<ジョブキソ56>
#テーマ
取引先のプライベートな用事に「同行したほうがいいか」たずねるには?
Mr. ○○, if you prefer, we would be happy to accompany you.
もしお望みなら喜んでご一緒いたしますが。
@accompany = 同行する Shall I accompany you? 一緒に行きましょうか?
@co = 一緒に、pan = ラテン語のpanis(パンのこと)→同じ所にいる
#応答
No thank you. I'm perfectly fine on my own. ありがとう。自分だけでほんとに大丈夫だから。
4,子華(しか)、斉(せい)に使いす。冉子(ぜんし)、その母のために粟(ぞく)を請う。子曰く、これに釜(ふ)を与えよ。益(ふや)さんことを請う。曰く、これに臾(ゆ)を与えよ。冉子、これに粟五秉(ごへい)を与う。子曰く、赤(せき)の斉に適(ゆ)くや、肥馬に乗り軽裘(けいきゅう)を衣(き)たり。吾聞く、君子は急を周(すく)いて富めるを継(たすけ)ずと。
子華が斉国に使いにやられた。冉子が留守宅の子華の母親のために粟(あわ・穀物)を貰いたいとお願いした。先生は言われた。「釜(ふ=約五升七合)を与えておきなさい」。もっと増やしてほしいと冉子がお願いした。先生は言われた。「臾(ゆ=約一斗四升七合)を与えておきなさい」。冉子は五秉(ごへい=約七石一斗八升)を子華の母親に与えた。先生が言われた。「子華は斉国に出かけるときに、肥えた駿馬に乗り、高級な軽い毛皮の服を着ていたと聞いている。君子は、困窮した者を助けるが、富裕な者を更に豊かにはしないものだ。
※浩→子華は姓は公西(こうせい)、名は赤(せき)、字(あざな)は子華という孔子の弟子です。子華が斉国への使いとして派遣されたときに、孔子は子華の使いの必要経費(あるいは母のための留守手当て)となる粟を、母親に送ることを渋ったという。それは、子華が素晴らしい駿馬や美しい毛皮のような贅沢品を購入して斉国に赴いたことへの孔子の批判であり、「外交使節としての必要経費(あるいは留守手当て)」には子華が使ったような虚栄心を満たすための嗜好品は含まれないということです。君子は本当に貧しい者を助けることに躊躇しないが、裕福な者の贅沢や浪費を手助けするような支援をすべきではないということです。
これは現代の、累進課税や所得の再分配のような、豊かな国民と貧しい国民の経済的格差を縮めるための政策を思わせます。こういう工夫を施さないでいると、よく言われるように、「豊かな者はさらに富み、貧しい者は今あるものまで奪われる」ような悲惨なことが起こるでしょう。桂枝雀のお得意のネタに「高津(こうづ)の富」というのがあります。高津は大阪の高津神社で、「富」は富くじ(今の宝くじ)です。この落語の“まくら”です。お札は寂しがり屋で、1枚では立てません。大勢くっつくと立てます。お金はもっとお金のあるところへ「飛んでいこう、飛んでいこう」と豊かな人のもとへ集まります。ですから、お金を貯めようと思うなら、まずお金を貯めなければならないのです」とあります。日本は、世界がうらやむ豊かで幸せな国だと言われていました。最近はそれはもはや神話で、貧富の差はますます広がり、working poor という言葉ができたくらいです。「働けど働けどわが暮らし楽にならず。じっと手を見る」は石川啄木の有名なフレーズですが、それは自身のフラフラとした働き方や、身の丈に合わない出費で遊び回っていたことが大きな原因だという説があります。仕事は気分で欠勤しまくる。給料の前借りは慣習化していて、「これ以上前借りできない」という状況になると、友人・知人にすぐ借金する。お金を借りたエピソードには「首尾良くいって」とか「これでもう取るところがない」などと書かれていて、貸してくれた人への感謝や、返済への責任感が感じられません。さらにそのお金の使いみちは、昔はほとんど花街でした。どんな女性とどんなふうに夜を共にしたか、行為の内容が赤裸々に書き記されています。「妻は一番愛しているけれど、その気持ちと他の女性への興味はまったく別だ」とか書いていて、また「家族を養う重圧を考えると、しにたい」というような記述も見受けられます。借金までして自分だけ遊びまくり、妻は質屋通いとはあまりにもひどすぎます。作品の素晴らしさとのあまりのギャップに驚きます。天才ってこんなんでしょうか?やはり「英雄イロを好む」ということでしょうか?
