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寝たきりの父親を母が1人で介護

Q
 脳卒中の患者には入院も在宅も医療効果にそう変わりないと聞きました。私のうちには寝たきりの父親がいます。公的機関の助けを借りながら、母が1人で父の看護をしているので、ときどき「看護を代わろうか」とたずねますが、いつも母の話を時間中ずーっと聞いて終わるだけになっています。何時間も聞くと疲れて、結局何もしないで帰ります。結局こんなもんでしょうか?

A
 こんなものでしょうね。看護している方のお話を聞いてあげるのもすごい大事なことです。自分がその立場になるとわかるけど。「何かできることある?」と、ときどき聞いてあげてください。
 寝たきり老人になっても、そりゃおうちにいるほうがいいよ。エアマットレスとかウォーターベッドとか置いて、ときどき訪問看護してもらったりして、家族と一緒にいる。家族は大変ですけど、まあお互い様ですよ。それが家族というものじゃないですか。
 結婚式にときどき行くんですが。なるべく私を呼ばないでくださいね。きれいなお嫁さんもそのうち垂れ流しになるんです。ババアになってしわくちゃになってシミが出てきて、きれいなおっぱいが全部垂れ下がってくる。そのときにご主人は、この奥さんをまだ今と同じように愛していられるかどうか?旦那だって、そのうち頭はハゲて腹はでっぷり出て脂ぎってくる。そのうち脳卒中を起こして半身不随になる。それでも奥さんはこの人と一生連れ添おうと思えるかどうか?そこがもしもはっきりしないんだったら、今だったら間に合いますから、別れましょう。
 結婚するというのはそういうことなんです。若くてきれいな相手と結婚するんではない。将来垂れ流しになるであろう、ハゲになるであろう相手と結婚するんです。その人たちが「お互い最後まで面倒見合って生きようね」という決心なんです。だからそうしようよ。おじいさんになってもおばあさんになっても最後まで面倒見るし、まあ親の面倒も見てあげましょうよ。僕たちも子どもに面倒見てもらわないといけない。順送りなんだから。僕らが親の面倒見ないでいると、子どもたちも見てくれないだけです。(野田俊作)

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神戸    野田俊作

神戸
2002年01月15日(火)

 むかし勤めていた神戸家庭裁判所へ行ってきた。震災の直後に慰問品を持って訪問して以来だ。震災前も、1987年に退職して以来、ほとんど行くことがなかったので、ほんとうに久しぶりだ。
 震災で建物にひびが入って、すっかり新築したので、むかしの面影はない。入り口のロビーなどは、まるで高級ホテルみたいで、「裁判所」という名前から連想するいかめしい雰囲気ではない。面白かったのは、あるドアを開けると、その向こうにエレベータがあったことだ。廊下からはエレベータが見えない。なぜそんなことをしてあるのか尋ねると、少年事件の被疑者を運ぶのに使うエレベータで、プライバシーを保護するためだそうだ。こまやかな心遣いだ。むかしの建物にはこういうのはなかったと思う。記憶が曖昧だが。
 家裁の真向いの少年鑑別所はむかしのままみたいだ。筋向いにある神戸大学病院は新築していて、とてもきれいになっている。その他の周囲の建物は、むかしのものと新築したものとが混在していて、どれがむかしからあったのか、どれが新築なのか、うまく判別できない。界隈の全体的な雰囲気がそう変わっていないのは、新築したとしてもそう突飛な建て方をしないで、それまでの街の雰囲気に調和するように設計したということだろうか。神戸の人は、大阪の人と違って、節度があるといつも思う。
 仕事が終わったあと、神戸駅の近くの神戸ハーバーランドへ食事に行ったが、ここは震災前はなんだったんだろう。なんだかみすぼらしい界隈だった気がする。今は、函館とか小樽とかを連想させるような、落ち着いた繁華街に変わっている。神戸駅もすっかりさま変わりして、きれいになっている。デザインがおしゃれだ。神戸の人は、噴水や照明をとても上手に使う。
 神戸には足掛け5年いた。けれども、神戸人になれなかった。大阪人とはセンスが違う。とてもあんなにおしゃれに生きることはできない。大阪人のよさはアクの強さでありしつこさであり下品すれすれの(ちゃんとした大阪人はけっして下品ではない)生命力だ。それが神戸とはちょっと不調和なんだよ。



