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論語でジャーナル’25

23,子曰く、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)、旧悪を念(おも)わず。怨み是(ここ)を用(もっ)て希(まれ)なり。

 先生が言われた。「(周の殷に対する放伐に反対した伝説の忠臣である)伯夷・叔斉は、(不忠不義を許さぬ清廉な人柄だったが)古い悪事をいつまでも気にかけなかった。だから、人から怨まれることがほとんどなかった」。

※浩→伯夷・叔斉は、伯夷が兄で叔斉が弟で、孤竹という国の君主の子どもでしたが、父の死後、お互いに位を譲り合って、跡目を継がなかったそうです。時はちょうど、紀元前1100年ごろの殷周革命で、周の武王が殷の紂王を武力で倒そうとしているときでした。酒池肉林の悪政に耽る紂王のもとを去って、新興国の周の武王に従っていましたが、暴力的な放伐ではなく平和的な禅譲(ぜんじょう)によって天子の位を引き継ぐのが天の道理だと考えていた二人は、周が武力で天下に号令をかけると、周の粟(ぞく)を食べることを拒否して、首陽山(しゅようざん)に隠棲して、そこで遂に餓死してしまったそうです。そのため、最も高潔な人物としてその後長く尊敬され続けます。
 こういう二人ですから、人の過去の悪事を憎みはしましたが、いつまでも記憶にとどめることはなかったそうで、そのため人から怨みを受けることも稀であったということです。
 「怨み」に対する態度として想い出すのは、『法句経 ダンマパダ』です。これは現存教典中最古のものの一つで、この言葉はブッダの直説に近いと言われます。
 ブッダの教団で、二人の修行僧が些細なことで喧嘩別れしたことがありました。それがきっかけで修行僧や在家信者たちが、二派に分かれて争ったので、ブッダも困りました。その問題の二人について、食事の際にも離れて座るようにも注意したのですが、効果がありません。そこで、次のような話をして、教訓を与えました。
 昔、長寿王という名の王がいた。忍耐強い上、柔和な心の王だった。ところが隣国の王が、自分の国を襲撃しようとしているのを知り、国を脱出した。王は隠れて難を逃れようとしたが、密告されて捕らえられた。そしてまさに処刑されようとしたとき、王はひそかに近づいてきたわが子にこう言い残した。「このことによって怨みを起こしてはいけない。怨みは怨みを捨ててこそやむものだ」と。しかし、こんな懇切なブッダの教示にも修行僧たちの争いは止まなかった。そこでブッダは、「あの人は私を罵った、私を打った、私を打ち負かした、などと思っていると怨みは消えるものではない。そのような思いを捨てた人には怨みはついに消える」と述べた上で「争いはたくさんだ」と言い残し、その場を去った。ブッダはそのまま森の中にこもり、三か月の間誰とも会おうとしなかった。さすがに頑固な修行僧たちもこれにはまいって、ようやく自分たちの非を悟ったという。争いは常に些細なことから起こるものである。しかし、その些細な怨みをも持ち続けることから大きな血なまぐさい争いが持ちあがる。プーチン大統領は「法句経」を知っているんでしょうかねえ。
 第二次大戦後、スリランカがこの「怨みをすててこそやむ」を引用して、日本への賠償を求めなかったことはあまりにも有名です。「千年でも怨み続ける」ことを国是としているような国もありますが、「不適切な行動には注目しないで適切な行動に注目する」ことでしか関係の改善はありえないのに。

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ハングル講座2/23

第2課 母音をマスター
<基本母音>
#タテ棒タイプ(口を大きく開けて発音)
 ㅏ ア  ㅑ ヤ  ㅓ オ  ㅕ ヨ
#ヨコ棒タイプ(唇を丸くすぼめ突き出して発音)
 ㅗ オ  ㅛ ヨ  ㅜ ウ  ㅠ ユ
#シンプルタイプ(口をヨコに引いて発音)
 ㅡ ィウ   ㅣ イ

<合成母音>
 ㅇを付けて
애エ   에エ   애イェ  예イェ
왜ウェ  외ウェ  웨ウェ  와ワ  워ウォ  위ウィ  의ゥイ

<キーフレーズ>
はい。

네.
いいえ。
アニョ
아뇨. ←아니요. の縮約形

大丈夫です。
クェンチャ’ナヨ
괜찮아요.
※親しい間や目下には「ヨ」を省略する(パンマル:반말という形、「ため口」)。괜찮아.

