Q
小学校1年生の息子がいます。勉強が嫌いで入学当初から宿題をほとんどしていませんでした。最近は自分でも「宿題はせなあかん」と思ってきているようですが、学校から帰ってきたらゲームをしたり友だちと遊んで、夜には疲れている状態です。「宿題はどうするん?」と聞くと、「あー俺は疲れてるんや。もう宿題はわからへん。俺はアホや」と怒りだし、最終的には「お母さん、答えを教えて」という状態になり、イヤな雰囲気で宿題をやっている日が続いています。宿題は子どもの課題ですが、このような息子にはどう接すればいいですか?
A
いくつが方法がありますね。僕、まず話をします。冷静になって深呼吸をして、「宿題についてどう思う?」っていう話をします。こっちは結論はないんですよ。小学校1年生が宿題をしなかったからといって、人生は破滅せん。3年生4年生になってしなくても破滅せん。ひょっとしたら高校生までいっこもせんかっても破滅せん。それでもって人生真っ暗にならない。それで学校の成績が悪いからゆうて人生破滅せん。そうして高校まで行っちゃえば、高校は出席さえしていればきっと卒業させてくれますから、そんなにびっくりすることは何もないです。宿題を一生懸命やったからといって、人生に明るい未来が開けるとも限らん。宿題を一生懸命やったら宿題というものに無駄な時間を使ったかもしれんから、わからん。それは子どもの選択次第なんですよ。宿題をしてお勉強をして賢い子になっていくか、宿題をしないでお勉強をしないで大らかな子になっていくかは、子ども自身が選べばいいことだと最初思っておいてから話し合いをします。だいたい話し合いをするというと、「こっちの思う壺にはめる」という意味になっています、実際はね。だから、ある結論以外の結論を子どもが出すと怒るんです。それだったら話し合いと違うんです。それは押しつけているんです。子どもが結局選択することだとわかってから話し合いをします。「子どもの課題」だということは、子どもと話し合いをしてはいけないという意味ではないんです。子どもの課題についてたくさん話し合いをすればいい。子どもの課題だから、最終的にどうしろと言わなきゃいいんです。いろんなことをやっぱり情報交換をする。いろんなことを情報共有するというのは必要なことだと思いませんか?人間が一緒に暮らすというのは、さまざまなことをお互いどうしが知っているということじゃないですか。だから、「宿題についてどう思う?」って訊いて、それで「せん」と言ったら、「あ、そう」って言って、その日はもうそれでよろしい。子どもは少なくとも宿題について考えることは始めると思うんです。1週間ほどして、また機嫌のいいときに、「宿題どう思う?」って訊いて、「せん」と言ったら、「そうか」と言って、また1週間たったら「宿題どう?」って訊いて、「せん」と言ったら「そうか」と言ってしばらく半年くらいときどき話をしてみて、やっぱり「せん」なら、この子は人生の方向を決めたなと思う。それはそれで応援しよう。宿題せん息子には宿題せん息子のいいところあり、宿題する息子には宿題する息子のいいところあり。将来のもの凄い大ものが、小学校でコツコツ宿題をやっていたとは思えないんです。だいたい宿題をコツコツやるヤツは、将来小粒で堅実な人生を送るだろうけれど、びっくりするような大ものにならないですよ。「この子は宿題もせんか。偉い子やね」と、こう思って喜ぶということをすれば子どもはほんとに大ものになるでしょう。例えば、明治維新の坂本龍馬とか西郷隆盛とかは宿題やってたタイプと違うで、あれは。織田信長とかも宿題やってたタイプと違うで。宿題しないということは、将来もの凄い大ものになる可能性がある。まあ、「穴馬」ですから、当たったら大きいけどね(爆笑)。楽しいじゃないですか、穴馬買うのも。そう思いましょう。そうするとのんびり暮らせるでしょう。のんびりしている親が子どもにとっては一番よろしい。うちも穴馬1人いるんですが、なかなか芽は出ませんねえ。いつになったら勝つんやろ。まあええわ。
Q
「アスミ」から日々瞑想のお許しをいただいています。本日は「人情の機微」について教えてください。センシティブ=他人の気持ちがわかる、センシブル=自分の気持ちに敏感、と説明されたのですがよくわかりません。「アスミ」でも、他人がどう思うかはエゴで、自分の感じに気づくことが結果として他人の気持ちがわかることだと逆説的な説明をされていますが、いまいちよくわかりません。今生での私の大きな課題であると思います。よろしくお願いします。