娘と会う
2002年01月16日(水)

 小田原に住んでいる上の娘が帰ってくるというので、大阪にいる下の娘も連れて、三人で私の母のところへ挨拶に行くことにした。みんな忙しくてなかなか時間の調整がつかず、とうとう上の娘が小田原へ帰る日を一日遅らせて、ようやく折り合いがついた。スケジュールをいっぱいにして生活しないと不安なのは、母方の遺伝なのだな、きっと。父は開業医ができたくらいだから、出不精で、毎日家にいて同じような生活をしていても平気だった。母は家にずっといるのが嫌いで、かなりの旅行好きだし、旅行していなくても、なにか新しいことが起こっていないといやみたいだ。私もそうだし、上の娘もそうだ。下の娘はそれほどでもないようだが。
 性格に対して、遺伝の影響が大きいのか環境の影響が大きいのかは、決定する方法がないので永遠のテーマなのだが、このごろ私は多重人格論者なので、遺伝の影響でできた人格(ペルソナ)や環境から学んだ人格をいくつも持っていて、適宜使い分けているのだと考えている。だから、遺伝・環境論争は意味がないと思うのだ。要するに、私は父の生き方よりも母の生き方をより好んでいるので、自分の中にある母に近い性格を使うことが多いし、娘も私の生き方を好んでいるようなので、私に近い行動特性を選択しているのだろう。
 母が作った夕食をいただいて、2時間ほど一緒にいて、別れた。子どもが成長してしまうと、一緒にいる時間がすくなくなって、とても貴重だ。向こうはそうも思わないだろうね。だって、成人になった子どもが、少しでも長く親と一緒にいたいと願っていたとしたら、それは育児の失敗だもの。だから、子どもは別にさびしくないのだろうが、親のほうは、もうすこし一緒にいられる時間が長いといいのにと、別れ際にいつも思う。もっとも、一緒にいてすることがあるわけでもないのだけれど。



トールキンの文体
2002年01月17日(木)

 小説は読まないことにしているのだが、禁を犯して、J. R. R. Tolkien "The Lord of the Rings"(トールキン『指輪物語』)を読み始めてしまった。むかし和訳を読んで、激しく感動したので、原文を買って読み始めたのだが、途中で挫折していた。ほとんど20年ぶりで、もういちど読みはじめた。まだ第1部のはじまりだが、ものすごく引き込まれて読んでいるので、今回は最後まで読みとおせそうだ。
 話はもちろん素敵だが、その前に、英語がおそろしく美しい。どこをとっても美しいが、たとえば次のような部分だ。

Sam sat silent and said no more. He had a good deal to think about. For one thing, there was a lot to do up in the Bag End garden, and he would have a busy day tomorrow, if the weather cleared. The grass was growing fast. But Sam had more on his mind than gardening. After a while he sighed, and got up and went on.

It was early April and the sky was now clearing after heavy rain. The sun was down, and a cool pale evening was quietly fading into night. He walked home under the early stars through Hobbiton and up the Hill, whistling softly and thoughtfully. (Houghton ペーパーバック版 p.44)

サムは黙って座っていて、それ以上なにもいわなかった。彼には考えることがたくさんあった。そのひとつは、もし明日天気がよくなれば、バッグエンドの庭ですべきことがたくさんあって、忙しい一日になりそうだということだった。草が生えるのは速い。しかしサムは庭仕事以外にも気にかかることがあった。しばらくして彼はため息をついて立ち上がり、歩き始めた。

