Q
話し合いの大切さがよくわかりました。話すより聞くのが大事だと思います。しかし、回りくどい話し方をされるとイライラして聞く気が半減してしまいます。私にできることは何でしょうか?
A
回りくどい話し方の文章上の特徴を知ってますか?日本語は回りくどい話し方をやりやすい言葉です。それは、結論を最後に言うからです。だから、結論を最初に言ってもらうことにするといい。カウンセリングでよく言います。「結局どうなんですか?」と聞くと、「実はうちの娘が……」と、生い立ちからしゃべり始める。「満期安産で、3200グラムあって」。3200グラムと今の問題と何の関係があるのかと思うが、まあ5分くらいは辛抱して聞く。あまり話がくどいと、「で、結局どうなんですか?」と聞く。最初に結論を言ってほしい。結論に対する理由づけは、聞きたかったり聞きたくなかったりする。「今度の5月5日に山登りしない?」「5月5日ね。いい天気かもしれないけど雨が降るかもしれない。あのころは用事あった気もするなかった気もするし……」。あんた行くのか行かないのか!「行けないわ」と最初に言ってほしい。そしたら、「なぜ」って聞くかもしれないし、「そう」って引っ込むかもしれない。
話を聞くというのは、実は、皆さんが思っているより難しいことです。カウンセラー養成講座に出た人がみなノイローゼになるんです。話を聞くということがいかに自分にできてないかがわかって。ほんとに大変なことです。ただ「ふんふん」と聞いていれば話を聞いていることにならない。「なるほどね、ああそう」って言っても話を聞いてることにならない。ほんとに相手を理解し関心を持って聞くのは難しい。でも、相手の話す技術の側の問題もあって、ひょっとしたら相手が下手なのかもしれない。だったら、ちょっと手伝ってあげて。「結局どうなんですか?」と。「理由はいらない」ということも言わないといけないかもしれない。
イライラして、聞く気が半減するのは、僕はあんまりないです。人の話を聞くのが好きなんです。小さいとき、おばあさんが毎晩おとぎ話や本を読んでくれた。そうして、将来カウンセラーになるトレーニングをしてくれた。あれ以来、話を聞くのが好きです。おとぎ話は毎晩同じ話を聞いても、毎晩同じように面白い。人の話もそうで、同じことばかり言うおばさんの話も毎回聞くたびに新鮮で面白いじゃないですか。(野田俊作)
意見か事実か
2001年10月18日(木)
Andre Kukla: "Social Constructivism and the Philosophy of Science," Routledgeという本を読んでいる。難解だがおもしろい本だ。
その中に、こんな話がある。
もしブルクハルトが1860年にルネサンスを構成したと言うとすると、1860年のできごとが16世紀のできごとを構成したと主張していることになる。(p.47)
つまり、ルネサンスという概念は1860年まで存在しなかったので、ミケランジェロやパレストリーナは、自分がルネサンス人だとは思わなかったことになる。ところが、ブルクハルト以後の人にとっては、ルネサンスというのはきわめて明確に規定されたある時代区分であり、ミケランジェロやパレストリーナがルネサンス様式で作品を作るルネサンス人であることは疑いようがない。21世紀のわれわれにとって、16世紀がルネサンス時代であることは「事実」であるように思える。しかし、16世紀にはそれは「事実」ではなかった。ある概念が、そう簡単に「事実」であったりなかったりするのはおかしい。16世紀に「事実」でないなら21世紀にも「事実」ではないので、単なる「意見」であるかもしれない。
オーケー、そうだとすると、いつか未来に、21世紀は「なんとか時代」だと名づけられるかもしれない。しかし、われわれはその名前を知らない。にもかかわらず、その時代の人から見れば、21世紀は、前後の時代とはっきり区別できる特質をもった時代に見えるかもしれない。さて、そのなんとかいう名前は「事実」か「意見」か。やっぱり「意見」かな。
