Q
性犯罪者などの犯罪者に認知療法で更生させるという動きがありますが、どう思われますか?
A
あのー、私たちは「本人が望まない治療はしない」ことにしているんです。性犯罪者が自ら「性犯罪をやめたい、にもかかわらず自分はつい性犯罪をしてしまう傾向があるので治療を受けたい」と言えば、喜んで引き受けます。でも、そうじゃないのに国が心理学を使って彼らの思想改造しようとしているとしたら、それは国家の暴力のとても洗練された使い方だと思う。だからあんまり賛成じゃないんですよ。性というものについて、われわれがもう1回ちゃんと考え直さないといけないと思う。社会のシステムそのものが根本的に問題があるんだけど、一方で性的な刺激を今、山ほど公開しているんですよ。インターネットポルノ画像なんか、これでもかこれでもかで、映倫カットも何もあったもんじゃなくて、もの凄いものが出回っている。そんなの誰でも観られるんです、一方でね。で、一方で表面上、売春防止法を堅持いたしまして、それで「売春なんかありません」と言って、売春・風俗へ行って女の子と遊ぶというのは非常に恥ずべきことで、とうてい人前で言えることじゃないという社会風土を作っているんです。これ大事よ。江戸時代や明治路時代に遊郭へ遊びに行ったってなんら恥ずべきことじゃなかったんです。男たちが、ちょうどそのへんの居酒屋へ飲みに行くように、「ちょっと遊郭へ行こうや」って行ったんですよ。だからそこの思想の変化って凄いんです。別に遊郭が良いと言っているんじゃない。一方で性的な素材をバンバン開放しておきながら、一方でそれを、モテない男だって世の中にいるじゃないですか、正常な形で女の人たちと交際して性的な関係に入れない人たちの性欲の処理を一方で禁じておいてね、一方でどんどん煽ってね、それで変な形で性欲の処理をすると逮捕して、あるいは拘置してみたり、あるいは認知療法をしてみたり、なんか社会の根本的な問題点を覆い隠して、そういう心の弱い人に全部責任を押しつけていると言えば言えないことはないと思いませんか。もう少し性的なことについても、それから職業についても学問についても、人間と人間の関係についても自然との関係についても、冷静に考え直してみると、犯罪というのは社会全体のひずみの中で増えるんだと思う。犯罪心理学者もみなそう思っている。神経症だって社会全体のバランスが崩れているから増えるんだと思う。健康な社会ではそんなにないと思う。もちろん犯罪者はいるんです、どんな時代にも。どんな時代にいるけど、今みたいに奇妙なというかグロテスクな犯罪がたくさんあった時代って少ないんです。それはやっぱり社会の変態さ、社会の奇形が個人個人に反映しているんだと思うから、犯罪者を責めるよりも社会のシステムを変えていくほうを考えたほうが賢いのではないかと、まあ思います。「うちの家から性犯罪する子を出さないでおこう」とみんなが思うしかさしあたってはしょうがない。よその犯罪者に対してその人たちが僕らに治療を求めていない状況で何もすることはできないから、たった今僕たちが何かするという話ではなかったけど、時間をかけて新しい時代に向かってアドラー心理学ができることを、アドラー心理学を学んでいる人たちができることを考えていきたいと思う。
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Q
キレやすい子が増えたと言われますが、全国的に増えたり減ったりするものでしょうか?そんなに増えているということは、世の中が悪くなっていっているんでしょうか?