四月のはじめで空は激しい雨のあと今は晴れ渡っていた。太陽は沈み、冷たい青白い宵が静かに夜の中へ消えていった。彼は輝き始めた星の下を、ホビット庄をぬけて丘を登り、静かに考えつつ口笛を吹きながら、家に向かって歩いた。

 "He had a good deal to think about."なんて、よく言うねえ。"He had many things to think about."くらいなら、私でも言うかもしれないが、トールキンのは桁違いにきれいだ。"a cool pale evening was quietly fading into night" という句に至っては、私ごときは逆立ちしても思いつかない。古風な言い回しや、スコットランド(アイルランド?)風の方言もあるが、全体としては難しい文体ではない。しかし、きわめて簡潔に詩的に書かれていて、朗読するととても口調がいい。この調子で第3部まで読めるのかと思うと、とても楽しみだ。私があこがれている魔法使いガンダルフも、重々しい英語でしゃべってくれるしね。



トールキンの文体(2)
2002年01月18日(金)

 ある友人が、「20年ほど前に(年がバレちゃうよ)指輪物語を英文で読みました」と言う。彼女は英文科卒なのだそうだ。邦訳は当時ハードカバーしかなくて、もって歩くのが大変だったから、ポケット版の原書を読んだのだそうだ。ちょっと豪傑かも。
 私は、専門書の原書はよく読む。大学の教養部に入ったら、一般化学の教科書が英文だった。Sienko and Plain: "Genral Chemistry" だかいう本で、日本語の教科書を押しのけて選択されたほどだからなかなかよく書けていたが、生まれてはじめて使う英文の教科書だったので、ずいぶん苦労した。それでも1年すると、コツがわかって、なんとか読みこなせるようになった。中原という教授だったが、彼には感謝している。その余勢で、学部に入ってからは、何科目か英語のテキストを使うことができた。専門書は、単語や文体も決まりきっているし、文体を味わったり深い暗喩を汲み取ったりしなくてよくて、ただ意味が理解できればいいので、慣れれば楽に読める。
 しかし、文学はそうはいかない。なじみのない単語や文体が頻出するし、なんだか奥深い意味がありそうだし。そんなこともあって、英米文学の原書はまず読まない。翻訳文学(たとえばロシアやイタリアの文学など)は英訳で読むと、和訳で読むよりはもとの味わいに近いかなと思って、たまに読むことはある。それでも、専門書みたいに簡単には読めない。
 今回、『指輪物語』を読み始めたのは、気の迷いなのだが、それでもいくらか気負いはあって、前回挫折しているだけに、最後まで読みとおせるかどうか心配している。しかし、先に最後まで読んだ知り合いがいると、なんだか心強い。もちろん、日本人でこの本を最後まで読んだ人はたくさんいるはずだが、具体的な個人として前にあらわれると嬉しいのだ。その人と知り合いだからといって、私の英語力が向上するわけでもないんだけれどね。
 しかしまだフロド・バギンズはホビット庄でグズグズしていて、ガンダルフが指輪の来歴について長々と話し続けている。話はまだ始まっていないのだ。先は長いな。

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ペットの死

Q 
 突然飼い犬が死んで、次男がこう言いました。「友だちも『犬が元気なときもっと可愛がってやればよかった』と言った。みんな同じことを思うんだね」。
 誰がいつ死ぬかわからない。もちろん自分も含めて。生きている間に仲良く暮らすことを、わが家の死んだ犬が教えてくれました。姑と同じ日の同じ時刻に、4年前に亡くなって、同行二人であの世で旅しているんでしょう。

A
 家で動物を飼うのも、最後は死にまして、あれは子どものためにすごくいいです。うちの子どもも、小さいとき動物を飼っていて、死んだらお葬式してあげました。私はお経を読んであげた。動物であっても人間と同じように一緒に家族で暮らして、たくさん思い出があって、たくさん僕らにしてくれたことがあった。最後は丁寧に、「さようなら」してあげたいと思います。(野田俊作)