もうちょっと言うと、ガリレオは地動説を提唱して、われわれは地動説を確実な「事実」だと思っているが、中世の人は地動説を知らなかったし、言って聞かせても信じなかっただろう。じゃあ、中世の人が信じている天動説は「虚偽」で、われわれが信じている地動説は「事実」なのか。
未来の誰かが来世の実在を証明するかもしれない。なにしろ、太陽の周りを地球がまわっていることと同じくらいはっきりと「実在を証明された」のだから、それは「事実」だということになる。しかし、21世紀のわれわれは来世の実在を信じない。われわれが信じていることは、だから「事実」ではない。われわれは虚偽を信じていることになる。しかし、われわれの実感としては、来世が存在するというのが虚偽で、存在しないというのが「事実」であるように思える。いや、両方とも「意見」にすぎないのかもしれない。そうだとすると、天動説や地動説も「意見」であって、一方が「事実」で一方が「虚偽」であるわけではない。
要するに、「意見」と「事実」の間には、そんなに明快な区別はないわけで、すべてを意見だということもできるし、すべてを事実だということもできる。あるものを「事実」だといい、あるものを「意見」だというのは、しかし、かなり恣意的な気がする。それよりも、すべてを「事実」だと考えるか、すべてを「意見」だと考えるかのほうが、より理論的な整合性がありそうだ。しかし、どちらの極をとるかで、人生に対する態度がかなり変わってきそうな気がする。ゆっくり考えてみよう。
アドラー心理学会総会(1)
2001年10月19日(金)
昨夜から徳島に来ている。日本アドラー心理学会の総会が開かれるのだ。今朝から理事評議員会があるので、前日泊する。私は、今は理事でも評議員でもないのだが、事務局長をしているので、出席しなければならない。今年はさいわい、そんなにやっかいな案件はないので、議事は淡々と進行した。それでも、朝10時から午後1時すぎまでかかった。1時ごろから一般会員が集まってきて、午後2時から総会があった。これも問題なく進行できた。
3時から「21世紀のアドラー心理学会」というシンポジウムがあった。これにもシンポジストとして参加しなければならない。社団法人化だとか学術会議参加だとかについて、かなりやっかいな議論をした。さいわい、会員の関心が高く、フロアからも積極的な発言があった。どうなるのかわからないが、ともあれ民主的に討議し民主的に方針を決めていけるだろう。
発表には、いつもはOHPを使うのだが、今回はパワーポイントを使った。ある人が、パソコンとプロジェクターをもっていくというので、それに便乗することにしたのだ。パワーポイントを使うのははじめてだが、なかなか便利だ。むかし、青焼きのスライドを作ったことを思い出して、隔世の感がある。てなことを言うと、おじいだなって言われそうだな。
夕食の後、午後7時からは、全国の活動家の連絡会議があるが、私は地域活動家ではないと自分では思っているので、この会に出たことがない。かわりに、懇親会の余興でやるコーラスの練習に参加した。「アドラーコール」というのだが、1999年の沖縄での総会のときにはじまって、毎年歌っている。1月ほど前に希望者に楽譜を郵送して、総会で集まったときはじめて練習する。懇親会は2日目にあるので、総練習時間は1時間半か2時間ほどしかない。それでもなんとかなる。
9時ごろから、ホテルの廊下の一角でおしゃべりをはじめた。ちなみに、アドラー心理学会の総会は、原則合宿制なので、会議が終わってもいっしょにいるのだ。町へ遊びに出る人は出るが、どこにも行かずにおしゃべりしている人もいる。夜中まで、あれこれ、あまり賢くない話をしてから寝る。いい時間だ。
