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ほろほろと干菓子の溶くる夕焼かな

おはようございます(^^)
猫髭さん、解説文どうもありがとうございます。

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ほろほろと波くだけちる立浪草

おはようございます😃

お吟さん、素敵なお菓子と反物。
お人柄を彷彿とさせます。

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神威岬へと風露草踏みもして

猫髭さんが「今じゃ三万円もする貴重品」と仰るので、もう読んだし難解だからと古新聞の上に置いたのを、また持ってきたじゃないですか(笑)。
いやー『句集・櫻姫譚・田中裕明』から、お元気な猫髭節が聞けてよかったよかった♪

今日は、サ高住で介護士さんされている若い方がみえて、話が弾んだ。お若いのに物知りで話し上手聞き上手。サ高住では、インテリの気難しいお客さん専任とか。雨傘・蛙・紫陽花・雨の詰まったお干菓子を手土産にくださる。青楓の反物、割り込ませて早く縫ってあげよう。

けんかの子百合の莟のやうに立つ 森賀まり

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桜蕊降るふるアイヌ神謡集

こんにちは😃

長文猫髭解説感謝です。
> 「悉く全集にあり」という常套句、

虚子編新歳時記・子規忌の解説中のこの部分



「……著書多く、悉く子規全集に収まつてゐる…」

の事を言われていたのですね。私は常套句とあったので、「悉く全集にあり」という言葉が一字一句そっくりそのまま、子規忌の解説にあると思いこんでました。
「『虚子編新歳時記』の子規忌について触れた解説の一節である」
という猫髭解説、納得しました。
御教示感謝致します。

『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫)四季別全四冊、手元にありますが、毎年四季ごとに読み返してます。今はわからなくてもなぜこの句を虚子は残そうとしたのか、と思いながら毎年季節ごとにページをめくっています。今は春の部。そろそろ夏の部に入ります。
私の読み方は、下の作者名を隠して句だけを読んで、いいなと思う句に点で印をつけます。毎年点の句が変わるのも面白いのですが、作者名を後から見ると、高名な俳人もいれば、無名の俳人の句もあります。去年はなんとも思わなかった句が今年は心に沁みたり、こんないい句を作ったこの無名の方はどんな人生を送ったのかな、と思いを巡らせる(妄想?!)のも楽しく、ずっと座右の書の四冊です。

しかし猫髭さんの解説自体が読み応えがあり、多くの示唆を含んでます。又質問したくなりました(笑)
御多忙の中、すみませんが、今後とも、悉く無知の私に御教示お願い致します。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年05月01日 13:53)

黒百合はアイヌの神のタブーなり

ぴのこさん、虚子の「子規忌」の『新歳時記』の解説にあります。そこだけ引くのも何なので、わたくしが東日本大震災で中断せざるを得なかった『ホトトギス雑詠選抄』の連載の当該記事を添付します。


  ホトトギス雑詠選抄〔35〕
  秋の部(九月)子規忌

  猫髭(文・写真)*「週刊俳句」の2010年9月19日日曜日掲載の全集の写真がうまく転載できません。

  明治35年9月19日・未明子規歿す
  子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子 明治35年

  糸瓜忌や俳諧帰するところあり 村上鬼城 大正3年

正岡常規(つねのり)、又ノ名ハ処之助(ところのすけ)、又ノ名ハ升(のぼる)、又ノ名ハ子規、又ノ名ハ獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、又ノ名ハ竹(たけ)ノ里人(さとびと)。伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス。父隼太(はやた)、松山藩御馬廻加番(おうままわりかばん)タリ。卒(しゅつ)ス。母大原氏(註1)ニ養ハル。日本新聞社員タリ(註2)。明治三十□年□月□日没ス。享年三十□。月給四十円(註3)。

 (註1)子規の母方の祖父大原観山を指す。藩学の重鎮だった。
 (註2)日本新聞社長は陸羯南(くが・かつなん)。『近時政論考』『原政及国際論』を著し、近代ジャーナリストの草分けとされる。子規の物心両面にわたる最大の庇護者。
 (註3)【今ハ新聞社ノ四十円ト「ホトトギス」ノ十円トヲ合セテ一ヶ月五十円の収入アリ】(『仰臥漫録』明治34年9月30日)。

