MENU
63,708

アドラーはABCDのどれか?

Q 
 興味半分ですが、アドラーさんはABCDでいうと、どの中に入ると思いますか?

A
 さあねえ、アドラーさんはたぶんD型だと思う。凄く働き者だったんです、極端な。最後、働き過ぎて過労死してますからねえ。だから働き者だったというのが言えるし、友だちとの関係がわりとクールみたいに思うんです。僕、アドラーさんと会ったことがないからわからないけど、アドラーの思い出を書いた本があるんです。それを読むと、そんなにのめり込んで人づきあいする人じゃなくて、なんかあっさりというか、そんな感じでつきあっているように思う。彼の書いたものを読んでも、課題達成重視の極めて積極的な人だと思います。ドライカースは知ってますので、会ったことはありませんが、ビデオを観ていますので、「Cを見たければドライカースを見よ」です。あれは確実にCです。アドラーの映画は観たことあるんです。オレゴン州にアドラーの映画とか写真とか収集しているおじいさんがいまして、その人が16ミリの映画が残っていたのを国際アドラー心理学会で見せてくれたんですけど、意外だったのは声がテノールでした。「おー、あんな声か」とびっくりしていました。

引用して返信編集・削除(未編集)

婿姑の仲が悪い

Q
 田舎に暮らしています。二世代が同居しています。嫁姑ではなく、婿姑の仲が非常に悪く、主人と母のことなので、直接的には私と関係のないはずなのですが、妻・夫の間にも親子の間にも余波が来ています。両親と別居するのが一番の方法だと思うのですが、それをする勇気がありません。相手を変えることはできず、自分も選んでこの生活を続けていますが、しんどいところがあります。(野田→そりゃあるでしょう。えーっと、何言ってあげたらいいのでしょう。あっ続きがある。)私の生活の中でできること、心がけることを教えてください。途中より同居して12年間です。

A
 やっぱりそのー、アドラー心理学が言うには、人間は被害者じゃないんですよね、まず。だって、自分の人生を自分で選択しているわけだから。同居して、お婿さんとお母さんがうまくいかないという状況を、他のいろんな状況と比べて選択しちゃったわけです。選択しちゃったのは自分なんで、自分が苦しむのは自分の責任なんですよ。きついでしょう。だからアドラー心理学は広まらないんですよ。お気の毒でも何でもない、「自分で決めているんだよ」と言うから。自己選択ということは自己責任ということですよね。自分の人生には、認めようと認めまいと100%自分に責任があるわけだから、そこで被害者だと言うわけにはいかないし、そこから逃げ出すわけにもいかない。だからといって、今の状況が変わらないものでもないんです。同居するなら同居するで、家族というのは網の目のようなものです。ネットワークのようなもので、1人が変わると残りもみな変わりますから、逆に言うと、自分が変わらないと今のままの状態が続くから、自分はどう変われるかを工夫しないといけない。どう変われるかはここでは抽象的で、言えないと思う。1回か2回カウンセリングを受けるとヒントがあるかもしれないので、できたら個人カウンセリングなんかにちょっと来られて、お姑さんがどういうことを言われるのか、ご主人がどういうことを言われるのか、今までこの質問した方がどうなさってきたのか、そういう点について具体的に教えていただけると、きっと何か言うと思います。

引用して返信編集・削除(未編集)

フロイト心理学がはやるのは?

Q
 フロイトの考え方は変だなと思いましたが、いまだに「フロイト派」と呼ばれる人たちがたくさんいるのはどうしてでしょうか?

A
面白い質問ですね。変じゃない。アドラーのほうがずっと変なんですよ。フロイトの考え方というのは、世間が一般通念として持っている常識と極めて近いんです。例えば、なんか自分の本能的な欲求と良心とか道徳観念とかと対立するというのは、世間でそう思っている人が多いじゃないですか。それから、小さいときの親の子育てでこんな性格になってしまったというのも、多くの人がそう思っているじゃないですか。だから、フロイトの考えというのは、世間のごく普通の人が信じていることをちょっと学問的に言い直したものです。ですから、大学なんかでそれを習うと、「ああ、もっともだな」と思うんです。皆さん方、本屋さんへ行って、どっかの新書本で小此木啓吾先生とか土井健郎先生とかが書かれた本を買ってきて読んでごらんなさい。「ほんとにそうだ」と思うんですよ。だからはやるんです。で、アドラーの考え方というのは常識的じゃないんです。例えば、過去が私の現在を決定していないとか、本能と社会とかは矛盾しないとか、そういう考え方というのは、普通はそうは考えない。神戸で地震があって、「心の傷が残ってPTSDで後遺症に悩まされる」と言うと、アドラー派の人たちは、「あ、それは目的がある」と言うんです。普通そんなことを考えないです。だから、アドラー心理学が100年もしながら少数派なのは、とても変わった考え方だからと思う。それが1つ。それから、フロイトの考え方というのは、一方ではsexを前面に押し出しているので奇妙なんですけど、一方では極めて常識的なので、それを混合しているわけです。子どもが性欲を持って母親とsexをしたがるだとか、凄い奇妙な考え方なんだけど、そういうものと子ども時代に性格が決まるという常識的な考え方とがミックスしてあって、その両方が、社会の精神学者とか心理学者とかじゃない人たちに広がったわけです。一方で常識的だから広がりやすいし、一方で文学とかをやっている人たちは、そういうsexに関する奇妙な幻想的な理論に大変興味が、特に20世紀の前半期にありまして、それで気がついたときには、医者とか心理学者とかじゃない人たちがフロイトの心理学をしっかりお勉強なさっていて、それに影響されながら、いろんな文学作品とか映画とかそんなものができてきちゃったでしょう。アメリカでは1つの社会的な常識になってしまっていて、その中で新しい世代の人たちが本を書いたりするのは、やっぱり常識だからフロイトから書き始めるじゃないですか。そういう感じだと思います。これは問題だと思うんですけどね。フロイトの弟子系統じゃない人たちはみんな、これは社会的な問題だと思っているんです。小さいときに人生が決定されるだとかいう考え方は、結局子どもが自分のやった行為の責任を親になすりつけることになるでしょう。それと同じように、例えば裁判なんかでも、アメリカはやたら無罪が多いんですよ。殺人なんかしても。それは、フロイト派の理論を持ち出して、この人には心の傷があって、その心の傷が今さつ人をさせたから、この人自身には責任能力がないんだという言い方で弁護士が論陣を張るんです。神戸で首切った子なんか、アメリカだと確実に無罪ですわ。「心の傷があった」と絶対、弁護士が言うから。日本は、裁判のときの精神鑑定では、フロイト式の精神分析的な鑑定書は普通、受けつけてもらえない。裁判官がイヤがるんです。もっと純粋に精神医学的な「何とか病」というやつでないと受けつけてもらえないか、日本では鑑定の結果無罪というのはあまりない。

