Q
自分の居場所、社会が求める居場所は、一生懸命頑張らなくても見つかるものでしょうか?いろんな選択の中で選んでいくんでしょうが、自分で自然にわかっていくものでしょうか?どうすれば見つかるでしょうか?
A
まず自分のハートの力を信じることだと思います。まわりと人間とが繋がって、頭でマインドで自我でグジャグジャ考えなくても、填(は)まるところへきっと填まっていくんだと思ってよ。そう思うより思いようがないじゃないですか。一番最初に人間は社会的動物で、集団の中である役割を担うように初めから設計されているはずなんです。その役割を担うときに多様性というものがたぶんあって、うんと体を使う役割を担う人と、うんと頭を使う役割を担う人とか手先の役割を担う人とか、足を使う人とか眼を使う人とかいろいろあるはずなんです。それは子どもたちが育っていく中で、自己選択していくというふうにも言える。いろんなことをしながら、「自分は何かな」ということを探していくこともできるし、まわりが何となくそう仕向けていくということもできる。社会と個人との相互作用の中で、やがて決まっていくわけです。今までそんなふうにあんまり考えなかったと思うんです。例えば、学校の先生は「あんた成績が良いから医学部へ行きなさい」と言うんです。それはその人が必ずしも医者に向いているとは限らないんです。医学部へ行ったら、どう考えてもこいつ医者に向いてないという同級生がいました。誰とは言いませんが。その人たちが結局医者になっちゃうんですよ。で、例えば患者さんと会うのがイヤで、対人恐怖みたいで、人とちゃんと話なんかできなくて、1年か2年か臨床をやっていて、「どうしましょう」と教授のところへ相談に行ったりして、「精神科の先生のところへ相談に行っておいで」と言われて、精神科の先生のところへ行ったら、「あんた臨床できないから解剖かなんかやったら」と言われて、結局その人は解剖医か司法監察官かなんかになりまして、生きた人間を触るとロクなことがないから、死んだ人間を触るということになって、それで社会の中で役割を得るのかもしれないけれど、何となく向き不向きというものもできてきますね。あれは先天的なものじゃないと思うんですけど、そういうものがだんだん自然に決まってくるんだろう。でもやっぱり意識してないといけないと思うんです。だからいつも言うんですけど、子どもに「大きくなったらどんな仕事をしたいか」と問いかけてほしんです。「サラリーマンて言わないでちょうだい」って。OLとかいうのは、自分の運命を資本主義に手渡すことなんです。会社が自分の仕事を決めてくれるわけじゃない。営業やるのか経理やるのか総務やるのか、そんなのを自分の側で決められないんです。それを第一選択にしないでほしいの。銀行へ勤めたって電力会社へ勤めたって、自分の思うような仕事ができるかどうかわからないです。僕の学生時代の親友がいてね、彼は高分子化学というのをやってたんです、理学部で。それで高分子関係のある大企業に勤めました。大きな夢を持って勤めたんですけれど、その直後に石油ショックというのが来て、それからいろんな環境汚染問題が来て、そこの会社の製品も、環境汚染問題でちょっと突き上げられたりして、会社としては高分子関係の企業の縮小を図ったんです。他のほうへ業種転換してね。彼は大学を出てからもう30何年になるんですけど、結局この一生何をやったかというと、全国のいろんな工場へ赴任して、工場の労働者たち(工業高校を出た子たちが多い)の、あとに残す子とクビを切る子を決めるんです。「こいつ使える」というのだけ残して、使えない子をリストラリストに挙げて人事へ送るんです。そこの工場の仕事が終わったら、また次の工場へ行って、また次のクビ切りリストを作るんです。だからクビ切り役人を30年々かやっちゃって、彼が学生時代に持っていた理想の仕事が全然できなかったと言うんです。それはなんでかというと、彼が会社に魂を売ったからです。彼がもう少しやんちゃな人だと、例えばある時期に脱サラしちゃって、自分で小さな町工場でも作って、そこで彼なりの品物を作るというようなことをしたんでしょうが、彼はおとなしい人で大きな会社に身分保障されているほうを選んじゃったもんだから、凄い不本意な仕事をしたと思うんです。それが幸福か不幸か、私にはわかりませんけれど、うちの子どもにはあんまりそんなふうに生きてほしくないと思うんです。やっぱり世の中にうまく填まって、ほんとの意味で建設的な仕事をしてくれたほうがいいと思う、どんなことでもいいから。だから、「どんな仕事したい?」と言うときに、とうとう最後まで見つからなかったら「サラリーマンでもいいけど、もうちょっと他のものを考えなよ」と言って、まあ小学校上級生くらいから何度かいろんな機会に話をしたいと思うんです。そうするとそんなに難しくもなくたぶん見つかりもし、見つかってもいろいろ苦労もし、悩みもするでしょうけど、グルグルっとして自分の居場所へ填まるように填まり込むんじゃない?