 大正15年5月20日発行の初めての『子規全集』(アルス)、「第十三巻 俳論俳話・下」を開くと、巻頭に折り畳んだ和紙が添付されている。広げると、子規の自筆の墓誌銘が現れる。冒頭の写真と文がそうである。御覧のように原文は漢字カタカナ表記だが、ルビと句読点を補い、若干註を付して引用した。

 柴田宵曲(しばた・しょうきょく)の『評伝 正岡子規』(岩波文庫)は、この墓誌銘から説き起こされる。この墓誌銘は、明治31年7月31日、河東碧悟桐の兄である河東銓(せん)への手紙に添えられたものである。宵曲曰く。

居士の一生はほぼこの百余字に尽されているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当り、居士は常に越智処之助なる名を用いていた。越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升(ちふう・のぼる)、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事(註4)にある。居士が獺祭書屋主人の名を用いる時は、すべて俳論俳話の類に限られた。竹の里人は居士の住んだ根岸を、呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「マタノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。

 (註4)李商隠 [813〜858]中国、晩唐期の詩人。字は義山。二十四節気・七十二候の雨水初候に獺祭魚(ダッサイギョ。たつうおをまつる・かわおそうおをまつる)に因む。【カワウソの習性として捕らえた魚を人間が先祖を祭るときの供物のように川岸に並べることから、書物を多く紐解き、座右に並べて詩文を作ること、また好書家、考証癖、書癖などを言う言葉にもなった。唐の李商隠がこの名で呼ばれ、正岡子規がみずから獺祭書屋主人と称した。このことから子規の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶこともある。】(ウィキペディア)。この墓誌は、昭和9年の三十三回忌に、北区田端の大龍寺(だいりゅうじ)の墓畔に建てられた。アルス版の『子規全集』内容見本では題字は違う字体だったのに、自筆墓誌銘の「子規」の字体に改めたのは、『子規全集』の企画者、寒川鼠骨(さむかわ・そこつ)である。以来、改造社、講談社とも踏襲している。

 昔、この墓誌銘を初めて見た時、その簡潔さに驚いた。なかんずく、最後の「月給四十円」に驚いた。当時の企業物価指数や消費者物価指数と現在のそれとは単純に比較できないが、現在の40万円前後だろうか。自分の死の値段を平然と月給に換算しているような気がした。正岡子規については、それまで教科書に載っているほどの事しか知らなかったが、この墓碑銘は強烈な印象を残した。

 昭和50年に講談社から『子規全集』が刊行され、その第一回配本が晩年の四大随筆『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』だった。読んで、更に驚嘆した。殊に『仰臥漫録』は発表を意識したものではないため赤裸々で、石川啄木の『ローマ字日記』や徳富蘆花の『蘆花日記』と同じく、読むとこれまで抱いていた作家の顔が全く違って見えるという驚くべき日記だった。『仰臥漫録』は、ここまで死を間近に見詰めてもがき苦しみ、そして楽しんだ人間を初めて見た驚きに打たれた。以来、この四大随筆は現在に至るまでわたくしの座右の書である。

 柴田宵曲の『団扇の画』(岩波文庫)所収の「無始無終」という寒川鼠骨追悼文を読むと、このアルス版の『子規全集』を企画したのが鼠骨であり、彼を師と仰いだ宵曲が請われて、子規庵に日参して子規の原稿をほとんど独力で浄書し、鼠骨と二人で校正編纂した経緯が書いてある。宵曲は江戸学の三田村鴛魚(みたむら・えんぎょ)の口述筆記者でもある。宵曲は中学一年で、家業が傾き退学せざるを得なかったが、上野図書館に日参し、古典、現代を問わず博く渉猟し、森銑三と並ぶ稀代の碩学となった。鼠骨と宵曲の無私の営為に支えられているから、今わたくしたちは子規を読めるのである。前年、大正12年9月1日の関東大震災で、鼠骨は倒れた汽車の窓から這い出して一命を拾い、幸い上根岸にある子規庵も鼠骨宅も中根岸にある宵曲宅も無事で、鼠骨は震災で子規庵以外の一切の紙型が烏有に帰したことを知り、灰燼の底で、全集を推進し、宵曲は子規庵の病床六尺の机で、膨大な子規自筆の稿本を浄書し続けたのである。

