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精神発達

Q 
 エリクソンの言うライフスタイルの精神発達についてどう思われますか?

A
 エリック・エリクソンね。エリック・エリクソンは全面的に間違っています。なぜなら彼はフロイディアンだから。アドラー心理学はフロイトに対するアンティテーゼとして出てきたんです。要するに「5つの基本前提」に全部○を付けました。エリクソンは全部×を付けています。一番根本的なスタンドポイントが違うんです。でも、邪悪だとか人類を不幸に導くとは思わない。ただ、われわれとまったく話が通じないんです。まったく話の通じないものに批判するも批判しないもしようがないから、エリクソンの発達段階を僕らは使いません。じゃあ、発達段階について何か使えるアイディアはないのか?アルフレッド・アドラーは発達段階についてほとんど何も言いませんでした。教育や児童心理をやっていく上で、発達の段階がないというのも不便です。僕の先生のバーナード・シャルマンはハリー・スタック・サリヴァンという先生の発達段階を使いました。サリヴァンはフロイトの弟子筋なんですが、フロイトに全然忠実じゃなくて、きわめてアドラーに近いです。サリヴァンの書いた本はすごい読みにくいんです。無茶苦茶な悪文家です。この人のお弟子でチャップマンという人の書いた本がいくつか和訳されています。チャップマン先生の発達論の本が出ています。誠信書房か。サリバンは、乳児期・幼児期・児童期・思春期4期・成人期・初老期・老年期に分けました。乳児期というのは言葉が出ると乳児は終わりです。二語文が出るのがだいたい2歳くらいで、乳児から幼児になります。幼児が児童になるのは、友だちができると児童です。友だちというのは、勝手に子どもどうしで次々新しい遊びを見つけて遊べるようになる友だちです。親とか保育士さんとかが遊びを設定してあげなくても、子ども自身で遊びをクリエイトできると児童期です。だいたい5歳です。思春期に入るのは、思春期型の親友ができると思春期です。児童期の友だちは大きなグループですが、小さなグループで同性で閉鎖的で仲間と仲間でないのとをはっきり区別して、遊びのテーマがはっきり決まっているのが思春期型グループ。この反対が児童期型グループです。だいたい5年生、10歳か。5年生になるとクラスの中がパッとグループに分かれたりする。あれは思春期に入ったから。それからこの時期を、前思春期と言う。次、思春期前半・思春期後半に分けて、思春期前半は、異性に関心ができて何となくグループで異性と交際をする。男の子の親友グループと女の子の親友グループという単位でお誕生会をやってみたり、どこかへ遊びに行ったりすると思春期前半です。個人交際して2人で消えちゃうと思春期後半です。だいたい中学1年生の終わりから2年生になると、多くの子が男の子のグループと女の子のグループで何となく一緒にいたりする。それまではえらい憎しみ合うんです、男と女が。前思春期って無茶苦茶憎しみ合っているみたいです、両方でどういうわけか。それが何となく気がついたら一緒にいるなんてことになって、高校2年生くらいになると、「あいつらどこへ行ったの?」とパッと消えるという恐ろしい現象が起こって、性的な関係というのはそれと関係なく起こるんです。あんまり親密さと関係なく欲求だけで性行為をするのが思春期前半からあったりする。それでもやっぱり人間関係を見ると変わってない。思春期後半から前成人期。これはわりと人によって違うけど、親からの自立。物理的には大学へ行ったりして、親元を離れるというのがありますから、物理的に別れるというのもありますが、心理的にも18,19歳くらいになると、あまり親を「お父さん」「お母さん」て感じじゃなくなって、まあ「ああいう人もいるわね」と感じでクールになる。完全に独立してしまうと成人期です。親から経済的・精神的に完全に独立してしまうと一応成人期です。サリバンの時代の感じとしては、サリヴァンはアドラーよりもちょっとあとの時代の人ですが、サリヴァンの時代の感じとしては、結婚にしているとか子どもがいるとかいうことが成人期と関係している、自立していることと自分が結婚するということが関係がある。そこが今問題です。親からの完全自立をなるべく遅らせようとする恐ろしい作戦が進行していて、35歳くらいにならないとなかなか。結婚しようが子どもができようが、お年玉をせびりに来るとかいうようなことが起こります。こんなの年齢はアテにならないですけどね。子どもによって前後があります。初老期というのは、子どもが自立する、子どもがなかったらどうなるか?子どもがなかったら初老期にならないかな?夫婦2人がポツッと残されると初老期です。老年期というのは、生産的な活動から全部退職してしまうと老年期です。退職しないで生涯現役を貫くと老年期にならない。実際、生涯現役をやっている人は若いんです。体もね、政治家とかね、実業家とかね。定年を楽しみにして、定年になったら新しいことをせずに、……ちょっと難しいんです。年金がもたついているから。昔、年金がすぐ出てきたりすると、退職してすぐに何もしなくなったりすると、急速に老化しましたね。
 サリヴァンの発達段階表の良いところは、完全に人間関係のあり方からだけ分けているところです。内的発達を一切無視して。外から観察できる、家族との関係とか交友関係だけから発達段階を分けていて、しかも実際での観察とぴったり一致するところです。だいたいアドラー派の人で発達段階の話をするときは、サリヴァンの発達段階表を使いながら、前思春期がどうの、思春期前半がどうのと話をします。そのほうがエリクソンよりはるかにわかりやすいです。

