22,樊遅(はんち)、知を問う。子曰く、民の義を務(つと)め、鬼神(きじん)を敬して遠ざく、知と謂うべし。仁を問う、子曰く、仁者はまず難(なや)んでのちに獲(う)、仁と謂うべし。
樊遅が知について質問した。先生が言われた。「人民に対して、なすべき義務を果たすように教え、祖先や神々に対して、十分に敬意を捧げて離れたところにお祀りしておく(ある距離を置いた存在として扱う)。これが知というものだ」。
また、仁について質問した。先生は言われた。「仁徳を備えた人は、まず難しい仕事を行っておいてから、あとで利益を収める(報酬を得る)、それが仁というものだ」。
※浩→樊遅は孔子より36歳年少で、戦いに大奮闘した勇士ではありますが、理解力の良いほうではなかったそうです。そのため、質問には、理論的でなく具体的に答えています。
樊遅の「知」や「仁」についての質問は他のところにも出てきます。また、「鬼神を遠ざける」については、「子は怪力乱心を語らず」と、このあとの「述而篇」に出てきます。孔子は、鬼神の存在を否定する無神論者ではなく、神よりもまず人をと考える合理主義者だったのです。そういえば、私の父に似ています。母が家族の食事の前に、お仏壇にお供えをしていると、「生きている者が先じゃ」と言っていました。そのころは、なんてバチ当たり!と義憤を覚えましたが、その後、父が他界して仏様になってから、ときどきお仏壇のお供えが遅れたら、母は「お父ちゃんは許してくれるよ。生きているころ、『生きている者が先じゃ』と言っていたから」、と逆手に利用していました。畏るべし、母の智恵!
「まず難(なや)んでのちに獲(う)」は新旧で訳の違いがあります。古注では、「まず苦労してあとで功を得る」で、いろいろと骨を折ってから目的に到達する。つまり安易な到達を嫌うということです。新注では、「難きを先にして獲ることをあとにす」と読みます。人が嫌がって後まわしにする難しいことを後まわしにせず先にやる。また、人が利益のある事柄として先にやりたがる事柄を後まわしにする、ということです。私の母は、私たち子どもに、「苦あれば楽あり」と言っていました。何しろ明治生まれの人ですから、「辛抱」は美徳だったんです。そのおかげで、中学から高校にかけてコツコツ勉強を重ねたおかげで、幸せな今日があります。感謝感謝です。
孔子は相手の知的レベルに応じた教育をしました。野田先生もそうでした。私は、1991年に初めて岡山市内で野田先生の公開カウンセリングを見学して、“目から鱗”体験をしました。そして92年には「カウンセラー資格」を修得しました。それから数年間は、自分のケースのほとんどを大阪のアドラーギルドの「事例検討会」へ持参して、スーパービジョンを受けました。どのケースに対しても、その都度、野田先生から丁寧なコメントとアドバイスをいただいて、そのおかげで、現場でのカウンセリングが順調に運びました。もともと野田先生は、学校の教師がカウンセラーになるのには反対でした。教師は来談者と学校の板挟みになって、真に生徒や保護者といった来談者の味方になるのが難しいからです。私はそれでも熱心にお願いしてお許しをいただいて、「カウンセラー養成講座」を受けました。幸い試験に合格しました。教師でカウンセラー資格をいただいたのは私が最初ではなかったかと思います。その当時まだ加入していた「日本カウンセリング学会」で発表することになったときは、野田先生にお許しをいただいて、さらに丁寧なアドバイスをいただきました。持ち時間の15分で発表し終えるコツを教わって、実際そのとおり実行して、本番を無事終えました。その学会の重鎮は筑波大学の国分康孝先生でした。國分先生は野田先生より18歳年上で、お立場は折衷主義でした。國分先生が編纂された『カウンセリング辞典』(誠信書房)には、アドラー心理学に関する詳しい説明が掲載されていて、そこは野田先生が執筆されました。そのためでしょうか、私が「國分先生の学会で発表する」と野田先生に申し上げたら、先生は「國分先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃいました。國分先生のお弟子さんたちからは、現在も大活躍のカウンセラーやセラピストが続出しています。私も、「グループエンカウンター」や各種講座に参加して、それはそれは暖かいご指導を受けました。國分先生ご夫妻はおしどり夫婦でした。國分先生は、「カウンセリングは妻の久子のほうがうまい。私はしゃべるほうが得意」とおっしゃっていました。野田先生は、カウンセリングもおしゃべりも神業のようでした。私は偉大な指導者に恵まれたことをとても感謝しています。
