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老子でジャーナル

老子第37章
 道の常に無為にして、而も為さざるは無し。侯王(こうおう)、若(も)し能(よ)く之を守れば、万物、将に自(おのずか)ら化せんとす。化して欲作(おこ)らば、吾れ将にこれを鎮むるに無名の樸(ぼく)を以てせんとす。無名の樸は、夫れ亦た将に無欲ならんとす。欲っせずして以って静なれば、天下将に自ら定まらんとす。

 道の本来的な在り方は、人間のような作為がなく、無為でありながら、しかも為さぬということがない。もしも支配者がこの無為の道を守っていけるならば、万物はおのずからその徳に化せられるであろう。もしも万物がその徳に化せられながら、なお欲情を起こすとすれば、私はそれを「無名の樸」─荒木のように名を持たぬ無為の道によって鎮めよう。荒木のように名を持たぬ無為の道であれば、さても万物は無欲に帰するであろう。万物が無欲に帰して心静かであるならば、天下はおのずからにして治まるであろう。

※浩→「上篇・道経」最後の章です。第32章とも共通するところが多いですが、「無為にして為さざるはなし」と、後世、老子哲学のキャッチフレーズのように用いられたこの言葉は、ここに初めて登場しています。
 「無為にして為さざるはなし」という言葉はまず、天地大自然の営みを説明する言葉でした。天地自然の造化の営みは、人間のように特定の目的意識や打算的意図を持って何かをしてやろうと力んだり騒いだりするのではない。雲はただ漂うべくして大空を無心に漂い、風はただそよぐべくして野末に無心にそよぎ、水はただ流れるべくして地上を無心に流れていく。何のためにと問うてみたところで雲は答えず、何の意味かと問うてみたところで風や水は何も語らない。それらの現象は人間を喜ばせるためにあるのでも悲しませるためにあるのでもなく、人間がただ己れの感情を移入して、勝手に喜び悲しんでいるに過ぎない。このことは野を駆ける獣、地にうごめく虫を考えてみるとき一層はっきりするでしょう。獣が何も人間に食われるためにこの世に生まれてきたのではなく、虫は何もこの世を価値ありと見て生きているわけでもない。彼らはただ生まれてきたから生きているだけであり、死が訪れれば、ただ死んでいくだけである。天地大自然の造化の営みは、ただあるがままであり、ただおのずからにしてそうである。しかもそこれは万象は一瞬といえども停止せず、刻々に新しい様相が展開され、絶えず創造的な神秘が繰り広げられていく。老子はこのような天地大自然の造化の営みを「無為にして為さざる無きもの」と理解します。
 また老子は、その無為を「道」─天地大自然の造化の営みの根源にあるもの─に目ざめを持つ人間の在り方として説明します。人間はいろいろな知恵を働かせ、さまざまな理屈をこねて、人類の意志を理想化し、社会の在り方を規範づけます。難しい言語概念をでっちあげて、複雑な技術技巧を考え出し、輝かしい文明を築き上げ、華やかな文化を作り上げます。しかしそれによって、人間がはたしてどれほど幸福になったのでしょうか。あるいはまた人間の生がそのためにどれほどの安らかな充溢を得たのでしょうか。そこに見られるものは虚しい観念の洪水と浅薄な文化の氾濫、安直な文明の怠惰だけではないのか。もしくはまた、人間の清新を白痴化する度外れの多忙と騒々しい雑踏、人間の肉体をミイラ化する蒼白い博識と不毛な饒舌だけではないのか。老子はこれらをすべて生命の衰弱現象と理解し、それを道に目ざめを持たぬがための、“知に驕る無知”として批判します。それで彼は人間が道に目ざめを持って、己れの本来的な在り方に帰れと警告します。本体的な在り方に帰るためには、人間の作為的な営みがすべて一度否定されなければなりません。作為的な営みをすべて一度否定して、道つまり天地造化の営みの根源にあるものに、己れを虚しくして随っていくことができると教えます。そのとき人間は道と1つになり、道の無為がそのまま己れの無為になるとともに、道の為さざることなき自由さがまた、そのまま己れの為さざることなき自由さとなります。つまり、道と1つになった人間─無為の聖人は、人間的な作為を否定する無為によって道の無為と1つになり、道の無為と1つになることによって、道の無不為を己れの無不為として体現します。老子において“無為にして為さざる無し”ということは、天地造化の営みの根源にあるもの─道の在り方であるとともに、道に目ざめを持つ者─無為の聖人の在り方でもありました。
 土着思想という先入観にさいなまれながら、『老子』前篇を読み終えました。後篇は「道徳経」の「徳の部」になって、無為自然の道を体得した、重心を下にした乱世を生き抜く柔軟な処世法が説かれますが、ここで一旦休憩します。