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依存症への関わり方

Q
 依存症の人への関わり方を教えてください。

A
こんなん言うたらいかんと言うてるでしょ。依存症の人なんかいない。AさんとかBさんとかしかいない。だから依存症の人への関わり方というのはありません。1人1人みんな違うと思う。まあ大雑把に依存症的な性格とかいうものあるように思わないでもないが、そうでなくても依存症になる人もあるし、依存症的な性格なのに依存症にならない人もあるし、ピタッと一致しなんです。だからそれよか1人1人の人と向かい合って、その人に対してして私のあげられることを考えるほうが、健康な考え方だと思う。

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認められないと安心できない

Q
 人に認められないと安心できないんです。どうしてもこれにこだわってしまう。自分自身を生きることはつらいです。何かヒントを。

A
 人に認められないと安心できないのは、人間はみんなそうです。「みんなから無視されてみんなに忘れられたいものだ」と思っている人は、あまりいない。
 私がアメリカにいたとき、シャルマン先生が喩え話をしていました。昔、ドイツの深い森の中に小さな村があった。その村から20キロ離れた誰もいない森の中に、隠者さんが1人で暮らしていた。誰とも交わらずにほぼ自給自足していた。あるとき、雷が落ちて村が焼けた。村の人は、100キロ離れたところに村ごと引っ越しした。隠者さんも引っ越しして、その新しい村から20キロの所で1人で暮らした。「どんなに1人で暮らしている人でも、絶対、世間とある距離で関係を持っている」と彼は言った。
 認められたいし、ほめられたいし、愛されたいんです。「認められたくない人間になりたい」なんて変なことを思わないように。それは、人間のごく普通の方向性だから。
 問題は、どうやって認められるかです。目標はOKなんです。有名になりたいも、権力を持ちたいも、認められたいも、愛されたいも、全部オッケー。どんな方法で認められるかです。例えば、ものすごく悪い犯罪者になって、人でもころして警察に捕まって新聞に載って全国に有名になるのは、確かに認められる方法ですが、その方法は駄目です。そうではなくて、共存共栄的に自分が自分の目標を追求するんです。自分にはプラスがある。その結果、周囲の人にマイナスがある。そういう方向は具合が悪かろう。周囲の人にもプラスがあるような、そんなふうなやり方、お互いがプラスになっていくようなやり方はないかしらん。互恵(共存共栄)的な方向はないかしらんというのが、アドラー心理学の抱えている問題意識です。
 僕はアドラー心理学で一番好きな部分はここなんです。人間は、本来わがままで欲張りで、私利私欲だけ追求している利己的なものなんです。絶対にそうです。どこまで行ってもそうです。修行しようが神様にお祈りしようが何しようが、結局、利己主義者です。それはそうだけど、自分が自分の目標を追求する結果、周囲の人が得したり損したりする。周囲の人にどんな影響を及ぼしているかのほうに目を移して、自分の目標追求で、周囲の人が得していたらそれでOK。損してたらそれはいけない。人に認められる。それはOK。どうやって認められるか。みんなも自分も得する方向で認められる方法はないか。
 今私がここでお話しているのは、あなた方に認められたいという強い欲求からかもしれない。たぶんそうです。でもあなた方は損してない。私が知ったかぶりしている結果、あなた方はそこから何かの利益を持って帰れる。それはいいことでしょう。あるいは、ただお金儲けたいだけかもしれない。要するに、人々を騙してお金を儲けようと思っているのかもしれない。だいたい基本的にはそうです。あなたがたは騙されているかもしれない。騙されても得している。ここで支払う以上のメリットがあるんじゃないかと思って、ここへ来ているんでしょう。たぶんあるだろうと私も思っているので、共存共栄です。そしたら、私が欲張りで見栄っ張りで認めたがりでお金儲けたがっていて、一向にかまわない。どうせあなた方も欲張りで見栄っ張りだから、お互い様です。認められたい、儲けたい、愛されたい、そのことを悩まないでね。それは基本的に何も問題はない。