アドラー心理学会総会(2)
2001年10月20日(土)
午前中は分科会で、医療福祉・理論・家庭・企業・教育などのグループに分かれてディスカッションする。私は、例年、これはパスして、町に遊びに出たり朝寝したりしているのだが、今年は理論分科会から講師によばれて、エリクソン催眠について1時間ほど話した。3時間あるのだが、私が1時間プレゼンテーションして、あと2時間は参加者が討論する。話題提供というわけだ。
午後は、徳島県木頭村の前村長、藤田恵氏の特別講演『ダムと自然』と、それにひき続いて、藤田氏を囲んで会員2人が鼎談をした。藤田氏は、ダム計画に反対し、とうとう国に計画を白紙撤回させたという人だ。アドラーは環境問題についてなにも言っていないが、もし今生きていたら、きっと活発に発言するだろう。藤田氏の素朴な話しぶりが、とても好感が持てた。小さな村だって、工夫すれば、国全体を動かせるんだ。
夕方は懇親会で、昨日触れたコーラスもしたが、今年の目玉は阿波踊りだ。徳島のグループが企画して、アドラー心理学の「あ」を染め抜いた特注ゆかたを作り、さらに「あどらー」と書いた高張提灯まで作り、「吉野川連」という阿波踊りグループの囃し方に来てもらってお囃子をして、しばらくの間、踊り狂った。
アドラー心理学会総会(3)
2001年10月21日(日)
最終日は午前中だけで、「男女共同参画」についてのシンポジウムがあった。かなりエキサイトして意見を述べてしまった。
男女が家庭内で役割分担をすることや、あるいは男女間に社会制度的な平等性が確保されなければならないことは、アドラー心理学を学ぶ者の間では百年近く前から常識なのだが、フェミニズム運動をしている人たちが、「ジェンダー・フリーになれば、平等が実現できる」と言ったので、かちんと来てしまったのだ。
私は、「男らしい」「いい男」でありたいと思っている。けれども、男性であることで自動的にある社会的ないし家庭的役割が決まるとも思っていないし、男性であることが優れたこと、あるいは劣ったこと、であるとも思っていない。いま現在、男らしいいい男であるかどうかはわからないが、それに向かっていつも努力している。「理想の男性像」というのがあって、そこにむかって生きている。
ある女性が、「『男らしい』というんじゃなくて、『私らしい』ではいけないの?」と尋ねた。「いい私」というのは、イメージできない。「いい男」で「いい社会人」で「いい治療者」で「いい親」で「いい息子」で「いいパートナー」で「いい友人」で、そういうものの総体として、最後に「いい私」がイメージできるのであって、先に「いい私」があるわけではない。
それに、「私らしい」というのは、端的なエゴイズムでありうる。「男らしい」という姿は、他の男性や他の女性との関係の中での自分の生き方だ。他者なしで自分を定義できないのだ。「いい社会人」や「いい治療者」なども、すべて他者との関係の中での自分のあり方だ。しかるに「私」は、かならずしも他者の存在を前提にしないで定義できる。「私らしい」生き方というのは、ヨーロッパ・アメリカ風個人主義の、もっとも悪い面につながる恐れがある。
何人かの女性が、「『女らしい』女ってどういうものかイメージできない」と言っていた。理想像がイメージできないとすれば、現実に女性であることをアクセプトできていないことになるのではあるまいか。「いい女」であろうとするから、自分が女であることにオーケーを出せるのだと思う。「男らしい」「女らしい」という用語が、伝統的にある使い方をされて、その結果、一種の差別用語に落ちぶれてしまったため、自分のことを「女らしい」女であろうと考えることが、なんだか「遅れた」こと、さらには「間違った」こと、であるかのように、女性は思ってしまうのかもしれない。じゃあ「いい女」っていうのはどうだ?