A
なんでこんなわかりやすい話がわからんのやろ。傷つきやすい人ってわがままなんです。何か人に言われて傷ついて気にしている人というのは、何を気にしているかというと、自分の地位や名誉や財産や安全を気にしているんじゃないですか。「あの人バカね」と言われて、「ああっ」と傷ついている人は、結局「誰が可愛いか」というと自分が可愛いんです。傷つきやすさというのは、実は私利私欲の裏返しだということをわかってほしいんです。それが人の気持ちがわかることじゃない?そういう人たちに限って人の気持ちは全然わからないんです。「私の気持ちをわかってよ」と言う人に限って、人の気持ちをわかる気はまったくない。そう思いません?そういう自分の傷つきやすさを武器にして、「私の気持ちをわかってよ」と言って、相手のやり方や言い方に注文をつけることも、やっぱりアドラーの言う劣等コンプレックスの一種です。それを慢性的にやる人のことを神経症者と言います。神経症の人って無茶苦茶敏感で傷つきやすいと世の中の人は思っているけど、僕は神経症の人に無茶苦茶言うのが好きなんです。だってあの人たちは全然傷つかないもん、実は。ただその武器としてやってるだけで、ほんとは無茶苦茶鈍感で何言っても大丈夫だから、言いたい放題言っているんです。「傷ついた。ひどい」と言うから、「うんうん、ひどいよ私は。だってあなたに僕がバカだの卑怯者だと言っても、もしほんとに卑怯者なら言う前から卑怯者で、卑怯者でないなら言う前から卑怯者じゃないし、言われたあとも卑怯者じゃないんだから、何言ってもかまわないんじゃないですか」と開き直っちゃうんですけど。そういう自分の傷つきやすさを武器にして生きているというのは、ハートがちゃんと開いていない証拠です。他の人たちとの繋がりを感じる力がないから。私のすることは、いつもすべての人に影響を与えるんです。僕が何したってすべての人に影響を与えるんです。組み込まれているというのはそんな意味です。私が今1つ呼吸したらあなた方の酸素をちょっとだけ奪ったんです。今こんなところにいるから気にしないけど、私が宇宙船に閉じ込められていたら、「そんな大きな息するな」と絶対怒るよ。私のすることがいつも他人に影響を与えるんです。そのことにビクビク、オドオドするんじゃなくて、自分の保身のためじゃなく、相手の安全のために、相手への貢献のために気がついている状態をセンシティブと言うんです。自分が助かるためじゃなくて。だからセンシティブになりたいと思うんです。それが共同体感覚の1つの側面だと思います。だから凄いわかりやすいです。自分のために敏感なのがセンシブルで、他人のために敏感なのがセンシティブです。自分の利益のために敏感なのがセンシブルで、他人の利益のために敏感なのがセンシティブです。
Q
今日のお話、とても心にしみました。(ありがとうございます。)小学校5年生の息子がいますが、彼のクラスの担任の先生の話を息子からチラホラ聞きます。日直のときに1つ仕事をしていなくて、「今日の日直最低やな」と言われたとか、「天気予報で雨の予報を見て、傘を持って行ったら結局雨が降らなくて、傘が教室まで届けられたら、その傘を先生に投げられたんや」ということを息子から聞きました。「今日の日直最低や」ということは「お前は最低や」というメッセージを子どもに与えると申しますか、傘を投げたか落としたかわりませんが、その行為は分別のある大人の、ましてや教職にある人が言ったり行なったりすべきことではないと思い、自分の子どもだけでなく、これから出会うであろう子どもたちのためにもやっぱり放っておけないと熱くなりました。でもお友だちに愚痴ったりすると、「やはり親が何とかするのでなくて、子ども自身が先生やまわりの人たちとうまくやることを学んでいくほうがよく、先生を変えようとするのは無理かなあ」という話を聞き、また子どもにも話すと、「もしかしたらそっちが正しいかもな」という答えで、担任の先生のことを相談するというのを思い留まりました。今回のお話を聞いて、やはり先生が良い影響をどれだけ与えられるか、勝負と違うと思ったり、先生自身には大きなお世話なのか、心が揺れます。どこに中心を持っていけばいいでしょうか?
