Q
小学校の事務職員です。縦の関係を脱却するというのは、子どもの横であり担任の横でありもしくは教員・校長の横である位置を探るということなのでしょうか?子どもからも担任からも相手に対する不満を聞かせてもらうことが多く、どう対応したらいいものか試行錯誤しています。
A
なんやようわからん質問や。あのー、今日質問少ないからたくさんしゃべろう。
アドラー心理学の用語がたくさんあって、例えば劣等感というと、他人と自分を比較して自分が劣っていることだと思うんです。でも、アドラー心理学では劣等感をその意味ではまったく使わない。アドラー心理学では、自分の理想と比較して自分の現実が劣っていることを劣等感と言う。これが定義です。自分の理想というのは、人間は目標追求をしていて、生命があるということ、生命活動があるということは目標追求をしているということですから、人間には必ず劣等感があるんです。劣等感がない状態というのは、死んだらなくなるんですけど、死なない限り劣等感があるんです。なぜかというと、劣等感というのはまったく内的なものだから。自分の理想と自分の現実との比較だから、そういうふうに定義するから、すべての人に劣等感があると言うとすんなり来るんです。劣等感をなくするのは不可能です。「しね」と言うのと一緒ですから。
横の関係とか縦の関係とかもアドラー心理学上の定義があります。横の関係というのは、協力して問題を解決するような関係です。縦の関係と言うのは、誰が上で誰が下かを決めようとするような関係です。誰が上で誰が下か決めるのではなくて決まっていたら縦の関係ではない。だから、校長先生がいてヒラ教員がいても縦の関係ではない。総理大臣がいて一般住民がいても縦の関係ではない。誰が総理大臣かをみんなで争っていたら縦の関係です。普通僕たちは社会的な身分制度について争いをしないです。戦国時代の下剋上じゃないから。どんなことで争いをするかというと、誰が成績が良くて誰が劣っているかとか、誰が理解が早くて誰が理解が遅いかとか、誰が駆けっこが上手で誰が駆けっこが下手だとか、誰が正しい考え方をして誰が間違った考え方をしているかとか、誰が美人で誰がブスかとか、誰がカッコいい男の子で誰がカッコよくない男の子かとか、誰が歌が上手で誰が下手だとか、誰の絵が良く描けているかとかで上と下の争いをしているわけです。
現在僕たちの縦関係というのは、ほとんど学校と関係があります。学校で成績とか評価とかいうことと関係しながら争わせるとか、あるいは正不正、誰が正しくて誰が間違っているかを、学校の先生は決めたがるんです。例えば、牛乳瓶かなんか出してあったら、「誰が出したの?」と聞くんです。「あの子が出したの」「じゃあ呼んでらっしゃい」「あんた自分で出したらちゃんと片づけなさい」「僕出したんと違うもん」「じゃあいったい誰が出したの?」「あいつが出した、こいつが出した」と言い争いをさせている。あれ何してんの?その間、牛乳瓶そこにあるんよ。それよか誰が片づけるか決めたほうが良くない?「誰が出したの?」と聞くより、「誰が片づけてくれますか?」と聞くのよくありませんか。誰が出したかはよろし。「片づけてくれる人はいますか?」と聞けばいいのに、誰が出したかを決めたいんです。なぜ決めたいかというと、誰が悪人かを決めたいから。誰が善で誰が悪かを決めたい。あるいは学校では滅多にやらないけど、誰が美しくて誰が醜いか、美人コンテストをやったりする。善悪真偽美醜、そうであるかとかそうでないかとかをみんなで争って決めようとする関係を縦の関係と言います。
学校が激しい縦の関係でやってまいりました。昔はのんびりした時代で、そんなことをあまり気にしなくても学校にいられた。お勉強しなくても別にどうってことなかったんですが、だんだんだんだん競争が悪化してきて、どうしてもそういう縦関係の中へ子どもが入らざるをえない状況を作ってしまいました。まあ学校もそうですが塾もあって、塾との相互作用で。それが今度は社会へはみ出していったんです。学校の縦関係が社会へ漏れ出していって、成績評価を社員さんになってもやるわけ。営業成績を評価して、「いくらいくら売れました」「あなたは目標に到達していません」と言われる。そうやって勤務評価されて序列をつけられて、能力給で給与格差がついて、あまりにも能力がないと思われた人は解雇されて、そうでもない人はいわゆる窓際で網走かどこかへ送られて、本社へ残って最後まで生きようと思ったら、学校的評価として上のほうにいないといけないという社会を作ってしまった。これが縦社会です。