私がイメージしている「いい男」というのは、むかしのイギリスのジェントルマンかなあ。『八十日間世界一周』の主人公のフォグ氏なんか、いい男だと思うなあ。召使のパスパルトーも、別の種類のいい男だ。『クオ・ヴァディス』に出てくるペトロニウスというローマ貴族もいい男だ。実在の人物だと、山本五十六なんかいい男だと思うなあ。会ったことがある人にも、ほれぼれするほどいい男が何人かいる。名前は、さしさわりがあるかもしれないので、言えないが。
要するに、ジェンダーは、伝統的な定義を撤廃した後で再定義しないといけないのであって、なくしてしまってはいけないのだ。子どもたちに「いい男でありなさい」「いい女でありなさい」と言って育てるほうがいいと思う。そうしないと、子どもたちが自分の性を受け入れることが難しくなるのではないか。「いい男」や「いい女」を通してしか、「いい私」にはなれないと思うのだ。
Q
いつも、生きることは人との交わりが楽しくできること、気持ち良く過ごせることだと教えていただきありがとうございます。少しは実行できてきたらしくて、トラブルが少なくなりました。
A
ありがとうございます。こういうお話は好きです。
Q
家族、友だちとも楽しい時間が過ごせますし、嬉しいです。まだまだ勇気づけの言葉が下手で、実行あるのみだと思います。自然に長所や嬉しいことをたくさん言える私をイメージして、元気で生き生きしていても、ひょいと相手を傷つけるときがあり、しばらく落ち込みます。こんなとき自分をどう勇気づけたらいいのでしょうか?すぐ気がついて「こめんなさい」と言うときもあります。
A
すぐ気がついて「ごめんなさい」と言うのはいいことですね。こんなこと、しょっちゅうやりますよ。他人の勇気をくじく気がなくても、勇気をくじかれるのが好きな人が世の中にいるもの。そういう人のことまで気にしていると、心がいくつあっても保たないから、その人たちにはせいぜい落ち込んでいただくことにしましょう。「あれは趣味だ」と、私なんか完全に割り切っていていて、こっちが勇気づけるつもりで言ったことをたまたま悪く取って、「あんた、ひどいこと言うじゃないの」と言われたら、「ごめんなさい」と言っておけばそれでいいだろうと思っています。そのへんの感受性は人ごとに違う。
メチャメチャ大事にされて育った人は、勇気くじきに弱いです。みんなが勇気づけてくれて当然と思っている。そういう人たちは、高橋さと子さんに言わせれば「傲慢」なんです。勇気づけてくれないだけで「勇気くじきだ」と言いますから。僕らは、どこまで行っても金太郎アメで、いつもニコニコで暮らす気はない。いつも故意に人を傷つけることはやめよう、罰することで他人が変わると思うのはやめようと思っているけど、ゴマをすって生きようと思っているわけではない。(野田俊作)
柳蔭
2001年10月15日(月)
桂枝雀の落語『青菜』に、大家の旦那が植木屋に酒をふるまう場面がある。その中に「柳蔭」というものが出てくる。「やなぎかげ」と読むのだが、日本酒ではないようだ。
旦那 さあさあ、ひとつやってもらいたいが。……こら(これは)言うとかんならん。夏にお酒は体がほめいてどもならん(ほてってどうにもならない)でな、暑いうちはこの柳蔭、井戸で冷やしたやつをやってんのじゃが……どやな植木屋さん、あなた、柳蔭を飲んでかえ。
植木屋 旦さん、今なんとおっしゃった。柳蔭。柳蔭。しぇー、ぜいたくなもんあがってはりまんな。いいえ、旦さん、あの柳蔭なんてものはね、ええ塩梅(あんばい)にひーやりと冷えませんことにはどうもなりまへん。へえ、やっぱり大きな深い井戸がございませんことには、へえ。誰でもどこでもというわけにはまいりません。いえいえ、当今はともかくも、昔は大名酒てなことを申しましてね、大名よりあがらなんだもんでございます、へえ。それを当家で頂戴できるやなんて、こんな嬉しいことはござりませんので。
ううむ、これは飲みたい。しかし、どういうものかわからない。『広辞苑』をひいたが、載っていない。小学館の『日本国語大辞典』という、全十巻もある辞書をひいて、ようやく、味醂(みりん)と焼酎を一対一に混合して冷やしたものであることがわかった。さっそく作ってみたが、なかなか美味だ。しかし、悪酔いしそうな酒ではある。