A
これからこんな先生を解雇させる運動をすべきだと思う。アメリカだと当然これはクビですよ。僕らは納税者なんです。われわれの税金で食べてる人たちなんです。だから彼らはわれわれのニードを満たす責任があるんです。だから当然クビにすべきです。それはやっぱり声を上げていかないといけないと思う。クラスの子の親たちが話し合って、「あの先生、やめてもらいましょう」って。それをみんながやりだせば、わりと簡単にやめされられます。教育は国家百年の計なんです。日本の国が栄えるか滅びるか、あるいは人類が栄えるか滅びるかは、何十パーセントかが小学校教育にかかっているんです。それなのにこんなに人格的に未成熟な人のところへ子どもたちを預けておくわけにはいかないと思う。これまでずーっと泣き寝入りしてきました。日本では先生は偉い人で、「教育にシロウトは口を出すな」という雰囲気が強かったけれど、口を出さなかった結果が、学校がこんなになっちゃってるんです。口を出したほうがいいと思う。医者は1970年代くらいにさかんに口を出されましてね、いろんな方に。特に朝日新聞がキャンペーンを張りまして、いろんなことについてすっぱ抜きをやりました。あれは医者にとっては無茶苦茶つらい出来事でしたけど、結局良かったです。だから今も医者ってもの凄いやりにくい職業だと思うんです。絶えず患者さんの監視の中にあって、うっかりわがままできない状況なんだけど、そのほうがいいです。学校もそうで、子どもを怒鳴った途端にクビが飛ぶというふうになったほうが正常だと思うから、クラスのお母さんたちと話をしたほうがいいと思う。で、「こんな教育者に任せておいていいのかしらん」と、新聞社でも弁護士でも何でも巻き込んでください。1つの学校でやれば広がるから。騒ぎを起こさないと、このことについて。あおっていこう、この際。
Q
自分の居場所、社会が求める居場所は、一生懸命頑張らなくても見つかるものでしょうか?いろんな選択の中で選んでいくんでしょうが、自分で自然にわかっていくものでしょうか?どうすれば見つかるでしょうか?
A
まず自分のハートの力を信じることだと思います。まわりと人間とが繋がって、頭でマインドで自我でグジャグジャ考えなくても、填(は)まるところへきっと填まっていくんだと思ってよ。そう思うより思いようがないじゃないですか。一番最初に人間は社会的動物で、集団の中である役割を担うように初めから設計されているはずなんです。その役割を担うときに多様性というものがたぶんあって、うんと体を使う役割を担う人と、うんと頭を使う役割を担う人とか手先の役割を担う人とか、足を使う人とか眼を使う人とかいろいろあるはずなんです。それは子どもたちが育っていく中で、自己選択していくというふうにも言える。いろんなことをしながら、「自分は何かな」ということを探していくこともできるし、まわりが何となくそう仕向けていくということもできる。社会と個人との相互作用の中で、やがて決まっていくわけです。今までそんなふうにあんまり考えなかったと思うんです。例えば、学校の先生は「あんた成績が良いから医学部へ行きなさい」と言うんです。それはその人が必ずしも医者に向いているとは限らないんです。医学部へ行ったら、どう考えてもこいつ医者に向いてないという同級生がいました。誰とは言いませんが。その人たちが結局医者になっちゃうんですよ。で、例えば患者さんと会うのがイヤで、対人恐怖みたいで、人とちゃんと話なんかできなくて、1年か2年か臨床をやっていて、「どうしましょう」と教授のところへ相談に行ったりして、「精神科の先生のところへ相談に行っておいで」と言われて、精神科の先生のところへ行ったら、「あんた臨床できないから解剖かなんかやったら」と言われて、結局その人は解剖医か司法監察官かなんかになりまして、生きた人間を触るとロクなことがないから、死んだ人間を触るということになって、それで社会の中で役割を得るのかもしれないけれど、何となく向き不向きというものもできてきますね。あれは先天的なものじゃないと思うんですけど、そういうものがだんだん自然に決まってくるんだろう。でもやっぱり意識してないといけないと思うんです。だからいつも言うんですけど、子どもに「大きくなったらどんな仕事をしたいか」と問いかけてほしんです。