第46課 同時進行の表現、意向・意図の表現
<おさらい>
「のどの調子が良くなくて、風邪を引きそうで心配です」と言われて、
「無理をしたらいけません。のどが痛ければ薬をお飲みください」
ムリルr ハミョン アン ドェヨ。モギ アプ’ミョン ヨグr トゥセヨ
무리를 하면 안 돼요. 목이 아프면 약을 드세요.
ありがとうございます。
감사합니다.
<同時進行の表現>
#キーフレーズ
少し休みながら気持ちを整理するつもりです。
チョm シュイミョンソ センガグr チョンリハrレヨ
좀 쉬면서 생각을 정리할래요.
#公式:同時進行「~(し)ながら」
・「語幹 + 면서 /으면서」(パッチム型)
・パッチムㄹは取らないでそのまま「 +면서」
@休む=쉬다 休みながら=쉬면서
本を読みながらジュースを飲んでいます。
チェグr イルグミョンソ チュスルr マショヨ
책을 읽으면서 주스를 마서요.
<意向の表現>
#キーフレーズ
ウナさんがやめたら僕もやめるつもりです。
ウナ ッシガ クマンドゥミョン ナド クマンドゥrレヨ
은아 씨가 그만두면 나도 그만둘래요.
#公式:意向・意図の表現「~(する)つもりです」「~(し)ます」
・「語幹 + ㄹ래요/을래요」(パッチム型)
・パッチムㄹは「ㄹを取って +래요」
@やめる=그만두다 やめるつもりです=그만둘래요
※ただし、これを疑問の表現にして目上の人に使うと失礼になる。
@着る=입다 着るつもりです=입을래요
@開ける=열다 開けるつもりです=열래요
@準備する=준비하다 準備するつもりです=준비할래요
@読む=읽다 読むつもりです=읽을래요
@会う=만나다 会うつもりです=만날래요
<問題>
1,観光しながら写真を撮るつもりです。
@観光する=관광하다
@撮る=찍다
コヮンゴヮンハミョンソ サジヌr ッチグrレヨ
관광하면서 사진을 찍을래요.
2,毎日笑いながら暮らすつもりです。
@笑う=읏다
@暮らす=살다
メイr ウスミョンソ サrレヨ
매일 웃으면서 살래요.
<ワンポイント>
何が人気がありますか?
ムォガ インギガ イッソヨ?
뭐가 인기가 있어요?
何がおいしいですか?
ムォガ マシッソヨ?
뭐가 맛있어요?
何が面白いですか?
ムォガ チェミイッソヨ?
뭐가 재미있어요?
<間違えやすい発音>
母音のㅓとㅗ、激音카と濃音까
@コーヒー=커피 鼻血=코피
お茶を1杯飲みながら=차를 한잔 마시먼서
@한잔=ハンジャンn 한장=ハンジャンg
レポートを1枚書きました=리포트를 한장 썼어요.
他に、@娘=딸 月=달
<薬味> 양념
粉とうがらし=고춧가루 コチュ’ッカル
とうがらしみそ=고추장 コチュ’ジャン
にんにく=마늘 マヌr
しょうが=생강 センガン
塩辛=젓갈 チョッカr
<フィナーレ>
これいい映画です。ご覧ください。
イゴ チョウン ヨンファエヨ。 ポセヨ。
이거 좋은 영화예요. 보세요.
ケンテツさんはご覧になりましたか?
ケンテツ ッシヌン ポショッソヨ?
겐테쓰 씨는 보셨어요?
僕は泣きながら見ましたよ。
チョヌン ウrミョンソ ポヮッソヨ
저는 울면서 봤어요.
トモさんも見ますか?
トモ ッシド ポrレヨ?
도모 씨도 볼래요?
はい、見たいです。
ネ! ポゴシッポヨ
네! 보고 싶어요.
すみません…チケットがありません。
ミアネヨ…ティ’ケッシオpソヨ
미안해요… 티켓이없어요.