このように、飲み物や食べ物の話を聞いて飲んだり食べたりしたくなることを、大阪弁で「話食い」という。私は幼いころから話食いで、おいしいものの話を聞くと、どうしようもなく食べたくなるのだ。
イスラム思想を学ぶ
2001年10月16日(火)
アリー・シャリーアティー(1933-1977)という現代イランの宗教学者が書いた『イスラーム再構築の思想』(大村書店,櫻井秀子訳)という本を読んだ。彼はフランスに留学したこともあり、ヨーロッパ・アメリカの現代思想にも詳しいのだが、ヨーロッパ的な方法論でイスラムを分析するのではなく、イスラム固有の方法でイスラムを考え、そこからひるがえって現代社会を考えようとしている。
大部の著作なので、簡単にまとめてしまうことはできないが、無理を承知で要約するとすれば、「タウヒード」というキーワードで歴史と社会のすべてを解読しようという試みだといってもいいのではないかと思う。タウヒードというのは、すべての二元対立を超えて、一元論的にものを考える立場である。これの対極は「シルク」とよばれて、いわゆる「多元論的」ないし「多神教的」ないし「偶像崇拝的」な立場だ。
もしもある者が真理のためにではなく何者かに服従するならば、それはシルク信仰である。なぜならばタウヒードは、アッラーにのみ服従すべきことを教えているからである。もしもわれわれが自分の運命を他人に託したり、他人の手中にあると想定するならば、それはシルクの信仰を行っているのである。もしも自らの自由を他人に売り渡したり、ある者をみずからの主人とみなし、あるいは主人として認められたいという他人の願望を受け入れたならば、われわれはシルクの信者となる。
快楽主義も一種の偶像崇拝である。もしも金銭に執着し、困難克服のための唯一の手段としてそれに依存するようになれば、それもシルク信仰である。ある者に対して特別に親愛、信頼、追従、称賛、希望をいだくことはすべて、シルク信仰である。「財貨に屈するものは、信仰の三分の一を失っている」。以上の諸例は、タウヒードとシルクの間の明確な境界を確定するものである。
(中略)権力、知識、財産、人種ゆえに高慢になり、自分を他人より偉大であると誇示する者、あるいは自分の意思を他人に強制し、自分の好みに従って統治する者はすべて、神懸った主張を行う。そしてそれを受け入れる者はすべて、シルクの信仰者である。なぜならば絶対的な統治、絶対意思、自己の顕示、権力、専制、君臨は、神のみに限定されているからである。タウヒードの信仰者は、神以外に服従しない。まさにこれがイスラームの意味である。(pp.196-197)
なんて過激なことを言うんだろう。シャリーアティーは、こういう言い方で、当時のイランの王室の批判をしていて、民衆の蜂起をあおる。実際、彼の影響下に、1979年にイラン革命がおこる。しかし彼は、同時に西洋近代文明をも批判している。「金銭に執着し、困難克服のための唯一の手段としてそれに依存する」だの、「権力、知識、財産、人種ゆえに高慢になり、自分を他人より偉大であると誇示する者、あるいは自分の意思を他人に強制し、自分の好みに従って統治する者はすべて、神懸った主張を行う」だのというのは、今のアメリカ人そのままではないか。彼は、西洋近代文明に対しては、それが無神論であると言う理由で、否定的だ。
〈個人主義〉と〈集団主義〉、ならびに〈有神論〉〈人間中心主義〉が、正反対の対極にあるものとして、宗教、哲学、政治の分野において引き続き論議された。ただしイスラームは、これらに対して第三の道を示している。もしわれわれが、相変わらず〈個人〉に本源性を付与するならば、社会と対立する個人崇拝や自己中心主義を、宗教、哲学、神秘学、倫理学の名において大いに論じたであろう。また社会に本源性を付与するならば、個々の人間としての権利は基盤と意義を失い、大量虐殺が哲学的、倫理的、政治的な正当性をもつに至るであろう。実際のところ個人は自己のために価値を見出すこともなく、社会が誰かのために価値を見出すこともない。いずれの場合においても具体的な人間は、現在目のあたりにされるように社会的環境や個人の存在から疎外されてしまうのである。(pp.305-306)
