Q
小学校のスポーツ少年団にいますが、さまざまなタイプの母親と子どもがいます。私にとって見ていてつらいのは、子どもを怒鳴りつける母親です。チーム全体に関わる場合、少し行動の遅い子どもを怒鳴りつけています。また親によっては蹴飛ばしたりしています。暴力的な躾には困惑していますが、それが正しいと信じているようです。子どもの教育は大切なことですが、高圧的な大人が子どもを支配する集団の中で、私が子どもたちと接するとき、どのような態度が望ましいでしょうか?
A
ドライカースは「不適切な行動をする人は勇気がくじかれている」と言いました。ということは、怒鳴りつける母親は勇気がくじかれているんです。普通人間はまず最初に理性的にやさしく説得するとか教えるとかきっとします。それがうまくいかないときに、だんだん勇気をくじかれて、怒鳴っちゃったりするんです。「PASSAGE」の課題シートを見てもそうですね。最初、「ねえ、もうそろそろ宿題しない?」と言っているんです。そのうち、「何してるのよ、こら!」と怒鳴るんです。なんで勇気をくじかれるかというと、もちろん子どもが反抗するということもあるけど、適切な対処法をまだ学んでいないからです。だから、まずその人たちは勇気をくじかれている人なんだと思ってほしい。どうしたらその人たちが勇気づけられるかというと、その場合には適切な対処法を学べばいい。どうやったら学べるか。人間には3つの学び方があります。1つは、試行錯誤で発見するという原始的な動物的な方法があります。1つは、本とか人の話から学ぶという方法があります。1つは、人のやっているのを見てモデルを見て学ぶという方法があります。この勇気をくじかれている人が、一番抵抗なく受け入れられそうなのは3番目です。モデルを見ることだと思います。アドラー心理学式の接し方をやっていてそれが子どもに対してうまく成功している場所を見せれば、「そうか、ああやればいいんだな」とそのうち学びます。2番目の「あなた、そのやり方よりもこっちのほうがいいわよ」と言うのは、たぶん勇気を余計くじくと思う。「あなたはダメだ」と言っているんだもの。勇気をくじかれている人に対して援助にならない。試行錯誤は、今までさんざん試行錯誤した結論がこれですから、これ以上試行錯誤してもらってもしょうがない。だから答えは、その人にかまわず、ちゃんとした対応を見せることね。きっと学ぶと思う。それから、その人が間違ったことをしているとか、よくないことをしているとかいう側に注目しないこと。アドラーはいつも、「正義というものが最も危険な思想だ」と言いました。「私は正しくあなたは間違っている」というのが人の勇気をくじき、共同体感覚なく振る舞うというのが一番ありそうなんです。アメリカ人の問題点は「自分が正義だ」と思っていることで、その被害たるや大変ですからね。「私は正しくあなたは間違っている」というポジションから降りること。「どうやったらこの人を勇気づけることができるかな?」と思うこと。ご本人に対してはまず尊敬すること。一生懸命やろうとしているけれど、目標は正しいんだけれど、手段はまだ知らない。だから、子どもをちゃんと躾けて良い方向に向かわせようという熱意は、その人のパーソナル・ストレングス。そこにはコメントしよう。「一生懸命躾けてくださってありがとうございます」と言おう。「何してんのよ、あんた!」から始めないでおこう。その人のプラスの面から話を始めよう。一方で自分がちゃんとやっていることを見せていると、その人との関係が良くなれば、その人は私のやっていることを学ぶだろう。関係が悪ければ、「私が正しくてあなたは間違っている」と見下げていると、関係が悪いから、どんなに私のやっていることが良くても、プラーベートセンスで、「あれは甘やかしだとか放任だ」としか見えないから、学ばない。
Q
私的意味づけに私的感覚が影響するのですか?(逆さまだと思うな)。私的感覚と共通感覚の関係がよくわかりません。私的感覚が集まったのが共通感覚になるのですか?また私的感覚は幼いころにできあがってその後変化しないのですか?
