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Q
見返りのない愛、求めない愛、キリスト教の愛との違いは何でしょうか?
A
そんなもんないよ。マザーテレサはインド人を食い物にして天国へ行ったんです。彼女はものすごい大きな見返りを求めて、インド人を自分の犠牲者にしたんです。飢えている人とか癩の人とかを助けるというのは、彼女の「目標追求」「力への意志」じゃないですか。そこには見返りがどっざいあるんです。もしもキリスト教の教義をちょっと変えまして、「人を助けても天国へ行けません」とやったら、彼女はすぐにやめるでしょうよ。見返りのない愛なんかは今までなかったんです。特にキリスト教はその点では非常に間違ったことを教えてきました。僕、イエス・キリストは嫌いじゃないんです。いい人だったと思う。でも、キリスト教は嫌いなんです。キリスト教がこの世界に、われわれ東洋世界にしてくれたことは、いいことよりも悪いことのほうが多かったと思う。例えば、南アメリカね、南アメリカはスペイン人たちがキリスト教に乗っかって宣教したんです。それでいくつもの文化を破壊しました。インカの王様を拷問にかけて、火であぶりながら黄金のありかを「吐け、吐け」と言って吐かせて持って行ったんですよ。中国へはイギリス人たちがアヘンを売って中国人をみんなアヘン中毒にしたんですよ。中国はイギリスが通商を求めてきたときに、イギリス人の言い分としては「お互いどうしの余っているものを交換すれば両方が潤うだろうからぜひ交易をしましょう」と言ったら、中国の王様は「中国には足りないものなんか何もない」と言ったんです。「イギリスの国王が中国の属国として朝貢するのであれば、お土産をたくさんとらせるであろうが、対等の貿易なんてとんでもない」と、それは中国の昔からの立場ですから、そう言います。イギリス人は困りました。実際中国人はイギリスのものを何も買わなくても生きられた。イギリス人は、中国の陶器とか絹とかがすごく欲しかった。そういう点ではイギリスのほうが文化的には貧しかったから、で、中国人が何も買わないと、銀で買うから銀がどんどん出ていきます。イギリス人は何か物を買ってほしかったんです。でも中国は何もいらなかったたんです。イギリスは中国に売るようなものを何も持ってなかった。日本人はたくさん持っていました。椎茸とかナマコとか。イギリスには椎茸もナマコもないからね。とうとう最後、唯一中国に売れる商品を見つけたのがアヘンなんです。キリスト教徒のやったことというのは、われわれの文化を根底的に破壊することだし、それなりに安定していたわれわれの社会を不安定にすることばっかりだったではないですか。日本は江戸時代にもしも開国を迫られなければ、もっと緩やかに開国していっただろうし、あんなに領土拡張に狂奔しなかっただろうし、日清戦争も日露戦争も第二次大戦もなかっただろうし、違う形で発展したかもしれない。日本自身の自発的な動きであれば。でしょ。で、そういう領土拡張だとか、西洋文化絶対主義というのが今でもずっと動いているじゃないですか。まったく縁もゆかりもないイラクとかアフガニスタンに爆撃しているのは、キリスト教と関係あると思いませんか?キリスト教徒が自分たちの発明した民主主義とか自由とかいうものを世界に押し売りしているんです。だから僕は、キリスト教が愛の宗教だとはまったく思わない。アドラーも当然キリスト教徒ではありませんから、キリスト教を愛の宗教だとは思わないから、彼は「愛」という言葉を使わなかったんです。ユダヤ教は愛の宗教ではありませんからね、全然。神の愛なんて考えてないから、神との契約しか考えてないから。だから見返りのない愛というのを僕たちは今まで知らなかったし、これからも知らないと思う。原理的にありえないから。人間が相対的マイナスから相対的プラスに対して目標追求している限りは、見返りのない愛はありえないから。目標追求をやめてしまえばいい。完全にこの世界の流れの中に呑み込まれて暮らすことが可能であれば可能なんですが、今無理なんです。かつてお釈迦様とかそのお弟子さんたちはそういう境地に達したみたい。なんでかというと、それで食えたから。完全に自分の所有とか支配とかを何もかも離れたところにいる人たちに、インド人はお布施をする習慣があったんです。だからその人たちが乞食(こつじき)生活、ただ毎朝歩いて、「食べ物恵んでください」と言えば恵んであげるという文化がある場所では、完全に目標追求を落として完全に自然の中へ溶け込んで生きることができます。日本でもできないことはなかったです。良寛様は何もしてなかったですね。