これは、神を見失った西洋近代社会が、自己中心的な個人主義か、ファシズム的な集団主義か、いずれかの極に陥らざるをえないこと、そのどちらに陥っても、人間は疎外されてしまうことを指摘している。それはまったくそのとおりだと、私も思う。もっとも、イスラム教に改宗する気はないがね。
実は、この論調は、われわれ心理学を学ぶものにとっては、そう目新しくない。エーリッヒ・フロムが、ユダヤ教の立場から、ほとんど同じようなことを書いているからだ。フロムは、仏教にもとづいても同じことが主張できると言うし、私もそう思う。つまり、イスラム教でなければならないことはないのだ。それにしても、「宗教的基盤なしに道徳観を確立する試みは、ソクラテスの時代から今日に至るまでことごとく失敗に帰している」(p.171)というのは、ほんとうだと思う。
イスラム風構成主義
2001年10月17日(水)
昨日触れた、アリー・シャリーアティー『イスラーム再構築の思想』の中に、次のような一節がある。
前回の講義で私は、学生の質問に次のように答えている。「例えばペン、自由、革命といった語は、フランス大革命以前には、それ自体の意味しかもたなかったが、革命以降ではその言葉の意味のレベルや質、それが内包する精神、感情に相違が見られる」。革命以前にペンは、釘や砂糖割りの金槌、鏝(こて)、やっとこ同様の道具にすぎなかった。自由とは、諸々の状況のうちの一つとして言及されるにすぎなかったのである。ただしその後にはしばしば他の暗喩的、潜在的意味が含まれていた。例えば自由という語から、混沌、無制約、無拘束、霧散霧消、無教養等の他の意味も感じとられていた。フランス語の自由という語からの派生語を一瞥すると、libertinage(放蕩)、libertin(無信仰の)などが見られる。革命という語は、原則的には非難され、拒絶されるものの一つであり、反乱、蜂起と同義であった。つまり革命は、あらゆる物事を破壊する罪深い出来事であり、生活、安全、聖域を打ち壊し社会を衰退、荒廃させる災禍であった。(中略)
ところでフランス大革命以降ペンが、精神性、思考、人間性の聖なる象徴となるかたわら、自由と革命は、すべての人がうわべですら自らを関連付けようと試みるほど偉大なものとなった。(pp.159-160)
彼がこういう指摘ができるのは、フランス留学経験があるからだろう。イスラム世界では、「ペン」や「自由」や「革命」という単語には、フランスないしヨーロッパ・アメリカの人々がその単語にこめているような美しいコノテーションがないのだ。フランスで、彼は、新鮮な体験をしたに違いない。ともあれこれは、きわめて構成主義的なアイデアだ。
今回、アメリカは「自由」と「正義」をキーワードにして、戦争を正当化している。「自由」は独立戦争のときに、「正義」は第二次世界大戦で、美しいコノテーション(connotation=ある言葉が持つ、辞書的な意味(デノテーション)以外の個人的、感情的、状況的な意味合いや含蓄を指す言語学用語。日本語では「共示」「含意」「含蓄」「内包」などと訳される。例えば「バラ」という言葉のデノテーションは「バラ科の植物」で、コノテーションでは「愛」や「情熱」といった象徴的な意味が付随して理解される)にくっついてしまった単語だから、アメリカの民衆は、「自由と正義を守るため」であれば、たいていのことには目をつぶるだろう。しかも、アメリカが言う「自由」というのは、ピストルをもって守るべきものだし、「正義」にいたっては、広島と長崎に原爆を落としても貫き通すべきものなのだ。アメリカだけでなく、いわゆる自由世界も、「自由と正義を守る」というスローガンにかなり説得されている。
しかるに、イスラム世界では、「自由」にはほとんどポジティブな価値がないだろうし、「正義」は、イスラム教にもとづいた意味で使われ、アメリカの言うのとはまったく違うニュアンスをもっているだろう。そうなると、アメリカが言う「自由と正義を守る」というのは、イスラム世界ではいっこうにピンとこないスローガンになるわけで、説得力がないだろう。原理主義者たちにたいしては何を言っても説得力がないだろうが、穏健なイスラム諸国に対して説得力のあるスローガンを考えないと、イスラム世界全体を敵にまわしてしまうおそれがある。
Q
人間のエネルギーについてどのようにお考えですか?
