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愚痴や悩みを聞いていると暗い気持ちになる

Q 
 母が父の悪口を言う(うちの母も言うなあ)。職場の同僚が人事の不平をこぼしたり人間関係の悩みを訴える。それらの話を聞いているけど暗い気持ちになってしまう。アドラー心理学は、自分が変わることしかできないのならば、最良の選択は小細工をして相手を操作するのではなく、聞き流すことでしょうか。それともあまり意見しないことでしょうか。

A
 私なんて、人の愚痴を聞くことを商売にしています。全然暗い気持ちにならないんですよ。だって、その人にしてあげられるのはまずその人の話を聞くことだと思うし、こちらの問いかけの具合によってだんだん話が変わるというのを、1つの実感として持っている。相手がどんな人でどんな話をするかは私によって決められている。だから、私の母が「お父さんは家族のことなんか考えないで、好きなことばっかりしているよね」と言ったとします。確かにそうけど、今までずっと何十年も一緒に暮らしてきてね、そのようでない時もあるのではないか。僕から見ていて、「これいい所よねというとこともあるよね」と言うと、「それはないこともない。家庭人としてはうんざりするけど、職業人としては立派かもしれない。仕事は確かに熱心にするね」「熱心にするおかげでいい暮らしができるね」「まあいい暮らしができて幸せなのかもね」とかなっていくと、ちょっとポジティブになっていくかもしれない、話としては。だいぶ時間はかかるかもしれないけど。話をしながら、私も片棒を担いでいるんだと、いっぺんに話をガチャーンとひっくり返すわけにはいかないけど、小さな変化を、聞き終わって次に言うひとことで小さい変化を良いほうか悪いほうかへ起こせるといつも思う。別に母親を変える気はないけど、話を変えたい。母親は全然ライフスタイルは変わらないけど、母親の暗い面でなく明るい面を刺激するような質問ってないかと考えながらやっていると、その積み重ねが良い循環に変わるかもしれないと思う。一応これは作戦だから、今日の話をあとでノートに書いておこうと思う。母親にこう言ったのはよかった、こう言ったのは悪かったと、パセージの課題シートみたいに。それを1週間くらいしっかり学ぶと、「これしたら次こうなる」というのが見えてくるでしょう。そうしたらうちの中で暗い話を聞かなくていいし、母親のほうも暗い話で幸せになるわけじゃないと思う。「お父さん、好きなことばっかりしてきてけど体は元気だったし、元気なのは良かった」と言うようになるかもしれない。だから相手を別に操作しようとは思わないけど、コミュニケーションは操作できると思う。コミュニケーションは僕にとっても幸せだけど、相手にとっても幸せだと思う。その意味ではできることはいつもあると思います。

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横関係で親から子どもに伝えるべきこと

Q 
 軍隊では目標の一致がとれたときは縦関係ではないことは理解できました。夫婦間でも何かありますか?親子関係において目標の一致は難しいと思うのですが、横関係でありながら親として伝えるべきこと伝えたいことについて、もう少し聞かせてください。

