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依存症への関わり方

Q
 依存症の人への関わり方を教えてください。

A
こんなん言うたらいかんと言うてるでしょ。依存症の人なんかいない。AさんとかBさんとかしかいない。だから依存症の人への関わり方というのはありません。1人1人みんな違うと思う。まあ大雑把に依存症的な性格とかいうものあるように思わないでもないが、そうでなくても依存症になる人もあるし、依存症的な性格なのに依存症にならない人もあるし、ピタッと一致しなんです。だからそれよか1人1人の人と向かい合って、その人に対してして私のあげられることを考えるほうが、健康な考え方だと思う。

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認められないと安心できない

Q
 人に認められないと安心できないんです。どうしてもこれにこだわってしまう。自分自身を生きることはつらいです。何かヒントを。

A
 人に認められないと安心できないのは、人間はみんなそうです。「みんなから無視されてみんなに忘れられたいものだ」と思っている人は、あまりいない。
 私がアメリカにいたとき、シャルマン先生が喩え話をしていました。昔、ドイツの深い森の中に小さな村があった。その村から20キロ離れた誰もいない森の中に、隠者さんが1人で暮らしていた。誰とも交わらずにほぼ自給自足していた。あるとき、雷が落ちて村が焼けた。村の人は、100キロ離れたところに村ごと引っ越しした。隠者さんも引っ越しして、その新しい村から20キロの所で1人で暮らした。「どんなに1人で暮らしている人でも、絶対、世間とある距離で関係を持っている」と彼は言った。
 認められたいし、ほめられたいし、愛されたいんです。「認められたくない人間になりたい」なんて変なことを思わないように。それは、人間のごく普通の方向性だから。
 問題は、どうやって認められるかです。目標はOKなんです。有名になりたいも、権力を持ちたいも、認められたいも、愛されたいも、全部オッケー。どんな方法で認められるかです。例えば、ものすごく悪い犯罪者になって、人でもころして警察に捕まって新聞に載って全国に有名になるのは、確かに認められる方法ですが、その方法は駄目です。そうではなくて、共存共栄的に自分が自分の目標を追求するんです。自分にはプラスがある。その結果、周囲の人にマイナスがある。そういう方向は具合が悪かろう。周囲の人にもプラスがあるような、そんなふうなやり方、お互いがプラスになっていくようなやり方はないかしらん。互恵(共存共栄)的な方向はないかしらんというのが、アドラー心理学の抱えている問題意識です。
 僕はアドラー心理学で一番好きな部分はここなんです。人間は、本来わがままで欲張りで、私利私欲だけ追求している利己的なものなんです。絶対にそうです。どこまで行ってもそうです。修行しようが神様にお祈りしようが何しようが、結局、利己主義者です。それはそうだけど、自分が自分の目標を追求する結果、周囲の人が得したり損したりする。周囲の人にどんな影響を及ぼしているかのほうに目を移して、自分の目標追求で、周囲の人が得していたらそれでOK。損してたらそれはいけない。人に認められる。それはOK。どうやって認められるか。みんなも自分も得する方向で認められる方法はないか。
 今私がここでお話しているのは、あなた方に認められたいという強い欲求からかもしれない。たぶんそうです。でもあなた方は損してない。私が知ったかぶりしている結果、あなた方はそこから何かの利益を持って帰れる。それはいいことでしょう。あるいは、ただお金儲けたいだけかもしれない。要するに、人々を騙してお金を儲けようと思っているのかもしれない。だいたい基本的にはそうです。あなたがたは騙されているかもしれない。騙されても得している。ここで支払う以上のメリットがあるんじゃないかと思って、ここへ来ているんでしょう。たぶんあるだろうと私も思っているので、共存共栄です。そしたら、私が欲張りで見栄っ張りで認めたがりでお金儲けたがっていて、一向にかまわない。どうせあなた方も欲張りで見栄っ張りだから、お互い様です。認められたい、儲けたい、愛されたい、そのことを悩まないでね。それは基本的に何も問題はない。

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子どもの喧嘩をほうっておいてもいいか?