Q
午前中のお話ありがとうございました。「人間は弱いものでスタイル画のモザイクの1つのようなもの」のお話があり、なるほどとイメージしやすかったです。モザイクの1つにしかすぎないのに、そこで何とか自分だけ目立とう輝こうとして生きたのかなと思いました。自分の欲求を満足させるために、まわりの人を人とも思わず手段というか道具のように思っていたようです。
A
反省しているんですね、偉いですね(笑)。午前中あんまり話をしなかった分をいくつか指摘されていて、1つは「競争社会というのは構造的に間違っている」と、アドラーがいつも言っていました。競争と協力というのを反対語としてアドラー心理学は捉えます。競争したってあんまりしょうがないという考え方を、いろんな例証を挙げて言います。例えばクラスで漢字の書き取りかなんかで競争させるんですね。そうすると、伸びる子は伸びるんです、確かに。勝つのが好きな子がいますから。でもかえって伸びない子もいるんです。負けちゃって、「やったってしょうがないや」と思ってね。そうやって、人々のいわゆる能力の間に差を大きくしていきます。結局クラス全体の漢字の書ける数、個人が書ける漢字の数を足したものは、競争の激しいクラスと競争の激しくないクラスでは、競争の激しいクラスのほうが増えないんです。つまり総生産性が増えないんです。傑出した個人は作るけれども全体としての生産性が増えないというのは、産業心理学の分野でずいぶんたくさん実験があるんだそうです。昔、ソ連だった時代にスタハノフ運動という運動があります。スタハノフというのは働き過ぎで死んだ労働者の名前です。うんと働くと昇進とか特権的な地位がもらえるというやり方なんですけど、結局ソ連の総生産性はちっとも伸びなかったんです。だから競争を激しくしても結局あまり良いことは起こらない。競争のない社会というものを作っていかないといけない。だって、意味がないじゃない。クラスで国語が一番と言ったって、世界は広い。そんなん何も意味ないと思うんです。クラスのたかだか30人ほどの子どもに競争させて、何がいいことがあるんですか?大学なんかもいわゆる競争試験で採っているけど、あれも教師の側から言うとあんまり意味がないんですよ。能力試験ならわかるんです。ある程度の素養がなかったらある学問ができないというのはわかるんです。例えばある程度の数学の力がないと工学ができない。それはそうでしょう。生物学についてある程度知ってないと医学の勉強はできない。そうでしょうよ。そういう学問をする準備が整っているかどうかの試験をするのはわかるけど、点数を競わせて上から何人か入れるのはバカげたやり方だと思う。それもあんまり学問の研究と関係のない科目を出すでしょう。このごろだってセンター試験(共通テスト)を受けさせて、合計点で上から何人かで切るというのは変わってなくて、それってバカげた能力の測り方だし、そんなために能力を伸ばすと言って、その能力というのは役に立たない能力なんです。私は不幸なことに、今でも二次方程式が解けるんですよ。全然人生の役に立たないんですよ、どう思いますか?そんなんバカげていると思います。そういういらないことに子どもたちのエネルギーを使わせないで、ほんとにその子どもの力が社会に組み込まれるために必要なことに使われるように考え直していかないといけないと思っています。ラグビーのバックスね。前でスクラム組んでいるのがフォワードさんで、後ろで走っているのがバックスさんです。バックスというのは一列に並んで走るんです。ラグビーは前へボールを投げると反則なんです。後ろへ投げないといけない。だから前の人を追い越してはいけないんです。前の人の後ろを走りながら後ろ向きに投げてくるボールをパスされて走るんです。一列に並んでワーッと走るんです。そのときに特に走るのが速い人がいて、「僕速いもん」と前に出たらダメなんです。そんなことをしたらチームは負けるんですよ。世の中ってラグビーのチームみたいなもので、みんなが自分のある位置を占めて、ある役割を占めてやっていかないといけない。