今の言い方で言うと、彼は統合失調症ですから、それも廃疾状態ですからかなり変わった状態で、今の世の中に良寛様が暮らしていたら、たぶん精神病院の中にいたと思うんですけど、当時の社会は、彼のように「行き所」、精神的な行き所を完全に失ってしまった人のことを聖者だと認識したわけです。それで良寛様にお米やお味噌などをみんな差し上げた。で、彼は子どもと遊んでいたり、友だちと字を書いたりなんかして暮らせたんです。ま、道楽をして暮らせたんです。でも今あれやっていると、三日四日すると食べ物がなくなるんですよ。今の世界はお金が絶対いるんですよ。今自給自足は無理なんですよ。なぜか?所得税とか固定資産税とかあって、最低税金を払わないといけないじゃない。私の友だちに自給自足を目ざして頑張っている人が何人かいるんです。田舎の廃村をタダで貸してもらって、そこへ農作物を作って暮らしますね。それで完全に自給自足できるかというとできないんです。だって何かの形で税金を取ろうとするの、政府は。何であれ少しお金がいるんです。そのお金がいるためには自給自足経済から抜け出さないとできない。何か町へ出てお金になることをしないと、自分で作った物を自分で食べているだけでは暮らせない。世界の構造がそうなっている。その中では僕らは悟りを開けない。私だって、こんなことをして金を稼がないで暮らせたら、もうちょっといい仕事をしたでしょう。そうかな?サボったかな?どっちかわからんけど。学者だって、19世紀までの学者は働かないで食えたんです。働かないで食える状態を僕らはもう想像できなくなっている。例えば田舎から仕送りがあった人たちがいる。フィッツジェラルドというイギリスの詩人兼学者…何かかんかする人がいるんですけど、彼なんかは貴族の坊ちゃんで、ロンドンで暮らしていたんですが田舎へは全然帰ったことがなくて、不在地主で、そこから毎年お金を送ってくるから、それだけで暮らせる。仕事に一生就いたことはないんです。大学を出てクラブというところへ行きます。クラブというのは、男の人たちが集まって何にもしないところ。トランプしたり雑談したり、ちょっとお酒飲んだりして暮らして、夕方帰るんです。次の日もそこへ行きます。それだけをして暮らします。あんまり暇だからペルシャ語でも勉強しようかと、ペルシャ語を勉強して、ペルシャの詩ってステキだと思ってそれをイギリスの言葉に翻訳して、それで暮らしたんです。道楽で詩の翻訳をしていたんですけど、すごくいい仕事だと思う。僕らが印税をもらうためにする仕事と、道楽者が金に関係なくやった仕事と、やっぱり違うよね。印税をもらうために仕事をすると、本が売れないといけないでしょう。本が売れないといけないというのは悲しいことで、読者を意識しないと書けない。読者を意識した本と読者を意識しないで書いた本とは値打ちが違うと思う。この間、論文を書いていて、ニーチェを引用したんです。ニーチェのいくつかの本を読んで、ベストセラー『ツアラツストラはかく語りき』は今なんかいくつもの本屋さんから翻訳書が出ていて、世界何十か国語に翻訳されていて哲学の世界では大ベストセラーですが、初版本は40部だったそうです。すごいなと思う。ニーチェが自費出版で、出版社に出してくれと言ったら、出版社が「じゃあ40部出しましょうか」と言ってくれて出た本で、あれは読者を意識してない本なんです。だから全然売れなかった本ですけど、今150年してやっぱり21世紀のことを何か僕らが根本的なところで考えようとしたら、どんな学者だってニーチェをいっぺん読まないと考えられないと思う。というのは、彼が働かない人だったから。読者を意識したら媚びて、100年も150年も先のことを書けないじゃないですか。だから、お釈迦様が悟れたのも働かなくてよかったから。今、誰もかれもが不在地主で働かないとか、お殿様のパトロンがついてそれに養ってもらう、お殿様でなくて親父でもいいけど、働かないでほんとに自分のやりたい仕事をするということが許されない社会だから、目標追求を落とせないんですよ。目標追求を落とせなくしたのは一体誰かというと、キリスト教徒さ。勤勉を道徳と考えるプロテスタントたちですよ。マックス・ウエーバーという人が、プロテスタンティズムと資本主義について本を書いていますけど、プロテスタントの道徳が「働かざる者食うべからず」道徳で、どんな人も働くべきだ、労働生産すべきだと言ったんです。そのプロテスタンティズムを知るまでは、日本人もそんなこと知らなかったんですけど、江戸時代の人たちは別に「働かざる者食うべからず」と思ってなかったので、で、落語の中の与太郎さんが存在するわけです。何してるかわからない人物がいっぱい落語に登場するし、何してるかわからない人が実際江戸時代にはいっぱいいたんです。それがみんな結局何かの形でまっとうに働かなきゃならなくしたのが、それが西洋思想で、その西洋思想の根底にあるのがキリスト教ですから、キリスト教は人類に幸福をもたらしたか不幸をもたらしたかというと、残念ながら不幸だと思う。イエス・キリストはいい人だったけど、キリストの弟子たちはそんなに賢くなかったと思う。クリスチャンいたらごめんね。(回答・野田俊作先生)