A
 例えば、お勉強について子どもと話したいんですよ。「あなたは結局どうしたいの?」。大体話はここから始まります。僕はよく「日本の親」と、こう言うんです。われわれは「日本の子」を育てるんです。「日本人の大人に君はもうすぐなるわけで」、この国の中でどういう役割を担いたいんですか?」と、こういう切り出し方をする。この切り出し方そのものがかなりテクニカルで、すでにある方向を決めてしまっている。国のため人のために役に立つ人間にならないといけないという前提で話をしている。これは何かというと、「あなたの好きなように生きなさい」とか「あなたの趣味に生きなさい」ということはまったく初めから話にならないということを言っている。「この国の中でこの国を生き延びさせるために、円滑に運営するために、あなたは何をするのか?」とまあ聞くわけです。こう聞くと、子どもは何のことやらわからないから、「大きくなったら日本人としてどんなことをしたいですか?」と言う。そうすると、「医者になる」とか「エンジニアになるとか」。とても結構。「そのエンジニアになるとしたら、どんなコースがあるか知ってますか?」と聞く。大体知らない。みなそんなふうにものを考えてないから。まあ、今の制度の中では、エンジニアになるには工業高校という手が1つある。工業高専という手もある。大学の工学部という手もある。どの学校を出たかでもって、将来の企業の中での位置が大体決まる。大学の工学部の大学院修士課程とか博士課程を出ていると、大体指導的なエンジニアになって、たくさんの人たちを指導しながらチームのボスになっている。工業高校を出ていると、あまり責任を取らなくていい代わりに、「これやってね、あれやってね」「ハイハイ」と言って使われる。「あなたの一番いいのを取ってもらえばいいよ」と言うと、子どもはしばらく考えます。大体の子どもは野心が大きいから大学へ行くことになる。あまりディスカレッジしてなければ。大学院のできたら博士課程まで行こうよということになれば、まあ大学へ行かないといけない。工学部というと理系ですね。そのまま大学院までつながっている工学部はあまりたくさんない。文学部とかこのごろ流行の国際関係学部とか人間科学部というとどこにであるけど、工学部ではというとわりと少ない。工学部へ行くためには高校へいかないといけない。高校も選択範囲が狭まる。理系の工学部へ行きますという線で高校を選ばないといけない。「ところで君は中学1年生です。毎日どうすればいいでしょうか?」「勉強せんといかん」「勉強するについて、親にできることはあるか?」「しばらく自分で勉強してみるわ」。3か月くらいして一向勉強しているふうでない。テレビ観たりして。それだと、もう1回話をします。「この前、工学部へ行くことになってとてもいいことだと思うけど、目標に向かって努力できていると思いますか?」「努力足りないと思いますね」「どうやったら努力できる?1人の力でできるか、塾へ行くとか、家庭教師をつけるとか、親が毎日うるさく言うとか、何かできることがありますか?」「塾行ってみようか」。「塾行くについてはお金を払わないといけない。ただではない。もし大学院へ行っていただくと、計算上は塾の費用がこれだけとしまして、高校がこれだけで、大体これだけです。だから君に対する投資が350万円です。これから6年間。その350万円についてはどうしてもらえますか?」。大体、働いて返すと言う。先行投資です。あとで回収できるという見込みがないと、親としてはあまり投資したくない。全然見込みのない下がる株は買いたくないでしょう。教育というのは完全に投資なんです、親の立場からすると。僕たちが歳取ったら働けなくなります。今この国は、はっきり社会主義国家なんですよ。所得格差是正ということを戦後ずっと言い続けてきました。自民党も野党も言い続けてきて、極端な格差是正をやったので、超貧乏人と超金持ちの所得格差が100倍ない。アメリカだと1万倍くらいある。だからこの国は結局貧乏人の国なんです。僕たちの老後の保障もほとんどない。年金だけでリッチに暮らせるほどの年金をもらえる人はいない。子どもが僕を養ってくれるのは計算に入れておかないといけない。働ける限り働きたいと思うけれど、働けなくなる時が来る。子どもに養ってもらわないといけない。そのために僕らは投資をしている。おばあちゃんになってもおじいちゃんになっても、ちょっとくらい贅沢したいじゃない。毎日たくあんと塩昆布で茶漬けというのもイヤなんで。もうちょっと何か食べたい。どうやったら食べられるかというと、今350万円払うか払わないかです。これは年金の積み立てなんです。ここは子どもに自覚してもらいたい。親は子どもに当然金を払うべきなんかじゃないんです。子どもの人生計画に僕らが賛成して投資するので、彼が工業高校を出て使いっ走りになるのはかまわないんです。投資は安いけど回収も安いから、もうちょっと回収できるところへ行ってくれたら嬉しい。だから子どもを子ども扱いしなきゃいい。子どもをちゃんと僕たちと同じ目を持って、尺度でものを計れる人として扱えば、大体10歳になれば、発達上で言いますと思春期に入るころには、完全に大人と同じように考えることができるので、僕らの話は通じます。「お年玉ちょうだい」と言ったらあげるけど、「ちょっとしたら返してね」と言う。これは投資なんです。