江戸時代の封建社会は縦社会じゃないんです。士農工商の身分はあったけど、あそこでは争いがなかったから。お百姓は将軍になろうとしてもできなかったもの。誰が将軍か誰が殿様か初めから決まっていたもの。あれは縦社会でない。今が縦社会です。上下を争う社会。それが今の学校なんです。それを横社会に変えたいんです。横社会というのは例えば軍隊は横社会なんです。軍隊は将軍がいて上官がいて部下がいますが、内側で誰が上官で誰が部下か争えないもの。みんなで敵をやっつけるということに協力しますから、あれは横社会です。横社会というのは、みんなが役割分担をして協力して問題を共同で解決する社会です。
ここで2つ重要なアイディアがあって、1つは共同の問題だということ。「PASSAGE」を学んだ人の1つの悪い癖は、何でもかんでも課題の分離をしまくって、「あれは私の課題ではありません。これも私の課題ではありません」と言って、完全の自分の課題ゼロという世界へ入って、完全に無責任に生きて、「これでアドラー心理学できました」と言っている。違うので、アドラー心理学はいろんなことを共同の課題にして暮らしたい。ただ、向こうは手伝ってほしくないことを、お節介して介入したくない。子どもは勉強についてあまり大して親に構ってほしくない。勉強は自分でやりたいと思っているのに、なぜ親が「そんなことダメよ。あなたの勉強は私の課題だから私が手伝う」と言うかというと、それは親の課題があるから。親は勉強のよくできる子どもを持ちたいんです。なんでかというと、例えば学校へ行って先生に怒られなくてすむから、親が。例えば友だちのお母さんに対して鼻が高いから。あるいは公立高校へ行ってくれると体裁もいいけど、経済的にもちょっと得かなと思うから。成績が良いと良い会社に勤めてくれて老後の安心も増えるから。ということは、子どものためと言うけど、よくよく考えると全部自分の利益なんです。自分の利益のために子どもを勉強させたい。子どもを勉強させないでいると、ちゃんと親をやっているのかしらと、私は親としてすべきことをしてないという感じがする。口うるさく言っていると、親としてすべきことはしている。これだけ口を酸っぱくしてすべきことをしているのに勉強しないのは、あの子が悪い。親としてすべきことをしないで勉強しないと、私が悪い人。私が悪い人でなくなるためには、とにかく努力しておくと子どもが悪い人になるから、これで良かったといって、隠れた縦関係がある。誰が良い人で誰が悪い人かを決めるという。だからいっぺんそこを整理してください。
いったい何が誰の課題かを整理した上で、本当の意味で共同の課題を作りたい。学校でお勉強するというのはクラス共同の課題です。数学なら例えば二次方程式をある一定期間に全員がマスターできるように、「みんなが一丸となって頑張ろうね」というのが本来の姿なんです。競争して「僕はできたぞ。お前なんかできないだろう。バカバカ」と言うのが本来の姿ではない。二次方程式はどっちでもいいと思うんですけど、例えば国語ね。漢字が「新聞に出てくる程度の漢字をクラスのみんなが小学校1年生から中学校を出るまでに読めるようになろうね」と、助け合って暮らすのが本来の学校の姿だと思う。わからない子にわかる子が手助けをして、その代わり、手助けされた子は別のことでわかる子に別の形で手助けをして、みんなが協力して小学校から中学校出るまで暮らせれば、それが一番良い姿でしょう。それが横の関係のクラスです。1つは学業であれ道徳的な生活であれ、あるいは体育であれ、それらは共同の課題なんだと。全員が助け合ってみんなが伸びていくということを、先生が援助しないといけない。これが1つ。(つづく)
Q
不登校児に対する学生カウンセラーをやっています。家庭訪問の活動を始めようとしています。学生カウンセラーとして間に入る立場ですが、接する上での心構えを教えていただけないでしょうか?
自分自身、不登校児だった過去があります。自分の例を話すことは、相手にとってプラスになるんでしょうか。もしも接し方を間違えたことで逆効果にならなければいいと考えています。心を開いてくれるまでの時間が一番大切だと思うのですが。その間にすべきことがあるんでしょうか?
