20,季文子、三たび思いて而る後に行う。子、これを聞きて曰く、再び思えば斯(すなわ)ち可なり。
季文子(きぶんし)は三度考えてから実行した。先生がこれを聞いて言われた。「二度考えてみて結論がえ出れば、それで良いのである」。
※浩→季文子は孔子の前時代の魯国の宰相ですが、晋国への使者の役目を仰せつけられて、出発するまでに三度考えて、晋の礼制を万全に理解してから出発したと言われます。孔子はこれを聞いて、三度まで考え直して決断するほど慎重であるべきではなく、二度しっかりと考え直して結論が出ればそれに従えばよいと批評しました。
これは朱子の解釈のようですが、古注では、「季文子ほどの賢者ならば二度でよい」と、「賢者」という前提があって、このほうが穏やかに聞こえます。「三国志」の“三顧の礼”もありますし、三度確認するというのは、それほどやりすぎとも思えません。現代、横断歩道を渡るとき、「右見て左見てもう一度右を見てそれから渡りましょう」と子どもたちに注意しています。鍵をかけたあとちゃんとかかったかどうかを、普通は1回ドアを引っぱって確認しますか。これを何度もやると神経症です。私自身はかなり神経質ですから、季文子なみの慎重さも納得できます。あまりの慎重さに嫌気がしてやめると、今度は文章を書いたあとのチェックなどがいい加減になってあとで誤字が見つかることがしばしば起こるようになりました。まあ、見つけた人が知らせてくれますから、それに頼るのも可なりです。ライフスタイルが少しだけ変化したのでしょう。感覚型では「聴覚型」ですから、とにかく耳に入る音にとても敏感です。野田先生が、「視覚的なものは眼を閉じさえすれば見えないが、音は耳をふさいでも聞こえる」とおっしゃっていました。なるほど、昔住んでいた借家のそばに国道とバイパスを結ぶ短絡路になっている市道があり、深夜も大型トラックが往来して、私の安眠を妨げていました。その後、バイパスが貫通してトラックが通らなくなって安眠できるようになりました。音には敏感な反面、見るほうはいい加減なことが多く、見たものの記憶もあやしいです。これは気をつけないと危ないです。ときどきハッとすることがあります。視覚・聴覚・触覚をバランスよく使っていきたいです。
「学而篇」の曽子の言を思い出します。
曽子曰わく、吾、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか。
<アスペクト助詞 “过”←「過」の簡体字>
@过 guo =~したことがある(経験)
@吃 chi1=食べる /chi1guo=食べたことがある
#あなたは北京ダックを食べたことがありますか?
Ni3 chi1guo Bei3jing1 kao3ya1 ma?
你吃过北京烤鸭吗?
(我は省略)食べたことがあります。/食べたことがありません。
吃过。/ 没吃过。
#あなたは中国に行ったことがありますか?
Ni3 qu4guo Zhong1guo2 ma?
你去过中国吗?
まだ行ったことがありません。 Hai2 mei2 qu4guo 还没去过。
c.f. まだ行っていません。 hai1 mei2 qu4 还没去。
<ピンイン> fとh
f :英語とほぼ同じ
h :喉の奥から息を強く出す
fa1hui1 发挥 発揮する fu2he2 符合 符合する
fu4huo2 复活 復活する he2fu2 和服
he2fan4 盒饭 弁当 hu4fu1 护肤 スキンケアする
河合夫婦は着物で結婚式に出席します。
He2he2 fu1fu4 chuan1 he2fu2 can1jia1 hun1li3
河合夫妇穿和服参加婚礼。
<補足> アスペクト助詞 “了”le
@了:「~したことがある」(経験) 現在よりもわりと離れた昔のこと
我前几年去过一次长城。
Wo3 qian2 ji1 nian2 qu4guo yi1ci4 chang2cheng2
数年前に一度長城に行ったことがあります。○
我昨天去过一次长城。
Wo3 zuo2tian1 qu4guo yi1ci4 chang2cheng2
昨日一度長城に行ったことがあります。×(不自然)
<日本の読み物>
翻訳する fan1 yi4 翻译
ブックカバー shu1 tao4 书套
装丁がきれい。 zhuang1 ding4 piao4 liang4 装订漂亮。
繊細な xi4 ni4 细腻
奥深い shen1 du4 深度
漫画 man4 hua4 漫画
<驚き>
本当に? Zhen1 de ma? 真的吗?
うそ! Zhen1 de jia3 de? 真的假的?
まさか! Bu2 hui4 ba? 不会吧?
びっくりした。 Xia4 le yi2 tiao4 吓了一跳。
神様! Tian1 na! 天哪!
そんなはずはないだろう。 Zen3me ke3neng2 ? 怎么可能?
