Q
子どもの味方であろうと決心することと甘やかすこととはどう違うんですか?
A
甘やかすには3種類あります。1つは、賞罰をもってその子が将来苦労しないように躾けること。これ、甘やかしなんですよ。子どもの選択肢を奪い、われわれの思う方向へ子どもをねじ曲げて、親や社会が期待する人間に変えるというのは実は甘やかしです。子どもたちの未来を奪っているわけで、これはまあ普通はあまり甘やかしだと思われません。普通甘やかしというのはいわゆる放任育児です。放任には2種類あって、1つは溺愛型放任で、子どもの要求を全部かなえてあげることね。子どもの要求を全部かなえてあげると、子どもはどんどんバカになります。なんにも考えません。なんにも責任を取りません。もの凄い悪い育児です。もう1つは子捨て型育児です。子どもに興味を持つのを失って子ども以外のことに一生懸命になることね。この3とおりの甘やかし育児があります。この中で、子どもの味方になるのとこの方が混同されているのとは、溺愛型放任育児だと思うんです。アドラーの育児って無茶苦茶厳しいの。子どもに徹底的に責任を取ってもらおうと思うもの。子どもの失敗の尻拭いを僕らがしようと思わないの。子どもにはいつも「選択できない可能性」があると思うもん。子どもの側から言うと、大人としてずっと扱われているから、子どもとして扱ってもらえないから、その点でしんどいといえば凄いしんどいんですよ。僕たちは、子どもだからといって、まあ身体的な差はありますから、われわれとまったくおんなじようにできるとは思わないけれども、子どもだからといって必要以上に甘く育てる必要はなんもないと思います。そんなことをしたら子どもは育たないと思う。もちろん家の仕事も分担してもらおうと思うし、社会的な責任も取ってもらおうと思うし、自分の仕事は自分できちっとやってもらおうと思うし、子どもの課題に不必要に口出ししようと思わないし、子どもの失敗とかの責任をなるたけ子どもに取ってもらおうと思うし、うちの子どもがよその子を殴って、子どもの代わりにそのうちに謝りに行ってやろうと思わないし、宿題忘れて行ったら学校の先生に怒られればいいわ。私らがギャアギャアゆうて、「そんなことしたら学校の先生に怒られるで」とゆうてやることもないと思うし、ずいぶん違うと思うんです。
Q
アドラー心理学を学び実践していく上で、例えば臨床心理士の資格を取ることはどのような意味があるでしょうか?
A
何にも意味はないです。臨床心理士という資格はねえ、たぶん滅びると思う。ご存じの方はご存じかもしれませんが、医療心理士という新しい資格が、議員立法で国会へ上程されちゃったんです。いろんないきさつがあったんですけど、自民党と公明党と(当時の)民主党との共同で提案されたので、まあ間違いなく通るし、共産党も反対じゃないんです。医療心理士が通ると、今ある臨床心理士には何の魅力もなくなるんです。医療心理士は、限定的に病院で働く心理士の資格なんですけど、そっちが国家資格になっちゃうと、みんなそっちへ寝返るじゃないですか。臨床心理士の人もなるべく病院へ勤めて医療関係の実績を作って、医療心理士の資格を取ってそっち側で働こうとするじゃない。だからいわゆる臨床心理士というのは、たぶんまあなくなりゃしないけれどもあんまり話題じゃなくなると思います。で、かつ臨床心理士というのはお商売としてあんまり良くなかったのね。学校のスクールカウンセラーが主な就職先で、時給は凄い良かったんです。何か法外に高い時給をくれてよく儲かったんですけども、非常勤で1年更新なんですよ。だから身分不安定でいつ解雇されるかわからない状態ですから、家族を抱えて人生設計していく上では良くない資格だったんです。医療心理士は病院の雇用ですから、普通の常勤社員で給料とか保険とかも安定していますので、資格としてはずっといい資格だと思うんですね。そういうふうに1つの職業として医師とか心理士とか看護師とか、職業として成り立たせるには意味はあるんです。臨床心理士はあんまり意味はなかったけど、医療心理士は意味があるんですよ。意味はあるんですけど、アドラー心理学を学ぶ上では、床屋さんをやっていようが精神科医をやっていようが一緒なんですよ。何も変わらないので、特にある職業に就くからといって意味があるとは思いません。
Q
「現場」と「地図」の「地図」とは近代的自我のことですか?