能力を目いっぱい伸ばすとダメなんです。子どもの能力を目いっぱい伸ばすのが好きなんですが、あれも近代的だと思う。私は精神科医です。精神科・心療内科に早い時期に特化したおかげで、例えば手術ですが、私に手術されたら確実に死にます。幸い手術の力を伸ばさなくて済んだので、その分のエネルギーを全部舌先へ集中することができまして、良い精神科医になりました、はい。外科の先生は、私が舌先へ集中したエネルギーを全部指先へ集中しましたので、ぶっきらぼうでろくなことをしゃべらないです。それはしょうがないです。人間には有限のエネルギーしかないわけですから、有限のエネルギーをあっちへ都合しこっちへ都合し暮らすわけだもの。だから能力を精いっぱい伸ばすという考え方は間違っていると思うんです。チームワークの中で自分が上手に暮らせるように、他の人と協力して暮らせるようになるというのが凄い大事だと思います。
それから「他人を道具にする」という考え方も鋭い指摘で、私が言ったかもしれんけど、アドラーが「疎外」ということを言いました。人間が他の人を手段として道具として扱って人間として扱わないことね。われわれは自分のことも自分の手段として扱ったりするんです。「うちの子見て。こんなに賢いでしょ。だから私も賢いのよ」とかね。配偶者を手段として扱うんですよ。「私の主人はこんなにも社会的な地位がある。だから私も偉いのよ」と。ご主人が偉くても奥さんは関係ないと思うんだけど。「うちの妻はこんなに美人でしょ。だから僕だって」って、別に奥さんが美人でも旦那は何も関係ないと思うんだけど。そうやって他人を、自分を輝かせるための手段に使うクセがあります。これも訓練でできてくるんです。そうするのも、下にいつも人間を扱うのもたまたま先天的に遺伝子に書いてあるわけでは決してありません。われわれが学習でもって修得するものですから、そうでない学習をすればいいと思いますよ。
Q
死刑についてどう思われますか?
A
例えば麻原彰晃を死刑にしないとするんですよ。あるいは、カレー事件のおばさんを死刑にしないとするんですよ。それをみんな納得します?アドラー自身は死刑反対なんです。なんで反対かというと、犯罪者は教育できると思っていたから、彼は。ちゃんとした教育施設があって、もう1回再教育をするのであれば、犯罪者にも更生のチャンスを与えるべきだから死刑は良くないと思っていました。私自身も死刑はあまり良い方法じゃないと思います。でも、今の刑務所に犯罪者を更生させるだけの教育力があるかというと、ないんですよ。それも一方にあるから、まあ死刑を究極的には廃止すべきだけれど、今すぐというわけにはいかないのではないかという気はしています。わりと保守的なんです。日本の国民の一般的な世論としては、死刑廃止はたぶん納得しないんじゃない?原則としてはやめたほうがいいと皆思うんですけど、個別に麻原彰晃さんとかその家来たちを思い浮かべて、サリン事件の被害者の話を聞いて、それで死刑に反対するというのは、多くの人はどうなんでしょうね?あんまり賛成しないんじゃないかな?
Q
今年は野田先生の講演会に今のところ皆勤で皆出席で、毎回楽しく聞かせてもらっています。私にとって講演会に来ることが今の生活の中で最も楽しみにしていることですが、夫の手伝いもせずにたびたび大阪へでかけているので、義母の手前ちょっと気が引けるこのごろです。これからもアドラーギルドへ通いたいと思うのですが、義母に「大阪へ何しに行くの?」と訊かれたときに、何と答えれば理解してもらえるのでしょうか?
A
わからんなあ。心理学のお勉強とか、「家族ともっと明るく楽しくつきあえるために」と言うと何となく宗教団体みたいだなあ。わからん。他のお母さんたちに訊いてください。遠くから来ている人いっぱいいますから。
投稿禁止用語が含まれているという理由で表示できません。こちらでお願いします。↓
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-03-05.html