11,子曰く、吾(われ)未(いま)だ剛者を見ず。ある人対(こた)えて曰く、申棖(しんとう)あり。子曰く、棖(とう)は慾あり。焉(いずく)んぞ剛なるを得ん。
先生が言われた。「私は剛健な人物を見たことがない」。ある人が答えて言った。「(あなたの弟子の)申棖がいますよ」。先生は言われた。「棖には、欲がある。どうして剛健と言えるだろうか?(いや、言えない)」。
※浩→孔子にとっての剛者とは、ただ肉体的な腕力が強いものではなく、精神的な意志も合わせて堅固なものを言います。ある人(貴族でしょう)は、「申棖という剛力無双の屈強な勇者がいるじゃありませんか?」と孔子に言った。しかし、孔子にとっては、自分の欲望に打ち勝てない軟弱な精神の持ち主である申棖はいくら膂力(りょりょく=筋肉の力・腕力)に秀でた豪傑であっても)「真の剛者」ではなかったのです。
真の「強さ」についてあらためて考えさせられます。ただ肉体的に腕力が強いのではなく、精神的な意志を合わせて「剛」と言うということは、肉体的な力を否定しているわけではないです。『尚書』に、人間の3つの徳として「正直、剛の克(ちから)、柔の克」とあります。ここにも「剛」と「柔」は同列に並べられています。日本では、「気は優しくて力持ち」と言われてきました。
「欲」については、『礼記』「楽記篇」に、「人、生まれて静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。それ物の人を感ずるは、窮まりなし。しかして人の好悪節(さだ)めなければ、すなわちこれ物至りて、人、物に化せらるるなり。人、物に化せらるる者は、天理を亡ぼして、人欲を窮むる者なり」とあり、これはのちの朱子学に引き継がれていきます。天理と人欲を相反する概念として扱っています。以上は、吉川幸次郎先生の解説です。
『論語』「顔淵篇」の、「顔淵仁を問う。子曰わく、『己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。……」は有名なフレーズですが、あまりに禁欲的だとの批判もあるようです。アドラー心理学の「自己執着」と「共同体感覚」との対比に似ています。なお、『老子』では、逆説的に、「柔が剛に勝つ」ことになっています。
「之を歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす。之を廃(はい)せんと欲すれば、必ず固く之を興(おこ)す。之を奪わんと欲すれば、必ず固く之れに与う。是(これ)を微明(びめい)と謂(い)う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強(ごうきょう)に勝つ。魚は淵(ふち)より脱(のが)るべからず。国の利器(りき)は、以(も)って人に示すべからず。
縮めてやろうと思うときには、しばらく羽をのばさせておくに限る。弱くしておこうお思うときには、しばらく威張らせておくに限る。廃(や)めにしてやろうと思うときには、しばらく勢いづけておくに限る。取り上げようと思うときには、しばらく与えておくに限る。これを底知れぬ英知と言う。すべて柔弱なものは剛強なものに勝つ。魚が淵から抜け出てはならぬように、治国に利器は人に示してはならない。以上は、福永光司先生の解説によります。(中国古典選10『老子 上』、朝日新聞社)
「権は見(しめ)すを欲せず……虚にして之を待つ」という『韓非子』の主張に近いそうです。「淵深く潜む魚のように治国の利器を秘匿して、他人に手の内を見せてはならぬ」という主張は、アドラー心理学への反撥を避けるために、われわれがとっている“隠れアドレリアン”の立場と似ているようで、参考になります。
<日本の交通機関>
東京の地下鉄:駅が深すぎる、エスカレーターが長すぎる
@深すぎる=太深 tài shēn @長すぎる=太长 tài cháng
「中国語の看板を見てください」
你可以看中文的牌子。 Nǐ kěyǐ kàn Zhōngwén de páizǐ
@電車が混み合っている=拥挤 yōngjǐ
@便利=方便 fāngbiàn @深夜便= yèbānchē
@ラッシュアワー=通勤高峰 tōngqín gāofēng
<謝る>
ごめんなさい。
对不起。Duì bu qǐ
すみません。
不好意思。Bù hǎo yìsī
申し訳ありません。
很抱歉。Hěn bàoqiàn
私のせいです。
是我不好。Shì wǒ bù hǎo
私が悪かったのです。
我错了。Wǒ cuò le
お許しください。
请原谅。Qiǐng yuánliàng
第七 所在を表す“在”zài
#公式=「物・人+“在”+場所」
今日の資料は私の鞄の中にあります。
今天的资料在我的包儿里。
Jīntiān de zīliào zài wǒ de bāor li.