A
かなり混乱しているようですから、ゆっくり整理しましょう。まず一番根本にプライベートミーニング「私的意味づけ」があるとします。「私的意味づけ」とは相対的マイナスと相対的プラスのことです。I am~、それからPeople are ~、World is ~、それから I should be ~ですね。一番根底にこれがあって、ここへいろんなライフタスクが来ます。人生の諸課題。人生の諸課題をアドラーは、仕事と交友と愛に分けた。なんで仕事と交友と愛に分けることができたかというと、外側にある自然とか猛獣とかを僕らがあまり考えなくてよくなったから。大体人間の悩みは「他の人間」ということに最近なりました。人口も増えて大変密集して暮らしているので、他の人間が気になる。これいつごろから他人をこんなに気にして暮らさなきゃならなくなったかというと、興味あるんですけど、歴史学者によると鎌倉時代の村って村落ってポコッと集まってないんです。何年か前に富山県の砺波というところで、アドラー心理学会の総会をやったけど、あそこの村は鎌倉時代の構造で、1軒の家があってまわりに田んぼがあって、隣に家があってまわりに田んぼがあって、家と田んぼとがくっついているんです。家はバラバラで、自分とこの田んぼがまわりにある構造をしている。今の集落は家のある場所がカチャッと塊まっていて、そこから田んぼへ出かけていくでしょう。そういう家だけ集まった村ができるのが大体室町時代です。それまでは分散して暮らしていた。分散して暮らしていた時代は、人間関係の悩みは少なかったでしょう。その代わりに対自然がすごい大変だったと思う。川の氾濫なんかに隣近所が協力してやるにしても、隣は遠いもの、簡単に協力できなかったでしょう。僕らが集合して生きたのは、対自然もあるけど、たぶん戦国時代で、よその国の軍隊が来たきたときに協力体制がとれるようになった。それからだんだんどこの国でも人口密集して暮らすようになりまして、お隣さんとかご近所さんとかが気になりだして、仕事のタスクと交友のタスクと愛のタスクというのが来ます。しょっちゅう来ます。家はライフタスクの塊のようになりました。そこへ帰るとライフタスクがいっぱい来るんです。その都度、ライフスタイルとライフタスクと見合わせて行動が出てくる。プライベートロジックがあって、「ああ、こうね」という筋の通った理屈がライフタスクの種類によっていろいろ出てくるわけでしょう。そのプライベートロジックにもとづいて具体的な行動が起こると思う。そのプライベートロジックがある時点で、行動というのはつまり、思考「こう考える」ということと、感情「こう感じる」ということと、行為「こうする」ということが出てくるわけ。プライベートロジックが出てくるには、ライフタスクをプライベートミーニングが見つけて「ああこうね」と解釈がここに入ってくる。この解釈がプライベートセンスです。「これはこういうことね」って思うこの人独特のプライベートセンスがプライベートミーニングから出てくる。これが連動していてプライベートロジックができる。「ただいま」って帰ったら、奥さんが「お帰り」と言わないで、向こうをを向いている。「おー、これは危ないぞ」。向こうを向いていることになんで気がつくか?全然気がつかない夫だっているかもしれない。気がつくのはプライベートセンスで気がつく。「私のものの捉え方」で気がつく。「これは危ないぞ。何か対策を立てねば。そうだ、『今日はどんなことがあったか』聞くべきか」と考えているのは、これはプライベートロジックです。で、「ねえ、今日はどんなことがあった」というのが行為ね。そんなふうに人間は動くと思います。そういえば、先日うち(アドラーギルド)の事務のおねえちゃんが、帰りがけにすごく機嫌が悪かったんです。すごい恐いの。あの人普段はすごい機嫌のいい人でプンプンしないのに怒っている。みんなで「なんだろうな、なんだろうな」と言っていた。彼女は「皆さん、気がつかないの?」。「あのー、何でしょうか?」。みんな気がつかない。誰かが、「あー、髪の毛切った?」と言った。髪の毛切ったことにみんな気がつかなかった。言われてみれば、ずいぶんたくさん切っている。昨日まで長い髪をカールしていたのを切ったのになんで気がつかなかったかというと、プライベートセンスです。彼女は「なぜ気がつかなかったの?」と言うから、「男性は女性を見るときに、口では言えないけど髪の毛でないある場所を注目している。どこって聞かないでね。髪の毛までなかなか目が届かない」と言ったら、一応赦してくれた。これ、プライベートセンスです。なんでプライベートセンスができるかというと、私の目標追求の中に「女性の髪型は大して重要なデータじゃない」と書いてある、というか「他に重要なデータがある」と書いてある。いつもは気をつけているんですがね。クライエントさんには、髪型の変化というのはすごい大きなデータで、女の人が髪型が変化するとか、男の人が服装、いつもネクタイ締めている人が普段着で来るとか、あるいは普段着の人がネクタイ締めてくるというのは、人生の方向性を変える変化だから気がつくんだけど、「スタッフはクライエントではないから気がつかなくていいや」、というプライベートセンスが起こるから気がつかない。