Q0478
結婚して13年たちます。夫は性生活をよく誘ってくるのですが、私はイヤでイヤでたまりません。月に1回くらいはさせてくれと言ってくるのですが、月に1回はは多すぎると言って断ります。どのように考えると、月に1回くらいはイヤじゃないと思えるようになりますか?
A0478
sex上手になる。sexは訓練のいることだと思う。妙な話をしますが、僕ははるか昔に初めてsexしたときにすごいがっかりしたんです。期待しているじゃないですか。若い男の子としては、モワモワモワといっぱい期待しているのに、実際やってみると、「あらまあ」という感じだったんです。今は「あらまあ」という感じではないんです。長い間にsexについて考えもし学びもし訓練をしていたんです。sexというのも「人間的出来事」なんです。動物はsexをしますよね。動物のsexは「自然的出来事」なんです。それを僕たちは若いときに自然の力でsexをしました。でもそれが一生そのまま続くんじゃないんです。人間の営みとしての性生活が、それとは別に築かれていかないといけないと僕は思うんです。それは勉強がいると思う。sexについてトレーニング、勉強して、本を読んだり、そういうことについて話し合ったり、学ぶ場所があったり、ほんとはしなきゃいけないんです。ところが今の文化は残念なことに、sexについてオープンな場所できっちり学ぶことがとても難しい。まして実習付きで学ぶことが難しい。これはいつも言って、みんなをびっくりさせるんですが、アメリカは「sexセラピー」があるんです。sexセラピストたちは、夫婦でも夫婦でなくてもいいんですがクライエントさんが来たら、性についての正しい知識をきっちり学んでもらおうと思う。今の学校の性教育は、sexのやり方ではなくてsexをしない方法、いかに子どもたちにsexをさせないかのほうを学ばせようとする。そうじゃなくて、sexというのをやろう!と、積極的にやっちゃおうと思うんです。sexというものを思い切り楽しもうと思う。sexから得られるものを得ようと思う。それは男と女がハグ、抱き合う最も深い抱き合い方じゃないですか。あれ以上近づけないんですよ。人間的な交流としてsexというものを全面肯定してしまおう。でも今親の育児や学校の性教育とかでは、半分否定しているんです。昔ほど全面否定していないけど、半分否定しているんです。半分否定した子ども時代を通り越しているから、大人になってもsexに対する無意識的なこだわりがいっぱい残っていると思う。そこのところを本を使ってsexを肯定できるようにしよう。でもこんなの頭でいっぱい肯定してもしょうがないから、やっぱり実習がいると思う。アメリカでは、ラスベガスのあるネバダ州だけが「買収防止法」がないんです。そこはsexを産業にできるんです。だから、いわゆる売春婦さんはよくないけれど、sexセラピストの研究所がいっぱいある。そこへニューヨークの人もサンフランシスコの人も、ラスベガスへ最後仕上げに実習に行くんです。そこのsex研究所にはトレーナーがいて、男性には女性の、女性には男性のトレーナーがついて、実際にsexしながら教えてくれる。そうすると学べるじゃないですか。「あ、そうか。sexってこんなことだったんだ」って。「ではおうちへ帰って、ご主人と/奥さんとでしっかりsexやってください」と言われて、「はいわかりました。頑張ります」とうちへ帰って円満にsexができるんです。そうやって、sexというのは学ばなきゃいけないことなんです、ほんとは実習付きで。でも、日本ではお話まではできるんですが、実習をやりますと、この国は「売春防止法」がありますから、僕が専門のトレーナーの男の人と女の人と雇って、ここの奥の部屋をsexトレーナーの部屋にして、「はい、奥さんこっちは入って旦那さんこっちへ入ってしばらく頑張ってください。教えてもらってごらん」とやったら、私は手が後ろへ回るんです。週刊誌が飛んでくるんです。「こんな邪悪なことしている!」って。なんでsexを教えることが邪悪かよくわからないんだけれども、でもそれは邪悪なことだという価値観を教えているんです。それでみんなsexについてまったく無知のまま結婚するんです。動物的なsexしか知らないで。そこで「人間的な性生活」に成長しないままで夫婦生活をするから、こんなことになるんです。