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柔らかい決定論

Q 
 最初から「自己」があるわけじゃなく、対話の中で行動を決めていくということだったと思うのですが、話し合いの中で行動を選んでいくことを「柔らかい決定論」と言うのでしょうか?

A
 あのね、「柔らかい決定論」というのはライフスタイルを使ったり使わなかったりすることなんですよ。さっきの「対人関係の輪っか」の中での話は、ずーっとライフスタイルを使っているんですよ。決心して今ライフスタイルと違うことをしようなんて思ってないんです。しかもある夫婦は不幸になり、ある夫婦は幸福になるんです。そこで僕たちが助言して、いつも「何してんのよ、あなた!」と言うのをやめて、「もう少しお話してもらえませんか?」と言うじゃない。で、「もうちょっとお話してくれる?」と言ったときに柔らかい決定論が使われているんです。その瞬間ね。で、柔らかい決定論を使わなくても、個人のあり方というのが絶えず環境との相互作用の中で変わっていく。しかもその個人をその個人は自分だと思う。例えば、イライラしている人はずっとイライラしているんです。家でもイライラしているし職場でもイライラしている。それが自分だと思っている。私ってイライラする人間だと思っている。あんまりイライラするので、旅に出ようと思います。旅に出て三重県の沖、船に乗って三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台になった神島という島がありまして、民宿へ泊まって夕方何もすることがないので浜辺へ出ていくと、おじいちゃんおばあちゃんが集まって夕日を見ながら、みんなでお話しているんです。神島のおじいちゃんおばあちゃんはよくしゃべる。「あんたどこから来たの?まあお入りよ」と言われて、お菓子食べながら何やかんやと話をしていると心がスッと穏やかになって、いつもの家庭といつもの職場の自分ってあれウソなんだと、自分はほんとはこんなに穏やかで心豊かな人間なんだ。いいなあと、3日間くらいここで暮らして退屈になって、休みが終わって職場へ帰りまして、奥さんの顔を見てしばらく心豊かなんですけど、「神島でこんなことあってね」と言うと、「あんたそんなことよりうちの子どもがちっとも勉強しないのよ」と言われて、だんだんイライラしてきて、職場へ行ってもしばらく心豊かだったのに、課長が「ここんとこ業績が上がっていない」とか何とか言い、だんだんイライラしてきて、神島のときの俺ってウソなんだと、イライラが本当なんだとこう思いますが、どっちが本当なんでしょう。どっちも本当なんです。ライフスタイルの別の側面が出てきている。ペルソナと言うんですけど、人間ってたくさんの顔を持っているんです。ライフスタイルは1個しかないんですけど、コミュニケーションの中で違う私が作られるわけ。作られるけどライフスタイルは変わってないんです。これだけだと柔らかい決定論はないんです。固く決定されているから。ここから出られるのは柔らかい決定論があるから出られるんです。

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向上心、怠惰

Q 
 前回、「人には決められないことがある、することもできないというのがアドラー心理学ではとても重要です」ということを教えていただいて、ずいぶんまわりで起こっていることを楽に考えられるようになりました。自分の思いどおりにならないことを苦にしていましたが、できないことやわからないことがあるのは当たり前とそれほど気にしないことだと思いますが、向上心がない、怠惰だと見えそうです。どう考えればよいでしょうか?

