて。「仕事に行きたくないなあ」「もうちょっと話をして」と。何かできることはないか、私に何ができるかを絶えず考えたい、その中で。「仕事に行きたくない」「辞めたい」と言う夫に対して、あるいは家族に対して会社に対して私にできることは何だろうって、考えながら聞きます。聞いてるとだんだん見えるかもしれない。わかんないけど。要は、どういう言葉がけをするかではなく、どういう「問いかけ」をするかです。(回答・野田俊作先生)
Q
その時々で個人の主体的な決断を左右するものはいったい何なんでしょうか?
A
個人は2つのものの間で決断をします。1つはライフスタイルで1つはライフタスクです。個人そのものはライフスタイルに支配されていないんです。ライフスタイルを使うだけなんです。こういうのを「使用の心理学 psychology of use」と言います。ライフスタイルも使用されるんです。ライフスタイルが僕らを所有しているんではない。一方にライフスタイルがあって、一方に外からやってくるライフタスクがあるわけ。で、このライフタスクを放っておけないと思う。「うちの子どもが勉強しない」とか、「うちの嫁はんは金を使いすぎる」とか、「うちの姑はちょっとボケてきた」というのがライフタスクです。そのまま放っておけない。何かしないと。どうするかというと、ライフスタイルと相談するわけです、どうしようって。うちの子ども勉強しないなあ。「いいんじゃない」というライフスタイルもある。「私は楽をしたい。めんどくさいことは避けたい」と思っているから「そのうち何とかなるでしょう」という結論に達して何もしないという人もいる。子ども勉強しないなあ。「私は優秀でなければならない」と思う。「子どもも優秀でないといけない」と思う人は、「人は優秀でないといけないとこの世に所属できない。落ちこぼれる。神経症になる。ホームレスになる」というライフスタイルで、「是非勉強しなさい!」と言う。ライフスタイルさんとライフタスクさんとの間で行ったり来たりしながら、「よっしゃ、こうしよう」って行動するんです。こういう考え方なんです。つまり、1つ1つの行動というのは、体が動くことだけじゃなくて、感情の動きとか内蔵の動きとか全部脳が作り出す動きを行動という。それはどうやってできるかというと、「ライフタスク×ライフスタイル」の計算でできるだろうと、こう思う。えらく線形なんですけど、1つ1つ行動について、「これはなんでか?」というと、ライフタスクがあってライフスタイルがあって、それゆえにこうしよう。こういう考え方をサイコダイナミックス(精神力動)と言います。ダイナミクスというのは物理学の力学ですから、ちょうど物理の公式のように、質量と重量とパチッと式で出てくるという感じで、精神力動と言っています。われわれの一々の行動はこうやって決まる。もっともこれは主体的決断で、そうしないこともできる。いつもだったら「勉強しなさい!」と怒鳴るところなんだけど、こないだ「パセージ」に出たら、怒鳴ると子どもが勇気をくじかれるので、そんなときは怒鳴らないで、「君は勉強についてどう考えているのかな?」って言うこともできるんです。そのときにはライフスタイルを使ってないんです。全面的にまったく使ってないということはないんですけど、いつもライフスタイルから出てきた精神力動的な答えと違う答えができるんです。違う答えがなんでできるかというと、「柔らかい決定論」だからです。アドラー心理学は、絶対的に行動が決まるわけじゃないんだって、いつも個人の自由意志という幅があって、違うことができる。その違うことは無限にできるかというとそうでもないんで、パセージに出たからといってやっぱり怒鳴る人もいるんです。なんでやっぱり怒鳴るかというと、意志が弱いからじゃなくて「怒鳴ろう」と決めているから。「怒鳴ろう」と決めなくて、パセージの魅力のほうが怒鳴るよりも大きくなれば怒鳴らなくなります。(回答・野田俊作先生)
Q
あまり人を類型化してはいけないとのことですが、大嫌いな同僚を人格障害だと思いたくなるのは危険な考え方でしょうか?
A
もちろん危険な考え方です。僕は若い精神科のお医者さんと話をする機会がわりとあるんですけど、「人格障害という病名を付けないでね」と言っているんです。「精神科医が自分の患者さんに『人格障害だ』という病名を付けるのは差別なんだ」って。要するに「あの患者はイヤな患者だとか、あの患者は嫌いだとかいう意味のことを、医学的に難しく言っているだけで、そんなものを病名にするのは「イヤな患者」って意味でしょう。それはパニック障害とか強迫性障害とかと同レベルのものじゃないんです。価値判断が含まれているもの。価値判断が単語自身に含まれている単語は使わないほうがいいと思っています。「あの人はパニック障害だ」とか「強迫性障害だ」とか言うのには何も価値判断は含まれていませんからね。逆に、医学でも価値判断が何となくくっついた単語はあるにはあるんです。例えば、「痴呆」。「老年痴呆」というのを使うのをやめて「認知症」に変えました。なんで変えたかというと、「痴呆」という語彙そのものに「ボケて愚か」という感じがあってイヤだと言う老人たちがいっぱいいたんです。医師の側はdementiaという英語を翻訳して使っていたんですけど、「痴」にも「呆」にも意味があると思っていなかったんですが、「まあそう言うなら変えましょう」となった。それから「精神分裂病」は「統合失調症」に変えました。「分裂しているというのが具合が悪い、感じが悪い」と患者さんたちが言うんですけど、僕も「精神分裂病」という名前は良くないと昔から思っていたんです。あれは「精神統一病」なんです。へんなところに精神を統一しすぎているから、「UFOの命令だ」とか言うから、もっと分散してくれという意味なんです。特に精神医学の領域では、価値判断の含まれた単語を避けたいんです、いつも。患者さんがイヤだと言うと「はいはい」と病名を変えるんです。病名なんていうのは、ほんとは精神分裂病とか統合失調症とか僕らは思ってないので、F2だと思っているから、F2なんです。躁鬱病はF3なんです。全部国際病名分類の番号で覚えているから、何でもいいんです。科学者としては、名前というのがただの符牒ですから、そこに特別の社会的な意味がこめられていると思わないんですが、でもやっぱり入り込んでくるんです、いつも。特に「人格障害」personality disorderというのは、アメリカでも評判の悪い病名なんです。そんなものを病名として認めていいのかと。今、精神科病名分類は、大きく分けて2つあります。WHOが作ったICD(International Classification of Diseases国際疾病分類、今10)とDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders精神疾患の診断・統計マニュアル、今バージョン5)というのが出回っています。すごく立場が違うんです。どっちを取るかで日本の精神科医の中で争いがあって、僕は絶対ICD派なんです。ICDには「人格障害」という概念がないんです。DSMではすごく大っぴらにある。病名分類そのものの中にそういう価値判断がある疾患分類に反対なんです。まあ日常で人格障害という言葉を使いますから、もっとわかりやすく「イヤなヤツ」とか言うほうが誰にでもわかっていいと思う。(回答・野田俊作先生)
Q
神経症ってそもそもどういう状態のことでしょうか?