 子規を支えた陸羯南といい、子規を慕いその全集を企画した寒川鼠骨といい、鼠骨を師と仰いで、慫慂されて、膨大な子規稿本を浄書して、大正13年から昭和6年までアルス版『子規全集』(全十五巻)、アルス版『分類俳句全集』(全十二巻)、改造社版『子規全集』(全二十二巻)の編纂に従事した柴田宵曲といい、ほとんどおのれを語る事のなかった無私に徹した人たちであったと言っていい。殊に、宵曲柴田泰助をわたくしは理想の通人として敬愛する者である。

 子規忌を修する時、わたくしの脳裏に浮かぶのは、この三氏である。虚子や碧悟桐も全集の編纂に名を連ねているが、実際は鼠骨と宵曲の仕事である。安政以来の大震から一年も経たずに上木されたアルス版『子規全集』第一巻を紐解けばわかる。天金に焦茶色の表紙の手触りの暖かさ、見返しの青梅とさくらんぼの子規の彩色画の美しさ、コットンペーパーの用紙の柔らかさ、木版印刷の冒頭の子規自筆短冊や鶏頭の写生画の素晴らしさ、すべて鼠骨の意見に基づくものだが、無署名の編纂後記の奥ゆかしい文体は紛れもなく宵曲その人のものであり(最終巻の「総後記」に至って編纂の経緯が語られる)、子規がこれほどの短歌や俳句の革新、驚くほどの好奇心と卓見、また晩年の「この人を見よ」と言うしかない四大随筆を遺せたのは、彼らの子規に対する敬愛の深さである。

 子規亡き後の双璧と言われた虚子と碧悟桐には、その大いなる業績に見合う、『子規全集』に匹敵するような全集が無い。毎日新聞社の『高濱虚子全集』など、抜萃ばかりで、角川書店の『飯田龍太全集』もそうだが、胸糞が悪くなるほどの杜撰な糞全集としか言いようが無い。全集ではなく選集に過ぎない。

 虚子の「子規忌」の『新歳時記』の解説を見てみよう。

九月十九日。正岡子規は松山の人。升と呼ばれた。明治三十五年、年僅に三十六を以て東京根岸に逝いたが、その業績は不滅のものである。歿する前日紙に認めた「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をとゝひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」の糸瓜三句が絶筆として残つてゐる。著書多く、悉く子規全集に収まつてゐる。墓は田端の大龍寺にある。忌は全国の俳句団体で盛んに修せられてゐる。糸瓜忌。獺祭忌。

「悉く子規全集に収まつてゐる。」は、田中裕明が「悉く全集にあり衣被」で引いた一節だが、虚子の不滅の業績は、虚子没後五十年を経ても、未だに悉く全集にありとは言えない。子規が試みた『分類俳句全集』は最新の『子規全集』にあるが、それに倣った虚子畢生の『ホトトギス雑詠選集』は『高濱虚子全集』にはない。単行本もすべて絶版のままである。鼠骨・宵曲を継ぐ者おらずや。

掲出句の村上鬼城の一句は、まさにアルス版の『子規全集』あればこそ言える一句である。子規の原本を浄書して悉く残してくれたがゆえに、俳人には「子規」という帰る場所があるのだ。

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黒百合はブラックチョコの色かとも

おはようございます(^^)

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雫切る黒百合の花束にして

おはようございます😃

猫髭さん、御教示お願い。
> 「悉く全集にあり」という常套句は『虚子編新歳時記』の正岡子規について触れた解説の一節である。

について。



私の手元にある『虚子編新歳時記』増訂版昭和51年10月発行には、

正岡子規について触れた解説の一節であるとの事なので、どこだろうと、探したのですが、どこに書いてあるか見当たりませんでした。
子規忌の解説か?、
文章としては冒頭の序?
かもとおもったのですが、正岡子規について触れた解説はどこに書いてあるのでしょうか?
すみませんが教えて下さい。