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子どもの喧嘩をほうっておいてもいいか?

Q
 子どもの喧嘩を放っておいてもいいのでしょうか?3年生くらいだと大きな怪我をすることはありませんが、5年生くらいになると恐い気がします。治る怪我はいいけど、取り返しのつかないことになると困ります。また、他の子がただの傍観者になってしまうのではないか、子どもの中に腕力による序列がついてしまうのではないかと気になります。

A
 これ学校の先生なんだな、きっと。
 アドラー心理学はユダヤふうで、契約思想です。契約がないと動かない。この場合も契約がないから動かない。「子ども1」がいて「子ども2」がいて、「子ども1」と「子ども2」に喧嘩というコミュニケーションがある。そして「大人」がいる。大人と、喧嘩している子どもたちとの間に、何も取り決めがない。「助けてくれ」とも「手伝ってくれ」と言われてない。そうすると、「これは子どもたちの課題だ」と言う。
 まず自分の課題と相手の課題とを分けたいと思う。スマイル(パセージの前身)では「課題」、カウンセリングでは「責任」という言葉をよく使う。自分の責任と相手の責任。喧嘩というのは、子どもたちの責任でマネージすべきことです。喧嘩もそうだけど、怪我させないようにマネージするのも子どもたちの役割で、それを学んでいかないといけない。
 だいたい普通の発達で、中学に入ったころに自分が相手を傷つけるくらいの力を持ったことに気がついて、暴力的な喧嘩はほぼなくなっていくんです。それまでは力がないのでわりと安全に喧嘩をする。喧嘩をすること自体は正常な発達ですよ。猫や犬はしょっちゅう喧嘩をするでしょう。それは別に異常な事態ではない。動物が子ども時代はそうやって育つもの。それは別に困ったことではない。喧嘩のマネージメントができるのは大事なことですね。
 私は喧嘩は強いんです。合気道3段です。今は弱いけど昔は強かった。喧嘩が強いのはすごくいいことです。というのは、絶対に喧嘩をしないですむから。ムチャクチャ自分は強いから、したら絶対に勝てると知っているから喧嘩をしない。したら相手をころ
すかもしれないから。威張っている上司とかがいても、最後暴力になったら俺が勝つと思うから、しない。喧嘩が強いのはいいことね。空手、ボクシングを習うのはいいことね。それで人間が乱暴になるとは思わない。
 喧嘩そのものは別に問題だと思わない。子どもたちはマネージメントができるだろうと思う。できそうにないなら、お話しておけばできるようにだろう。
 喧嘩のやり方があるんです。髪の毛引っ張ったらいけない。殴るのはいい。ぶん投げるのもいい。日本人はあまり蹴らないけど、韓国人は蹴る。テコンドーの影響か。そういう何とない子どもの間の喧嘩のやり方のルールがあって、まあ卑怯なことはしないということがわかる。わからなければ大人が教える。「喧嘩してもいいけど、つねる、髪の毛引っ張るは駄目で、殴るか投げるか、せめて蹴るくらいにしてね」とか。「相手が泣いたら終わり」。それさえできていれば、別に頼まれないのに口を出すことはない。あとは全部子どもの課題です。教育的責務は果たしたから。「つねったらいけない」と教えましたから。