上篇完

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ハングル講座4/27

第44課 意向を伝える表現、相手の意向をたずねる丁寧な表現
<意向を伝える表現>「~(し)ますよ」「~(する)つもりです」
#キーフレーズ
「ひとりでやりますよ」
ホンジャソ ハrレヨ
혼자서 할래요.

#公式「~(し)ますよ」「~(する)つもりです」
・動詞の語幹 + ㄹ래요/을래요 (パッチム型)
・パッチムはㄹ取って + ㄹ래요
@「する」「やる」=하다  →「しますよ」「やりますよ」=할래요
@「住む」=살다 →「住みますよ」=살래요

#比較「~するつもりです」
・-ㄹ거에요 / 을거에요 :計画や予定などについて述べる
・-ㄹ래요 / 을래요  :話し手の意向を述べる
何を召しあがりますか?
무엇을 드실래요?
カルビを食べます(食べるつもりです)。
カルビルr モグrレヨ
갈비를 먹을래요.

#練習
「この本を読むつもりです」
イ チェ’グr イルグrレヨ
이 책을 읽을래요.
「サムゲタンを作るつもりです」
サムゲタ’ンウr マンドゥrレヨ
삼계탕을 만들래요.

<相手の意向をたずねる丁寧な表現>
#キーフレーズ
「明日来てくださいますか?」
ネイr ワ ジュシrレヨ?
내일 와 주실래요?

#公式「~なさいますか?」「お~になりますか?」
・動詞の語幹 + 실래요/으실래요 (パッチム型)
・パッチムㄹは取って + 실래요
@来てくれる=와주다 →来てくださいますか?=와주실래요?

#練習
「この本をお読みになりますか?」
イ チェ’グr イrグシrレヨ?
이 책을 읽으실래요?
「一緒にサムゲタンをお作りになりますか?」
カッチ サムゲタ’ンウr マンドゥシrレヨ?
같이 삼계탕을 만드실래요?

<ワンポイント> 漢字語
@준비 チュンビ=準備
※日本語と同じ漢字を使うもの;
@計算=계산 ケサン、 約束=약속 ヤkソk、 無理=우리 ムリ
※日本語と異なる字を使うもの;
@勉強=공부 コンブ(←工夫)
@切手=우표 ウピョ’(←郵票)

<エクササイズ>
1,カフェで待ちます。
カ’ペ’エソ キダリrレヨ
카페에서 기다릴래요.
2,宿題をしたあと遊ぶつもりです。
スクチェルr ハン フエ ノrレヨ
숙제를 한 후에 놀래요.
3,ここにお座りになりますか?
ヨギエ アンジュシrレヨ?
여기에 앉으실래요?

<ひとこと>
よかった=다행이다 タヘンイダ
(運がいい、幸いだ)
@다행 =多幸
※丁寧に「よかったですね」=다행이네요. タヘンニエヨ

<発音>
@성격 [성껵] ソンッキョ =性格
@물가 [물까]ムrッカ =物価
@여권 [여꿘]ヨックォン=旅券

<フィナーレ>
「召しあがりますか?
トゥシrレヨ?
드실래요?
「これを食べます」
イゴr モグrレヨ
이걸 먹을래요.
「トモさん召しあがりますか?」
トモッシ トゥシrレヨ?
도모 씨 드실래요?
「これを食べます」
이걸 먹을래요.

