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痩せるには?

Q
 気楽に人生を送っているうちにプクプクと太ってしまいました。痩せたいと思います。どうすればいいでしょうか?アドラー的なアドバイスをお願いします。

A
 私は山へ登ります。5キロ痩せられたら5キロ荷物が減ったんですよ。いっぺん5キロのリュック担いで歩いてごらん。どれだけ重たいか。5キロ減ったら、お酒1リッターか2リッター入れてもまだだいぶ余りがある。10キロ減ったらまだもうちょっと何か入れられる。
 何か目標がないと痩せられないです。「痩せよう」というのはネガティブです。「タバコやめよう」「お酒やめよう」「痩せよう」「食べないでおこう」というのはネガティブです。この目標は達成されない。ポジティブな目標は達成される。「あの洋服を着よう」だと、ブティックへ行って素敵な洋服を見つけて、「どうしてもあれが着られる体型になろう」と強く決心すれば実現する。私はタバコをやめました。「タバコやめよう」ではうまくいかない。「いい声でしゃべろう」と思った。タバコ吸っていると駄目ね。4,5時間はしゃべれる状態にしておこう。他にいくつかしないことがある。あまり大きい声を出さないとか、声の出し方を調節するとか。そういうことの一環としてなら自然にタバコもやめられる。
 近々どっかの山へ登ろうと思って、それを目標にしてダイエットをしようと思っています。うまくいくかなあ。確信がないからうまくいかないかもしれない。目標を作ること。痩せたらできることの。(回答・野田俊作先生)

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中学掃除事件

Q
 中学校で全員が協力して掃除するようにするにはどうしたらいいでしょうか?

A
 無理ですね。昔、これで長いこと中学の先生のカウンセリングをしました。「中学掃除事件」です。
 「なんでそんなに生徒に掃除をさせたがるのかようわからん。外から業者を入れてやったほうがずっときれいになる」と私は言った。「でも躾けのために掃除させないといけない」と先生は言う。躾けたってしなくなるよ。私は中学出たとたんにしなくなったもの。まあ、それは暴論として……。
 掃除好きな子もいるし嫌いな子もいる。「しない」権利を一応認めたい。認めたいけど、しないなら、掃除するのに相当する労力を他のことに使ってほしい。ある子は掃除が好きだから掃除する。ある子は掃除が嫌いだから、「代わりに何をするのか」相談したい。みんながクラスを維持するために、自分の得意な分野で能力を発揮できるようにしたい。全員に同じことをさせようというのは不平等です。みんなが違うことで同じだけのエネルギーを使うのは平等です。全員に掃除させようとあまり思わないほうがいいのではないですか。(回答・野田俊作先生)

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不適切な行動に注目しないのと無視の違い

Q 
 不適切な行動に注目しないことと「無視」とは、どう違いますか?

A
 まったく違います。例えば、子どもが朝なかなか起きてこない。そのうち、ボーっと起きてきた。さあ、どうしますか?「こんなに遅くなって学校遅れるわよ」と言うと不適切な行動に注目したことになり、黙って知らん顔すると無視したことになります。「ぐっすり眠れて良かったね」と言うと適切な行動に注目しました。
 適切な行動とか不適切な行動というのは、実はちょっとだけ不正確な使い方です。そもそも行動は適切でも不適切でもない。子どもがやるたいていのことは適切でも不適切でもなくて中性です。親がそれを適切だと思ったり不適切だと思ったりするんです。客観的に適切とか不適切とかいうのは稀にあります。殺人は不適切です。物を破壊するのも不適切です。泥棒するのも不適切です。そういう誰が見ても共同体に対して破壊的だなと思う行動以外は、たいていは親の主観なんです。
 ということは、不適切な側面もあるけど適切な側面もある。その適切な側面の側に僕らは注目したい。不適切な側面の側に声をかけたくない。どっちにも声をかけないのもやめたい。
 子どもが非行化して3日ほど家を空けて帰ってこなかった。「あんたどこ行ってたのよ。親に何も言わないで!」と言うと、不適切な側面に注目した。黙ってじっと耐えていると、無視している。「元気な子に育って良かった」と言うと適切な側面に注目した。
 「これにはきっと適切な側面があるはずだ」と、まず思ってください。それに声をかける。それから、今まで気がついていなかったさまざまな行動にも適切な“側面”があるはずだから、それにも声をかける。だから忙しいんです。不適切に注目するのをやめるとね。いっぱい声をかけないといけないから。(回答・野田俊作先生)

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有効な言葉がけ

Q 
 有効な言葉がけや関係の持ち方はありますか?

