28,子曰く、十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘(きゅう)の如き者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。
先生が言われた。「10戸しかない村里にも、目上の者に忠実で、約束を裏切らない忠信において、丘(私=孔子)と同じくらいの者はいるだろう。ただ、丘の「学問を好む」ということに及ばないだけだ」。
※浩→孔子が、10軒ほどしか家のない小さな村落であっても、自分と同じくらいに君主や礼に忠実で、一度交わした約束を破らない「忠信」の人材はいるに違いない、と謙遜の言葉を述べています。その一方で、自分ほどに向学心と知的好奇心を持った人物は、そうそういるものではないという「矜持(きょうじ)」を語っています。
他者への謙遜の言葉を述べながら、自分ほど向学心&知的好奇心を持つ者はそんなにいないだろう、と「矜恃」を語り、矛盾しているようにも感じられますが、吉川幸次郎先生はこの部分を甚だしく好まれていて、次のように解説されます。
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孔子によれば、素朴なひたむきな誠実、それだけでは完全な人間でないのである。学問をすることによって、人間ははじめて人間である。人間の任務は、「仁」すなわち愛情の拡充にある。また人間はみなその可能性を持っている(浩→共同体感覚みたいです。)。しかしそれは学問の鍛錬によってこそ完成される。愛情は盲目であってはならない。人間は愛情の動物であり、その拡充が人間の使命であり、また法則であるということを、確かに把握するためには、まず人間の事実について、多くを知らなければならない。
↑
この解説を読みながら、アドラー心理学門人である私には、「共同体感覚」について解説しているように思えてなりません。共同体感覚は人間に「生得的な可能性であるが、育児・教育によって積極的に育てないといけない」と言われています。こういう点でも、アドラー心理学と孔子の思想は相性がいいのでしょう。
「公冶長篇」はここで終わります。この篇では、いろいろと古今の人物を評論していましたが、他人に対する批評は、自己への反省のためであることを示していて、さらには、真に学ぶ者にしてはじめて、自分の過ちを発見しうることを暗示しているそうです。この謙虚さ・誠実さに心が洗われる思いがします。(「公冶長篇」完)
<介詞フレーズ以外の連用修飾語>
#時を表すフレーズ
Wo3 wan3 shang4 shi2 yi1 dian3 shui4 jiao4
我晚上十一点睡觉。
私は夜11時に寝ます。
@晚上十一点=夜の11時
@睡觉=寝る
#副詞 「很」
jin1tian1 hen3 re4
今天很热。
@很 hen= とても、非常に(形容詞述語文では強い意味はない。ランドマーク)
@热 re=暑い
<好きな日本の歌>
・前前前世 前前前世 Qian2 qian2 qian2shi4
@人气 ren2qi4
・君をのせて 伴随着你 ban4sui2zhe ni3
・美しいメロディー 美丽的旋律 mei3li4 de xuan2lǜ4
・北国の春 北国之春 bei3guo2 zhi1 chun1
@風景=风景 feng1jing3
・贈る言葉 赠言 zeng4yan2
@卒業 毕业 bi4ye4
・瀬戸の花嫁 来沪的新娘 lai4hu4 de xin1niang2
・襟裳岬 襟裳岬 jin1shangjia3
<ホテル>
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27,子曰く、已(や)んぬるかな。吾(われ)未だ能(よ)くその過ちを見て内に自ら訟(せ)むる者を見ざるなり。
先生が言われた。「この世も最早ここまでか。私はまだ自分の過ちを認め、内面で自分を責めることができる人物を見たことがない」。
※浩→春秋末期に風俗が乱れ、自分の利益や出世ばかりを追い求める人材が栄耀栄華をほしいままにするようになりました。そういう憂うべき天下の窮状を見て、孔子は嘆息して「やんぬるかな(もうこの世はおしまいだ)」と言いました。自分自身の過失や責任を認めることなく、罪悪感を痛感する良心を失ってしまった人間ばかりになると、社会が混乱し「仁」の思いやりの心が滅びてしまうということを憂慮しています。
社会の実態に失望した賢者の嘆きがひしひしと伝わってくるようです。NHKラジオの早朝番組に「絶望名言」というのがありました。月に1度くらいの頻度で放送されていました。古今東西の著名人の残した「絶望フレーズ」を解説付きで放送していました。すぐに連想できる芥川龍之介や太宰治に限らず、もっと広範囲から著名人が登場していました。箏曲の宮城道雄さんも登場しました。彼は全盲で、妻のサポートがないと生きていけなくて、彼女に頼り切っているとかいうお話でした。わが家の本棚に『サルトルの世界』─絶望の裏側のいのち─(清水弘文堂書房)という1冊の本があります。パラパラとめくると、こんな一節がありました。
↓