Q
 子どもの喧嘩を放っておいてもいいのでしょうか?3年生くらいだと大きな怪我をすることはありませんが、5年生くらいになると恐い気がします。治る怪我はいいけど、取り返しのつかないことになると困ります。また、他の子がただの傍観者になってしまうのではないか、子どもの中に腕力による序列がついてしまうのではないかと気になります。

A
 これ学校の先生なんだな、きっと。
 アドラー心理学はユダヤふうで、契約思想です。契約がないと動かない。この場合も契約がないから動かない。「子ども1」がいて「子ども2」がいて、「子ども1」と「子ども2」に喧嘩というコミュニケーションがある。そして「大人」がいる。大人と、喧嘩している子どもたちとの間に、何も取り決めがない。「助けてくれ」とも「手伝ってくれ」と言われてない。そうすると、「これは子どもたちの課題だ」と言う。
 まず自分の課題と相手の課題とを分けたいと思う。スマイル(パセージの前身)では「課題」、カウンセリングでは「責任」という言葉をよく使う。自分の責任と相手の責任。喧嘩というのは、子どもたちの責任でマネージすべきことです。喧嘩もそうだけど、怪我させないようにマネージするのも子どもたちの役割で、それを学んでいかないといけない。
 だいたい普通の発達で、中学に入ったころに自分が相手を傷つけるくらいの力を持ったことに気がついて、暴力的な喧嘩はほぼなくなっていくんです。それまでは力がないのでわりと安全に喧嘩をする。喧嘩をすること自体は正常な発達ですよ。猫や犬はしょっちゅう喧嘩をするでしょう。それは別に異常な事態ではない。動物が子ども時代はそうやって育つもの。それは別に困ったことではない。喧嘩のマネージメントができるのは大事なことですね。
 私は喧嘩は強いんです。合気道3段です。今は弱いけど昔は強かった。喧嘩が強いのはすごくいいことです。というのは、絶対に喧嘩をしないですむから。ムチャクチャ自分は強いから、したら絶対に勝てると知っているから喧嘩をしない。したら相手をころ
すかもしれないから。威張っている上司とかがいても、最後暴力になったら俺が勝つと思うから、しない。喧嘩が強いのはいいことね。空手、ボクシングを習うのはいいことね。それで人間が乱暴になるとは思わない。
 喧嘩そのものは別に問題だと思わない。子どもたちはマネージメントができるだろうと思う。できそうにないなら、お話しておけばできるようにだろう。
 喧嘩のやり方があるんです。髪の毛引っ張ったらいけない。殴るのはいい。ぶん投げるのもいい。日本人はあまり蹴らないけど、韓国人は蹴る。テコンドーの影響か。そういう何とない子どもの間の喧嘩のやり方のルールがあって、まあ卑怯なことはしないということがわかる。わからなければ大人が教える。「喧嘩してもいいけど、つねる、髪の毛引っ張るは駄目で、殴るか投げるか、せめて蹴るくらいにしてね」とか。「相手が泣いたら終わり」。それさえできていれば、別に頼まれないのに口を出すことはない。あとは全部子どもの課題です。教育的責務は果たしたから。「つねったらいけない」と教えましたから。
 それでも、怪我させるかもしれない。心配でしょうがない。それは自分(あなた)の課題です。子どもの課題ではない。喧嘩で大怪我したなんてことは普通ない。小怪我はあるけど。それでも心配でしょうがないなら、“心配性”という自分の課題を自力で克服しないといけない。自分の心配をなくするために子どもたちに喧嘩をやめさせるのを、「課題の肩代わり」と言う。本来自分が自分の責任ですべきことを他人にさせているので、とても良くない。そういう意味でこれは放っておいていい。いくらか基礎知識さえ子どもにあれば。
 契約になることがあるんではないか、共同の課題になるんじゃないかという意見もある。それには僕は反対です。ならないです。負けた「子ども1」が言いつけに来た。「いじめられた」と。勝った子は「勝った-」と言いつけに来ない。これで共同の課題になったから、じゃあ、いじめたほうの「子ども2」をやっつけに行こうというのは、あまり共同の課題になってない。「いじめられた」と言ってきたら、確かにその子は喧嘩を話題にしてきた。だから話題にはしましょう。でも共同の課題になったのは、言いつけに来た「子ども1」と大人の範囲だけです。「子ども2」は関係ない。この「子ども1」が喧嘩に勝つ方法を、逃げ方を教えるのがフェアで、「子ども2」のところへ行ったらフェアでない。ここだけで解決しないといけない。両方が来て、「どっちが正しいか判断して」と言ったら、それなら、してあげたらいい。そんなことは滅多にない。だいたい片っ方が言いつけに来る。
 学校というところは、「現場の実情がある」と言う。それは私の知ったことではない。現場の実情は自分で悩んでください。アドラー心理学の側には妥協しなけりゃならない理由はない。アドラー心理学はアドラー心理学の原理で押し通す。それ以上のことはそっち側でやってください。