 それでも、怪我させるかもしれない。心配でしょうがない。それは自分(あなた)の課題です。子どもの課題ではない。喧嘩で大怪我したなんてことは普通ない。小怪我はあるけど。それでも心配でしょうがないなら、“心配性”という自分の課題を自力で克服しないといけない。自分の心配をなくするために子どもたちに喧嘩をやめさせるのを、「課題の肩代わり」と言う。本来自分が自分の責任ですべきことを他人にさせているので、とても良くない。そういう意味でこれは放っておいていい。いくらか基礎知識さえ子どもにあれば。
 契約になることがあるんではないか、共同の課題になるんじゃないかという意見もある。それには僕は反対です。ならないです。負けた「子ども1」が言いつけに来た。「いじめられた」と。勝った子は「勝った-」と言いつけに来ない。これで共同の課題になったから、じゃあ、いじめたほうの「子ども2」をやっつけに行こうというのは、あまり共同の課題になってない。「いじめられた」と言ってきたら、確かにその子は喧嘩を話題にしてきた。だから話題にはしましょう。でも共同の課題になったのは、言いつけに来た「子ども1」と大人の範囲だけです。「子ども2」は関係ない。この「子ども1」が喧嘩に勝つ方法を、逃げ方を教えるのがフェアで、「子ども2」のところへ行ったらフェアでない。ここだけで解決しないといけない。両方が来て、「どっちが正しいか判断して」と言ったら、それなら、してあげたらいい。そんなことは滅多にない。だいたい片っ方が言いつけに来る。
 学校というところは、「現場の実情がある」と言う。それは私の知ったことではない。現場の実情は自分で悩んでください。アドラー心理学の側には妥協しなけりゃならない理由はない。アドラー心理学はアドラー心理学の原理で押し通す。それ以上のことはそっち側でやってください。

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友人関係を長く続けるには?

Q
 最近、友人関係がうまくいかず悩んでいます。初めのうちは良いところばかり目が行き楽しいのですが、そのうち相手のイヤなところが気になり、相手に合わせていくのが苦痛になってしまいます。今までのパターンだと、こちらが距離を置くようになってそのまま音信不通になることが多かった。今の友人とはそうなりたくない。友人関係を長く続けるコツがあったら教えてください。

A
 ちょっとだけ離れて音信不通にするんですね。人はいつも、思い切り食べるか断食するかは得意で、ちょうど適量食べるのが下手です。真ん中へん、ちょうど適量につきあうのは難しい。でも、できないことはない。気をつけていれば。意識していれば。
 断食するか腹いっぱい食べるかでなくて、ちょうど自分にも耐えられ相手にも耐えられる真ん中があると信じてください。その真ん中へんを時間をかけて見つけないとしょうがない。もしもつきあっていきたいなら。
 質問を読んでる途中で、「そんなん別れたらいい」と言おうと思ったが、「別れたくない」と書いてあったからしょうがないから答えましたけど、その道は難しいよ。お酒を適量飲むとかタバコを適量吸うとかと同じようにとても難しい。人間には不得意な技です。

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