A
そんなん知らんわ(笑)。お昼にカツ丼食ったからあれがエネルギーだろう。
心理学というのは、長いこと間違ったことを考えてきた。今でも多くの心理学者が間違ったことを考えている。それは、人間というのは機械だと思うこと。自動車みたいに、エネルギーがあって、それが人間という機械を動かしているというような考え方を漠然とする。それはさかのぼっていくと、生物学から来ている。生物って機械だなという感じを、生物学者たちがここ200年ほど強く持っている。分子生物学者は生物を、遺伝子とかタンパクからできていてすごく精巧な機械だと思う。彼らは本能というものを信じる。
心理学をやっていると本能っておかしいと思う。例えば食べる本能と言います。でも、人間が食べるのとゾウリムシが食べるのと同じ本能だと思う?だってゾウリムシは細胞一個しかないんだよ。神経もない。脳もない。そのゾウリムシが、人間が食べるときと同じ本能が働いて、同じ理由で食べてると思う?僕らは思わない。食べる本能っていうのは、何か生物学者が持っている信仰だと思う。生物学者の神様です。猫っておみやげを持って帰ってくるんですね。「ただいま」って、雀か何かくれる。なんで猫は雀をくれるのかと、生物学者は考える。きっと彼らはある本能に結びつけて言う。本能に結びつけて言うと、「ああ説明できた」と思って納得するクセがある。でも何も説明できてない。やっぱり猫はおみやげ持って帰ってくる。ゴキブリか何か死にかけたのをくれる。なんでくれるんでしょうね。そこで、判断が止まっていていいと思う。だって猫は今後も永久におみやげをくれ続けると思うから。それが本能であれ本能でなかれ、何かある僕らに見えない背後にある力、本能、動因、何でもいい、表面からは見えないある力が背後から動かしているという考え方を、20世紀までの西洋の科学はずっとやってきた。
物理学が一番早くそこから脱却した。物理学者は、何が世界を動かしているか考えない。世界はただ動いている。なぜ地球は太陽のまわりを回っているか、どんなエネルギーが回しているか考えない。ただ回っている。意味もなく回っている。世界は意味もなく動いている。彼らはそれでちっともかまわない。世界がどのように動いているかには興味があるけど、なぜ動いているかには興味がない。生物学者は、ついこの間まで、世界はなぜ動いているか、動物はなぜ進化するのか、動物はなぜこういうふうに行動するのか考え続けてきたけど、最近ようやくやめるようになりました。少しずつ、進歩的な人たちがね。
心理学も最近やめるようになりました。「人間を動かしているエネルギーは何か」って、どうでもいいじゃないか。それが食欲の力であっても、性欲の力であっても、あるいは社会性、所属欲求であっても何だってかまわないではないか。それよりも、僕たちがどのように生きればいいか考えないといけない。そう思うので、この質問は却下。(浩:却下のわりには丁寧な回答でしたね。笑!)(野田俊作)