A
 向上心とか怠惰とかいうのは価値観です。価値観は事実でなく思想ですから、別に向上心なく怠惰に暮らすのを美しくないとは思いません。近代、いつからか?1600年くらいから近代なんですけど、近代という時代は何だったのかというのがここ10年くらいの大きな論争のテーマです。日本ではちょうど第二次世界大戦が始まって1年ほどしたころに、近代の超克という名前の討論会がありまして、それが本にまとめられています。当時、「日本というのは何なのか」「日本の文明というのは何なのか」「日本は世界史の中で何をしようとしているのか」ということを考えなきゃいけないとみんな思っていた。あの戦争は、何も考えないうちに戦争になったんです。戦争が終わったあと、マッカーサーが思っていたように、「集団防備でみんなで世界征服しよう、おー!」とやったわけでは全然なくて、ヒトラーみたいに「何が何でも世界征服するぞ」と全然日本人は思ってなくて、なんやあれやったりこれやったりしているうちに、だんだん戦場が広がっていって、気がついたらアメリカと戦争してしまっていたわけです。そんな状態で困って、僕たちは一体何をしているんだと思ったので、まあいわゆる文化人ね、小林秀雄とか林房雄とか哲学者や科学者が集まって大変大規模な討論会をしました。大体それぐらいから日本人は、一体近代文明というのは正しいのか正しくないのか、もし正しくないとしたらどっちの方向へ乗り越えないといけないのか考え始めました。いまだに何も結論は出ていないです。結論は出ていないけど、近代が何をやってきたかというのはだんだんようわかってきました。それ以来一生懸命考えてみてから。要するに世界征服、物理世界の征服をしていたんです。ルネ・デカルトという人が、科学の力を使えば物質世界を人間は完全に支配することができると、『方法序説』という本の中で言いました。それを実際にやってきました。何のためにやってきたかというと、豊かな暮らしができるように。マルクスが共産主義で目ざしたのは、生産力を大きく上げてしまうと貧富の差がなくなる。あれはうまくいかなかった。で今度ケインズさんやアダム・スミスさんなんかがやったのも、人間の欲望を正面から肯定してしまうと、みんなが儲けたいから生産力は上がる、欲望を全肯定しておいて、生産者は生産者でお金持ちになると思い、消費者は消費者でいろんなものを買いたいと思い、みんなで一生懸命勤勉に働いて向上心を持っていたら、生産性が上がって貧富の差がなくなって、差別のな良い社会が来るだろうと、まあ思っていた。資本主義のほうがある程度成功しました。ある程度成功しましたが、成功してみた結果わかったことは何かというと、要は、幸せじゃないということ。何か忙しいんです。何かどっかが違うよ。鬱は増えているし、子どもも伸び伸びしてないし、みんな勉強せんといかんし、すごいたくさん働かないといかんし、家族もゆったりくつろいでないし、何かどこか違うんです。いまだに近代の超克、近代思想・近代文明を乗り越えて次の段階へ何とか行きたい、方向はわからないけど行きたいなあとみんな思っているんです。だんだんそれは深刻な問題になってきている、いろんな点でね。われわれは大きな力を手に入れました。