A
こんなにようけい(たくさん)聞かんといてください。
訪問カウンセリングは、僕、好意的じゃない。否定的なんです。訪問カウンセリングのやり方にね。するんだったら、子どもがカウンセリング受けてもいいという気になってくれるために、カウンセラーとはどんなものか見せに行くもので、それはどんなやり方かというと、親に会いに行くんです。子どもと会おうとあまり強く思わないこと。親とお話して帰る。親にも先にそのことを言っておく。子どもさんには無理に会わない。子どもが会うと言ってくれれば会います。そうでなければ会いません。お父さんなりお母さんとお話をして帰ります。そうすると子どもは、最初からかどうかわからないけど、たぶん観察していると思う。訪問してきた人がどんな人か。あの人だったら会ってもいいなあと思うと会ってくれる。イヤだなあと思うと会ってくれない。しばらく通って会ってくれないようだったらやめます。会ってくれるようだったら会います。
子どもがカウンセリングを受ける決心するまでは、こっちから積極的に働きかけないで、カウンセラーとはどんな人物か見えるようにするのが最初の仕事です。
会ってくれたらいきなり「では不登校の問題を解決しましょう」ではなくて、「子どもが自助する」というのがすごく大事だと思う。鎌田さんが『クライエントの責任』という論文を書いた。あれはすごく大事な視点です。われわれ治療者の側にも責任があるけど、お客さんの側にも責任がある。ここ(=アドラーギルド)へ通って来るとか、相談料を払うというのはクライエントさんの責任です。子どもは、不登校児はどんな責任を取っているか。訪宅してもらうと一銭も払っていない。あるいは親がお金を払うと、その子は何も責任を取っていない。これは必ず失敗します。カウンセリングを受けたかったら、相談所まで来てほしいとか、クライエントが取る責任を先に考えてほしい。いつでも求めに応じて「はい行きます」という構造を取らない。
心を開いてくれるようになるまでが一番大切な時間だとは思いません。開いてくれてからのほうがもっと大切です。反抗的な子どもと関係つくまでが一番大切な時間なんではなくて、関係がついてから援助するのが一番大切な時間です。手術しようとしたら体力がない。それならしばらく栄養をつけて、手術に十分耐えられる力をつけてから手術する。栄養をつけている時間が一番大切ではない。手術する時間が大切です。関係はそこの手順を間違わなければだいたいつきます。
関係がつくというのは、温かい包容力ある関係ではない。ビジネスの仲間として相談し合える関係です。それはアドラー心理学の治療関係の1つのイメージですが、「愛と信頼の関係」ではない。私はクライエントさんを愛したくはないし愛されたくはないから。「誠実な顧問、相談者」でいたい。弁護士さんみたいな。あるいは企業コンサルタント。“子ども業”という企業のコンサルタントになりたい。そういう関係は簡単につきます。最初強引にしなければ。そこからあとが大変なんです。学校へ行かない子を援助していくのはいろいろしんどいので、その都度、ここ(=アドラーギルド)へ勉強に来てください。それしか言いようがない。
Q149
中学校の教師です。現在2年生の生徒のことです。中1のときからかなり気をつけていたのに、2年になって急に反抗的になり非行化しました。短期間の間に何か悪いコミュニケーションがあったのでしょうか?自分ではあまりわかりません。この子たちは他の教師たちともうまくいかず、数名の部活の監督の話だけは聞きます。
A149
子どもが非行化する原因はわからない。およそ原因というのはいつもわからない。
反抗的になったら反抗的になったで、しばらくその子と仲良くする算段をすれば、仲良くするグループに入れてくれるでしょうから、あんまり自分を責めないで。
仲良くすること。「その子たちが関心を持っていることに関心を持つこと」に注意を向けてください。
Q
高2の娘ですが、ときどき「友だちの○○さんのところへ泊まりに行っていいか?」と聞きます。友だちもわが家に泊まることがあるので許しています。今年の5月、2歳年上の社会人のボーイフレンドができました。毎回ではないのですが、彼と一緒のときもあるのではないかと思います。このままで友だちの家へお泊まりということでいいのか、話し合ったほうがいいのか迷っています。また妊娠についても心配なんですが。
A
話し合ってどうするかの結論のほうを先に聞きたいんですけど……。私のところは話をしました。全部話しました。
まあ、今どきの若い人のことですからボーフレンドとつきあうのもいいし、外泊するのも別にかまわない。今どきの若い人のことですから、セックスするのもこっちの課題ではないからかまわない。あなた方が全部マネージしてくれればいいと思う。行き先も別に言ってもらわなくていい。「これからラブホテルへ行く」と一々報告をもらいたくないから。「彼と一緒にいる」で十分です。