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蕗の根 ほか    野田俊作

蕗の根
2002年01月12日(土)

 広島に来ている。今度はフキの根の煎じたのを持ってきてくれた人がいた。これでウガイをすると咽喉の痛みにいいのだそうだ。猛烈にフキ臭いが、効きそうな気がする。
 これは、漢方薬ではなくて民間薬だ。世間の人は漢方薬と民間薬を区別しないようだが、はっきり違うものだ。漢方薬というのは、中国古代・中世の医学書に記載のある薬で、材料についても、その組み合わせ方についても、古来からきちんと決められている。さらに「証」といって、その薬を使う目安になる症状の特徴がきちんと記載されている。たとえば、「熱が出て肩が凝って汗が出ず浅い位置で脈を触れれば葛根湯を飲め」というようなことが、古代の医学書に書いてある。民間薬は漢方医学書には記載のない生薬で、主として日本で経験的に使われてきたものだ。「証」についての記載もない。
 漢方薬は「証」さえ合えば劇的に効くと思うが、民間薬は「証」がわからないので、飲んでみるまで効くか効かないかわからないし、中には有害なものもあるかもしれない。しかしまあ、フキは食用植物だし、それを煎じたものなら心配はないだろう。ありがたく使っている。しかし、フキ臭いな。一昨日は漢方薬で、昨日はそれプラス、イギリスから帰ってきたばかりのアロマセラピストの友人が風邪に効くハーブ茶を飲ませてくれ、今日はフキの根でうがいだなんて、風邪のバイキンもびっくりだろう。



世代交代
2002年01月13日(日)

 福岡に来ている。当地のアドラー心理学の学習会が世代交代することになった。世話役さんたちが引退して、若い人たちに代わるのだ。「引退して」といっても、学習会には続けて参加するのだが、ただ世話役をするのをやめるのだ。これは、とてもいいことだと思う。世話役さん自身にとっては、あまりにも長期にわたって人の世話ばかりしているのではウンザリするだろうし、会員にとっては世話役をしてアドラー心理学運動に貢献するチャンスが与えられることになるし、会にとっては新しい動きをするきっかけになる。八方いいことずくめだ。
 福岡以外の他の地域でも、すでに世代交代に成功したところもある。しかし、失敗して、あげくのはて、グループが解散してしまったようなところも、一方にはある。グループが解散まではしなかったものの、シコリを残した地域もあるという。今現在、世代交代をめぐって内部葛藤のあるところもあるようだ。総論としては、世代交代はいいことずくめなのだが、各論としては、さまざまの人間関係トラブルを起こしているようだ。大きなことは言えないので、日本アドラー心理学会も世代交代に失敗して手痛い目にあったことがある。学会の場合は、雨降って地固まるで、結果的にはよかったのだが、結果的によくするために、ものすごいエネルギーが必要だった。地域の学習会では、アドラー心理学会の世代交代失敗ほどの大事件は起こらないだろうが、それでもしこりを残すと、地域が狭いだけに、あとが大変だろう。
 世代交代はルール化しておいたほうがいいかもしれない。世話役さんが50歳か55歳かになれば定年ということにしておくのはどうだろうか。以前(2001/12/05)に、石垣島と宮古島の婦人会の噂を書いたことがあったけれど、年長者がいつまでも会の中心にいると保守的になっていけない。
 あるいは、定年制がだめなら、任期を5年くらいに決めておいて、一定期間世話人をしたら交代することにしておけばいい。再任はできないことにすればいいと思う。混乱が起こりそうなら、複数の世話人が半数ずつ交代すればいいんだ。
 地域の学習会の運営は完全に地域の自治になっていて、その学習会の外部にいる人間は干渉できない。だから、世代交代のルール化は、私の個人的な提案として言っているだけで、各学習会がそれについて話し合い、自分たちの状況にいちばん適した方法を決めればよいのだが、ただ言いたいのは、学習会が永続的に活動するためには、世代交代はどうしても必要だと思うし、それは結構やっかいな仕事なので、普段から考えておいたほうがいいのではないかということだ。