19,子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)、三たび仕えて令尹と為れるも、喜ぶ色なし。三たびこれを已(や)めらるるも、慍(いか)れる色なし。旧き令尹の政、必ず以て新しき令尹に告ぐ。何如(いかん)。子曰く、忠なり。曰く、仁なりや。曰く、いまだ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。崔子(さいし)、斉君(せいくん)を弑(しい)す。陳文子、馬十乗あり、棄ててこれを違(さ)る。他邦に至りて則ち曰く、猶(な)お吾が大夫(たいふ)崔子がごときなりと。これを違る。一邦(いっぽう)に至りて、則ちまた曰く、猶吾が大夫崔子がごときなりと。これを違る。何如。子曰く、清し。曰く、仁なりや。曰く、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。
子張がおたずねした。「楚の令尹(宰相)の子文は、三度令尹に就任したが嬉しそうな様子は見せませんでした。また、三度令尹を辞任させられましたが、恨めしがる様子は見せませんでした。いつも、もと令尹のときの政策を新令尹に引き継ぎました。どうご覧になりますか?」先生は言われた。「それは誠実(忠実)だ」。子張はまたおたずねした。「仁と言えましょうか?」。先生が答えられた。「十分な知性を持った人物とは言えないから、仁とはなしえない」。。
さらに、子張がおたずねした。「(斉の家老の)崔子が斉の君主(荘公)を殺しました。同じ(斉の家老の)陳文子は4頭立ての10台の戦車を持っていましたが、それを捨てて(斉を)立ち去りました。他国に着くと、「やはり、ここにも斉の家老の崔子と同じような人物がいる」と言ってそこを去り、別の国に行ったが、また「ここにも斉の家老の崔子と同じような人物がいる」と言ってそこを去りました。これは、いかがなものでしょうか?」。先生は言われた。「清潔だね」。子張がたずねた。「仁と言えるでしょうか?」。先生がお答えした。「知性に欠ける。どうして仁と言えようか」。
※浩→門弟の子張は、「仁」の徳を高潔な人格を持って体現した人物として、楚の名宰相であった子文と、斉の重臣であった陳文子を挙げて、孔子に「彼らは仁であると言えるでしょうか?」とたずねてみました。孔子は、当時の首相に当たる令尹の重責にありながら、その権力に頓着せず粛々と伝統に従って職務をこなす子文を「誠実である」と高く評価しましたが、知力が十分ではないのでまだ「仁」ということはできないと答えました。
斉の主君に忠実な家老の陳文子についても、「清潔である」と高く評価しながらも、知力が不足しているのでまだ「仁」ではないと答えました。孔子の理想とする「仁者」は、単に「忠義・清浄」という人格的な高潔さを備えた人を指すのではなくて、時勢を見極めて社会(天下)に貢献するだけの知力を備えた「智者」でもないといけないのです。「仁者」と呼ばれる条件の高さがよくわかります。と当時に、為政者の条件も示されているように思われます。
「仁」の徳からアドラー心理学の「共同体感覚」を連想します。「仁」は内的構えであるのに対して、「共同体感覚」の「感覚」は内的構えのようにとれますが、アドラーが「共同体感覚」の原語・ドイツ語のゲマインシャフツゲフールを英語に訳すとき、social interestと、interest「関心」としていることから、外へ向けられていることがわかります。アドラーの若いときの英語の著作では、social feelingでしたが、晩年にはsocial interestと言い換えています。feelingは受動的な感覚・感じ方で、interestは関心・能動的な関わりです。共同体感覚がアドラーの中で、受動的な感じ方から、世界との積極的な関わりに変わっていきます。“感覚”と言うから、「センス」とか「ものの見方」だと思ってしまうのですが、実は、世界とのつきあい方という、行為とそれを背後から支える態度だとアンスバッハーが解説していました。アドラーのお弟子さんが、「共同体感覚をどうやったら教えることができますか?」とたずねたら、アドラーは“Live it.”と答えたことからも、このことがよくわかります。こういうことは人に「言葉」で教えても伝わらないのですね。「自分が生きてみせること」です。
孔子が先輩政治家を「仁」の立場から厳しく批判しているのも理解できます。日本の政治家はほとんど落第しそうです。
<ジョブキソ39>
#テーマ
電話がかかってきたときに担当者が電話中。
「のちほどかけ直させます」と相手に伝えるには?
I'm sorry. She is on another line. I'll ask her to call you back.
申し訳ありません。彼女は電話中です。のちほど電話をかけるように伝えます。
※tell herと言うと、「申しつける」感じ。クレームは入っているとき何回も電話があるときなどに、強くI'll tell her.と言う。
※確約できないときは;
I'll ask her if she can call you.
#相手の応答
I see. All right. I will wait for her call.