いろんなことを気がついたり気がつかなかったり、記憶に留めたり留めなかったりするということをプライベートセンスと言う。センスというのは「感覚する」、「直感的に感覚する」ことですから。これはまだロジックじゃないから、言葉にならない。「髪の毛切ったね」と気がついたらプライベートロジックなんです。「切ったね」と言葉になる前に髪を切ったのを全然見てないのはプライベートセンスです。プライベートセンスもプライベートロジックもプライベートです。「わたくし勝手」なんです。それを、「○○さんの髪は今日はどうだったでしょうか、皆さん」と言って、みんなが「今日変わってましたよ」と言ったらコモンセンスなんです。コモンというのは統計を取ったら多くの人がそう感じているとか、統計をとったら多くの人がそう考えているのがコモンなんです。コモンセンスとかコモンロジックというのはプライベートじゃないけど、でもほんとじゃない。共通感覚と共同体感覚との区別ができない人がいるんだけど、共通感覚というのは理論的なことなんです。「べき」とは関係ない。みんなで調べたらこうだったということ。日本の国が自由主義で、国民の生活を政府があまり制限しないのがいいというのは、コモンセンスでコモンロジックだと思う。みんなそう感じている。だからちょっとでも政府が僕らのすることに干渉すると、「えっ、そんなことなんで言われるの?」と思う。ここへコモンセンスが出てくる。多くの人がイヤがる。消費税上げるというとイヤがる。プライベートロジックです。それはライフタスクの種類によっていくつか種類がある。それはプライベートセンスとペアになって、ある捉え方をするから理屈ができるわけです。
Q
強迫神経症の症状も目的があって作り出されているのでしょうか?
A
すべての行動には目的があると、アドラー心理学は考えます。すべてだから目的のない行動はない。目的と言わないで、すべての行動には理由があると言うと、全心理学が賛成します。なんでかというと、もしも理由のない行動があると、心理学が科学として成り立たないから。理由のない運動があると、物理学が科学として成り立たないように、すべのものには曰く因縁があって、理由があるんだよというのは、科学者が持っている1つの迷信なんです。まあ基本前提なんです。理由のない行動は1個だけにすればいいんですけど、僕は屁理屈をこねるから、「実はこんな理由がある」と言います。フロイトの『日常生活の精神病理』という本があって、これが一応臨床心理学ですべての行動には理由があるという線をはっきり打ち出した最初の本ですが、フロイトが取り上げているのは、ど忘れとか言い間違い、言葉をちょっと言い間違うという類いのことです。あれにちゃんと生活上の理由があると論証でもって書いているんですけど、あんなの屁理屈です。フロイトがどんな論証をしたかはどうでもよくて、「すべての行動には理由がある」と主張したことがどうでもよくない、すごい大事なことで、初めて「臨床心理学は科学だよ」と言ったのと同じことです。多くの心理学者は理由イコール原因だと考えたんです。「すべての行動には原因がある」と考えたところから袋小路に入っていきました。なんで袋小路に入っていったかというと、心理現象は物理現象ほど単純じゃないから。多因多果で非線形ですごい複雑な因果関係の中で物事が起こるので、確かに理由あるけどそれを1個の原因に特定することができないから、すべての行動には原因があるという心理学は成功しません。アドラーは「すべての行動には目的がある」と言い直しました。目的というのは何かというと、それは要するに相対的プラスのことで、優越の位置のことです。優越の位置というのは生物学的に言えば生存で、社会学的に言えば所属で、心理学的に言えばI should be~で、「私はこうでなければならない」です。それが目的です。そうしたら、強迫神経症の目的は、I should be perfect.です。「私は完全でなければならない」。逆に「私は決して失敗してはならない」。それは無理なんです。強迫神経症で洗浄恐怖で手をきれいきれいに洗う人の洋服って、大体汚いんですよ。机拭く人の床って大体汚いんですよ。エネルギーそんなにたくさんないから、ここをアルコールできれいに消毒したら、残りを消毒する暇がなくなって家の中は無茶苦茶汚い。でも彼らはあんまり気にしない。そこさえパーフェクトであればね。だから一応「私は完璧でなければならない」という目的はある。
Q
成人して結婚、3人の親となった中間子。親に心配をかけます。仕事のこと子育てのこと、別居して離れているので助けてやりたいができづらいです。来たときにすぐ話を聞いたりしていますがどうしたらいいかわかりません。
A