第17課 疑問を表す言葉
<キーフレーズ>
「何(いくつ)個さしあげますか?」
ミョ ッケ ドゥリョヨ
몇 개 드려요?
@さしあげる=드리다 トゥリダ
さしあげます=드리+어요 → 드려요
몇 ミョッ= 何
「몇 + 살(歳)」→ 「몇 살」(何歳)
「몇 + 시 シ(時)」→「몇 시」何時)
<疑問を表す言葉>
・누구 (誰)+ 예요? (ですか)→ 누구예요? (誰ですか?)
・어디 (どこ)+ 예요?(ですか)→ 어디예요? (どこですか?)
・얼마 (いくら)+ 예요?(ですか)→ 얼미예요? (いくらですか?)
<練習>
コンサートはいくらですか?
콘서트는 얼마예요?
1万ウォンです。
만 원이에요.
何枚ありますか?
몇 장 있어요?
2枚あります。
두 장 있어요.
<聞き取り>
「おばさん これいくら?」
아줌마 이거 얼마(예요)?
<分かち書き>
1,文節の切れ目
#助詞のあと
私は 主婦です。
저는 주부예요.
#副詞のあと
とても 愛してます。
많이 사랑해요.
2,疑問の表現・数詞とその単位
何 個=몇 개
35 歳=서른다섯 살
3,名前と肩書き
シフ さん=시후 씨
キム 先生=김 선생님
<ワンポイント>
상장=賞状
カバンの中身=가방 안에 있는 물건
財布=지갑
本=책
お金=돈
カード=카드
ゴハン=밥
鉛筆=연필
ノート=공책
3,哀公問う、弟子(ていし)孰(たれ)か学を好むと為す。孔子対(こた)えて曰く、顔回という者あり。学を好む。怒りを遷(うつ)さず。過ちを弐(ふたた)びなさず。不幸、短命にして死せり、今や則ち亡(な)し。未だ学を好む者を聞かざるなり。
哀公がおたずねになった。「あなたのお弟子の中で学問好きと言えるのは誰ですか?」。孔子は答えて申し上げた。「顔回という者がおりました。学問好きでした。ある人に対する怒りを他の人に移して八つ当たりをしませんでした。同じ過ちを二度と繰り返したことはありませんでした。しかし、不幸にも短命にして死んでしまい、もうこの世にはいません。(私はそれ以降)まだ、学問を本当に好きな者を聞いたことがございません。
※浩→哀公は魯の国の最後の君主です。論語『先進篇』では、若くして死んだ顔回に対する孔子の深い苦悩や悲哀が描かれています。孔子六十一歳のとき、顔回は三十二歳で亡くなったと言われます。顔回は孔子が最も将来に期待していた愛弟子で、学問を誰よりも深く愛していて、孔子の弟子たちの中で抜群の学識と理解力を誇っていました。孔子は顔回の夭折(ようせつ)を聞いて、「この優れた人物にして、こういった悲劇的な運命があるのか!」と深く嘆き悲しんだそうですが、初期の儒学教団において非常に重要な位置づけを持っていた人物と考えられます。
顔回は幸せなお弟子さんです。これほどまでにお師匠様に愛されて。でも、そこまで愛されるには顔回の向学心と理性的な生活態度が、他のお弟子よりもダントツ抜きん出でいたのでしょう。
それにしても、顔回は師匠より先に逝きましたが、わが師匠・野田俊作先生は愚弟子の私より先に旅立たれました。逆じゃないですか!もっともっと学びたいことがあったのに(怒&悲)。岡工講座の講演の中にありました。親より先に亡くなった子どもは、三途の川の手前の「賽の河原」で「1つ積んでは父のため、2つ積んでは母のため」と、決して報われることのない石塔づくりを科せられます。やっと積み終えるとそこへ鬼がやって来て、その石塔をぶっ潰すんです。そしたらまた初めから「1つ積んでは…」と積み始めます。昼夜これを繰り返す永劫作業です。西洋で有名なのはカミュの「シーシュポスの神話」があります。神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けました。彼は神々の言いつけどおりに岩を運ぶのですが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまいます。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのでした。カミュはここで、人はみんないずれは死んですべては水泡に帰すことを承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の不条理な姿を、そして人類全体の運命を描き出したのです。「報われない作業」であるにもかかわらず、むしろそれを逆手にとって、「やっても意味はないのか。そうか、わかった。それでもやってやろうやないか!」となると、ニーチェの「永劫回帰」です。令和の今も、言ってみれば「不条理」な時代だと思います。変ですねえ。お米の値段は全然下がりません。政府が備蓄米を放出したというのに、市場ではまったく変化がありません。きっと誰かが買い占めているんでしょう。庶民は賢くて、すでにかなり「お米離れ」が進んでいるようでもあります。わが家は一度買った2キロ入りを、朝食にだけちょっとずつ使っています。一度買うと相当長い間あります。あとはダイエット目的で米飯を食べないか、あるいは昔風に言うと「代用食」で間に合わせています。今、お米を買い占めている奴らめ、そのうち高値で売ろうと思っても、誰が買うもんか!!!