A
多くの人にとってはそうです。多くの人にとって、僕たちが頼りにしているものは例えば「科学的認識」というものなんです。なんか言ったら「そんな非科学的な」と言うんですよ。でも非科学的なことが必ずしも事実でないとは言えないんです。いつも同じ例ばっかり挙げて申し訳ないけど、万葉集に「信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みせば珠と拾わん」=信濃の国の千曲川の小石も愛しいあなたがお拾いになったのだから宝石だと思って拾いましょう、という歌があるんだけど、誰が踏んだって石は石で、恋人な踏んだ石が宝石になるなら、そのあとを拾い集めて宝石屋を開けば大儲けですよ。それが科学的認識ね。でも科学的認識ではないものが人間を動かしているじゃないですか。だから科学的認識によって僕らの心が決まるわけじゃないです。物質世界は確かにデカルトが言ったように、科学的認識でもって動きます。でも精神世界は、デカルトは初めから「精神世界の説明はしない」と言っていたんですよ。それが心理学という学問ができて、あたかも精神世界の説明ができるかのような顔をしてみんな欺されただけで、われわれの持っている科学的認識がわれわれの心の全部を説明しないと思います。命の全部を説明しないと思います。命の中の蛋白質、核酸の部分だけしか説明できないと思う。例えば僕たちが癌になって、余命幾ばくもなくなったときに、お医者さんはわれわれを見棄てまして、沈痛措置だけしてくれるようになるじゃないですか。そのときわれわれは科学から見棄てられて、じゃあ何を頼りに生きていくのかというと、科学じゃないものさ。何かスピリチュアル・霊的なものを頼りに生きられる人はちゃんと残りの人生を生きられるし、それができない人は近代的自我しか持ってない人で、絶望するしかないじゃない。だから限界があるんです。僕らの持っている近代的な地図には。そこから次の段階へ進まないといけない。次の時代の地図を書かないといけない。この話は凄い長いので、スピリチュアル・ワークをやりますので、そこへ来ていただくと3日2晩この話ばっかりできますから、そちらへ来ていただけるほうが私はありがたいです。
Q
自分をどう使うかに迷っています。子どもがいるので子育てを第一に考えようと思いますが、仕事もしたいと思っています。いろいろな現実的な問題のある中で、「これだっ!」って感じられるものを得られる準備の仕方を教えてください。
A
そんなんわからんわ。女の人が仕事をしたいと思うのも半分わかるけど、半分わかんないんですよ。僕どっちかというと家庭的男性で、ずっと仕事をしなくて誰か素敵なオバサマが私を養ってくださって、それで朝昼晩に食事を作って掃除して子育てして暮らせるなら、そんなありがたいことはないと思うんですけど。なかなかそういうオバサマが現れなかったものですから、イヤイヤ仕事をしておりますが。仕事することが優れたことで、専業主婦は劣った人たちだという迷信を広げた人たちがいるんですね。一方ではいわゆる女性運動家たちが女性の社会的自立を叫んでいて、それもなるほど納得できる根拠はあるけど、一方では廉価労働力なんですよ。かつて集団就職というものがあって、中学を出た子どもたちが集団就職で都会へ出て、工場なんかで働いていました。今集団就職難かないんですよ。なんでないかというと、代わりにパート主婦を雇うからね。パート主婦というのは、それなりに教育程度も高いし、集団就職の子のように思春期じゃなから情緒不安定じゃないし、それからパートですからいつでも解雇できるんですね。集団就職の子たちは常勤でしたし、当時、組合運動の強かった時代だから組合が組織して、かなり資本家たちが手こずったので、それに比べれば主婦労働力は扱いやすい労働力でいつでもクビにできるんです。おんなじ知恵が若い人たちにも及んで、若い女の人たちはいわゆる派遣社員で、派遣会社へ勤めてそこから現場へ行くのね。そうすると解雇が凄い簡単にできるじゃないですか。そういうふうに資本家の都合の良いように使われているだけという側面があるんです。そこをちゃんと見抜いておかないといけないと思うの。だから仕事をすること自体が社会的に優れた状態になることじゃないんです。資本家の手先になるだけなんですよ。だからほんとに自分のしたい仕事が見つかるまで、まあ慌ててスーパーのレジ打ちなんかに行かないほうがいいと思う。生活に困らないなら。ほんとにしたい仕事っていうのはようわかりません。人によってみんな違うからね。私だって、こういう仕事を見つけるまでに三十七・八年かかったわけですよ。若いころ思っていた方向と違います。若いころの思っていた方向というのも漠然としていましたけど、まあ白衣を着たお医者さんという方向で考えていたけど、全然違う方向で仕事するようになりました。それはなんでするようになったかというと、まわりと自分との相互作用ですね。私があることをやり、まわりがそれに反応し、また私があることに帰る。まわりがそれに反応しちょっとずつ変わっていって現在の状態があると思うんです。だから自分の決心で人生が開けるとも思わないし、まわりのなりゆきで開けるとも思わなくて、その両方のやりとりの中で開けてくると思うんです。そういうふうに考えて、慌てて考えないで、時間をかけていろんなことをやりながら試行錯誤的にやりながら自分の場所を探していくんだと思ったらどうですか?