さて、一昨日は運転免許更新のための高齢者講習会に行きました。わが家のすぐ側に「教習所」があるのに、そこでは予約がとれなくて、車で40分かかる「運転免許センター」まで行きました。ここでの講習は2回目です。3部構成で、最初は「認知機能検査」です。ここでの難関は16枚の絵を記憶することです。私はこれまでに4回受講していて、検査には馴れていますが、これまでのようにほぼ満点を得られるかどうか不安でした。もしも不合格ならほんとに運転しないほうがいいということですから、実態を知るために検査を受けるんだと納得すると、落ち着いて受けることができました。結果は、16枚の絵をノーヒントで思い出すのは「13枚」できました。続くヒント付きでは「16枚」すべて思い出しました。これで楽勝、合格です。絵の内容はこれまでに一度体験しているものでした。1枚目は、「戦車、目、太鼓、ステレオ」。これは順番どおりです。1枚目からは順不同です。「トンボ、トマト、百合、コート」。「万年筆、レモン、飛行機、机」。「金槌、ペンギン、うさぎ、ヤカン」。以上でした。
たくさんの数字が並んでいて、指定される数字を消していく作業は満点でした。
次の検査は「視力」でした。これは加齢のためと理由ははっきりしていますが、特に「動体視力」と「夜間視力」は最低でした。動体視力は以前から低かったです。運動神経は子どものころから鈍かったですから、仕方ないです。
最後は、実際に運転をします。指導員が同乗してくれて、その指示どおりにコース内を走ります。これは伸び伸びと実行できました。ひとつだけ、交差点で左折すため信号待ちしているときに、車の位置が道路中央よりで、左が空いているのはそこへバイクなどが進入していると死角で見えないので、もっと左よりに詰めて停止するように注意を受けました。次の交差点で指示どおり停止したら、指導員から「あなたは順応性が高いです」とお褒めの言葉をいただきました。こうして延べ3時間の講習は無事終了しました。夕食のビールはとてもおいしかったです。
第12課 おさらい
「はじめまして」
チョ’ウm ペpケッスmニダ
처음 뵙겠습니다.
<自己紹介>
こんにちは。私は「~」です。
안녕하세요? 저는 ~이입니다.
私は歌手です。
저는 가수입니다.
タッカンマリ、チョ’ングッチャン、カルビ、テジカルビ、チョアハmニダ
鶏肉、チョングクジャン、カルビ、豚カルビ、たくさん好きです。
닭한마리, 청국장, 갈비, 돼지갈비, 많이 좋아합니다.
お会いできて嬉しいです。
マンナソ パンガpスmニダ
만나서 반갑습니다.
<発音>
@栗=밤 パm
@パン=빵 ッパンg
@ごはん=밥 パp
「パンください」=빵 주세요. ッパンg チュセヨ
@氷=얼음 オルm
@顔=얼굴 オrグr
@早く・すぐ=얼른 オルrン
#連音化
パッチムの直後の「ㅇ」はそのパッチムがそこへ移動してパッチムの音になる。
얼음 ;「ㄹ」が「ㅇ」の位置に移って発音される。 オルm
<聞き取り>
3助詞
・「~は」=는/은 (パッチムなし/あり)
・「~が」=가/이 (パッチムなし/あり)
・「~を」=를/을 (パッチムなし/あり)
キムチは=김치는
キムチが=김치가
キムチを=김치를
水は=물은 ムルン
水が=물이 ムリ
水を=물을 ムルr
#ハムニダ体のまとめ
「~です」=입니다 イmニダ
「~ではありません」=가 아닙니다 /이 아닙니다 (パッチムなし/あり)
「あります」「います」= 있습니다 イッスmニダ
「ありません」「いません」=없습니다 オpスmニダ
※「다」を「까?」にして語尾を上げると疑問文。
キムチです=김치입니다.