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老子でジャーナル

老子第36章
 之を歙(ちぢ)めんと将欲(ほっ)すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。之これを弱めんと将欲(ほっ)すれば、必ず固くこれを強くす。之を廃せんと将欲(ほっ)すれば、必ず固くこれを興る。之を奪わんと将欲(ほっ)すれば、必ず固くこれに与う。之を微明(びめい)と謂(い)う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強(ごうきょう)に勝つ。魚は淵(ふち)より脱(のが)るべからず。国の利器(りき)は、以(も)って人に示すべからず。

 縮めてやろうと思うときには、しばらく羽を伸ばさせておくに限る。弱くしてやろうと思うときには、しばらく威張らせておくに限る。廃(や)めにしてやろうと思うときには、しばらく勢いづけておくに限る。取り上げてやろうと思うときには、しばらく与えておくに限る。これを底知れぬ英知と言う。すべて柔弱なものは剛強なものに勝つ。魚が淵から脱け出はならぬように、治国の利器は人に示してはならぬのだ。
※浩→天地自然の世界を観ると、大時化(おおしけ)の前には穏やかな凪があり、嵐の前にはひとときの静けさがあるように、前進の前には後退があり、飛躍の前には停滞が、緊張の前には弛緩がある。前進と後退は交互に繰り返し、飛躍と停滞は密接に絡み合い、緊張は弛緩に崩れ落ち、弛緩はまた新しい緊張を準備する。後退や停滞のない前進や飛躍はなく、緊張だけが緊張として無限に持続するということもまたありえない。尺取り虫は伸びるためには屈まねばならず、弓弦(ゆんづる)が張られるためにはしばらく弛めておかねばなりません。
 天地自然の世界の在り方を、己れの在り方の究極的な準拠とする無為の聖人もまた、この交互循環の原則に透徹した目ざめを持つ。彼もまた求心的な動きと遠心的な動きとが交互に循環し、縮小が拡張と、弱化が強化と、奪うことが与えることと総依相対の関係にある自然の世界の理法を達観し、その達観を己れの現実的な営みの中で活用するのです。
 この章は、無為の聖人のこのような自然の理法の活用を、群雄覇を競って弱肉強食する春秋戦国時代の苛烈な現実をふまえつつ、グテイテキナイ政治外交の施策として説明します。ただし、その説明は無為の聖人の“無作為の作為”を説いてあまりにも作為的で、『老子』の哲学の一般的な論述と大きく趣を異にするだけでなく、法家の権謀術数の主張とも多く一致して、古来、法家による後次的な附会の文章とみる見方も強いそうです。
 「縮めてやろうと思うときには、しばらく羽を伸ばさせておく」からの連想で、リラクセーションのやり方を思い出します。「さあ、リラックスしましょう」と言われてもいきなりはできません。そこで、まず前身に力をこめてこわばります。そうしてからいきなり息を抜いて脱力します。そのときリラックスできています。かつて昭和の名優・長谷川一夫さんが宝塚歌劇の演出をしたことがあります。その模様をテレビで見ましたが、広い舞台に愛し合う男女が2人いて、上手下手から中央に向かって走り、思いっきり抱擁するシーンでした。初めは2人のトップスターが上手下手の定位置からいきなり走り出しましたが、長谷川一夫さんは、ストップをかけてそこでアドバイスをしました。走り出す前に、一旦、定位置から逆に少しだけバックして、それから一気に前進するようにと。それでやると中央での抱擁がとてつもなくダイナミックに変化しました。何でもないことのようですが、「前進するには一旦後退せよ」というフレーズにして、人生の智慧にしたいです。

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中国語講座4/25

第38課 方向補語
<キーフレーズ>
入ってちょっと一休みしましょう。
Jin4qu4 xiu1xixiuxi ba.
进去休息休息吧。
@进 jin4(進の簡体字)=入る
@去 qu4=いく(補語)
※quのuはü

<方向補語>
 「~してくる/~していく」など動作行為の移動方向を示す。
@jin4 进   入る
@shang4 上   上がる
@hui2 回   帰る
@chu1 出   出る
@xia4下   下がる
@guo4 过   通る・超える
@lai2 来   来る
@qu4 去   行く
(動詞としても使われる)

「動詞+来」 =動作が自分のほうに向かう
「動詞+去」 =動作が自分から離れていく

※複合方向補語
彼は帰ってきました。
Ta1 hui2lai2 le.  他回来了。
彼女は歩いて上がっていきました。
Ta1 zou3shang4qu4 le.
她走上去了。
@走 =動作動詞
@上 =方向補語
@去 =方向補語
王陽さんは走って下りてきました。
Wang2 Yang2 pao3xia4lai2 le.
王阳跑下来了。
@跑=動作動詞
@下=下へ(方向補語)
@来=こっちへ(方向補語)