A
 質問がまずかったですね。言葉のかけ方とか関係の持ち方という考え方は、私は変わらないで相手を変えようという下心がどこかに密かに見えるじゃないですか。むしろ「話の聞き方」とかを聞いてほしいんですよ。家族というのはどんなものかというと、この前「対人関係論」のグルグル回りの絵を描いたでしょう。私と相手がいて、相手が何か言って私が何か言ってグルグル回ってと、認知論者も描くし構築論者も描くんです。どこが違うかというと、認知論者には「芯」があって構築論者には「芯」がない。やっているうちにだんだん芯がないことを発見していったんです。私がいて相手がいて、私から相手に何かを言う。相手から何かを言う。そのとき何か同じところを「芯」があって、コマのようにグルグル回っていると初め思っていたんです。ところが、この話をしているうちに、だんだんこっちへ行く人もあり、あっちへ行く人もあり、違っていくんです。それは、ここの一言で違っていくんです。例えば、「あー医者へ行きたくないなあ」と相手が言って、今度はこっちが「そんなこと言われても家族の生活もあるし、子どもだってそんなに大きくないし」でこっちへ行くんです。「会社行きたくないなあ」「何かあったの?」「いや、別に何もないけど、仕事がうまくいかないしなあ」で、またこっちへ行くんです。それで1時間ほど話すと全然違うことになっているかもしれない。こっちは一家心中しようかという話になり、こっちは頑張って暮らしていこうという話になっているかもしれない。こういうのを家族療法家が見つけたんです。家族療法というのが、今もありますけど、一世を風靡しました。1980年くらい、ちょうど私がアメリカから帰ってきたころには、日本の臨床心理学の世界はアメリカ帰りの家族療法家がいっぱいいまして、で、変なんです、あの人たち、姿が。学会へ行くのに、普通僕らはネクタイ締めてスーツを着て行くんですが、アメリカ帰りの家族療法家はまずアメリカ帰りというのを強調するために短パンかなんかを履いていて、Tシャツかなんか着て背中にドクロマークなんかがついていたりして、椅子へ座ったら足をポンと差し上げて話をしたり、大変アメリカ帰りを強調してみんなに嫌われたんです。彼らはアメリカなりヨーロッパなりヘ行って家族療法を学んできたんだけれど、家族療法家たちは家族というものを1つの生き物と考えるんです。個人は部品なんです。僕らみたいにindividualが主体的に行動しているとあまり思っていなくて、家族がいわば主体的に行動していて、その中で僕らが使われているという捉え方をわりとしていたんですが、じゃあ家族というのはいったい何なんだろうということになり、家族のコミュニケーションをいっぺん観察しないといけない。そうすると、治療に来るのは悪いコミュニケーションをしている家族なんですね。悪いコミュニケーションというのは、誰か毒気を出す人がいるんじゃなくて、売り言葉に買い言葉で悪いコミュニケーションになっているわけです。いったいどこを触ったらコミュニケーションが変わるかと考えて、「そこでこう言わないでこんなふうに言ってみませんか?」と一箇所触ると、うまくいったらガラガラッとシステムが変わって、ガラガラぽんで仲良くなったりするんです、実際に。そこで循環的なやりとりというのを見つけ出したんです。家族の中のreflection循環・反映とかそういうものを見つけ出したんです。われわれもそうだと思うんです。個人の中にあるライフスタイルは変わらないけれどもライフスタイルが家族なり集団の中で暮らし始めると、ライフスタイルのある側面ばっかり刺激されるわけ。いつも奥さんと話をすると、奥さんは将来の心配ばかりするんです。「あなた、世界経済が破綻したって。うちの会社大丈夫かしら?」「大丈夫だよ。日本は安心だ。ドルより強いんだから」「ドルより強くたって輸出できなくなったら難しい」「危なくなったって、病気にならなきゃ大丈夫だよ」「社員の解雇があるんじゃないの?」…とやっているうちに、夫はだんだんムカついてきて怒鳴る。「あんたそんな言い方することはないでしょ。仲良く暮らしたいから言っているのに」「言うこと聞いていると仲良くしたくなくなるよ」と言うわけ。そのとき、私のライフスタイルは変わらないんです。10歳のとき決めたのと同じなんですけど、ライフスタイルの中の「最終的にムカついて怒鳴っちゃう部分」を絶えず刺激してくるわけ。こっちも考えてみたら、向こうが不安になるような材料を絶えず与えている。総合的に分担して悪い方向へ落ち着いている。どっちかの人が答え方をちょっと変えると、違う方へ行くかもしれない。家族療法家たちは家族を観察してそこで、「俺は病気になったから」と言うのをやめて、だいたい助言は「もう少し相手の話を聞いてみませんか」なんです。こっち側の安心材料を向こうに与えようとするんです。「どんなことを心配しているんだい?」と聞いたら違う展開になるかもしれないなあ。そこが家族療法家の無責任なところで、システムは必ず良いところへ安定しようとしているから、変えさえすれば良くなるんだと言う。そこはすごく不安なんです。変えさえすれば一家心中だってあるかもしれないと思うんだけど、何か1箇所変えたいんです。それはそれとして、僕らはもうちょっと家族療法家よりは共同体感覚とか横の関係とかのドグマに凝り固まっているので、良い方向になるかもしれない。家族療法家たちは、アドレリアンは良い家族像を治療者が先に持っているところが許せないと言うんです。僕たちは、横の関係で協力し合える、目標が一致して話し合える家族を作ろうとしている。これがちょっと傲慢だと言う。家族療法家がすべきは何か一箇所コミュニケーションを変えるだけで、そのあとどういう家族かを選んでいくかは家族自身が選んでいくことで、横の関係とか共同体感覚とかいう思想をそこへ持ち込んではいかんと言う。僕らは思想を持ち込まなければ人間は愚かであるから、一家心中するかもしれないと思っているんです。
 いずれにせよ、有効な言葉がけ、関係の持ち方というポジションから降りてほしいんです。相手の考えをもうちょっと聞いて。「仕事に行きたくないなあ」「もうちょっと話をして」と。何かできることはないか、私に何ができるかを絶えず考えたい、その中で。「仕事に行きたくない」「辞めたい」と言う夫に対して、あるいは家族に対して会社に対して私にできることは何だろうって、考えながら聞きます。聞いてるとだんだん見えるかもしれない。わかんないけど。要は、どういう言葉がけをするかではなく、どういう「問いかけ」をするかです。(回答・野田俊作先生)