#比較
A)「場所+“有”+(不定の)物・人」
机の上に財布が1つあります。
桌子上有一个钱包儿。
Zhuōzi shàng yŏu yī gè qiánbāor
B)「(特定の)物・人+“在”+場所」
あなたの財布は机の上にあります。
你的钱包儿在桌子上。
Nǐ de qiánbāor zài zhuōzi shàng
#応用
自転車の鍵はポケットの中にあります。
自行车的钥匙在口袋里。
Zìxíngchē de yàoshi zài kǒudài li.
<ピンイン> zh, ch, sh, r(反り舌音セット)
直 zhí まっすぐ, 尺 chǐ 尺, 诗 shī 詩,
日 rì 日, 值日 zhírì 当直する, 事实 shìshí 事実, 日食 rìshí 日食
日中の何代にもわたる友好を祈ります。
祝中日世代友好。Zhù Zhōng Rì shìdài yǒuhǎo
<場所を指し示す指示代詞>
@これ=这 zhè あれ=那 nà どれ=哪 nǎ
@近く(ここ)=这儿 zhèr/这里 zhèli
@遠く(あそこ)=那儿 nàr/那里 nàli
@疑問(どこ)=哪儿 nǎr/哪里 nǎli
↓
発音は[náli] の「 里」がもともと第三声のため
Come back to me.
「私へ帰る」×→「私の所へ帰る」○
回到我。Huídào wǒ × → 回到我这儿。 Huídào wǒ zhèr ○
(つづく)
10,宰予(さいよ)、昼寝(ひるい)ぬ。子曰く、朽木(きゅうぼく)は彫るべからず、糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからず。予においてか何ぞ誅(せ)めん。子曰く、始め吾(われ)、人におけるや、その言を聴きてその行(こう)を信ぜり。今吾、人におけるや、その言を聴きてその行を観る。予においてか是を改む。
宰予が昼寝をした(あるいは、病気でもないのに奥へ引きこもって寝ていた)。先生は言われた。「ボロボロに朽ちた木には彫刻ができない。泥土の垣根に上塗りできない。宰予に対して何を叱ろうぞ(叱っても無意味である)」。先生は言われた。『以前は、私は人に対するのに、言葉を聞くだけでその行いまで信用した。今は、私は人に対するのに、言葉を聞くだけでなくその行動まで観察する。(怠惰な)予のことで考えを改めたのである」。
※浩→「宰予」は姓は宰、名は予。字は子我。通称は宰我です。魯の生まれで孔子の弟子ですが、叱られてばかりです。伝統的な礼を重んじた孔子と、実用的な礼を切り開こうとした宰予(宰我)は、途中から理論的な対立が激しくなっていったとも言われます。学問かあるいは仕事の途中につい居眠りしてしまったのか、病気でもないのに奥の部屋で寝たのか、あるいはもっと過激な荻生徂徠の解釈では、昼日中から女と寝ていたのか、「晝(ひる)」を「畫=画」と読んで寝室に身分不相応の壁画を描かせたとか、そうした宰予を見咎めた孔子は、厳しく糾弾し批判したとされます。孔子が古代からの礼制を連綿と墨守する「礼」の理想を掲げていたとすれば、宰予は古代からの礼制をより合理的で実用的なものへ段階的に変化させていくのが理想だと考えていました。弟子が師匠に好かれるのは好ましいですが、「人から好かれなければならない」という信念がない人は、好かれようが嫌われようが、まったく意に介さないでしょう。野田先生は、「好かれなければならない」とは思わないとご自分でおっしゃっていましたが、人見知りはされるそうで、嫌いな人はご自宅に泊められなかったそうです。ということは、先生から好かれているか嫌われているか知りたかったら、「泊めていただけませんか?」と聞けばわかります。『アドレリアン』(1992年3月発行の通巻第9号)の「巻頭言」に『守る・破る・離れる』というのを見つけました。少し長くなりますが、在りし日の先生を偲んで引用しておきます。