キムチではありません=김치가 아닙니다.
キムチがあります=김치가 있습니다.
キムチがありません=김치가 없습니다.
#ヘヨ体
「~です」=예요 エヨ/이에요 イエヨ (パッチムなし/あり)
「~ではありません」=가 아니에요 カ アニエヨ/이 아니에요 イ アニエヨ
(パッチムなし/あり)
「あります」「います」=있어요 イッソヨ
「ありません」「いません」=없어요 オpソヨ
※「?」を付けて語尾を上げて発音すると疑問文。
キムチです=김치예요.
キムチではありません=김치가 아니에요.
キムチがあります=김치가 있어요.
キムチがありません=김치가 없어요.
・キム・シフさんの自己紹介
私は俳優です。私は歌手ではありません。
저는 배우입니다. 저는 가수가 이닙니다.
弟はいません。兄がいます。
남동생이 없어요. 형이 있어요.
趣味はサッカーです。野球ではありません。
취미는 축구예요. 야구가 아니에요.
好きな食べ物はカルビです。
チョアハヌン ウmシk カルビイmニダ
좋아하는 음식 갈비입니다.
3有声音化
야구 =ヤクではなくてヤグ
※「ジョバドグの法則」:ㅈ、ㅂ、ㄷ、ㄱは、2文字目以降で、母音とm,l,o,nの音のパッチムのあとでは濁って発音される。
バスケットボール=농구 ノング
<ワンポイント>
願い=소원 ソウォン
お久しぶりです。
オレンマニエヨ
오랜만이에요.
<会話>
#「~します」「~ます」
基本形はすべて「다」で終わる。基本形-「다」=語幹。
・「~します」「~ます」=語幹 + ㅂ니다/습니다 (パッチムなし/あり)
@買う=사다 買います=삽니다 サmニダ
@食べる=먹다 食べます=먹습니다 モkスmニダ
※疑問形にするには「다」を「까?」に変える。
スカイツリーが好きです。
스카이트리가 좋습니다.
なぜいいですか?
왜 좋습니까?
寿司が好きです。
스시가 좋습니다.
服がいいです。
옷이 좋습니다.
#助詞
「~で」=에서
「~に」=에
浅草でスカイツリーに行きます。そして、築地ですしを食べます。そして、原宿で服を買います。
아사쿠사에서 스카이트리에 갑니다.그리고 쓰키지에서 스시를 먹습니다.
그리고 하라주쿠에서 옷을 삽니다.
21,子曰く、中人(ちゅうじん)より以上には、もって上(かみ)を語るべく、中人より以下には、もって上を語るべからず。
先生が言われた。「平均か、それ以上の知能の持ち主には、高度な内容の話をしてもよい。平均以下の知能の持ち主には、高度な内容の話をしても無駄である」。
※浩→何をもって知能の高さを測るか不明ですが、何しろ紀元前5世紀のお話です。孔子は、人間の能力を三分して考えています。「上知(じょうち)」と「下愚(げぐ)」と、ここで言われている「中人」です。差別的に見えますが、当時、「上知」と「下愚」はそれほど多くなくて、「中人」つまり平均人が社会の大多数を占めていたはずです。その平均人には高度な話をして教育できると考えていましたから、現代の教育の機会均等の考えと矛盾しないと、「世界の名著」の貝塚茂樹先生の解説にありました。
「上知と下愚」は、ずっとあとの『陽貨篇』に、「子曰く、ただ上知と下愚とは移らず」とあります。万人の生まれつきの素質はそんなに差がないが、生まれたあとの習慣つまり学習によって差がつく。ただし上知と下愚は、学習によっても変化しない。