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友人関係を長く続けるには?

Q
 最近、友人関係がうまくいかず悩んでいます。初めのうちは良いところばかり目が行き楽しいのですが、そのうち相手のイヤなところが気になり、相手に合わせていくのが苦痛になってしまいます。今までのパターンだと、こちらが距離を置くようになってそのまま音信不通になることが多かった。今の友人とはそうなりたくない。友人関係を長く続けるコツがあったら教えてください。

A
 ちょっとだけ離れて音信不通にするんですね。人はいつも、思い切り食べるか断食するかは得意で、ちょうど適量食べるのが下手です。真ん中へん、ちょうど適量につきあうのは難しい。でも、できないことはない。気をつけていれば。意識していれば。
 断食するか腹いっぱい食べるかでなくて、ちょうど自分にも耐えられ相手にも耐えられる真ん中があると信じてください。その真ん中へんを時間をかけて見つけないとしょうがない。もしもつきあっていきたいなら。
 質問を読んでる途中で、「そんなん別れたらいい」と言おうと思ったが、「別れたくない」と書いてあったからしょうがないから答えましたけど、その道は難しいよ。お酒を適量飲むとかタバコを適量吸うとかと同じようにとても難しい。人間には不得意な技です。

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物語なしに生きられるか?

Q
物語なしに生きられないものでしょうか?

A
 物語なしに生きられません。みんなある物語の中の配役です。多くの人は複数の物語の中の配役です。
 今、「家庭」という1つの物語がある。かつては家族制度というのがあった。「家」という物語があった。戦争が終わるまで。うちだと、野田家というのがあった。おじいちゃんなんかはこだわっていた。僕ら全然信じられない。私は今や野田家という物語を生きてない。家庭という物語は生きている。何か一緒に毎日飯を食う仲間がいる。他の人とは違う。昼ここで社員さんとご飯食べているのと、うちへ帰って家族とご飯食べているのと違う。社員さんが話しているのを中途半端に「ハンハン…」と聞いている。うちではそうはいかん。「明るい家庭」という物語を生きないといけないから。「いやそれは困ったねえ。どうしたらいいかねえ」と言う。一方、ここは「会社」という物語がある。そこには僕の職場のイメージ、ストリーがあって、その中の登場人物に自然になっちゃう。人間はみんなそうやって生きているということは認める。
 ポスト構造主義者の言うことは正しい。でも、彼らが言うようにいろんな物語の中でまったく分裂して別の人になるんじゃない。その背後に根本に無意識の一貫した流れ(構造=冗長性)があり、その中で変わっていっている。私はヒラメ論です。環境によって色が変わるのはカメレオン論。でもカメレオンそのものはいる。ものまで変わらない。色は変わるけど。

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