引用して返信編集・削除(未編集)

最優先目標は自分では診断できない?

Q
 最優先目標は自分では診断できないと聞いたことがありますが、そうなんですか?

A
 そうなんでしょうね。いつもねライフスタイル診断だとか最優先目標だとか言うと、「自己診断できませんか?」って聞くんだけど、なんでそんなに自己診断したいのか、僕わかんないんですよ。人に聞いたらすぐわかるのに、どうして人に聞かないで、自分で「実はこうなのだ」と知りたいのか、そこに何かある最優先目標が思い浮かんだりするかもしれないので、そんなこと言わずに人に聞いてくださいな。

引用して返信編集・削除(未編集)

5歳女子、朝保育所へ行く前のトイレをグズグズ

Q
 5歳の女の子のことです。保育所に行っています。朝起きて朝食の前にトイレに行くのですが、ときどきぐずって泣きます。私について来てほしいのですが、「はっきり口に出して言わないと何もしませんよ」と言っているので、足をバタつかせて泣きわめいても放っています。「口でお願いしない限り何もしませんよ」と言うのですが、なかなか「お父さんついて来て」と言いません。あまり長くなるとそばに行って、「そのままご飯を食べないで泣き続けますか、それともお父さんについて行ってほしいと言いますか?」と選択させるようにしています。自分の行動に責任を取らせるためにと思ってやっているのですが、こっちがイライラしてきます。何か他に良い方法があれば教えてください。ちなみに、いつも最後に小声で「お父さん」と言うんですが、そのときは一緒について行ってやります。

A
 面白いゲームをやっています。これを権力闘争と言うんですね。女の子でしょう。5歳でしょう。朝「トイレについて行ってくれ」と言うんでしょう。この子が18歳になっても「トイレについて行ってくれ」と言うと思う?バタバタ廊下で泣きわめく?かわいいですね、18歳の女の子が「トイレついて行って」と言うと。いつもそういうふうに考えます。
 この子の今やっている行動はずっとやっているだろうか、年を取ったら自然に消えるだろうか。年を取ったら自然に消える行動は躾けなくていい。だって年を取ったら自然に消えるんだもの。そんなところで権力闘争してもしょうがない。機嫌良くついて行ってあげたらどうですか。そのうち言わなくなりますわ。もっと他のところで、「お父さん~してちょうだい」と言ってもらうことです。こんな権力闘争になっているところで突っ張らないで、さっさと諦めてついて行くほうがいい。
 これは育児をするときに大事なことです。子どもの部屋を片づけさせようと思うでしょう。「部屋を片づけませんか」と言って、片づけてくれればいい。無視されて片づけてくれないときに、あくまで「片づけてくれませんか」で突っ張る手が1つある。そんなのは気にせずに、私がきれいな家に住みたいんだから、親が片づけてしまう手がある。どっちもオッケー。アドラー先生はいつも言う。答えは1つではない。
 アドラー心理学の基本的な原理に乗っかっていれば、育児の方法は複数あって、ほとんど何もかも親がやってしまう育児もあるし、ほとんど全部子どもにさせる育児もある。どっちもありうる。最終的なイメージ、最終的に子どもが自分のことを自分でするようになる、最終的に親子が対等な協力的な関係になるということがはっきりしていれば、それで一向にかまわない。
 ですから、無理やり子どもにさせようと思わないこと。子どもに「これをさせよう」の「これ」というのは、いいことであってもとにかく子どもに「○○させよう」というのは支配性です。子どもに自立させようというのは、子どもの自立を損なう動きです。子どもの自由にさせよう、子どもに全部決めさせようと思うのは、強烈な支配です。「あなた方の好きなようにしていいのよ」と言って育てるのは、子どもにとってムチャクチャ窮屈です。最もむごい支配の仕方です。
 子どたちに「Xさせよう」という考え方はいつも危ないので、Xの内容がアドラー心理学に沿ったことであっても、そこで突っ張らないほうがいい。子どもがあっさり引き受けてくれればいいけど、引き受けてくれないときにはさっさと撤退します。とにかく権力闘争しないこと。

引用して返信編集・削除(未編集)
合計664件 (投稿658, 返信6)

ロケットBBS

Page Top