そうですか。わかりました。お電話をお待ちしています。
18,子曰く、臧文仲(ぞうぶんちゅう)、蔡(さい)を居(たくわ)え、節(せつ)を山にし梲(せつ)を藻(も)にす。何如(いかん)ぞそれ知ならん。
先生が言われた。「臧文仲は、国君が使う占い用の大亀の甲羅を家老の身でありながら家にすえていたし、天子の建物のように柱の上の斗棋(ますがた)に山がたを掘り、梁(はり)の上の短い柱(うだち)に藻の模様を描いた。どうして、それで(世間で言うような)知者だと言えるだろうか?」。
※浩→臧文仲は、孔子の誕生より六十六年以前に死んだ魯国の貴族中の有名な賢者でした。ここでの孔子の批評はあまりにも厳しいです。、天子にしか許されていない礼制の制約を破って、自分を天子になぞらえるような越権のふるまいをしていました。安定した社会秩序を実現する政治にとって、礼制の遵守が一番大切だと考えていた孔子は、いくら学問に精通した碩学(賢者)でも、「礼」を無視するようでは本当の知者とは言えないと批判したのです。
人格者の孔子が、他人を批判するのは珍しいですが、「礼」を無視した行動や、立場を超えた越権行為には、厳しい批判をしています。私が尊敬する野田俊作先生は、その偉大なリーダシップゆえにか、かつて一部の人から「教祖」呼ばわりされて、ネットワークで厳しく反論されました。その部分を引用します。
↓
「私のスタンス」については、「尊敬」だとか「信頼」だとか「コミットメント」だとかいう単語を、**さん独特の意味で使われていたのでは、話が通じなくなります。それよりも前に、私が理解する限り、
>気持ち良く素敵な関係を持つにはどうしたらいいのだろう、ということが問題なんです。
というふうにアドラー心理学は思っていなくて、「共同体にのために私にできることは何だろう」というアイデアがまずあって、そのために私が不快な思いをしなければならないのであれば不快な思いを引き受けるし、人と仲たがいをしなければならないのであれば仲たがいをするかもしれないと考えています。もっとも、なるべく不快な思いをしないで人と仲良くしたいとは思っていますが、しかし、それが目標ではないのです。「気持ち良さ」を目標にするのは、むしろフロイト心理学的であって、アドラー心理学的ではないと思いますし、「素敵な関係」を目標にするのはロジャーズ心理学ふうなのではないかと思います。
次に、「これは、私言葉(アイメッセージ)でしょうか?」について。「私言葉」だの「お願い口調」だのは、歴史的に見て、本来のアドラー心理学の技法ではありません。それらは、ロジャーズ派からの借り物です。ですから、アドラー心理学の理論と思想に沿って使うこともできれば、沿わないで使うこともできます。また逆に、「あなた言葉(ユーメッセージ)」だの「命令口調」をアドラー心理学の理論と思想に沿って使うことだって不可能ではありません。つまり、お願い口調でもって人を支配することもできるし、命令口調でヨコの関係(これは本来のアドラー心理学用語)を作ることだってできます。ですから、技法にこだわる前に、まず理論と思想について点検しておかないといけないのです。
それに、「あなたは『私言葉』を使っていない」というのは、「あなたは徳目Xをしていない」という文脈ですが、私が理解する限り、アドラー心理学的に生きるとは、「私は何をすべきか」を考えることであって、「あなたは何をすべきか」は、相手が求めたときや、相手のすることがひどく迷惑だったときにだけ考えることにする、ということだと思うのです。もっとも、私は**さんに「『あなたは徳目Xをしていない』という言い方をやめるように」とは申し上げません。それは**さんの課題ですから。ただ私は、アドラー心理学ではどう考えているかを申し上げているだけで、アドラー心理学の考え方ややり方を採用されるかどうかは**さんがお決めになることです。
「課題の分離」について。今のアドラー心理学をめぐる政治情勢の中で、「教祖」という単語には、特殊な意味が込められています。すなわち、Iさんが使われた文脈としては「ファシスト」とか「独善的」とか「カルト」とか「アドラー心理学教団」とかいう単語との連想を伴いながら「教祖」という単語が使われています。仮に**さんが、そういう文脈に無知で、何気なくその言葉を使われたとしても、ここは公衆の面前です。政治情勢に敏感な読者の中では、私が指摘しているような政治的な意味を帯びて『教祖』という言葉が響くでしょう。それは、私にとってははなはだ迷惑です。迷惑がかかったので、**さんに対して、「私に向かって『教祖』という言葉を使わないでくれ」と言いました。課題の分離→迷惑がかかっている→共同の課題の提案、というルートを通ったのですが、何か問題がありますか?
「感情の目的は何でしょうか」について。私はいわゆる「Dタイプ」で、相手が悪意を持って私を中傷したときには感情的にならず、相手が故意でなく私にひどいことを言ったりしたりしたときには感情的に反応します。しかして、**さんが私を「教祖」と呼んだのは、あの時点では「故意だ」と思っていましたから、感情的に反応しませんでした。今は「故意じゃなかった」とわかったのですが、感情的に反応するにはもう間延びしてしまったので、反応していません。
ああいう反応を見て「怒っている」と感じられるということは、**さんはおそらくAタイプやDタイプじゃないんでしょうね。つまり、感情的だと感じられるのは、むしろ**さんの側の認知バイアスじゃないかなと思います。
まあ、感情的であるかはどうかは別として、口が悪いのは私の問題点ですから、言い方に剣があって**さんを不快にさせたのであれば、それについては謝罪します。