→引用:ちょうど10年前の1982年には、私はシカゴ・アルフレッド・アドラー研究所にいた。そこでは、研究所の講義とは別に、バーナード・シャルマン先生の個人指導を受けていた。研究所での講義は系統的でもありよく工夫されもしていたが、正直言って、渡米前に本で学んだこと以上のものはほとんどなかった。これに対して、シャルマン先生から学んだことは、すべて目新しいことばかりであった。しかも、言葉で学んだことよりも、先生の治療やスーパービジョンの方法を見ることによって、生きた知恵を学ばせていただいたことが大きかった。
ただ、ひとつ困ったことがあった。それは、先生が指導料を請求なさらないことであった。困ったが、何となく、こちらかも言い出しづらくて、そのまま日が過ぎていった。そこで、親しくなった絵画療法士のメアリー・フレミングさんという人に、「シャルマン先生が指導料を受け取らないのだが、どうすればいいだろうか」と相談してみた。彼女は、「私に聞くよりも、本人に聞くのがいいと思う」と、アドレリアンらしい答えをくれた。それで、シャルマン先生に直接聞いてみる勇気が出た。先生は、「私には何もお礼をしなくていい。私が教えたことを、日本人に伝えてくれれば、それで十分だ」とおっしゃった。そのときは気がつかなかったが、今にして思えば、これは高くついた。先生から受けた学恩を金銭で先生にお返しするなら、それで一応は精算が済む。ところが、日本人に行為で返すとなると、一生かかるではないか。こうして私は、アドラー心理学を日本に伝えることで、シャルマン先生への負債を返済しなければならなくなってしまった。
こうなると、不便なものは、私はいつでも『正統』でいなけらばならないということである。私が伝えるものは、私の理論ではなくて、シャルマン先生から習ったアドラー心理学でなければならない。また、生徒さんたちは、私が教えるものをそのままアドラー心理学であると理解するから、みだりに私の独創を交えるわけにゆかない。少なくとも、何が私の独創で、何が本来のアドラー心理学であるかを、はっきりと区別して伝えなければならない。これは猛烈に窮屈なことである。しかし、この10年、私は極力そうしてきた。いくらかは私が新たにつけ加えたものであることを、自分でも意識し人にもそう言ってきた。これは、私の独創性を誇るためではなくて、むしろ正統理論からの逸脱を認めるためである。
武道の世界に、『守・破・離』という理念がある。ある道を習うには、最初は一切独創を交えないで、ただ師範の言うとおりの型を「守る」。そして、型が完全に身についたら、それを少しずつ「破り」はじめ、他派の型なども学びつつ、自由に自分の型を作ってゆく。そして、ついには、道を極めて、すべての「型」から「離れる」のである。
私は、シャルマン先生への負債のために、今もアドラー心理学の型に縛られていて、その学燈を「守る」ことがいちばん大きな仕事になってしまった。少しはそれを「破る」こともあるが、それを「離れる」ことは、おそらく一生できない。しかし、私からアドラー心理学の型を習った人たちには、この不自由を押しつける気はない。いつでも自由に「離れて」いいのである。ただし、せっかく良いものを学ばれたのであるから、基本的な理論と技法とをしっかりと体得してから離れてくださるのがいいと思う。この10年で、数は多くはないが、基本をしっかりとマスターされた人たちが育ってきている。その方々は、これから少しずつ「破る」段階に入られるのであろう。日本のアドラー心理学の第二の10年が始まるのである。引用終わり。合掌。