「サラリーマンて言わないでちょうだい」って。OLとかいうのは、自分の運命を資本主義に手渡すことなんです。会社が自分の仕事を決めてくれるわけじゃない。営業やるのか経理やるのか総務やるのか、そんなのを自分の側で決められないんです。それを第一選択にしないでほしいの。銀行へ勤めたって電力会社へ勤めたって、自分の思うような仕事ができるかどうかわからないです。僕の学生時代の親友がいてね、彼は高分子化学というのをやってたんです、理学部で。それで高分子関係のある大企業に勤めました。大きな夢を持って勤めたんですけれど、その直後に石油ショックというのが来て、それからいろんな環境汚染問題が来て、そこの会社の製品も、環境汚染問題でちょっと突き上げられたりして、会社としては高分子関係の企業の縮小を図ったんです。他のほうへ業種転換してね。彼は大学を出てからもう30何年になるんですけど、結局この一生何をやったかというと、全国のいろんな工場へ赴任して、工場の労働者たち(工業高校を出た子たちが多い)の、あとに残す子とクビを切る子を決めるんです。「こいつ使える」というのだけ残して、使えない子をリストラリストに挙げて人事へ送るんです。そこの工場の仕事が終わったら、また次の工場へ行って、また次のクビ切りリストを作るんです。だからクビ切り役人を30年々かやっちゃって、彼が学生時代に持っていた理想の仕事が全然できなかったと言うんです。それはなんでかというと、彼が会社に魂を売ったからです。彼がもう少しやんちゃな人だと、例えばある時期に脱サラしちゃって、自分で小さな町工場でも作って、そこで彼なりの品物を作るというようなことをしたんでしょうが、彼はおとなしい人で大きな会社に身分保障されているほうを選んじゃったもんだから、凄い不本意な仕事をしたと思うんです。それが幸福か不幸か、私にはわかりませんけれど、うちの子どもにはあんまりそんなふうに生きてほしくないと思うんです。やっぱり世の中にうまく填まって、ほんとの意味で建設的な仕事をしてくれたほうがいいと思う、どんなことでもいいから。だから、「どんな仕事したい?」と言うときに、とうとう最後まで見つからなかったら「サラリーマンでもいいけど、もうちょっと他のものを考えなよ」と言って、まあ小学校上級生くらいから何度かいろんな機会に話をしたいと思うんです。そうするとそんなに難しくもなくたぶん見つかりもし、見つかってもいろいろ苦労もし、悩みもするでしょうけど、グルグルっとして自分の居場所へ填まるように填まり込むんじゃない?
Q
午前中のお話ありがとうございました。「人間は弱いものでスタイル画のモザイクの1つのようなもの」のお話があり、なるほどとイメージしやすかったです。モザイクの1つにしかすぎないのに、そこで何とか自分だけ目立とう輝こうとして生きたのかなと思いました。自分の欲求を満足させるために、まわりの人を人とも思わず手段というか道具のように思っていたようです。
A
反省しているんですね、偉いですね(笑)。午前中あんまり話をしなかった分をいくつか指摘されていて、1つは「競争社会というのは構造的に間違っている」と、アドラーがいつも言っていました。競争と協力というのを反対語としてアドラー心理学は捉えます。競争したってあんまりしょうがないという考え方を、いろんな例証を挙げて言います。例えばクラスで漢字の書き取りかなんかで競争させるんですね。そうすると、伸びる子は伸びるんです、確かに。勝つのが好きな子がいますから。でもかえって伸びない子もいるんです。負けちゃって、「やったってしょうがないや」と思ってね。そうやって、人々のいわゆる能力の間に差を大きくしていきます。結局クラス全体の漢字の書ける数、個人が書ける漢字の数を足したものは、競争の激しいクラスと競争の激しくないクラスでは、競争の激しいクラスのほうが増えないんです。つまり総生産性が増えないんです。傑出した個人は作るけれども全体としての生産性が増えないというのは、産業心理学の分野でずいぶんたくさん実験があるんだそうです。昔、ソ連だった時代にスタハノフ運動という運動があります。スタハノフというのは働き過ぎで死んだ労働者の名前です。うんと働くと昇進とか特権的な地位がもらえるというやり方なんですけど、結局ソ連の総生産性はちっとも伸びなかったんです。