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論語でジャーナル’25

22,樊遅(はんち)、知を問う。子曰く、民の義を務(つと)め、鬼神(きじん)を敬して遠ざく、知と謂うべし。仁を問う、子曰く、仁者はまず難(なや)んでのちに獲(う)、仁と謂うべし。

 樊遅が知について質問した。先生が言われた。「人民に対して、なすべき義務を果たすように教え、祖先や神々に対して、十分に敬意を捧げて離れたところにお祀りしておく(ある距離を置いた存在として扱う)。これが知というものだ」。
 また、仁について質問した。先生は言われた。「仁徳を備えた人は、まず難しい仕事を行っておいてから、あとで利益を収める(報酬を得る)、それが仁というものだ」。

※浩→樊遅は孔子より36歳年少で、戦いに大奮闘した勇士ではありますが、理解力の良いほうではなかったそうです。そのため、この弟子の質問に対しては、理論的でなく具体的に答えています。
 樊遅の「知」や「仁」についての質問は他のところにも出てきます。また、「鬼神を遠ざける」については、「子は怪力乱心を語らず」と、このあとの「述而篇」に出てきます。孔子は、鬼神の存在を否定する無神論者ではなくて、神よりもまず人をと考える合理主義者だったのです。私の父に似ています。母が家族の食事の前に、お仏壇にお供えをしていると、「生きている者が先じゃ」と言っていました。そのころは、なんてバチ当たり!と義憤を覚えましたが、その後、父が他界して仏様になってから、ときどきお仏壇のお供えが遅れたとき、母は「お父ちゃんは許してくれるよ。生きているころ、『生きている者が先じゃ』と言っていたから」、と逆手に利用していました。畏るべし、母の智恵!
 「まず難(なや)んでのちに獲(う)」は新旧で訳の違いがあります。古注では、「まず苦労してあとで功を得る」で、いろいろと骨を折ってから目的に到達する。つまり安易な到達を嫌うということです。新注では、「難きを先にして獲ることをあとにす」と読みます。人が嫌がって後まわしにする難しいことを後まわしにせず先にやる。また、人が利益のある事柄として先にやりたがる事柄を後まわしにする、ということです。私の母は、私たち子どもによく「苦あれば楽あり」と言っていました。何しろ明治生まれの人で、「辛抱」は美徳でした。そのおかげで、中学から高校にかけてコツコツ勉強を重ねたおかげで、今日のしあわせがあります。感謝感謝です。
 孔子は相手の知的レベルに応じた教育をしました。野田先生もそうでした。私は、1991年に初めて岡山市内で野田先生の公開カウンセリングを見学して“目から鱗”体験をしました。そして1992年に「カウンセラー資格」を修得しました。それから数年間は、自分のケースのほとんどすべてを大阪のアドラーギルドで開催の「事例検討会」へ持参して、スーパービジョンを受けました。どのケースに対しても、その都度、野田先生から丁寧なコメントとアドバイスをいただいて、そのおかげで、現場でのカウンセリングが順調に運びました。もともと野田先生は、学校の教師がカウンセラーになるのには反対でした。教師は来談者と学校の板挟みになって、真に生徒や保護者といった来談者の味方になるのが難しいからです。私はそれでも熱心にお願いしてお許しをいただいて、「カウンセラー養成講座」を受けました。幸い試験に合格しました。教師でカウンセラー資格をいただいたのは私が最初ではなかったかと思います。その当時まだ加入していた「日本カウンセリング学会」で発表することになったときは、野田先生にお許しをいただいて、さらに丁寧なアドバイスをいただきました。持ち時間15分で発表し終えるコツを教わって、実際そのとおり実行して、本番を無事終えました。その学会の重鎮は筑波大学の国分康孝先生でした。國分先生は野田先生より18歳年上で、そのお立場は折衷主義でした。國分先生が編纂された『カウンセリング辞典』(誠信書房)には、アドラー心理学に関する詳しい説明が掲載されています。それもそのはず。野田先生が執筆されたからです。私が「國分先生の学会で発表する」と野田先生に申し上げたら、先生は「國分先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃいました。國分先生のお弟子さんたちからは、現在も大活躍のカウンセラーやセラピストが続出しています。私も、「グループ・エンカウンター」や各種講座に参加して、それはそれは懇切丁寧なご指導を受けました。國分先生ご夫妻はおしどり夫婦でした。國分先生は、「カウンセリングは妻の久子のほうがうまい。私はしゃべるほうが得意」とおっしゃっていました。野田先生は、カウンセリングもおしゃべりも神業でした。私はこのように偉大な指導者に恵まれたことをとても感謝しています。