A
神経症というのは症状があって、何かの不安とか動悸とか食欲不振とか不眠とか症状があって、しかも体の検査、脳波とかCT検査とかをすると、何も異常がない。だから「形の病気」ではなくて「働きの病気」なんです。脳の形が潰れちゃっているの、形というのは別に脳に腫瘍ができていなくても、脳の何かの物質代謝かなんかが壊れていて、セロトニンが増えてるだのノルアドレナリンが減っているだのがあれば、これは器質性ですが、神経症というのはどうもそんなんじゃないみたい。いくら生化学的な検査をしても何も出てこないけど、症状だけしっかりある。こういうのが神経症です。古典的には神経症を4つか5つに分けています。僕らが一番よく出くわすのはパニック障害というやつで、不安になってドキドキドキしたりして、ひょっとしたら過呼吸になってしびれてしまったりする、そういう病気ね。それから強迫性障害といって、細かいこと例えば鍵を閉めたかどうか、ガスの元栓を閉めたかどうかとかが気になってしょうがなくなって、他のことができないとか。それから癲癇(てんかん)性障害といって、あるいは解離性障害といって、二重人格になったり三重人格になったりして、突然ポコッと変わるんです。で、その間のことを覚えていない。あるいは脳波異常があるわけじゃなくて失神する。それから体の麻痺。何も体が悪くないはずのに、右手がずっと動かないとか、眼が見えないとか。そういえば皇后陛下がいっぺん声が出なくなったね。あれは亀さんの功徳で治ったんだそうです。小笠原島へ行かれて、ウミガメの放流をしているときに、いきなり「あなた海へ帰るのね」と言ったんだそうです。それで声が出た。亀の功徳ってありがたい。あれはヒステリー性神経といって、畏れ多いことながら病名はそうですね。別に耳鼻科的にはどこも悪くない。そういうのを神経症という。その神経症という病気が20世紀の初めごろの大変大きな話題でした。19世紀は現代の医学というものが出来上がった時代です。医学は昔のギリシャ時代からもちろんありました。昔の医学は、体液病理説といって、大学で習いました。どんな人が講義すると思いますか?おじいちゃんです。日本医学会の理事かなんかでヨボヨボなんです。難しい顔をして講義をしてくださった。体液病理説。血液とか胆汁とか黒胆(メランコリア)といって黒い胆汁と粘液と、4つの体液がバランスがあってそのバランスが崩れると病気になる。これ、ギリシャ時代以来の病理説です。体液病理説が最終的に崩れて細胞病理説というのができます。細胞病理説というのは、病気は細胞の異常だという説です。細胞の異常とはどういうことかというと、目で見えるということです。病気は目で見える。体液だと目で見えない。だから顕微鏡で体の細胞を見たら、病気のときは必ず細胞の形態的、形の上での異常がある。この説は病気を観察可能なものにしました。初めて医学が完全に科学として自然科学として語れるようになりました。誰がこういう偉いことを言ったかというと、フィルヒョウです。ルドルフ・フィルヒョウ。フィルヒョウ先生はウィーン大学の教授で、ウィーン大学の病理学と内科学の教授で、アドラーがウィーン大学に入ったときにはもういらっしゃいませんでしたが、アドラーはフィルヒョウの愛弟子から内科学とか病理学とかを習ったと思う。細胞病理説というものの発祥の地へアドラーは入学します。フロイトはたぶんフィルヒョウから直接習っていると思う。アドラーより14歳年上ですからね。こうやって全部の病気を顕微鏡で見るようになりました。そこで漏れたのが神経症です。それまで謎だった心筋梗塞も糖尿病も高血圧もみな体の細胞のどこかに何か異常が見られて、「あ、ここだね」と言ったのに、神経症はいくら習っても特定の病気ではないんです。それである種のお医者さんたちが神経症に大変興味を持ちました。最初に神経症というものをきっちり医学的に見ようと思ったのはフランスのシャルコーという神経科の先生です。フロイトはシャルコー先生のところへ留学しました。アドラーはフロイトと一緒にいたのでシャルコーの影響がありますが、要するにようわからん。疾病分類、型の分類はさっき言ったヒステリーだとかパニック障害だとか強迫障害だとできたんですが、もとになるものがわからなかった。でまあ諸説ありますが、アドラーはこれを劣等コンプレックスと言ったんです。生物学的な病気ではなくて心理学的な病気なんだと言いました。(回答・野田俊作先生)