だから競争を激しくしても結局あまり良いことは起こらない。競争のない社会というものを作っていかないといけない。だって、意味がないじゃない。クラスで国語が一番と言ったって、世界は広い。そんなん何も意味ないと思うんです。クラスのたかだか30人ほどの子どもに競争させて、何がいいことがあるんですか?大学なんかもいわゆる競争試験で採っているけど、あれも教師の側から言うとあんまり意味がないんですよ。能力試験ならわかるんです。ある程度の素養がなかったらある学問ができないというのはわかるんです。例えばある程度の数学の力がないと工学ができない。それはそうでしょう。生物学についてある程度知ってないと医学の勉強はできない。そうでしょうよ。そういう学問をする準備が整っているかどうかの試験をするのはわかるけど、点数を競わせて上から何人か入れるのはバカげたやり方だと思う。それもあんまり学問の研究と関係のない科目を出すでしょう。このごろだってセンター試験(共通テスト)を受けさせて、合計点で上から何人かで切るというのは変わってなくて、それってバカげた能力の測り方だし、そんなために能力を伸ばすと言って、その能力というのは役に立たない能力なんです。私は不幸なことに、今でも二次方程式が解けるんですよ。全然人生の役に立たないんですよ、どう思いますか?そんなんバカげていると思います。そういういらないことに子どもたちのエネルギーを使わせないで、ほんとにその子どもの力が社会に組み込まれるために必要なことに使われるように考え直していかないといけないと思っています。ラグビーのバックスね。前でスクラム組んでいるのがフォワードさんで、後ろで走っているのがバックスさんです。バックスというのは一列に並んで走るんです。ラグビーは前へボールを投げると反則なんです。後ろへ投げないといけない。だから前の人を追い越してはいけないんです。前の人の後ろを走りながら後ろ向きに投げてくるボールをパスされて走るんです。一列に並んでワーッと走るんです。そのときに特に走るのが速い人がいて、「僕速いもん」と前に出たらダメなんです。そんなことをしたらチームは負けるんですよ。世の中ってラグビーのチームみたいなもので、みんなが自分のある位置を占めて、ある役割を占めてやっていかないといけない。能力を目いっぱい伸ばすとダメなんです。子どもの能力を目いっぱい伸ばすのが好きなんですが、あれも近代的だと思う。私は精神科医です。精神科・心療内科に早い時期に特化したおかげで、例えば手術ですが、私に手術されたら確実に死にます。幸い手術の力を伸ばさなくて済んだので、その分のエネルギーを全部舌先へ集中することができまして、良い精神科医になりました、はい。外科の先生は、私が舌先へ集中したエネルギーを全部指先へ集中しましたので、ぶっきらぼうでろくなことをしゃべらないです。それはしょうがないです。人間には有限のエネルギーしかないわけですから、有限のエネルギーをあっちへ都合しこっちへ都合し暮らすわけだもの。だから能力を精いっぱい伸ばすという考え方は間違っていると思うんです。チームワークの中で自分が上手に暮らせるように、他の人と協力して暮らせるようになるというのが凄い大事だと思います。
それから「他人を道具にする」という考え方も鋭い指摘で、私が言ったかもしれんけど、アドラーが「疎外」ということを言いました。人間が他の人を手段として道具として扱って人間として扱わないことね。われわれは自分のことも自分の手段として扱ったりするんです。「うちの子見て。こんなに賢いでしょ。だから私も賢いのよ」とかね。配偶者を手段として扱うんですよ。「私の主人はこんなにも社会的な地位がある。だから私も偉いのよ」と。ご主人が偉くても奥さんは関係ないと思うんだけど。「うちの妻はこんなに美人でしょ。だから僕だって」って、別に奥さんが美人でも旦那は何も関係ないと思うんだけど。そうやって他人を、自分を輝かせるための手段に使うクセがあります。これも訓練でできてくるんです。そうするのも、下にいつも人間を扱うのもたまたま先天的に遺伝子に書いてあるわけでは決してありません。われわれが学習でもって修得するものですから、そうでない学習をすればいいと思いますよ。