相手に応じた教育をするということなら現代に通じます。それならアドラー心理学もそうです。例えば、子どもが問題を起こして相談に見えた親御さんに、いきなり「アドラー心理学の基本前提はね…」などと理論を説きません。ひたすら「勇気づけ」ながら、親子コミュニケーションに起こっていることを理解してもらい、悪循環のループを切って、子どもの適切な面に注目してあげるように提案していきます。さらに、継続的に学びたい親には、親教育ワークセミナーである「PASSAGE」への参加を勧めます。アドラー心理学で救われた体験をした人の中から、さらに他の人の助けになりたい人が出てくると、そういう人は、例えば「PASSAGE」のリーダーになったり、さらにはアドラー心理学のカウンセラーを目ざしたりします。このレベルになると、かなり高度の理論を学びます。この領域もクリアすると、今度はスピリチュアルな領域へ入っていくのでしょう。
「上知と下愚とは移らず」に関連した諺もいくつかあります。「釈迦に説法」は前者で、「馬の耳に念仏」は後者でしょうか。私自身の実態はたぶん「下愚」ではないかと思っています。理由は、とうてい及ばない領域をたくさん残したまま生きているからです。「無知の知」を自覚してはいます。歌舞伎の十七世中村勘三郎さんの残した言葉に、「まだ足りぬ、踊り踊りてあの世まで」というのがありました。私の場合は「まだ足りぬ。学び学びてあの世まで」です。“完全”など求めません。「どうせ人生は間に合わないのだから」と野田先生が日記に書かれていました。
今日は運転免許更新のため、免許センターへ講習を受けに行きます。高齢者は免許更新の前に「認知症検査」と「運転実習」があります。75歳から受講義務が生じます。すでに3回受けていて馴れはしましたが、これまでは16枚の絵を覚える検査はほぼ満点でしたが、今回は自信がありません。これを機に免許返上も考えましたが、雨の日などは自転車で買い物にも行けませんから、元気を出して今回も受講して免許をいただくことにしました。なんとなく緊張するのは、自分が「完全主義」だからだろうと気づきました。そうだ、ほどほどでいいのだ。もしも不合格だったらほんとに運転に向かないのです。気軽に受けようと覚悟を決めました。ただ、わが家のすぐそばに「備前岡山教習所」があって、徒歩2分以内で行けるのに、今日は車で1時間弱の「免許センター」へ行かないといけません。受講の申し込みが殺到しているため、近所の教習所では予約が取れなかったのです。さいわいお天気も回復しました。ドライブ気分で行ってきます。
<写真に関するフレーズ>
ここで写真を撮ってもいいですか?
Zhe4li ke3yi3 pai1zhao4 ma?
这里可以拍照吗?
SNSに写真をアップしてもいいですか?
Wo3 ke3yi3 ba3 zhao4pian4 shang4chuan2dao4 wang3lu4 shang ma?
我可以把照片上传到网络上吗?
写真を一緒に撮りましょう。
Wo3men yi4qi3 zhao4 zhang4 ba!
我们一起照张相吧!
<日本のお土産> 男性向け
@電化製品= dian4qi4 chan3pin3 电器产品
@焼酎= shao1 jiu3 烧酒
私の友だちは焼酎を飲むのが好きです。あまり酔わないからです。
Wo3 de peng2you xi3huan he1 shao1jiu3, yin1wei bu2 tai4 hui4 zui4.