ただ、彼と一緒にいるということは、どっちかというと知っておきたい。全然違う女友だちのうちへ行くと言って彼と一緒にいて、何か連絡したいことがあって、その女友だちのうちへ電話を入れたりしたら、そのおうちに迷惑でしょう。だから、「彼と一緒にいる。行き先は言わない」だと、「ああ、今日は連絡できないな」ですむから、それはそれでよろしい。どこへ行くか言わなくていい。セックスするのも一向にかまわない。
ただ妊娠したらお互い生活力がないから困るだろうから、避妊はしてほしい。「避妊の仕方を知ってますか?」「はい知ってます」「じゃあ避妊してしっかり頑張ってくださいね」「イヤらしいわね」と言われて終わり。
話し合いをしたとき、「こっちが何を伝えたいか」を先にきっちりと考えてほしい。今どきの若いお嬢ちゃんに、「エッチしたら駄目よ」と言うのはすごくナンセンスだと思う。別にエッチしろよということではないが。するなと言ったってするだろうと思うから、それはしょうがない。「行き先をちゃんと言いなさい」というのも、言えないところも当然あるでしょう。私も昔、思春期があって親に言えないこともさまざましましたから。彼らだって親に言えないこともさまざまして大人になるでしょう。それはオッケー。
ただ、言える範囲のことだけは言っておいてほしい。第三者に迷惑をかけるようなことはやめてほしい。友だちの家に泊まると言って、そこにいないのは困る。これくらいのことしかないんじゃないでしょうか。
もしも、わざわざ言ったほうがいいと思うなら言ってください。見て見ぬフリをしてもいいなら、見て見ぬフリをしてください。どっちでもいいです。
Q
姑のことです。家族は、夫、子ども3人と姑です。私は仕事を持っていて1日中家にいません。帰ると、待っていましたとばかり、「○○さんがどうした、ゴミ当番はどうした?」と、あげくの果てはワイドショーのことまでしゃべりだします。しばらくするとうんざりする。「今日も帰るとああなるのか」と思うと、家に帰りたくなくなってしまいます。人生の終わりに淋しい思いをさせたくないと思いつつも、姑につらく当たってしまいます。姑は、何か言っては、夫にも息子たちにもイヤがられています。
A
私は、おばあちゃまに育てられました。父親は開業医で、子ども時代は母親が薬局とか受けつけとか手伝いをしていたので、まあ母子家庭のようなもので、母方の祖母が同居していたのでそれに育てられました。そのおかげで、年寄りの繰り言を聞くのが好きです。何時間でも聞いている力がある。その力が長じて私をカウンセラーにしました。
ほんとに平気なんです。同じ話を聞いてもちゃんと同じ助言する。だって、さっきのゲームをやめさせたい高2の子のお母さんのような話なんか、今までに570回くらい聞いたよ。毎回同じように言っている。
毎回同じ話を聞いたからといって、私はそれで何にも傷つかない。次どうなるか知っているけど、最後まで聞いても安全です。最後にヤバイ結論が待っているわけではない。聞いたらいいじゃないですか。面白いんですよ、きっと。おばあちゃんがこれは大変面白い話だと思っているんだからきっと面白いんだよ。あなたも面白がってみたらどうですか。
反抗的な子どもとつきあう1つのコツですが、毎日外へ出てなかなか帰ってこない子どもがいたら、きっと外で面白いことをしているんだ。その面白い話について興味を持って聞かせてもらいたいと思う。そうすると子どもたちは聞かせてくれるかもしれない。「何が面白かったの?」「それ内緒」「そんなこと言わないで教えてよ」「こんなゲームして勝ったよ」「すごいなー」と聞いていると、子どもたちとの関係が良くなる。「そんなこと聞いてたらゲームセンターやめますか?」。やめますかと考えたらいたらやめないんですよ。やめるかやめないかよりも、子どもと関係を保つことのほうが大事だから、しばらくゲームセンター奨励で、しっかりと面白がって聞いてください。
おばあちゃんもそうなので、ワイドショウーや近所の噂話は、そのうち減ると思う。興味を持って聞いてあげていれば。
私の父親は晩年、ちょっとだけボケかかっていて、「この話はもうしたかなあ?」言っていました。最初に言うなよ。聞く前には、したかしてないかわかんない。「最後まで言ってごらん。そしたらしたかしないか言うから」。最後まで聞く。で「どうだった?」「聞いた」。こんなふうに5回でも10回でも最後まで聞くことにしている。
早期回想と同じです。ある話題を、例えば1週間に1ぺん5週間聞いたら、必ず変わっていく。細かいアクセントの置き方が変わっていって、親父も成長してきたなあ、同じ話でも少しアクセントの置き方が違うじゃないか、回想が変わったぞと思ったりしていました。