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私はDで夫がCなら

Q 
 人生目標で、私がDで主人がCの場合、私が共感できなくても「はいはい」と一応言って従ったほうがいいでしょうか?(そうともそうとも)。子どももいるので当分夫婦は続けたいと思っています。

A
 全部お父さんに決めてもらって、で、そのとおりしなければいいんだ。そおっと。

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講師を依頼されたがやりたくない

Q
 最近、研究会の講師などを依頼されるようになりました。でも私はあまりやりたくなくて、知人を紹介したりしています。でも、人にチャンスを与えているとも言えるわけで、そういう自分が疑問です。人と争うわけでもなく、向こうから来たチャンスに対してこういう対応をしてしまう目的は何でしょうか?またどうしたらこのパターンを変えられるでしょうか?

A
 目的はようわからへん、これだけのことでは。「あまりやりたくない」というのは、なぜやりたくないのかがわからないからよくわからないのですけど、2つ言いますからどちらでも好きなほうを取って。1つは僕自身はどう思っているか。私自身は、「何かわからないことがあったらそれについて人に教えろ」という西洋の諺がある。あることを知らないと思う。例えば、最近のファッションの動向とか知らない。でも知りたいと思う。どうするかというと、「最近のファッションの動向」について講演をするとか、本と書くとかすれば、絶対知るんですよ。それが一番良い方法だと思うから、なるべくそういうチャンスがあれば引き受けるようにしている、どっちかというと。これが1つのやり方。もう1つのやり方は、孔子聖人か誰かが言った「よく知らないことは人に教えるな」。完全に知ったら自然に言葉の中に出てきて、向こうが「来てください」と言うようになるだろうから、それまでは断ろうという線もある。これはあんまり賢くならない気がする。私はD型ですから、他人がどう思おうと自分が賢くなる線が好きなんです。たまたま今『脳と心』という日経サイエンスの別冊が売られていて、その中に私の書き下ろし論文が1つあるんですが、あれはね通産省の偉いお役人がここへ電話をかけてきて、「野田さんの話を東京大学の人か誰かに聞いたんだけど、ラポポートというアメリカの僕もちょっと知っている学者が『強迫神経症という病気は脳の病気で脳の代謝異常がある』と書いてあるけど、あれに反論してもらえないか」と言うんですよ。「僕も代謝異常あると思います」と言うと、「まあそう言わずに、それはそれとして、何か心理学の側から『それだけではないよ』という話を書いてほしい」と。しかも『全人格的な心の治療』(浩→うちにあります)という題名を向こうで勝手に決めてきて、しかも2週間後までに書けというんです。「そんなん無理です」「そりゃ無理とわかっているけど、日本中でそんな短い時間に論文かけるのはあんただけだ」と言うんです。「わかった」と言って2週間で書いたんです。そんなのをやっぱり引き受けたら、たとえ短期間でも勉強するし、その分だけ賢くなるからやろうかなという主義でいってます。これは私のライフスタイル、人生目標ですから。

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上司の評価が低く、やりたい仕事を回してもらえない

Q
 仕事のことです。私としては一生懸命しているつもりなのですが、上司から能力がないと思われているようです。「○○さんなら半分の時間でできる」と上司が高く評価している人と比べられ、イヤな思いになってしまいます。最近ではやる気がなくなってきて、やめさせられない程度に手を抜くことさえ思っています。また上司からの評価が低いために、私のやりたいような仕事を回してもらえませず、余計意欲がなくなってきます。上司に対して「あなたのような人に私の長所は見抜けないと」と敵対意識を燃やしています。彼に対する考え方を改めるべきなのでしょうか?また自分の能力に対して自信が失われつつありイヤなのです。何か良い方法はないでしょうか?

A
 抽象的すぎてよくわからないけど、1つは、お金に見合った仕事をするわけだから、自分の給料に見合った仕事をするわけだから、自分の給料相応分しか働かないという開き直りは、やっぱり根本的にはしておいたほうがいいと、僕は思う。上の人がどう言おうが。おんなじ仕事を仕上げるなら、できるだけ丁寧にやらないで手抜きをしたほうが楽でいいと思う。そうするのはイヤだ。私は給料なんかと関係なく働きたいとか、手抜きしないで丁寧やりたいとかならそれは自由で構わないです。2倍仕事ができる人がいるということは、この質問をなさった方は丁寧な仕事をしている、良く言えば。悪く言えば要領が悪い。もしも2倍分働こうと思うなら手抜きをして、「できました」と形を整えれば2倍働いたことになります。もしもそれがイヤなら、上司に文句を言われながら自分の仕事をするのがいいと思います。だからこちらのお勧めのコースはなくて、ご自分でお選びにならないとしょうがないんじゃないかな。でも、上の人に腹立てると大体うまくいかない。向こうのほうが強いですから。許してあげてください。で、なついたほうがいいと思います。お中元、お歳暮をして。

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解決構成

Q
 解決構成は目標の一致を考える際に大切だと思うんですが、もうひとつわかりません。最近先生がアドラーネットにアップされていた「コミュニケーションの心理学」を読むけれど見えないのです。何か良い学習法を教えてください。