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黒百合の消えてゆきしかうすがすみ

昨夜りんさんにつないだつもりがGWのバグか何かでサーバーにつながらなかったので、今日に持ち越し。

>『句集・櫻姫譚・田中裕明』
今じゃ三万円を超す高値の貴重品。田中裕明の全句集はわたくしも持っているので、お吟さんの師匠は当時二十二歳で俳壇に彗星のごとく現れた新人に興味を抱いたのでしょう。最年少角川俳句賞受賞の快挙は二十年近く破られませんでしたから。最も十代が新人賞を独占する他の文芸と違って三十代までが新人扱いのゲートボール文芸そのものという実態が信じがたい仏壇俳壇である。007を高校の時読んでいたらジェームス・ボンドが37歳と知り、爺いじゃんと驚いたから、村上龍も13歳の職業相談で「俳人」は職業から除外したのもむべなるかなの高齢化社会で、俳壇ほど老衰で亡くなる俳人が目白押しなのも珍しい。

まあ、賞といった類はわたくしには全く縁がないので、なぜ若手が目の色変えて新人賞に応募しているのかよくわからんが、サラリーマンの人格は役職で決まるようなもので肩書がないと俳壇では相手にされないのだろう。しかも、俳人協会というのも沢山あってなんでそんなに一杯あるのか興味ないので、賞よりもいかに自分が納得がいく俳句を詠むかが大事だと思うが、目利きがいないのかねえ、かつての中城ふみ子や寺山修司を見出した中井英夫や澤好摩を見出した高柳重信といった名編集長が。

それと、俳人はみな井の中の蛙のようにわたくしには思える。わたくしが俳句以外の趣味を沢山持っているせいかも知れないが、例えば田中裕明の句は「大胆な取り合わせの手法」が大きな特徴として挙げられており、岸本尚毅ばかりか四ツ谷龍や小川軽舟や仁平勝といった人たちが、「悉く全集にあり衣被」といった句を挙げて論じているが、「悉く全集にあり」という常套句は『虚子編新歳時記』の正岡子規について触れた解説の一節である。奥さんの森賀まりさんにもお弟子さんの対中いずみさんにも句会や催し物でお会いした時に歳時記を見せて説明しているが、みんな「本当だ」と同意していて、西野文代師匠も榎本享代表も「あなた良く読んでるわねえ」と猫髭放し飼い状態だった。

田中裕明は波多野爽波の弟子で、波多野爽波は『虚子編新歳時記』と『ホトトギス雑詠選集』を自家薬籠中の物として暗誦させ、句会ごとに身の周りの季語を集めて手垢の付いていない自分だけの歳時記を作りなさいと弟子たちに実践させていたから、虚子にとっての子規の記述はひと際のものだったはずで、虚子は万感の思いを込めて子規のすべては「悉く全集にあり」と歳時記に刻んでいるのは当たり前ではないか。今の世襲の「ホトトギス」と生前態度のでかかった虚子が良く思われているとは思わないが、どうしてどいつもこいつも子規の『俳諧大要』(出来れば四大随筆も)や虚子の『新歳時記』や『ホトトギス雑詠選集』を一年に一遍でいいから読み直さないのだろう。宝の宝庫なんだから、『ホトトギス雑詠選集』をなぜ朝日新聞社も角川文庫も俳壇一致して再版しないのだろう。このクソボケどもが。

田中裕明は「理屈や意味のない世界が、詩の本来の世界」と語るなど「ゆう」では繰り返し詩情の大切さを説きまた作句の信条としていた。「理屈や意味のない世界」を限りなく好きなわたくしには言葉のもたらすイメージのスパークが面白いので、どうして夢は現よりも残酷で美しいのかとただ見たままの世界よりもまだ見ぬ世界の方を面白がるところがある。

  小鳥来るここに静かな場所がある 田中裕明

弟子たちは「静かな場所」という追悼研究誌を今も出している。

ところで、全然関係ないけど映画『君の名は』第二部の主題歌が「黒百合の歌」。三部作とも主題歌は織井茂子が歌っているがみな素晴らしい。わたくしは再上映で少年ながら岸恵子よりも野性的で小悪魔的なアイヌ娘を演じた北原三枝に痺れまくりました。

黒百合の歌

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双子らにシャツ二枚縫ふ薄暑光

和裁の集まりの日。母の雑巾用にとたくさん貰った木綿地の中に、男の子のシャツにぴったりの柄があったので、万屋銀蠅に渡していたら、さっそく取りかかっていた。一歳の目のぱっちりした双子の男の子がこれ着て歩いてたら、可愛いすぎるわ(笑)。

夏鴨も二羽ゐてペイネ美術館   鳥越やすこ

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うだうだと影連れてゆく夕薄暑

おはようございます(^^)

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