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主体的判断を左右するもの

Q
 その時々で個人の主体的な決断を左右するものはいったい何なんでしょうか?

A
 個人は2つのものの間で決断をします。1つはライフスタイルで1つはライフタスクです。個人そのものはライフスタイルに支配されていないんです。ライフスタイルを使うだけなんです。こういうのを「使用の心理学 psychology of use」と言います。ライフスタイルも使用されるんです。ライフスタイルが僕らを所有しているんではない。一方にライフスタイルがあって、一方に外からやってくるライフタスクがあるわけ。で、このライフタスクを放っておけないと思う。「うちの子どもが勉強しない」とか、「うちの嫁はんは金を使いすぎる」とか、「うちの姑はちょっとボケてきた」というのがライフタスクです。そのまま放っておけない。何かしないと。どうするかというと、ライフスタイルと相談するわけです、どうしようって。うちの子ども勉強しないなあ。「いいんじゃない」というライフスタイルもある。「私は楽をしたい。めんどくさいことは避けたい」と思っているから「そのうち何とかなるでしょう」という結論に達して何もしないという人もいる。子ども勉強しないなあ。「私は優秀でなければならない」と思う。「子どもも優秀でないといけない」と思う人は、「人は優秀でないといけないとこの世に所属できない。落ちこぼれる。神経症になる。ホームレスになる」というライフスタイルで、「是非勉強しなさい!」と言う。ライフスタイルさんとライフタスクさんとの間で行ったり来たりしながら、「よっしゃ、こうしよう」って行動するんです。こういう考え方なんです。つまり、1つ1つの行動というのは、体が動くことだけじゃなくて、感情の動きとか内蔵の動きとか全部脳が作り出す動きを行動という。それはどうやってできるかというと、「ライフタスク×ライフスタイル」の計算でできるだろうと、こう思う。えらく線形なんですけど、1つ1つ行動について、「これはなんでか?」というと、ライフタスクがあってライフスタイルがあって、それゆえにこうしよう。こういう考え方をサイコダイナミックス(精神力動)と言います。ダイナミクスというのは物理学の力学ですから、ちょうど物理の公式のように、質量と重量とパチッと式で出てくるという感じで、精神力動と言っています。われわれの一々の行動はこうやって決まる。もっともこれは主体的決断で、そうしないこともできる。いつもだったら「勉強しなさい!」と怒鳴るところなんだけど、こないだ「パセージ」に出たら、怒鳴ると子どもが勇気をくじかれるので、そんなときは怒鳴らないで、「君は勉強についてどう考えているのかな?」って言うこともできるんです。そのときにはライフスタイルを使ってないんです。全面的にまったく使ってないということはないんですけど、いつもライフスタイルから出てきた精神力動的な答えと違う答えができるんです。違う答えがなんでできるかというと、「柔らかい決定論」だからです。アドラー心理学は、絶対的に行動が決まるわけじゃないんだって、いつも個人の自由意志という幅があって、違うことができる。その違うことは無限にできるかというとそうでもないんで、パセージに出たからといってやっぱり怒鳴る人もいるんです。なんでやっぱり怒鳴るかというと、意志が弱いからじゃなくて「怒鳴ろう」と決めているから。「怒鳴ろう」と決めなくて、パセージの魅力のほうが怒鳴るよりも大きくなれば怒鳴らなくなります。(回答・野田俊作先生)

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