A
悪くなっていっていると思います。われわれは間違った教育をしているから。キレるって何かといったら、自分の直接的な欲求・欲望があって、それがすぐに満たされないと辛抱できないということじゃないですか。つまり、辛抱するとか我慢するとか堪えるとかいう理由を何も思いつかないんですよ。僕たちは辛抱する理由をいくらか思いついたのでキレないですんだんですけど、今の子どもたちは「なんで辛抱せなアカンのか」わからないんです。親とか教師とかも、彼らに納得できるように辛抱せなアカン理由を言えないんですよ。だって僕らは蕩尽(とうじん=贅沢)し尽くしているもの。贅沢し尽くしていて全然辛抱してないもん。欲しいもの皆買っているもん、結局。それで子どもたちに「我慢しなさい」は何も意味がない。言っていることに意味がないじゃないですか。だから辛抱する理由が何にもない。
彼らに人生の意味をまったく教えてないと思う。人生の意味というのは、歴史の中にあるか、空間の中にあるか、私の中にはないんです。私だけを歴史とか社会とかから切り離して、ポンと取り出して、「あなたなんで生きてるの?」と言ったら、誰もわからないんです。例えば昔のお侍は人生の意味を持っていたと思うんです。家というものがあって、家というのは凄い抽象的なある存在なんです。この間読んだ小説は、十八代か前のご先祖が徳川家康さんの影武者で、その徳川家康さんのところへ真田幸村が来てころそうと思ったときに、家康になりすまして死んだんです。その功績でその子孫は代々旗本として、影武者の鎧の掃除をする係になって、江戸城へ午前10時に行って午後1時に退署してくる、良い商売ですね、1日に3時間しか働いてない。その鎧を磨いていればいいわけだ。十八代、ずっと鎧を磨くだけで暮らしているんです。この人たちは生きる意味はある、何はともあれ。十八代前のご先祖様の名を汚さなず、将来将軍がまた戦争に鎧を着て行くことがあれば、自分も影武者となって立派に死ぬということのために一生を生きて、誰も死なず。いよいよ明治維新になれば、誰も鎧なんか着ず、影武者もいらず、この人たちは意味なくなっていくんだけど、そういう家とか歴史とかいうものの中に意味を見出した時代もありました。それから国家とか社会とかの中に意味を見出した時代もありました。それからついこの間まで、会社とかの中に意味を見出した人もありました。妻や子どものために意味を見出した人もありました。「今は何よね?」というと、今は何もないんです。今僕たちが命を捧げるべき国もなく、誇りに思う家もなく、そんなら辛抱する理由は何もないじゃないですか。だからわれわれのもっと大きなもの、この世界全体、アドラーの言う共同体というものを小さいときから子どもたちに教え、あなた方に役割があって意味があることを伝えていかないと、そりゃキレるわ。
Q
仏教で言われている輪廻転生説(個人にもある)と野田先生が主張されている輪廻転生説についてもう少し詳しく教えてください。キリスト者の復活とはまったく違うように思われますが、いかがですか?
A
あのねえ、仏教の輪廻転生説がわかっている人はほとんどいないんですよ。輪廻転生説についても、インド仏教で7、800年ずーっと議論があったんです。というのは、ヒンドゥー教の輪廻転生説はもの凄いわかりやすいんです。ヒンドゥー教は「アートマン(我)」という自我の存在を認めますので、死にますと体からアートマンが抜け出して、それで次の体へ宿るんです。ところが仏教はアートマンの存在を認めないんです。アートマンの存在を認めないと、いったい何が輪廻転生するのかということが大問題になるじゃないですか。体が輪廻転生しないことはきわめてはっきりしているんです。アートマンがないからいったい何が輪廻転生する?説は「カルマ」が輪廻転生するんです。「カルマ」というのはつまり「私のしたこと=業 ごう」が輪廻転生するんです。私のしたことが輪廻転生するなら、私がさっき言ったこととまったく一緒なんです。私の体も私の心も輪廻転生しないけれど、この世界に対して私の行った仕事が、次またどこかで誰かに引き継がれて仕事をしていくわけで、カルマが転生するんです。だから僕が言ったのはまったく仏教の説と一緒なんです。キリスト教のは肉体の復活を言っていますから、ヒンドゥー教よりもまだレベルが低いと思う。ヒンドゥー教徒は「体は変わる」と言う。アートマンはあっちへ行く。肉体はだから滅びるものです。これはインド人の共通認識なんです。だからインド人は死んだら体は焼いちゃうんです。もう意味はなくなったから。体は単なる容器にすぎないから、置いておいてもしょうがないので、焼いて、日本人は「骨」はちょっと残しますが、インド人は全部ガンジス川へ流しますから、あと何も残さないんです。だからキリスト教徒は全然違うと思いますね。
Q
アドラー心理学のカウンセリングでは、クライエントが世界の中でのその人の役割を果す方向に向かえるようにする専門的援助と考えていいでしょうか?もしそうなら、カウンセラー自身、世界の流れを意識しているということですか?
A
世界の流れを意識したいものですね、はい。たいていそんなことを望んでくれないんですよ。みんな自分とこの子どもの操縦法とか、自分の亭主のたぶらかし方とか訊きにくるから、商売ですからうちに在庫があれば売るんです。貞操観念も何もなく、金さえもらえば。こっち側に売りたい商品があるんですが、たいていの人はそれは全然買いたがらない。OK。そんなもんです。昔、お釈迦様のところへもいろんな人が来まして、みんな「いいところへ生まれ変わるにはどうすればいいですか?」と訊くんです。お釈迦様は「いいところへ生まれ変わること」なんか何も興味なかったんですが、とても丁寧に答えられました。あれはお布施があったからですね。