夫のほうだって、動物的な性欲の話をしているので、人間的な抱擁の話を多分してない。妻のほうもそんなことについて考えたことがないんですよ。sexというのは男の女の遊びのうちの1つなんです。それは上手にやればとてもいいもんです。ヘタにやるとつまんないもんです。どうやって上手にやるかというと、今上手にやるための本がたくさん出ているんです。sexの本は大きく分けて2種類出ていて、1つは昔ながらのsexの捉え方の上に乗っかって書かれた本。例えばこの国でsexについて書き始めたのは謝 国権(しゃこっけん)とかドクトル・チエコとかいう人が、大体昭和40年ころから「ハウツーもの」の本を出し始めるんですが、これはsexの観念が昔ながらなんです。男性が女性をどうやって喜ばせるかという立場から書かれている。そこには男と女の精神的な、あるいはスピリチュアルなつながりとしてのsexが書かれていない。肉体の感覚を大きくする方法を書いてあるだけなんです。これってつまらない。第二種類は、インドのタントラsex。インド人が瞑想としてのsexを考えたのがアメリカに入って、タントラ系のほうから書かれた本がいくつかある。今sexを考えるとき、そっちの影響をみな多かれ少なかれ受けるんです。だからsexというのは「体の出来事」じゃないんだって。「心の出来事」なんだというほうから書いているタイプの本があるんです。そういう本を自分たちで探してごらん。自分たちで探すこと自体が、良いものと悪いもの、正しいsexと間違ったsex、望ましいsexと望ましくないsexを見分ける目を作っていくでしょう。何かイヤらしいドロドロしたポルノふうのsexから抜け出して、ほんとにスピリチュアルなsexに向かっていく訓練を夫婦2人でなさったほうがよろしい。私に「本を教えてちょうだい」と言わないように。あっちに英語で書いた本ならいっぱいあるけど。人にたずねないで、自分で“クエスト”ね。クエスト“探求”したほうがいいと思う。sexというのは、今まで何百年か何千年か思い込んでいた「動物的行為」じゃないんです。インド人たちはもう2000年ほど前から、sexをとても神聖な瞑想の一種だと捉えたんです。インドでもその知識は秘密にしないといけない知識だった。密教として仏教の中でもヒンドゥー教の中でも伝えられてきました。弘法大師は中国へ行かれて、その秘密のsexの儀式を学ばれたみたいです。彼の書いたものを見ると、実習付きできっちりやったみたいですが、日本には彼は伝えなかったんです。だって弘法大師のころというのは、万葉集が書き終わったころですから。日本は古代からやっとこさ抜け出したころで、とてもそんなめくるめくような高度の文化を伝えられるような状態ではなかったので、彼は知ってたけど弟子には教えなかったんです。中国でもそのあと仏教の排斥がありました。「破仏」と言う。仏教迫害があったので絶えてしまいました。チベットにはずーっと知識としては伝えられてきているので、さいわいチベット人が世界から隔離された場所にずっと冷蔵庫みたいに保存してくれたので、今でも完全な知識として残っています。それをチベット語やサンスクリット語から読み解いて、現代語への翻訳がやっと始まりました。ただそれらは密教ですから、秘密の暗号で書いてあるんです。日本語でもいつくつかの「タントラ」、sexに関する経典の翻訳がこのごろ出始めました。高野山大学の松永先生なんかが出されまして、たくさんあるんですけど、でも読んでもわからないんですよ。というのは、そこに師匠の口伝の注釈がついている。こう書いてあるのはこういう意味、こう書いてあるのはこういう意味って、表の意味と裏の意味が違うので、裏の意味がわからないように美しく書いてあるんです。そうしないと迫害されたから。それをアメリカとかヨーロッパの学者たちが、現代の人に読み解けるように、今読み解きつつある最中です。その成果はたくさん出てきています。だから普通われわれが思っているのと違うレベルのsexがある。それはとても聖なる出来事で、ほんとに男性と女性とが神秘的に合一できる体験なんです。そこに向かって、両方とも知らないから、学んで夫婦2人で実験をして「きっとそういうことが起こるんだ」と思って、しばらくやってごらん。そしたらこんな馬鹿な質問しなくなるから。(回答・野田俊作先生)
Q
先日10年ぶりに夫とうどん屋に入って2人で食事をする機会がありましたが、会話がなく話題がなく困りました。お互い相手の話を聞く側に回るほうが得意なのかもしれませんが、お互い相手が自分を楽しましてくれることを期待しているのかもしれません。意識して夫を楽しませようとするのはエネルギーが必要で、毎日毎日は続きません。どのように考えればいいでしょうか?