我的朋友喜欢喝烧酒,因为不太会醉。
@電動髭剃り= dian4dong4 ti4xu1dao1 电动剃须刀
きれいに剃れる gua1 de gan1jing4 刮得干净
@飲酒セット= yi2 tao4 jiu3ju4 一套酒具
お酒が好き xi3huan he1 jiu3 喜欢喝酒
@ネクタイ ling3dai4 领带
<頼む>
すみません。 Lao2jia4 劳驾。
お手数をおかけします。 Ma2fan nin2 麻烦您。
ちょっと書いてください。 Qing3 xie3 yi2xia4 请写一下。
もう一度おっしゃってください。 Qing3 zai4 shuo1 yi2 bian4 请再说一遍。
ゆっくりおっしゃってください。 Man4 dianr3 shuo1 慢点儿说。
ちょっと手伝ってください。 Qing3 bang1bang mang2 请帮帮忙。
20,子曰く、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。
先生が言われた。「物事を理解する人は、これを愛好する人にかなわない。愛好する人は、楽しんで一体となっている人にはかなわない」
※浩→学問は「愛知」であり、対象と一体になることによって最高の境地に達する。「愛知」はギリシャ語で“フィロソフィア”。フィロが「愛する」で、ソフィアが「知恵」です。英語のphilosophy(哲学)の語源です。儒家の「格物致知」は到達点が「平天下」ですから政治哲学です。プラトンも「哲人政治」の理想を唱えていました。
ここでの「知って愛して楽しむ」は個人の様子を言っています。不等式で書くと、「知る<好む<楽しむ」です。
私がアドラー心理学のカウンセラーになった当初、毎週金曜日の夜は大阪のアドラーギルドへ、自分のケースを持っていって、アドバイスを受けていました。そのころは、猛烈な知識欲がありカウンセリング実践欲の塊でした。当時、パセージ・リーダーの高橋さと子さんから、「大森さんは楽しんで実践していらっしゃる」などと、嬉しいお言葉をいただきました。野田先生は、「どうしても避けられない運命には、2つの選択肢がある。1つはそれをイヤイヤ受け入れること。もう1つはそれを楽しみながら受け入れること。これは自分で選べます」とおっしゃいました。そうだ、Enjoy!なのです。
道家では老子は、文明の虚飾・技巧を捨てて無為自然の古代の道に帰れと説くので、復古主義・現実逃避の生き方になります。荘子は、現実を否定して逃避するのではなく、現実の真っ只中に身を置いて、世俗と交わりながら、しかも何ものにも束縛されない自由無碍な生活を生きることこそ、真の超越者の生活であると主張しました。このように生きるために必要な哲学は「万物斉同」の哲学です。私は、人生のピンチのとき、この哲学で救われました。アドラー心理学を学ぶようになって、道家思想は土着思想だと教えられて、長らく棚上げしていました。最近はたとえ土着思想であるにしても、具体的な「処世術」としては実際に役立つことが多いので、その価値を見直しています。心理学でも、理論の差異は譲れませんが、技法はお互いに貸し借りしています。
アドラー心理学の学び方は、まず書物や講演で見て聞いて、頭で知って、それからそれを実践し、体が体得し、さらには仲間との交流で、軌道修正していくことだと教わりました。「知ってわかって実践する」という3段階です。カウンセラー養成講座でカウンセラー資格試験に落第する人は、「頭で知ってはいてもわかっていない」からだと、野田先生は常々おっしゃっていました。
人生では、世界について(人間についても)よく知って、よくわかって、さらにはそれらを楽しむ心境に達すれば最高です。それには「予測と制御」の力が必要です。自分の現在の行動の結末を予測できて、望ましくない結果が起こりそうだとわかれば、そうならないための適切な行動を今選べばいいわけです。この原理を知らないために、未来に不安を抱くクライエントさんにたびたび遭遇します。そういう人は、ほとんど「悪いあの人、かわいそうな私」をやっていて、「こんなにも私はつらい」と愚痴をいっぱい言いながら、現実には自分で何かしようとはしません。カウンセラーが提案する案についても、ほとんど否定・抵抗されます。神経症的な人のカウンセリングではよくあるそうです。治ったら困るんでしょうね。「憐れな被害者」でなくなるもの。その人たちのやっていることは「劣等コンプレックス」ですから、巻き込まれてうっかり片棒をかつがないように、カウンセラーは敏感でないといけません。ふと、わが家の本棚に、『愛はおそれをサバ折りにする』という変わった題名の本があります。パラパラとめくってみると、凄いフレーズがあちこちに散らばっています。
すべての怖れは「過去」にあり、すべての愛は「いま」にある。
というのに眼が止まりました。うーん、忙しいけど読み直します。