<ショート会話>
あとどのくらい歩かなければなりませんか?
Hai2 yao4 duo1 chang2 shi2jian1?
还要走多长时间?
約20分です。
Da4gai4 er4shi2 fen1zhong1 ba.
大概二十分钟吧。
20分!
Er4shi2 fen1zhong1!
二十分钟!
どうしましたか?疲れましたか?
Zhen3me le? Lei4 le ma?
怎么了?累了吗?
ちょっと疲れました。座って少し休みましょう。
You3dinar3 lei4 le. Zuo4xialai xie1 huir4 ba.
有点儿累了。坐下来歇会儿吧。
あ、見て、そこに喫茶店がありますよ。
Ei2, ni3 kan4, nar4 you3 yi4 jia1 ka1fei1guanr3.
欸,你看,哪儿有一家咖啡馆儿。
良かった!私たちついていますね。
Tai4 hao3 le! Tian1 zhu4 wo3 ye3.
太好了!天助我也。
入って少し休みましょう。
Wo3men jin4qu xiu1xixiuxi ba.
我们进去休息休息吧。

<発音> 音節の最初に“i”“u”“ü”が来る場合
・単独で音節となる場合
i → yi
u → wu
ü → yu
・音節の先頭になる場合
i → y
u → w
ü → yu

@wu1ya1 カラス
@yan2xing2 yi2zhi4 言行一致
Xi1yang2 wu2xian4 hao3, zhi3shi4 jin4 huang2hun1.
夕日はこの上もなく美しいが、いかんせん黄昏がすでに近い。
夕阳无限好,只是近黄昏。(李商隠)

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老子でジャーナル

老子第35章
 大象(たいしょう)を執って、天下に往けば、往いて害あらず、安・平・太=泰(あんぺいたい)なり。楽(がく)と餌(じ)には、過客(かかく)止(とど)まるも、道の口に出ずるは、淡乎(たんこ)としてそれ味無し。之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず、之を用いれども既(つく)すべからず。

 道を守って天下に往けば、いずくに往くも禍(わざわい)受けず、身は安楽にして平穏また無事である。楽の調べと饗宴には、道ゆく客(ひと)も足を止めるが、無為の真理はそれを口にしても、淡々として世俗の味がない。目を据えて見ても見ることはできず、耳を傾けて聞いても聞くことはできず、それを用いれば尽くせぬ働きがある。

※浩→前の章で「道」の広大無辺さを説明して、ここではそれを承けて「道」の体得者・無為の聖人のあるがままにして安らかな在り方と、その尽きることのない偉大な活用とを説明します。
 老子の“玄”は、余計なもの・けばけばしいもの、青臭いものをすべて除去して、本質的なもの、根源的なもの、本来的なものだけがそこに表れているといった墨の色の単純さを意味しうるものでした。ここでもまた、老子は「玄のまた玄なる」道を“淡乎として其れ味無きもの”として“玄酒(水)”に譬えています。
 音楽は人間の心を楽しませ慰めますが、どんな名曲でもそれをあくどく繰り返せば、単なる騒音でしかなくなります。また、どんな山海の珍味も腹ふくれてなお強要されれば、いたずらに嘔吐をもよおすだけです。すべて過剰なもの・過度なものは永続性を持たず、永続性を持つものは、むしろ単純なもの、淡々としたものだけである。
 老子は“玄”の単純さを愛し、“玄酒”の淡々とした味なき味を愛します。彼は人の耳目を聳動(しょうどう)するもの、ごてごてと煩わしいものを好まず、うわべだけのもの、寄せ集め的なもの、一時的なものをすべて人為のさかしらとして排撃します。彼はあくまで自己と世界における悠久なるもの、永遠なるもの、本質的なるものをその眼で見据えます。彼はその凝視の中から人間の崩れない在り方、崩れてもなお崩れない強靱な生き方を思索し続けます。そして、その思索の中で彼が見出した真理は、すべての余剰と虚飾を切り捨ててあるがままに振る舞うということ、平凡な無為の真理をただ平凡に生きるということでした。老子は、当たり前のことを当たり前に行う無理のない生き方─平凡の非凡んを教える偉大な哲人であると言えます。土着思想の部分を無視して、「すべての余剰と虚飾を切り捨ててあるがままに振る舞うということ、平凡な無為の真理をただ平凡に生きる」という処世法は今の世を生きるヒントになりそうです。

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