われわれはドイツの占領下にあったときほど、自由であったことはなかった。われわれはわれわれのすべての権利を、まず第一にものを言う権利を、失ってしまった。われわれは、毎日真っ向から侮辱され、しかも沈黙していなければならなかった。われわれは、労働者として、ユダヤ人として、政治犯として、大量に流刑にされていた。……すべてこうしたゆえにこそ、われわれは自由だったのである。ナチの毒がわれわれの思考の中にまで忍び込んでいたがゆえに、正しい思考の一つ一つが戦利品だった。……一秒一秒、われわれは、《人間はみな死ぬものだ》という、このささやかな、ありふれた句の意味を、あますところなく、生きていた。しかも、各人が自分自身についてなす選択は、死を眼の前にしてなされるがゆえに、《むしろ死んだほうが……》という形で常に表現されえたであろうがゆえに、ぬきさしならぬ正真のものだった。……抵抗に関係するいくつかの細部をよく知っているものはすべて、《もし自分が拷問されたら、自分は堪え忍ぶだろうか?》と、苦悩をもって自問していた。かくして、自由についての疑問そのものが提出されていたのであり、われわれは、人間が人間自体について持ちうる最も深刻な認識のほとりにいたのである。けだし、人間の秘密とは、そのエディプス・コンプレックスあるいはインフェリオリティ・コンプレックスのことではない。それは実に人間の自由の限界そのもののことであり、苦痛と死とに対するその抵抗力のことだからである。
↑引用終わり
サルトルは、フロイトやアドラーにも通じていたようです。
<ジョブキソ42>
#テーマ
研修生の仕事をチェック。
「とても良くできてるね。特に○○がいいよ」と具体的にほめるには?
Very well done! I especially like the use of colours.
とてもよくできていますね。特に色の使い方がいいですよ。
You did a good job. もいいが、同じ表現ばかり使いたくないから、Very well done!がいい。
※まずほめてから理由を。まず謝ってから理由を。
※上手なほめ言葉の例
You have excellent taste. センスがいいです。あとにin ~で具体的に。
#応答
Thank you. I'm happy to hear that.
ありがとうございます。そう言っていただいてうれしいです。
26,顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍(じ)す。子曰く、盍(なん)ぞ各々爾(なんじ)の志を言わざるや。子路曰く、願わくは車馬衣裘(いきゅう)を、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りて憾(うら)みなからん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)ることなく、労を施すことなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んじられ、朋友には信じられ、少者には懐かしまれん。
顔淵と季路とがお側に仕えていた。先生は言われた。「それぞれお前たちの志(こころざし)を話してごらん」。子路は言った。「車や馬や着物や毛皮の外套(がいとう)を友人と一緒に使って、それが痛んだとしても、気にしないようにしたいものです」。顔淵は言った。「善い行いを自慢せず、つらいことを人に押し付けないようにしたいものです」。子路が言った。「できるならば、どうか先生のお志(こころざし)をお聞かせください」。先生は答えられた。「老人には安心され、友だちには信用され、若者には慕われるようになりたいものだね」。
※浩→孔子の高弟である顔淵すなわち顔回と、季路すなわち子路の志望と、孔子の志望が語られた章です。まっさきに気の早い子路が答えました。彼の理想は、私欲を廃して自分の所有物にこだわらない鷹揚(おうよう:鷹が大空を飛ぶようにゆったりとして威厳があること)な気概というか、激烈な友情ということでしょうか。今ふうに言えば、自分の高級車やオーディオ器具を友だちと共有し、友だちと一緒に使って、潰れるまで使ってもくよくよしないということでしょうか、あるいは、友だちの車馬衣裘を自分がボロボロになるまで使っても気がおけない「交友の至り」を言っているのでしょうか。両説あるようです。
一方、老成な顔淵の理想は、善行をしてもそれを自分の手柄とし思うことなく、難しいことを人に押しつけない(あるいは、自分の骨折りを大袈裟に言わない)ことです。
そして子路から先生の志望は何かを聞かれて、孔子は「老人には安心してよりかかられ、朋友からは信頼され、若者からは慕い寄られる。そういうふうにありたい」と答えています。
私は年齢的にはすでにこのときの孔子を超えていますから、私よりも高齢の人とのつきあいはほとんどありません。同年齢かあるいはほとんど私よりも若い人とのおつきあいばかりです。したがって、「私より高齢の人から安心され信頼され慕いよられる」ようには、除外できます。でも朋友(これも少なくなりましたが)からは信頼され、若者からは慕い寄られる」、そういう存在にはなりたいです。「進撃の巨人」ならぬ「勇気づけの達人」でありたいですが、未熟者で現実はなかなか思いどおりにはなりません。教科書的な言葉面の「勇気づけ」でなく、事態に即してタイムリーかつ柔軟な勇気づけができればいいです。野田先生は、「勇気づけは生もの」とおっしゃっていました。しかも、「勇気づけられたかどうかは相手が判断するものだ」とも。ですから、正確に言えば「勇気づけられ」です。こちらは勇気づけたつもりでも、相手は著しく勇気をくじかれていることもありえます。ご用心、ご用心。