<ワンポイント>
やわらかい=부드럽아 プドゥロpタ
白い=하얗아 ハヤッタ
冷たい=차갑아 チャ’ガpタ
豆腐=두부 トゥブ

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論語でジャーナル’25

22,子、陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡(きょうかん)にして、斐然(ひぜん)として章を成す。これを裁する所以(ゆえん)を知らざるなり。

 先生は陳の国で言われた。「帰ろうよ、帰ろうよ。わがふるさとの塾(教団)の若者たちは志ばかりが大きく、瞳には美しい模様を織りなしているが、どのように裁断したらよいかわからないでいるのだから」。

※浩→「党」は五百家の集団で、党には青年の宿泊所がありました。日本の“若者(若衆)宿”のようです。ここで何日か共同で宿泊して、老人から集落の故事などの教育を受けました。そしてこの老人を正座に据えて、酒盛りをしました。これはプラトンの『饗宴』を思わせます。小子はここの青年の身分で、これが孔子の弟子たちの呼称になりました。「わが党の小子」は孔子が曲阜の近郊に持っていた教団に残してきた年少の弟子を指します。「狂簡(きょうかん)」は狂狷(きょうけん)と同じ。「狂」は志(こころざし)が非常に大きく威勢が盛んなこと、「簡」は気質に大きな偏りがあり起伏に乏しいことです。「斐然(ひぜん)として章をなす」は、色彩が豊かで美しい模様を描いていることです。
 孔子が故国・魯の政治改革に失敗して亡命して小国・陳にいるときに語った言葉で、故郷を懐かしく思い出して望郷の念に駆られるとともに、自分の村の教団に残してきた若い生徒たちの行く末と教育を心配しました。彼らは元気盛んで華々しく文化活動をするが、元気が盛んなだけに、どう決まりをつけたらよいかわからず迷っているだろうから、私が帰って、彼らに方針を与え指導しようと言っています。これがのちに彼の教えが世に広まるきっかけ・転機になったと言われます。
 師が弟子の行く末を案じて、元気なうちに可能な限り彼らを教え導いておこうと決心する、その熱情がひしひしと伝わってきます。わが偉大なる指導者・故野田俊作先生も孔子と同じように、いやそれ以上かもしれませんが、あとに残すわれわれ生徒・弟子を案じてくださったに違いないでしょう。私には無尽蔵の資源を残していただきました。自力ではとうてい理解できないものも含まれていますが、少しずつ切り崩しては咀嚼しながら、次の時代に伝承していくつもりです。現在、岡山工業高校で毎月行なっています。今月は本日です。この寒波を跳ね返して熱く語るつもりです。

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中国語講座2/21

<アスペクト助詞 “了” le>
Ta1 zui4jin4 mai3le yi2 liang4 xin1che1
他最近买了一辆新车。
彼は最近新車を1台買いました。
Ni3 kan4le nei4ge jie2mu4 mei2you?
你看了那个节目没有?
あなたはあの番組を見ましたか?
Wo3 mei2 kan4
我没看。(了は不要)
見ませんでした。
Ni3 kan4le jin1tian1 de bao4 mei2you?
你看了今天的报没有?
あなたは今日の新聞を読みましたか?
Wo3 hai2mei2 kan4
我还没看。
 まだ読んでいません。
Min2tian1 xia4le ke4, wo3 qu4 zhao3 ni3
明天下了课,我去找你。
 明日授業が終わったら、私はあなたを訪ねていきます。(未来の時点でも、そのとき完了した)