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中国語講座6/18

第4課 丁寧に依頼
<キーフレーズ>
Qing3deng3yi2xia4
请等一下。
「少しお待ちください」
 @ 请 = 「請」の簡体字
     「どうぞ~してください」、「恐れ入りますが」、「すみませんが」
    友人同士では“请”を省いて“等一下”だけでいい。
 「q」は有気音。息の音をはっきり出すように。

<子音:反り舌音と舌歯音>
・反り舌音
zh(i)無気音,  ch(i)有気音,  sh(i) ,  r(i)
・舌歯音
z(i)無気音,  c(i)有気音,  s(i)
 ここのiは「イー」ではなく、唇を両側に引いて「ウー」の感じで「ツー」「ツ’-」「スー」のように読む。

<ショート会話>
Fu2wu4yuan2! (yuはü:口は「イー」で「オー」と発音)
服务员!
「店員さん!」(→「すみません!」の意味)
Qing3deng3 yi2xia4
请等一下。
少しお待ちください。
Dui4 bu qi3
对不起.
すみません。
Mei2 guan1xi
没关系.
かまいません。

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論語でジャーナル’25

21,子曰く、中人(ちゅうじん)より以上には、もって上(かみ)を語るべく、中人より以下には、もって上を語るべからず。

 先生が言われた。「平均か、それ以上の知能の持ち主には、高度な内容の話をしてもよい。平均以下の知能の持ち主には、高度な内容の話をしても無駄である」。

※浩→何をもって知能の高さを測るか不明ですが、何しろ紀元前5世紀のお話です。孔子は、人間の能力を三分して考えています。「上知(じょうち)」と「下愚(げぐ)」と、ここで言われている「中人」です。差別的に見えますが、当時、「上知」と「下愚」はそれほど多くなくて、「中人」つまり平均人が社会の大多数を占めていたはずです。その平均人には高度な話をして教育できると考えていましたから、現代の教育の機会均等の考えと矛盾しないのだと、「世界の名著」の貝塚茂樹先生の解説にありました。
 「上知と下愚」は、ずっとあとの『陽貨篇』に、「子曰く、ただ上知と下愚とは移らず」とあります。万人の生まれつきの素質はそんなに差がないが、生まれたあとの習慣つまり学習によって差がつく。ただし上知と下愚は、学習によっても変化しない。
 相手に応じた教育をするということなら現代に通じます。アドラー心理学もそうです。例えば、子どもが問題を起こして相談に見えた親御さんに、いきなり「アドラー心理学の基本前提はね…」と理論を説いたりしません。ひたすら「勇気づけ」ながら、親子コミュニケーションに起こっていることを理解してもらい、悪循環のループを切って、子どもの適切な面に注目してあげるように提案していきます。さらに、継続的に学びたい親には、親教育ワークセミナーである「PASSAGE」への参加を勧めます。アドラー心理学で救われた体験をした人の中から、さらに他の人の助けになりたい人が出てくると、そういう人は、例えば「PASSAGE」のリーダーになったり、さらにはアドラー心理学のカウンセラーを目ざしたりします。このレベルになると、かなり高度の理論を学びます。この領域もクリアすると、今度はスピリチュアルな領域へ入っていくのでしょう。
 「上知と下愚とは移らず」に関連した諺もいくつかあります。「釈迦に説法」は前者で、「馬の耳に念仏」は後者でしょうか。私自身はたぶん「下愚」ではないかと思います。自分にはとうてい及ばない領域をたくさん残した状態で生きているからです。「無知の知」を自覚してはいます。歌舞伎の十七世・中村勘三郎さんの残した言葉に、「まだ足りぬ、踊り踊りてあの世まで」というのがありました。私の場合は「まだ足りぬ。学び学びてあの世まで」です。“完全”は求めません。ドライカースふうに「不完全を受け入れる勇気」を持って生きていきますが、「どうせ人生は間に合わないのだから」と野田先生が日記に書かれていました。