核科学、原子爆弾・水素爆弾なんかあって、日本国を滅ぼそうと思ったら、中国が2,3発撃ったら終わりです。そんなのひどい世界だと思わない?それはあんまりですし、最近の話題だと、金融資本主義ね。あれはものすごいね。世界の総生産、1年間何もかも作って作って作って全部の生産量が大体5000億ドルくらいなんです。ところが、株式とか先物取引で動いているお金が1年間6000億ドルくらいなんですって。総生産量より大きいお金が、何も買ったり売ったりせずに実体経済と関係なく飛んでいる。そういうわけで株式や先物取引の総計がどれだけかわからない。ある学者の統計によると、2京か2万億ドル、そんな単位聞いたことない。それくらいのお金が株式の形でどこかに置いてある。生産量より多い株式って一体何なんだろう。何もないところでお金が作り出され消えていくマジックが発明されて、ひょっとしたら来年再来年くらいに飢餓とかパニックが起こるかもしれない。今のところない。隠しているから。見えてくると恐いから。もう1つ、生物学というのもめちゃめちゃ恐いと思う。今僕たちが一番びくびくしているのは鳥インフルエンザなんですけど、鳥インフルエンザというのは名前が良くなくて、風邪でしょと思うけど、全然風邪と違う。僕たちが普通かかるインフルエンザは、まあそんなには死にません。全然治療しなかったら、それでも数パーセント死にます。今治療も良くなりました。鳥インフルエンザが人間に感染すると、少なく見積もっても30%、多く見積もって60%の致死率です。もしも日本に鳥インフルエンザが入ってきたら、日本の人口が6000万くらいに減ります。恐ろしい。僕は一応缶詰を買います。一応1週間分。お医者さんたちは6週間分。6週間分の缶詰ってすごい量です。3メーター近づかなければうつらない。3メーターくらいしか咳は飛ばないので。3メーター近づくチャンスというのは、普通、電車だけなんです。電車に乗らなかったら鳥インフルエンザにならないから、日本に入ってきたら、私は自宅へ閉じこもろうと思っています。だいたい5,6週間で死ぬべき人は死にます。その間耐えればいい。なんでそんなことになったかというと、生物学の1つの成果で、密集して鶏を飼うんです。今、養鶏場を見ると、すごい狭い鶏小屋に空中に網の上で鶏さんを育てている。卵を産むと後ろへコロコロと卵だけ流れる。なんであんなに密集して飼えるかというと、感染予防のために餌の中に抗生物質が入っているんです。抗生物質を食べているからすぐ隣の鶏さんとこっちの鶏さんとで病気がうつらないんです。これは恐いですよ。あらゆるところで抗生物質が使われている。例えば、養殖の魚も餌の中に抗生物質を入れているから、あんな狭いところで密集して暮らせる。だって広い海を泳いでいたハマチさんや鯛さんがあんな狭いいけすの中で泳げるなんておかしいと思わない?絶対病気になるのにならない。薬がしっかり筋肉の中に入っているので、食べたら体の中に入りますから、ご用心と言ってももう遅い。もうちょっと違う文明を作っていかなきゃいけない、時間をかけて。だから勤勉じゃなくなって怠惰になると、近代文明の中でえらい暮らしにくいけど、いいじゃないですか、未来を先取りしてて。

