MENU
82,886

友人関係を長く続けるには?

Q
 最近、友人関係がうまくいかず悩んでいます。初めのうちは良いところばかり目が行き楽しいのですが、そのうち相手のイヤなところが気になり、相手に合わせていくのが苦痛になってしまいます。今までのパターンだと、こちらが距離を置くようになってそのまま音信不通になることが多かった。今の友人とはそうなりたくない。友人関係を長く続けるコツがあったら教えてください。

A
 ちょっとだけ離れて音信不通にするんですね。人はいつも、思い切り食べるか断食するかは得意で、ちょうど適量食べるのが下手です。真ん中へん、ちょうど適量につきあうのは難しい。でも、できないことはない。気をつけていれば。意識していれば。
 断食するか腹いっぱい食べるかでなくて、ちょうど自分にも耐えられ相手にも耐えられる真ん中があると信じてください。その真ん中へんを時間をかけて見つけないとしょうがない。もしもつきあっていきたいなら。
 質問を読んでる途中で、「そんなん別れたらいい」と言おうと思ったが、「別れたくない」と書いてあったからしょうがないから答えましたけど、その道は難しいよ。お酒を適量飲むとかタバコを適量吸うとかと同じようにとても難しい。人間には不得意な技です。

引用して返信編集・削除(未編集)

物語なしに生きられるか?

Q
物語なしに生きられないものでしょうか?

A
 物語なしに生きられません。みんなある物語の中の配役です。多くの人は複数の物語の中の配役です。
 今、「家庭」という1つの物語がある。かつては家族制度というのがあった。「家」という物語があった。戦争が終わるまで。うちだと、野田家というのがあった。おじいちゃんなんかはこだわっていた。僕ら全然信じられない。私は今や野田家という物語を生きてない。家庭という物語は生きている。何か一緒に毎日飯を食う仲間がいる。他の人とは違う。昼ここで社員さんとご飯食べているのと、うちへ帰って家族とご飯食べているのと違う。社員さんが話しているのを中途半端に「ハンハン…」と聞いている。うちではそうはいかん。「明るい家庭」という物語を生きないといけないから。「いやそれは困ったねえ。どうしたらいいかねえ」と言う。一方、ここは「会社」という物語がある。そこには僕の職場のイメージ、ストリーがあって、その中の登場人物に自然になっちゃう。人間はみんなそうやって生きているということは認める。
 ポスト構造主義者の言うことは正しい。でも、彼らが言うようにいろんな物語の中でまったく分裂して別の人になるんじゃない。その背後に根本に無意識の一貫した流れ(構造=冗長性)があり、その中で変わっていっている。私はヒラメ論です。環境によって色が変わるのはカメレオン論。でもカメレオンそのものはいる。ものまで変わらない。色は変わるけど。

引用して返信編集・削除(未編集)

大きな物語、小さな物語

Q 
 「大きな物語が崩壊した」と言いますが、物語には大きな物語と小さな物語があるのでしょうか?

A
 まあ、そうです。グランドセオリーね。この世界をたった1つの原理で説明し尽くせるような物語です。
 例えば、「人類の進歩」、「科学の勝利」、「自由と人権」とか。これらの物語には例外がない。「あの人たちだけは自由と人権の例外だ」と言うと、「自由と人権」という物語が崩壊する。「北朝鮮だけ、不自由で人権侵害して暮らしていてください」と言うと、何か気持ちが悪いでしょう。「なんであそこだけ通用しないのか」と思う。「人類は進歩しますけど、チベットだけあのままよ」と言うと気持ちが悪い。つまり、例外のない物語です。
 ところが、例外のない唯一の物語が、自然科学まで含めてこの世界を全部説明できると思えなくなっている。私は自然科学者の端のほうで働いている。自分のアイデンティティーは社会科学でも人文科学でもなく、自然科学の世界の人間だと思っているが、自然科学が何もかも全部を説明できると思えない。利根川先生は、「分子生物学がもうちょっと進歩すると、人の心を分子生物学で説明できる」と言ったけど、私はできないと思う。人の心はある部分はできて、ある部分はできない。
 万葉集の歌に、「信濃なる筑摩の川のさざれ石も君し踏みせば玉と拾わん」というのがあります。河原の小石も愛しいあなたがお踏みになったのだから宝石と思って拾いましょうという意味です。愛しい恋人が使ったハンカチを欲しがる人がいる。ハンカチを抱きしめて寝る人がいる。あれ、ただの布よ。こんなのをフェティシズムと言います。女性の汚れた下着を欲しがる人がいる。私は、あれはただの汚れた布だと思う。でもそう思わない人もいる。分子生物学のレベルの問題ではない。心理学の側の、文学側の問題です。自然科学で説明できない現象はたくさんある。希望とか夢とか記憶とか、そんなものは自然科学で説明できない。それはそれでOKです。
 ということは、「私の物語」は崩壊している。利根川先生はまだ大きな物語の世界で暮らしていて、いつか分子生物学が人間の生命現象を、心まで説明できると信じている。その物語はそんなに大きくないよ。部分的な説明しかできないと思っている。でも説明はできるけどね。

引用して返信編集・削除(未編集)

診断したライフスタイルは「自我」のか「無意識」のか?

Q
 ライフスタイル診断をした場合、それは自我のライフスタイルでしょうか?それとも無意識のライフスタイルなのでしょうか。あるいは“自己像・世界観・自己理想”が自我のライフスタイル、“運動の線”が無意識のライフスタイルなのでしょうか?

A
 よくわからんのです。無意識のライフスタイル、無意識の運動の線は、生物学的・社会学的・心理学的の3つのレベルに分けて説明することにしています。
 生物学的な流れ、自己保存とか種族保存に向かう流れは、無意識です。所属という社会学的な流れは無意識です。その所属を果たすために具体的にこうしようというのは、無意識的な大きな方向性もあると思うし、自我がそのとき持っているものもあるし、ペルソナが持っているものもあると思う。だからアウシュビッツ症候群があるんです。彼らの中にあった理想の共同体、ナチスが描く理想の共同体に協力しようという無意識の流れか意識の流れがある。一方で、良い家庭人として模範的な父親として夫として働くこととして現れた。一方で、ユダヤ人をいたぶり虐さつする人として現れていて、違うペルソナだけど、同じ流れの上に乗っかっている。
 ライフスタイル診断して出てくるのは、普通、自我です。ライフスタイル診断は、普通、上品な状況でします。拷問室ではしない。sexの最中にもしない。sexの真っ最中に、「あなた小さいころの思い出は?」と聞くと、普段と違うものが出てくるかもしれない。個人が落ち着いて理性的で上品な状態のときに診断するから、ライフスタイル診断で出てくるのは自我のライフスタイルだと思う。

引用して返信編集・削除(未編集)

構造主義かポストモダンか

Q
 今日の論点は、構造主義は崩壊しているのでポストモダンへの引き継ぎという、中間的な代替案と考えていいのでしょうか?

A
 いいえ。これは構造主義です。僕は構造主義者なんです、いまだに。これからも多分死ぬまでずっとそうでしょう。中間はないと思う。だって、「1個の構造しかない」か「構造がたくさんバラバラあるか」でしょう。「1個の構造しかないことはない」とは思わない。アドラー心理学はどこまで行っても、“ライフタスクとライフスタイルの相互作用”によって、つまり、1個の目標追求する人格によって個々の行動ができてくると思っているから、その中の構造をどう仕分けしてみたところで、1つの統一的人格を考えているから構造主義者なんです。代替案ではありません。

引用して返信編集・削除(未編集)
合計726件 (投稿720, 返信6)

ロケットBBS

Page Top