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しごとの基礎英語6/16

<ジョブキソ61>
#テーマ
 突然会議を進行することになった。「本日の会議の目的は○○です」とはっきりと伝えるには?
Thank you for beeing here. Today's purpose is to receive your feedback on our product.
ご出席ありがとうございます。今日の目的は私たちの商品についてご意見を伺うことです。
 @ be to ~ = ~ということになっている
      「to」は「未来に向かって矢印を出している」感覚
 @ purposeは「目的」、goalは「目標」

#応答
Okay. I hope we can help.
わかりました。お手伝いできればいいのですが。

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論語でジャーナル’25

20,子曰く、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。

 先生が言われた。「物事を理解する人は、これを愛好する人にかなわない。愛好する人は、楽しんで一体となっている人にはかなわない」。

※浩→学問は「愛知」であり、対象と一体になることによって最高の境地に達する。「愛知」はギリシャ語で“フィロソフィア”。フィロが「愛する」で、ソフィアが「知恵」で、英語のphilosophy(哲学)の語源です。儒家の「格物致知」は到達点が「平天下」ですから政治哲学です。プラトンも「哲人政治」の理想を唱えていました。
 ここでの「知って愛して楽しむ」は個人の様子を言っています。不等式で書くと、「知る<好む<楽しむ」です。
 私がアドラー心理学のカウンセラーになった当初、毎週金曜日の夜は大阪のアドラーギルドへ、自分のケースを持っていって、アドバイスを受けていました。そのころは、猛烈な知識欲がありカウンセリング実践欲の塊でした。当時、パセージ・リーダーの高橋さと子さんから、「大森さんは楽しんで実践していらっしゃる」などと、嬉しいお言葉をいただきました。野田先生は、「どうしても避けられない運命には、2つの選択肢がある。1つはそれをイヤイヤ受け入れること。もう1つはそれを楽しみながら受け入れること。これは自分で選べます」とおっしゃいました。そうだ、Enjoy!なのです。
 道家では、老子は文明の虚飾・技巧を捨てて無為自然の古代の道に帰れと説くので、復古主義・現実逃避の生き方になります。荘子は、現実を否定して逃避するのではなく、現実の真っ只中に身を置いて、世俗と交わりながら、しかも何ものにも束縛されない自由無碍な生活を生きることこそ、真の超越者の生活であると主張しました。このように生きるために必要な哲学は「万物斉同」の哲学です。私は、人生のピンチのとき、この哲学で救われました。アドラー心理学を学ぶようになって、道家思想は土着思想だと教えられたのがショックで、長らく棚上げしていました。それでも最近は、たとえ土着思想であるにしても、具体的な「処世術」としては実際に役立つことが多いので、その価値を見直せるようになりました。心理学でも、理論の差異は譲れませんが、技法はお互いに貸し借りしています。
 アドラー心理学の学び方は、まず書物や講演で見て聞いて、頭で知って、それからそれを実践して、体が体得し、さらには仲間との交流で、軌道修正していくことだと教わりました。「知ってわかって実践する」という3段階です。カウンセラー養成講座でカウンセラー資格試験に落第する人は、「頭で知ってはいてもわかっていない」からだと、野田先生は常々おっしゃっていました。
 人生では、世界について(人間についても)よく知って、よくわかって、さらにはそれらを楽しむ心境に達すれば最高です。それには「予測と制御」の力が必要です。自分の現在の行動の結末を予測できて、望ましくない結果が起こりそうだとわかれば、そうならないための適切な行動を今選べばいいわけです。この原理を知らないためか未来に不安を抱くクライエントさんにたびたび遭遇します。そういう人は、ほとんど「悪いあの人、かわいそうな私」をやっていて、「こんなにも私はつらい」と愚痴をいっぱい言いながら、現実には自分で何かしようとはしません。カウンセラーが提案する案も容易に受け入れられません。私はほとんどこんなケースには遭遇しませんでしたが、神経症的な人のカウンセリングではよくあるそうです。治ったら困るんでしょう。「憐れな被害者」でなくなりますから。その人たちのやっていることは「劣等コンプレックス」ですから、うっかり巻き込まれて片棒をかついだりしないように、カウンセラーは敏感でないといけません。わが家の本棚に、『愛はおそれをサバ折りにする』という変わった題名の本があります。パラパラとめくってみると、凄いフレーズがあちこちに散らばっています。
 すべての怖れは「過去」にあり、すべての愛は「いま」にある。
 というのに眼が止まりました。うーん、けっこう忙しいけど読み直しましょう。

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