第26課
<受け身構文> 「被bei4」
公式:「A+“被”+B+動詞+その他の成分」
稲は強風に吹き倒されました。
Dao4zi bei4 da4feng1 gua1dao3 le.
稻子被大风刮到了。
A=稻子、B=大风、動詞=刮(風が吹く)、
その他の成分=到了(倒れてしまった)=結果
あれらの家具は彼らに運び出されました。
Nei4xie1 jia1ju4 bei2 ta1man ban1chu1qu le.
那些家具被他们搬出去了。
A=那些家具、B=他们、動詞=搬(運ぶ)、
その他の成分=出去了(出て行ってしまった)=方向補語
※Bの省略
私の財布が盗まれました。
Wo3 de qian2bao1 bei4 tou1zou3 le.
我的钱包被偷走了。
A=我的钱包、B=(省略)、動詞=偷(盗む)、その他の成分=走了=結果補語
#否定文
さいわいあのノートは彼に捨てられませんでした。
Xing4kui1 nei4ge ben3zi mei2 bei4 ta1 reng1diao4.
幸亏那个本子没被他扔掉。
A=那个本子、B=他、動詞=扔(捨てる)、
その他の成分=掉(なくなる)=結果補語
文末の「了」は否定文のため不要。
※Bを省略できるのは、受身形でも「被」のときだけ。
他の受身形として、jiao4 叫、 rang4 让 があるが、この場合は省略できない。
<ピンイン>
你好ni3hao3のように、第3声が連続する場合、前の音節は第2声に変化する。表記は第3声のまま。
shui3guo3 水果 果物
li3xiang3 理想 理想
lao3hu3 老虎 トラ
xi3zao3 洗澡 入浴する
shou3biao3 手表 腕時計
Qing3 ni3 tan2tan gan3xiang3, ke3yi3 ma?
请你谈谈感想,可以吗?
ちょっと感想をお話ししていただいてもいいでしょうか?
<補足> 受身構文
私は食べ終わりました。
Wo3 chi1wan2 le.
我吃完了。
我=動作主 完=(結果補語)~し終わる
昼食は食べ終わりました。
Wu3fan4 chi1wan2 le.
午饭吃完了。
午饭=動作の対象(食べられるもの)
受身構文であるが、「被」を使わない。動作を行う側だけでなく、その受け手も主語に なれる。
<日本での心に残るおもてなし>
顔を覚える
ji4zhu4 mian4kong3
记住面孔
手を振る
hui1shou3
挥手
見送る
song4xing2
送行
手料理
qin1shou3 zuo4 de fan4cai4
亲手做的饭菜
もてなす
zhao1dai4
招待
保育園・幼稚園の先生
you4'er2 yuan2 lao3shi1
幼儿园老师
別荘
bie2shu4
别墅
サンドイッチ
san1min2gzhi4
三明治
どういたしまして。
Na3li na3li
哪里哪里。
とんでもないです。
Bu4gan3dang1
不敢当。
ほめすぎです。
Nin2 guo4jiang3 le
您过奖了。
まだまだです。
Hai2 cha4 de yuan3
还差得远。
まだ駄目です。
Hai2 bu4xing2
还不行。
あなたに見習わないといけません。
Xiang4 nin2 xue2xi2
向您学习。