A
これもだから同じ間違いを犯していると思うんです。夫婦は楽しませ合って生きるもんではないんです。「楽しむ」とか「苦しむ」とかいうのも感情じゃないですか。いいかげん感情にこだわるのをやめなよ、アドラー心理学を長いことやってるんだから。大事なのは「いい気分とか悪い気分」とかじゃなくて、「すべきことをしているかどうか」なんです。夫婦がすべきこというのは、「遊ぶ、働く、話し合う」なんです。「遊ぶ、働く、話し合う」ということがきちんと行われていれば、時には気分良く、時には気分悪いでしょう。気分良く機嫌良く暮らすって、すごいわがままだと思いません?子どもには言うじゃない。「イヤなことでもやらなきゃいけないことはやりなよ。宿題イヤって?イヤって言ってすむもんじゃないでしょ」と人には言いながら、自分は気持のいいことだけして暮らしたいなんて、無茶苦茶わがままだと思いませんか?しなきゃいけないことはしなきゃいけないし、しなくていいことはしなくていいし、してはいけないことはしてはいけないです。たまたまうどん屋へ入ったときたまたま会話がなかったんじゃないんですよ。いつも会話ないんです。いつも会話ないのはどうしてかというと、「遊ぶ、働く、話し合う」がうまく動いてないからなんです。基礎工事が悪いのがたまたまそこでチラッと見えただけなんですよ。だからほんとに毎日毎日の心がけだと思う。夫婦というのは、「自然的な出来事」ではないんですね。結婚をしてsexをして子どもを作るところまでは自然的な出来事なんですが、そのあと婚姻生活を続けて仲良く暮らすのは「人間的な出来事」なんです。人間的な出来事というのは、努力をし工夫をしなきゃいけない出来事なんです。本能に任せておいてはできない出来事なんです。みんな本能に任せるから腐ってしまって、うまくいかないんです。本能的には、男は子どもができたら「他の女のほうがいい」と思い、女は「金さえくれれば亭主元気で留守がいい」でうちに帰ってくれなければいいと思うもんなんです、本来。それが動物の本能としての人間生活です。でもそれじゃなくて、僕たちは「一夫一婦制」というものを人間として選択しようとしているんです。選択する限りは努力がいるんです。例えば、雑草というのはほっといても生えるんですが、雑草じゃなくてきれいなお庭を作りたいの。きれいなお庭を作りたいというのは、人間的選択なんです。何でもいいから草が生えていればいいというのは、自然的選択なんです。きれいな庭には手間がかかります。水もやらなきゃいけないし、虫も取らなきゃいけないし、雑草も抜かなきゃいけないし、夏は夏、冬は冬でいろんなことをしなきゃいけない。そうすると、きれいな花が咲いたり、美しい結果になるわけ。夫婦もお庭作るのと一緒なんです。ずーーっと手入れがいるんですよ。一生手入れがいるんですよ。自然に任せ本能に任せると腐るんですよ。夫婦というのは、ある時点以後は自然的出来事ではなくて人間的出来事だから。庭作りが人間的出来事であるように、夫婦も人間的出来事なんです。おうちだって掃除しないと汚くなるでしょ。夫婦だって掃除しないと汚くなります。家は人間的な出来事で自然な出来事ではないから。人間が文化的に作り上げた暮らし方なんだから、手入れがいるんです。かつては、家族制度という中で、必然的に手入れせざるをえない仕掛けがあったんです。それが核家族化してそうじゃなくなったの。だから僕たちが自覚して努力して手入れしていくしかしょうがないんです。それをまあ頑張ってちょうだい。努力いるんだよって。(回答・野田俊作先生)
Q0476
「この飯あまりうまくないなあ」、「汚れているなあ」、「そんなことしてどうなるの?」など、ネガティブなことばかりボソボソ語りかけてくる夫に何と返事していいのかわかりません。何かアドバイスをください。
A0476