※比較
 ・アスペクト助詞“了”:(動詞のあと)実現・完了
 ・語気助詞“了” :(文末)「新しい状況」の発生・変化

<ピンイン> ouとuo
ou:oを長く、uを軽く添える
uo:uを短く、oを長く強くつなげる
 @焚き火  gao1huo3 篝火
 @収縮する  shou1suo1 收缩
 @結果  hou4guo3 后果
 @すべての  suo3you3 所有
 @左と右/左右する  zuo3you4 左右
 @火加減  huo3hou 火候
Ou1zhou1 guo2jia1 ye3 you3 huo3guo1 ma?
欧洲国家也有火锅吗?
ヨーロッパの国にも鍋料理がありますか?

<日本の歌手>
宇多田ヒカル  Yu3uo1tian2 Guang1 宇多田光
松任谷由実  Song1 ren4 gu3 You2 shi2 松任谷由实
谷村新司  Gu3cun1 Xin1si1 谷村新司
 @昴xing= 星
小田和正 Xiao3tian2 He2zheng2 小田和正
 @美しい声 dong4ting1 de sheng1 yin1= 动听的声音
平井堅 Ping2jing3 Jian1 平井坚
 @大きな古時計 Ye2ye de gu3lao3 da4 zhong1 爷爷的古老大钟

<タクシー>
どちらまで?  Dao4 nar3 到哪儿?
シートベルトをしてください。  Qing3 ji4hao3 an1quan2 dai4 请系好安全带
着きました。  Dao4 le 到了。
領収書は必要ですか?  Yao4 fa1piao4 ma? 要发票吗?
住所はありますか?  You3 di4zhi3 ma? 有地址吗?
忘れ物に気をつけてください。  Qing3 bie2 wang4 le bong1 xi 请别忘了东西。
ハンドル  fang1xiang4pan2 方向盘

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論語でジャーナル’25

21,子曰く、甯武子(ねいぶし)、邦(くに)に道あるときは則ち知。邦に道なきときは則ち愚。その知は及ぶべきなり、その愚は及ぶべからざるなり。

 先生が言われた。「甯武子は、国に道のあるときは知者で、国に道のないときは愚かであった。その知者ぶりは真似ができるが、その愚か者ぶりは真似ができない」。

※浩→大まかな解説としては次のとおりです。孔子が生まれる前の紀元前7世紀前半、衛の名宰相であった甯武子(ねいぶし)は、衛の君主の座を巡る内乱を収拾した人物です。彼は賢者として抜群の知略を振るうこともありましたが、愚者のふりをして空とぼけをすることもありました。孔子は、「甯武子の賢人ぶりは真似をしたいものだが、愚者のふりをしたとぼけたふるまいはなかなか真似ができない」と批評しました。
 これだけでは、評価しているのか批判しているのかが定かではありません。吉川幸次郎先生の解説では、甯武子は、平和時には知者としての技倆を十分に発揮し、危機の時代には、鋭敏な知者としての性質、事柄の見通しが早くつく性質を抑えて、愚直な誠実さを働かせたと言われます。その知者としての技倆は、他人も真似し追いつくことができるけれども、その愚は真似ることができない、と讃えたのである、と。この解説のおかげで、孔子は甯武子を非難してはいないことがわかります。甯武子は、前623年、衛の国使として魯に来朝したとき、歓迎の宴の席上、天子が諸侯をもてなすときの音楽を演奏しました。甯武子がそっぽを向いて挨拶をしないので、主人側から注意されると、「今のはリハーサルかと思った」と、とぼけてそっとその間違いを正したと言います。演技力に富む中国の政治家には、知者ぶるだけでなく愚者ぶって空とぼけるのが上手な人が多いそうです。今の政治家はどうでしょうか?時代劇ではよく、家老などお家乗っ取りを企む悪者から身を守るために、お殿様が狂気のふりをするということがよくありました。現代物では、詐病を装い、子どものころ変質者に妹を惨殺された兄が大人になってその変質者に復讐するという「三十九 刑法三十九条」という映画がありました。堤真一さんと鈴木京香さんが主役でした。とても考えさせられる映画でした。

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