A
 ない!なぜないかというと、新しすぎて英文の雑誌論文誌かない。だから諦めてください。もう10年くらいすると本が出る。解決構成…、今、解決構成をめぐってゴテてるんですよ。中島理事とか梅崎会長がわけのわからんことを言うから。「そらぁチャウで」言うてごててます。もうふた月み月ゴテまくりますから、ちょっと見えるかもしれん。

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言葉を選ぶ

Q 
 自分の考えや思いをキャッチして自分の体験に馴染んだ言葉を選んで話したいと思うのですが、どんな訓練をすればいいですか?(ようわからんな)。またそれが相手に伝わる言葉であるためにはどんなことに気をつければいいですか?(ようわからへん。何を意味しているのか)。

A
 言葉について、人にわかる言葉をしゃべるというのは凄い大事だけど、日本語って具合が悪いんですよ。日本語でものを書くと、凄い困るんです。こんなのはどういうふうに言ったらいいのかって。ものすごく困るときには、僕だったらまず英語で書くんです。そしたらわかるんです。英語って凄いわかりやすい構造になっていて、一番最初に「私は考えるthat」と言うんです。で、「なんとかかんとか」って言うんです。きちっと物事が大事なことの順に出てくるというか、枝分かれ式に文に書けるように作られているんだけど、日本語はそういうふうな構造がはっきりしないから、うだうだうだうだ言えるんです。うだうだうだうだ言うのも悪くないけど、人にものを伝えるにはきっちりした明確な構文で言わないといけない。今のところ日本語はそんな構造をしてないので、ひとつ英語でも勉強してはどうですか?英語でなくてもヨーロッパ語。ヨーロッパ人っていうのは、そういうように思って考えてそうしてきたんだと思う。というのは、ラテン語とかいうのはそんなに明快じゃない。今から2000年くらい前。ギリシャ語もたぶんそう。ギリシャ語は岸見先生に聞かないとよくわからない。ラテン語は大学で1年ほど勉強する機会がさぼりさぼりではありますがありましたので、一応知っていますが、うじゃうじゃうじゃうじゃしているんです。日本語と同じように連綿体で。それが、今のイタリア語とか英語とかができてくるのが大体紀元前1000年とか1200年くらいのころからそういう文章が残っているんですけど、その時代になると今と同じ構造に変わるんです。なんで変わるかわからないけど、想像としては、キリスト教がヨーロッパへ入ってきて、キリスト教の考え方というのはいつも言うんですけど、神様は言葉なんです。言葉が神様で神様の本質は言葉なんです。聖書に「はじめに言葉があった。言葉は神であった」と書いてあるから。人間は魂を神様からもらったんです。体は動物からもらったんですけど、魂って何かというと言葉なんです。言葉をしゃべるというのがわれわれが猫とか猿とかと違うところで、人間に魂(=言葉)があるからです。言葉というものが人間の一番人間らしい部分だと、ヨーロッパ人は思った。だから言葉というものをわかりやすく明快に使いたいと思った。というのは、ギリシャ語なんかでは言葉のことをロゴスと言います。これは「言語」という意味もあるし「理性」という意味もあるし「論理」という意味もあって、筋の通った言葉遣いをするとか筋の通った考え方をできる心とかいうような意味もあって、筋の通った言い方というのを凄い大事にしたと思う。その結果、何千年、1000年とか2000年とかかけて、大変筋の通った言い方のできる言語にイタリア語やフランス語や英語がなってきたんだと思う。ロシア語はダメなんですって。ロシア語はグジャグジャなんですって。筋が通らないんですって。ロシア人がわけがわからないのは、あれはロシア人の頭が悪いんじゃなくて、ロシア語はアカンのですって。なんでかというと、それはルネサンスがなかったからだと言うんです。ルネサンスという人間の力をもう1回信じて人間の力でもう1回やってみようという運動があった時代に、西洋の言葉は論理的になったけど、ロシア語はダメなんだって。そういうことは日本にはなかったでしょう。日本人は、心は言葉だと思ってないし、神は言葉だと思ってないし、ルネサンスもなかったし、なんか万葉集や源氏物語の時代そのままに今も余韻纏綿情緒纏綿にしゃべっているから、わけがわからないんです。学校で英語を学ぶ最大の目的は何かと聞かれたら、日本語がちゃんと書けるようになることだと、僕は言ってます。かつての時代に日本語は、漢文の影響で論理的になりました。「古事記」や「万葉集」の日本語に比べたら、例えば「平家物語」とかの日本語はずっと論理的です。それは漢文訳で、漢文の書き下しの書き方で日本語をしゃべったから。それは明治時代、夏目漱石とか森鴎外のころまでその影響は大変強く残っていて、明治の人って、今から考えるとずいぶん論理的だと思う。福沢諭吉さんにせよ西周(にしあまね)さんにせよ誰にせよね。あれは漢文のおかげであの人たちはちょっと日本人の本来の考え方よりは論理的にしゃべれたんだと思うけれど、漢文の力が衰えてきてアカンようになってきたから、まあ夏目漱石とか森鴎外とかは西洋の力も凄く借りていて、別に在来語でしゃべらないけど、彼らの文章をよく見ると英語やドイツ語の翻訳そのままの書き方をしますからね。僕たちは文章を書くときに外国語の力を借りるということは、何も今始まったことじゃないから、いっぺん勉強してみられたらどうですか。中学高校程度の英作文ができるように。

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