あのね、この発想、基本的に間違っていると思うの。アドラー心理学は他人に何をしてもらうかが問題なんじゃなくて、自分がどうするかが問題なんです。だから世間、自分以外の外の世界について不平を言い出すと、無限に不平のネタが見つかるんです。そんなの何したって見つかりますよ。なんで見つかるかというと、自分が探すから。われわれのライフスタイルが認知バイアスというものを作って、その認知バイアスは、イヤなことを探す人はイヤなことを探す認知バイアスで、無限に見つけるんです。物事の中のネガティブなものを探し出すのがすごい上手なんです。夫さんのここを探し出すのは、夫さんの具合が悪いからではなくて、この人の認知バイアスが、夫さんの気に入らないところを探す認知バイアスなんですよ。だから変わらなきゃいけないのは夫さんでなくて、この人自身です。まずそこを押さえてほしい。アドラー心理学というのは、「暗いと不平を言う前にすすんで明かりをつけましょう。カトリック教会」なんです。自分が変わることを問題にしているので、「夫がこういう具合の悪いことを言うから私がどう対応したらいいんですか?」というものの言い方は、結局のところ夫を変える作戦じゃないですか。夫をどううまく支配できるかを聞いているわけじゃないですか。だから答えようがない。一番最初の問題設定が間違っているから。自分のネガティブな根をどう変えればいいかを言えば答えようがあるんです。そういうネガティブさというのは、その人の主観的な価値観からできてきているわけで、「この飯あまりうまくないね」というのは、うまくない飯を作っているんです、要するに。「ここ汚れている」というのは、そこ汚れているんです、実際に。そこのところを文句言ってたってしょうがないじゃない。それよりもまあポジティブなことを探す。あるいは自分がこれからやっていくべきことを探す。あるいはどうやったら現在の問題を解決できるかを探す方向へ、自分自身をどう変えていくかの問題だなと思ってほしい。われわれは気分良く暮らそうと全然思ってないんです。気分というのは感情というのは、人生の課題じゃないんです。人生の課題は、3つのライフタスクのつきあいなんです。仕事と交友と愛、家族関係とか異性関係とか人づきあいとか職場の人間関係とか、どういう職業を選択するかとか、どういうふうに家計の設計をするかとかが僕らの課題であって、悪い気分を良くするとか相手の気分を良くするとかは人生の課題ではないんです。感情はアドラー心理学にとって何にも問題じゃない。感情というのは、船が走って行くときに起こる波なんです。船が走っている限り波は立つんです。それを何か、美しい形の波を立てたいと願う船長がいたとしたら、その船長はバカだと思いませんか。どうやったら安全に目的地に着くかが問題で、どんな波を立てるかが問題ではない。気分に感情にこだわる人は、全然無益なことにこだわっている。目標追求する限りいろんな感情が起こるんです。悪い気分でもイヤでも気が向かなくても、やらなきゃならないことはやらなきゃならないし、したくても好きでもしていけないことはしてはいけないんです。ただそれだけ。気持ちとか感情とか気分とかを大切にするというのも、個人主義とか近代主義とかが持ってきた1つの弊害・偏見、間違った偏りだと思う。それが間違った臨床心理学によって大変強調されていると思う。別に、わざわざ悪い気分にならなくていいし、わざわざ人を傷つけなくていいんですが、自分が良い気分になるとか相手が良い気分になるとかは、人生の目的ではないんです。だから、こんなことを言われて傷つくこと自体が何も問題じゃない。そうじゃなくて「私がどう暮らすか」が問題なんです。人間関係というのを、お互いがよしよしし合って気分を良くし合うことだと思わないでほしい。共同で問題を解決することなんです。(回答・野田俊作先生)