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精神発達

Q 
 エリクソンの言うライフスタイルの精神発達についてどう思われますか?

A
 エリック・エリクソンね。エリック・エリクソンは全面的に間違っています。なぜなら彼はフロイディアンだから。アドラー心理学はフロイトに対するアンティテーゼとして出てきたんです。要するに「5つの基本前提」に全部○を付けました。エリクソンは全部×を付けています。一番根本的なスタンドポイントが違うんです。でも、邪悪だとか人類を不幸に導くとは思わない。ただ、われわれとまったく話が通じないんです。まったく話の通じないものに批判するも批判しないもしようがないから、エリクソンの発達段階を僕らは使いません。じゃあ、発達段階について何か使えるアイディアはないのか?アルフレッド・アドラーは発達段階についてほとんど何も言いませんでした。教育や児童心理をやっていく上で、発達の段階がないというのも不便です。僕の先生のバーナード・シャルマンはハリー・スタック・サリヴァンという先生の発達段階を使いました。サリヴァンはフロイトの弟子筋なんですが、フロイトに全然忠実じゃなくて、きわめてアドラーに近いです。サリヴァンの書いた本はすごい読みにくいんです。無茶苦茶な悪文家です。この人のお弟子でチャップマンという人の書いた本がいくつか和訳されています。チャップマン先生の発達論の本が出ています。誠信書房か。サリバンは、乳児期・幼児期・児童期・思春期4期・成人期・初老期・老年期に分けました。乳児期というのは言葉が出ると乳児は終わりです。二語文が出るのがだいたい2歳くらいで、乳児から幼児になります。幼児が児童になるのは、友だちができると児童です。友だちというのは、勝手に子どもどうしで次々新しい遊びを見つけて遊べるようになる友だちです。親とか保育士さんとかが遊びを設定してあげなくても、子ども自身で遊びをクリエイトできると児童期です。だいたい5歳です。思春期に入るのは、思春期型の親友ができると思春期です。児童期の友だちは大きなグループですが、小さなグループで同性で閉鎖的で仲間と仲間でないのとをはっきり区別して、遊びのテーマがはっきり決まっているのが思春期型グループ。この反対が児童期型グループです。だいたい5年生、10歳か。5年生になるとクラスの中がパッとグループに分かれたりする。あれは思春期に入ったから。それからこの時期を、前思春期と言う。次、思春期前半・思春期後半に分けて、思春期前半は、異性に関心ができて何となくグループで異性と交際をする。男の子の親友グループと女の子の親友グループという単位でお誕生会をやってみたり、どこかへ遊びに行ったりすると思春期前半です。個人交際して2人で消えちゃうと思春期後半です。だいたい中学1年生の終わりから2年生になると、多くの子が男の子のグループと女の子のグループで何となく一緒にいたりする。それまではえらい憎しみ合うんです、男と女が。前思春期って無茶苦茶憎しみ合っているみたいです、両方でどういうわけか。それが何となく気がついたら一緒にいるなんてことになって、高校2年生くらいになると、「あいつらどこへ行ったの?」とパッと消えるという恐ろしい現象が起こって、性的な関係というのはそれと関係なく起こるんです。あんまり親密さと関係なく欲求だけで性行為をするのが思春期前半からあったりする。それでもやっぱり人間関係を見ると変わってない。思春期後半から前成人期。これはわりと人によって違うけど、親からの自立。物理的には大学へ行ったりして、親元を離れるというのがありますから、物理的に別れるというのもありますが、心理的にも18,19歳くらいになると、あまり親を「お父さん」「お母さん」て感じじゃなくなって、まあ「ああいう人もいるわね」と感じでクールになる。完全に独立してしまうと成人期です。親から経済的・精神的に完全に独立してしまうと一応成人期です。サリバンの時代の感じとしては、サリヴァンはアドラーよりもちょっとあとの時代の人ですが、サリヴァンの時代の感じとしては、結婚にしているとか子どもがいるとかいうことが成人期と関係している、自立していることと自分が結婚するということが関係がある。そこが今問題です。親からの完全自立をなるべく遅らせようとする恐ろしい作戦が進行していて、35歳くらいにならないとなかなか。結婚しようが子どもができようが、お年玉をせびりに来るとかいうようなことが起こります。こんなの年齢はアテにならないですけどね。子どもによって前後があります。初老期というのは、子どもが自立する、子どもがなかったらどうなるか?子どもがなかったら初老期にならないかな?夫婦2人がポツッと残されると初老期です。老年期というのは、生産的な活動から全部退職してしまうと老年期です。退職しないで生涯現役を貫くと老年期にならない。実際、生涯現役をやっている人は若いんです。体もね、政治家とかね、実業家とかね。定年を楽しみにして、定年になったら新しいことをせずに、……ちょっと難しいんです。年金がもたついているから。昔、年金がすぐ出てきたりすると、退職してすぐに何もしなくなったりすると、急速に老化しましたね。
 サリヴァンの発達段階表の良いところは、完全に人間関係のあり方からだけ分けているところです。内的発達を一切無視して。外から観察できる、家族との関係とか交友関係だけから発達段階を分けていて、しかも実際での観察とぴったり一致するところです。だいたいアドラー派の人で発達段階の話をするときは、サリヴァンの発達段階表を使いながら、前思春期がどうの、思春期前半がどうのと話をします。そのほうがエリクソンよりはるかにわかりやすいです。

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