ハリー・ポッター
2002年01月14日(月)

 風邪もまあまあよくなったし、私もパートナーさんもお休みだったし、急に思い立って『ハリー・ポッターと賢者の石』を見に行った。子どもたちはかわいかったし、魔法使いたちもすてきだったし、画面もきれいだったし、特撮も面白かったが、筋立てがよくなかった。
 たとえば『ゲド戦記』の主人公ゲドは、魔法を使うことをめぐってさまざまな内面的な葛藤を経験する。魔法を習得するのも大変だし、使うと副作用があるし、平凡な生活への未練もあるし、精神的にもさまざまの困難を乗り越えないといけないし、常にアンビバレンツなのだ。あるいは、もうすぐ映画でやってくる『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』の主人公のフロド・バギンズも、使ってはいけない魔法の指輪を使うかどうかで、常に葛藤を持ち、自分と戦い続ける。さらに、その指輪を捨てるために危険な旅に出るというきわめてパラドクシカルな物語の中に、自分の意思を越えた力によって放り込まれる。文学の中で、魔法というのはそういうものなのだと、ついこの間まで位置づけられていた。それはもちろん、科学技術という「魔法」に対する、良心的な文学者の共通した構えだったのだ。
 ところが、ハリー・ポッターは「先天的」に天才的魔法使いで、彼の努力とはなんの関係もなく自動的に魔法の学校に入学許可されるし、入学するとエリートの子孫たちが集まっていて、その中で「血筋」のおかげではじめから有名人だし、教師たちからも完全に「ひいき」されていて何をしても許されるし、まあとにかく都合のいい話なのだ。シンデレラだって王子様と結婚するためにもうすこし苦労するぜ。主人公には、内面的にはなんの葛藤もなくて、アメリカのスクールドラマにありふれた友だちとの対人葛藤しか描かれていない。魔法の代わりに、ノーベル賞学者の息子の話だとでも思って見ると、きわめて差別的な発想で貫かれていることがわかる。
 アメリカでは、こういう物語が望まれているんだなあ。「アメリカ人の子どもとして生まれたこと」に対する盲目的なプライドを持ちたいんだろうか。このご時世でそうだとすると、危険だな。むしろ、今、魔法(科学技術)を使うことの難しさや、そういうものを使わないでもっと人間本来の力だけで生きる可能性を探ることや、魔法を使うことによる人間精神の変質や、そういうことに、子どもたちの注意を向けるべきではないのかなあ。

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「目ざめている」とは?

Q
 目覚めているということはどういうことですか。本を読んだだけではもうちょっとよくわからないんですが。

A
 目覚めているというのは、実はさっきからずっと話している。
 勇気づけるというのは、私は人を勇気づけようとずっと気をつけていて、今やったことは相手を勇気づけたかくじいたかと考えて、いつも勇気づけようと気をつけているいるような状態を言う。型はない。正解はない。ボーッとしても体が自動的に勇気づけるというのはない。長いことやっていると無意識的にアドラーの達人になるんじゃないか?ならない。一生ずっと考えていて、成功したり失敗したりしている。もっとも、成功や失敗をしているうちに、だんだん上手にはなる。いくつかの代替案からどれを選んだらいいかわかるようになってくるから。
 どんなもんでもそうです。自動車の運転を最初習ったときは大変で、手はどこで足はどこで目はどこでと大騒ぎしました。全部意識して努力しているからギクシャクしている。1年か2年運転していると手足が勝手に動いてくれているけど、あれが完全に無意識だと恐いと思わない?完全無意識になんか一生ならない。
 同じように、アドラー心理学の育児教育も完全無意識にはならない。体は自動的に動かない。上手にはなるけど、ずーっと目が覚めていて気をつけていないといけない。(野田俊作)

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