えー、どこかへカウンセリングを受けに行く。新大阪でも高知でも。1時間ゆっくり考えてみる。カウンセリング受けても良いアイディアないんです。なんでないかというと、カウンセラーはあなたの生活を知らないから。カウンセリング受けるとしゃべりたいんです。しゃべるとしゃべっているうちに自分で気がつくんです。「あ、そうか。こうすればいい」と。うまくしゃべれるように援助するのがカウンセラーです。問題の解決に向かうように質問を組み立てるとか。極端に縮めて言うと、「で、あなたにできそうなことはありますか?」と聞けばいい、最後に。その前に、「あなた自身のパーソナルストレングスね、あなたの長所とか得意技とかそういうのありますか」と聞けばいい。あるいは、「子どもさんとか夫さんとか親とかの良い点とかこれからもっと延びてほしい点がありますか?」と聞けばいい。それを聞いてから「あなたに何ができますか」と聞く。人間の考えを僕らがどう捉えるかというのはまだ決まってない。みんないろんなことを言っているんですが、僕は、口に出してしゃべったことが初めて考えになっていると思っている。頭の中でモヤモヤ考えているのは、モヤモヤ考えているのを仮にそのままで聞いたら、ほとんど文章にもなっていなくて論理にもなっていなくて、大体堂々巡りだったり千切れ千切れだったりします。人にわかるようにしたとき初めて自分でもわかります。人にわかるように説明する前は自分にもわかっていない。だからカウンセリングするんです。カウンセリングというのは、相手が自分のことを理解するように、その理解にもとづいて次の段階をどうすればいいか自分で計画できるように援助する。だからカウンセリングを受けてみてください。助言は大したことをもらえない。カウンセリングというのは、助言をもらいに行く場所ではない。自分の考えをまとめに行く場所です。新しい考えが出てきます。
Q
先生のお話をうかがっていると、「刑法」の責任論を思い出します。統合失調症の人や未成年者は刑を減免されますが、責任を負わせられない人というのはいるのでしょうか?
A
心理学は刑法の責任論に反対なんです。僕、論文書いたことがあるんですけど、心理学にとっては全員がその範囲内で責任を負えているわけで、別に統合失調症だからとか認知症だからといって刑を減免する理由はあまりないと思う。刑法が心理学を採用しないのはOKなんです。僕らが刑を決めるわけではないもの。刑法には刑法のロジックがあって、基本前提があって、1つは犯罪者に対して更生の援助をしたい。刑務所とかへ入れて、職業訓練をして、将来犯罪を犯さないように生きていけるようにしていくという援助をしたいというのが1つある。もう1つは応報刑で、懲罰を与えることによって、被害者や社会の納得を得たい。犯罪者にあんまりニコニコした待遇を与えてはいけない。拘置所や刑務所は夏暑く冬寒いようにとか、ご飯はなるべくおいしくないようにとか、つらい目に遭ってほしいんです。つらい目に遭うことが教育的だとは思わないけれど、社会に対して、つらい目に遭わせていますよということで、被害者に満足感があるでしょう。世の中でよく言うのは「刑罰を厳しくすれば犯罪は減るだろう」と。あれは統計的にはほとんど価値はないと心理学者はそう思っているし、教育法に関係する人たちもよく知っている。少年法を厳しくしたからといって、少年犯罪は減らない。そんなことで減るような人は初めからしてないわ。やるヤツはどんなふうに法律が変わってもやるわ。抑止効果というのも社会が求めているんです。社会がもっと刑罰を厳しくしてくださいと言うので、じゃあしましょうかという一種の社会の懲罰に対する満足感としてはやります。中国なんか「公開銃殺刑」ってありますもの。中国と日本とどっちが犯罪が多いかというと、向こうのほうが多いもんね。犯罪統計はきっちりないけど、中国の裏情報系のインターネットサイトがいっぱいあるんです。あんなところへどこかから情報が漏れ出てきているのを見ていると、最近の中国はかなり犯罪が多いんです。刑罰は無茶苦茶厳しい。でもあまり効果はないですね。本人の社会的更生半分、1つは社会に対する「罪人を罰しているよ」という満足半分でやっていて、これはどっちにしても僕らとロジックが違うんです。われわれは援助を求めてきた人と目標の一致をして協力するという枠組みの中で心理学をやっている。こっちで言っていることを向こうの、援助を全然求めてない犯罪者に対して懲罰を与えるという場所へ持っていくのは無理なんです。責任というのはそういう前提なしに中空にあるわけじゃなくて、刑法という文脈の中で責任というものがあり、心理療法という文脈の中で責任というものがあり、親子関係という文脈の中で責任というものがあるから、一般論として論じられない。だから心理学としては、統合失調症者や認知症のばあちゃんに責任能力はありますかというと、あります。ありますと思わないと治療できない。「この人たちは心神耗弱状態で私が何を言っても自分で判断できないんです」と思ったら、治療そのものが成り立たない。認知症のおばあちゃんに対しても統合失調症の患者さんに対しても、心理的に援助できる部分はしようと思っているから、その人たちの責任能力を認めないとしょうがない。